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生まれた理由をずっと、探し続けて ボーイズ・タウンの“混血孤児”たち

記事公開日:2022年02月14日

戦後日本の混乱期、 “混血孤児”と呼ばれて差別や偏見に苦しめられた子どもたちがいました。彼らは進駐軍の兵士と日本人女性との間に生まれ、さまざまな事情から孤児となりました。親は誰なのか。自分はどうして生まれたのか。何もわからないまま人生の終盤にさしかかったころ、思わぬものが見つかります。それはそれぞれの出生に関わる情報が書かれたカードでした。家族を、生まれた理由を探し続けてきたかつての“混血孤児”たちが思いを語ります。

―あわせて下記の記事もご覧ください。
「ぼくらは戦後生まれの戦友だった ボーイズ・タウンの子どもたち」

“ボーイズ・タウンの子どもたち”の苦難

「施設にいつ連れてこられたか自分ではぜんぜんわからなかった。いつここへ入ったかわからなかった。親が連れてきて、ポッとそこ置いてさ。そしたらわかんないじゃん。名前ちゃんとつけてさ、誕生日もつけてさ、置いてくれるならいいけど。置く人ってたぶん何も残さない。自分にそれがふりかかってこないようにするだけ。だから簡単に言ったらクエスチョンマークだよね」(福王さん)

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エントランスに並ぶ子どもたちの写真

福王さん(71)も“ボーイズタウン”で育ったひとりです。

「アメリカと日本のハーフだ。だいたい聞かれるのはフィリピンか、アメリカか。だからメイドインジャパンって言う。国籍は一応日本だからね。(母は)夕方から夜になると出かけていた。ようするに親の都合だね。面倒見きれないじゃん。だから(ボーイズ・タウンに)連れて行ったんだと思う。自分の幼心では『迎えに来るのかな』っていう感覚?でも実際にはそうじゃなかったっていうだけ」(福王さん)

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福王さん

終戦を迎えた日本。アメリカ軍を主にした進駐軍兵士40万人が上陸しました。その後、7年におよびGHQのもと占領統治が続いていきます。

沖縄についでアメリカ軍基地が多かった神奈川県では、かつて“混血孤児”とよばれた子どもたちが暮らしていました。昭和29年にできた少年の町、通称ボーイズ・タウン。ここで、6歳から15歳までの少年たちが生活をともにしました。

画像(ボーイズ・タウンの子どもたち)

「当時、たくさん子どもたちがいて、だいたい多くのケースは軍関係の父親と、日本人の母親の間に生まれた子どもです」(石川琢馬さん)

そう話すのは、ボーイズ・タウンで5年間働いた石川琢馬さんです。

画像(石川琢馬さん)

「アメリカの基地の人たちを中心に養子縁組を進めていったんですよね。女の子のほうがもらい手が多かったんです。だから男子のほうが残っちゃったんじゃないですかね。たいてい黒人の子が残っちゃって・・・」(石川さん)

進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれ、孤児となった子どもたち。戦後およそ10年の間に少なくとも3500人がいたと考えられています。

占領統治を担っていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は12万人を超える戦争孤児に対しては、全国で保護施設を作るよう指示しました。一方、“混血孤児”とよばれた子どもについては、占領政策へのイメージの悪化を懸念し、積極的に対策に乗り出すことはありませんでした。

行き場を失った子どもたちのため、立ち上がったのがカトリックの教会でした。しかし、建設予定地の地元住民から強い反対にあいます。

「少年の町が建設されるにあたり、地元から非常に大きな反対運動が起こりまして、2000名もの方々の反対の署名があったということなんです。こちらが、そのときに出された趣意書です」(横浜市ふるさと歴史財団 調査研究員 西村健さん)

ボーイズ・タウンの建設に対し、地元住民から出された反対の意見書です。

画像(地元住民から出された反対の意見書)

「これら児童の将来を考えるとき、果たして日本内地が、その生活の場として、もっとも適当でありましょうか。独特の血統的特性は、容易に一般社会に融和しがたいでありましょう。混血孤児収容、養育、並びに将来の生活の場を、広く諸外国において与えられるよう、各方面の協力を求める」(意見書)

1年後、ボーイズ・タウンの建設は認められましたが、地元・大和市内の小学校に通わせないことが条件となりました。

「普通じゃありえないでしょう。だって、大和に住んでて横浜の学校に行く人いないよ。私立じゃないんだから。公立じゃいないよ。ましてバスで1時間もかけて通うなんて」(福王さん)

ボーイズ・タウンの卒業生、中川優太郎さん(68)も当時、自分たちが置かれていた状況を振り返ります。

画像(中川優太郎さん 洗礼名 ローレンス)

中川:反米感情みたいなのがたぶん日本にあって、それで、そういう混血の人たちをみんな外国人としての見方しかしてなかったんだろう。

福王:終戦後の落とし子じゃないけどさ、やっぱりそうじゃん?だからこの(ボーイズ・タウンの)中にいれば別に偏見も何もないじゃん、一切。簡単に言えば、みんな同じ釜の飯を食って、兄弟みたいなもんじゃん。

卒業生のひとり:でも、年がら年中、おなか空いてたよ。太ってる人ひとりもいなかったからな、ボーイズタウンの子はな。生かさず殺さずだから、俺たちは。三食食べてたけど、いっつも腹空かせてた。

卒業後の心のよりどころ ヨゼフ寮

ボーイズ・タウンは17年間続き、1971(昭和46)年、その役目を終えたとして閉鎖されました。

しかし、身寄りのない卒業生のために、建物の一部が残されました。それがヨゼフ寮です。さまざまな困難に直面したとき、卒業生が身を寄せる場になっています。

画像(ヨゼフ寮)

福王さんは仕事でトラブルを抱え、一時的にここで寝泊まりをしています。

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ヨゼフ寮で過ごす福王さん

「知り合いの保証人になったら会社がとんじゃった。ま、しょうがない」(福王さん)

この日、ヨゼフ寮の食卓にはカレーが並びました。福王さんと卒業生の岩波望さん(73)との会話がはずみます。

福王:醤油かけたの?醤油はめずらしいよ、ソースかけるのはわかるけど。

岩波:ソース?勘弁してくれよソースは。

福王:勘弁じゃないよ。本当だよ。

石川:自分で作ることあるの?たまには。

岩波:ない。

石川:まったくない?

福王:コンビニだよ。

岩波:そう。

福王:コンビニが友だちだよ。

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石川さん、岩波さん、福王さん

「ボーイズ・タウンでは、日曜日はいつもカレーが多かったの。だいたいみんなカレー好きだから、そういうときはいっぱい食べるじゃないですか。今と小学生のときのイメージがそのまま重なるでしょ」(石川さん)

ボーイズ・タウン閉鎖後もヨゼフ寮に住み続け、卒業生たちを見守ってきた石川さん。今、卒業生の大西敏さん(73)のことが気がかりだと話します。

「彼は小さいときの写真はかわいい顔してるんだけど、卒業からずっと長年にわたって差別を受け続けてきましたね。だから対人関係がとにかくうまくいかない。友だちもいないですよね。どんどん孤立してきたんじゃないかな」(石川さん)

画像(大西敏さん 洗礼名アントワン)

石川:ハロー、おはよう、元気ですか。さっき電話したけど出なかったじゃん。

大西:なんだよ。

石川:はい、持ってきましたよ。箸ある?はい、味噌汁つきだよ。

大西:あとで食うよ。

大西さんは今、石川さん以外の人とはほとんど関わりを持っていません。

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石川琢馬さん

「彼が40代のときに繰り返し私に『母親がなんで俺をこんなところにやったのかを俺は文句言ってやりてえ』って言ったんだよね。(親のことが)『わからない』っていうのは悩むでしょうね、生きてるか死んでるかわからないし、どうなってるんだろうって。いつまでもそれを抱えちゃうだろうなと思う」(石川さん)

ヨゼフ寮から見つかった出生カード

2021年3月、卒業生たちの出生に関する記録が見つかりました。卒業生の多くは、両親のことも、施設に来た理由も知りません。

「ここ整理したら出てきたんだよ。見せてあげるよ、びっくりするよ」(福王さん)

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ヨゼフ寮から出てきたカード

「あ、これ俺だ。オヤジの名前、知らなかったな。『実母逃亡』なんて書いてある。ひどいなぁ。悲しくなっちゃうな」(卒業生の一人)

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カードに見入る卒業生

一方で、カードにほとんど情報が記載されていない卒業生もいました。

「何も書いてない。(自分の)名前だけしか載ってない。まぁ、僕も(親が)いないままずっときてるからね。やっぱり誰か別の(家族の)名前とかがあればね、うれしいことじゃないですか、複雑な気持ちですけど」(中川さん)

カードに情報が記載されていた卒業生の一人、岩波さんは驚きを隠せません。これまで自分が「昭和23年に生まれた」ということしか知らなかったのです。出生が原因で、結婚を考えた女性の父親から暴言を吐かれたこともありました。

画像(岩波望さん 洗礼名 シモン)

「もうあきらめてたもん、天涯孤独だって。血のつながっている子どもがほしかったわけよ。結婚して子ども3人、4人作りたかったわけよ。その理想が強かったのよ。でも残念ながらね、結婚もできなかったけど、本当にお母さんがいたのかっていうのは半信半疑だったの、あの紙が見つかるまでは。でもお母さんが生きてたら、なんで僕を施設に入れたのかそれを聞きたいよね。『ああそうか』って納得になるじゃん」(岩波さん)

岩波さんはその後、カードに記載された情報をたどり、母・ハマコさんの実家があった周辺のお寺で、自分と同じ名字の岩波さんが酒屋を開いていることを知ります。電話をしたところ、会う約束ができました。

後日、店を訪ねると、酒店を営む岩波光一さんはハマコさんについて、親戚にききとりをしてくれていました。

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光一さん(左)から話を聞く岩波さん

「自分もわかる範囲内で聞いてみると、おばによればハマコさんは、おばのお姉さんです」(光一さん)

母・ハマコさんには、兄弟が4人いて、妹の千代子さんが90歳で健在だといいます。

画像(岩波さんの家系図)

岩波さん:会ってみたいな、このおばさんも。

光一さん:多分、千代子さんも歳だから、元気なうちに会えるもんなら会いたいんじゃないかな。

岩波さん:会いたいですよ。まさか親戚がいるとは思わなかったからびっくりした。

帰り道、親戚の存在を知った岩波さんは喜びを隠せません。

「血のつながってる人間に会えた。わーうれしいのー、わははは。ほんとか。やっと血のつながる人間がいたかあ。これはうれしい」(岩波さん)

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親戚の存在を知って喜ぶ岩波さん

1週間後、母の妹であるおば、千代子さんと対面することができました。

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ハマコさんの妹、岩波千代子さん

千代子さん:私は90ですからね、明日お目にかかれなくなるような時でしたからね。お目にかかれて、良かったです。あなたのお母様であるハマコさん、とにかく、きっちり、シワひとつない洋服を着ているっていう人です。髪もロングにしてね、綺麗に後ろに流して、手先も器用だったと思います。ハマコさんの写真があればいいんですけど、爆弾で焼けて全部なくなっちゃたんです。

千代子さんによると、ハマコさんは父親と衝突し、勘当されていました。

千代子さん:父がものすごく怒りましてね、「(家に)置けない」って言われて、あの人は出されちゃったんですね。父はそれ以来、あの人をうちへいれませんでした。そしてハマコさんは、私の知る限りは、ハウスメイドとして入ったのはしっかりと知っております。

ハマコさんは家を出た後、住み込みで働ける、アメリカ軍兵士のための住宅に身を寄せたと家族は聞いていました。

岩波さん:お母さんが、今、ハマコさんがどうしてるかなと思ってね。わかります?

千代子さん:全くそういう手掛かりはございませんでした。

岩波さん:連絡とかも一切わからないですか。

千代子さん:全然ございません。いろいろ手を尽くしましたし、みんなが心配をしてくれましたけども、あの人が最後の人生どうなったかは私たちにはわからないですね。

「お母さんはお母さんの事情があったと思うよ、戦後すぐだから。お母さんが生きるのに、俺を育てるのはできないから施設に入れたっていう。生まれた以上、長く生きなさいって僕を施設に入れさせたのか。でも一番うれしいのはね、生きてる間にわかったから。年はくっちゃったけど。でも生きている間にお母さんはいたってことがうれしかったわけよ」(岩波さん)

妹を探すロバァトさんの思い

青木ロバァトさん(73)の母・ユキさんは、横浜で父と出会い、二人の子どもを授かりました。しかし、父にはアメリカに家族があり、ロバァトさんが7歳のころ帰国。その2年後、母はロバァトさんと、妹・マリさんを別々の施設に預けました。マリさんとは62年以上会っていません。

画像(青木ロバァトさん)

「母親は看護婦とか、飲み屋にも勤めたし、とりあえず僕を育てるためにいろんなことやったよね。父親がいなくなってから生活できないもんね。ましてや米軍とつきあって、俺みたいな子を持ってる女だから、周りが認めないでしょう。アウトだよね、完璧に。茨城のうちだって勘当だよ。帰ってくるんじゃないよ、みたいな」(ロバァトさん)

画像(青木ロバァトさんの妹マリさん)

「マリは写真がほとんどないんですね。ゼロに近いんです」(ロバァトさん)

ロバァトさんは、妹・マリさんの消息を長年、調べ続けてきました。
これまでわかっているのは、施設に預けられた2年後、アメリカ軍兵士と日本人女性の夫婦に引き取られ、アメリカへ行ったという事実。

「これがマリが養子にいったところの住所。(米兵の)トーマスと日本人の女性・和子さんが結婚してて、マリをもらっていった」(ロバァトさん)

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マリさんに関する資料を見るロバァトさん

「かわいかったよ。いつも妹を連れて歩いてたから、俺。マリは体が強くなかったんで、よくひきつけを起こしてたのね。病院へお袋が妹を抱いて、俺が横について走っていたのを思い出すよ。女の子だからね、今はなんてことないだろうけど、当時の日本で暮らすのは大変だったからさ、(マリが)外国に行っちゃってよかったと思ってるの」(ロバァトさん)

2021年7月、マリさんがいた施設・聖母愛児園から新たな史料が見つかりました。マリさんが養子に行く前日の様子を、シスターが記した日誌です。

養子にいくことになり、お洋服を合わせたり、靴を合わせたりする。
嬉しそうな、悲しそうな、何とも言えない表情をしていたママが、面会にいらっしゃり、楽しげに話し合っている。

ママのお家がうつり、明日は一緒に行くのだと思っている。
マリちゃん、あんまりいじらしくて、本当のことを言えず。
ママも、目にいっぱい涙を浮かべて横を向いていらした。
神様が、マリちゃんのためにくださった新しいママとパパ、きっと素晴らしい方でしょう。

「つらかったと思いますよ、相当。これ読めばよくわかるけど。ママは謝りたかっただけだよね。妹に。だからママなりに罪の意識みたいなのを持っていたのかもしれないね。妹が生きていれば、今年67になるんですよ。ひょっとしたら、マリが生きていたら、僕のこと探しているのかもしれないしね」(ロバァトさん)

アメリカで見つかった妹の養母

妹マリを一緒に探してほしい。ロバァトさんから依頼され、NHKがアメリカでマリさんの消息をたどったところ、1か月後にマリさんを養子に迎えた養母が見つかりました。

アメリカ・アトランタに住む谷田和子さん(94)。現在、孫家族と暮らしています。

画像(マリさんの養母 谷田和子さん)

ロバァト:マリのことは本当に何もわからないんです。マリのことを聞いてよろしいですか?

和子:結構ですよ。

ロバァト:今どうしてるか、健在なのか教えてください。

和子:亡くなりましたよ。

ロバァト:それって何年くらい前かわかります? 子どものうちに亡くなったんですか?

和子:そうです。

ロバァト:そうなの。まだ大人になる前に。

和子:もっと前でしたと思います。

そして、和子さんの娘・ミコさんからも話を聞くことができました。ミコさんは幼いころからマリさんのことを聞かされてきたといいます。

画像(和子さんの娘 ミコさん)

「私には大きなお姉ちゃんがいたとずっと聞かされていましたが、彼女は比較的すぐに心臓に疾患があることがわかり、たぶん養子に迎えて2年半ぐらいのときだったと思います。心臓がこらえきれず、心筋梗塞でなくなりました。私が生まれた時期と同じ時期です。とても心が痛む報告だと思うけど。母はいつも『幸せな子だった』と言っていたわ。マリのことを教えてくれたし、誕生日も祝っていたの」(ミコさん)

「60年前ということはね、まだ私が施設にいたころになるのね。そんなに早く亡くなっていたとは知らないからさ。ちょっと残念だったね」(ロバァトさん)

「あなたの存在を知らなくてごめんね。知っていたら一緒に大きくなれたのにね。でも知ってほしい。あなたの日本での生活は大変だったと思うけど、こっちでの生活も易しいものではなかったの。アメリカに来てまもなく母と父は離婚した。母は外国に住むシングルマザーになったの。母は英語も話せないから仕事を見つけるのは大変だった。ロバァト、あなたには家族がいるという事実に満たされてほしい。血縁は親戚の関係をつくるにすぎないもので、絆が本当の意味での家族をつくるの。だからロバァト、あなたは家族を見つけたのよ。私はマリじゃないけどあなたの妹。私たちは家族よ」(ミコさん)

「血はつながってないけどね。OK、安心した」(ロバァトさん)

ロバァトさんは穏やかな表情を見せました。

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青木ロバァトさん

「もう、たくさんたくさん喜んじゃう。日本語おかしくなってきちゃった。でもよかったです。会えてよかった。本当にはっきりしてよかった。モヤモヤがなくなったから」(ロバァトさん)

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マリさんの養母 谷田和子さん

和子:あなたは私の息子です。

ロバァト:ありがとうございます。

和子:私をお母さんと呼んでください。遅いけれどもね。

ロバァト:そうね。もっと早く会いたかったです。

和子:そうですね。ごめんなさい。

ロバァト:いえいえ。とんでもない。ありがとうございます。

“混血孤児”とよばれ、戦後を生きぬいてきたボーイズ・タウンの卒業生たち。彼らの人生は、けっして容易なものではありません。ロバァトさんは、亡くなっていった仲間たちへ思いをはせます。

「ここにきてボーイズ・タウンの仲間がばったばった死んでいったでしょ。ああ、これで終わっちゃうじゃん。言えないまま死んでいったやつらとか。僕みたく多少言えればいいよね、言えれば。『俺たちみたいなのがいたよ』っていうのを残したい」(ロバァトさん)

※この記事はETV特集 2021年11月27日放送「ずっと、探し続けて~“混血孤児”とよばれた子どもたち~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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