ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

旧優生保護法 対象外でも行われた不妊手術の実態

記事公開日:2018年06月12日

障害者への強制不妊手術を認めていた旧優生保護法(1948~96)をめぐり、国を訴える裁判が全国で起こされ注目を集めています。「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に掲げ本人の同意なく強制不妊手術されたのは、分かっているだけでもおよそ16,500人。しかし、その数に含まれない旧優性保護法の対象“外”でも不妊手術に追い込まれた人たちがいたことが分かってきました。なぜそのような悲劇が起きたのか、当事者たちが重い事実を語ってくれました。

自ら受けたけれど…。不妊手術を容認する空気に追い込まれ

敗戦後まもない1948年に成立した旧優生保護法。この法律は本人の同意がなくても、都道府県の審査会に申請し、認められれば、障害者に対して強制不妊の手術が行えるというものでした。目的に掲げられていたのは、「不良な子孫の出生を防止する」こと。

しかし、法律のもとだけでなく、優生保護法の「外」でも、不妊手術に追い込まれた実態があったことが分かってきました。中村薫さん(60)が自らの経験を話してくれました。

photo

新生児の時に、脳性マヒになった中村さん。8歳で親元を離れ、障害児のための施設に通っていました。無邪気に過ごしていた日々は、思春期が近づくにつれ、少しずつ変わっていきます。

「10歳を過ぎた頃からだんだん自分はもうずっと障害者なんだって分かって、その時ぐらいから初潮があったりしました。介助をしてくれる人の感じが嫌そうな、汚そうな感じで、手当がすごく嫌だったんでしょうね。こんなものがあったって赤ちゃんも産めんやろし、結婚もできんやろうし、めんどくさいとか。毎月、言われることに対して、すごく嫌悪感とか嫌な感じとかあって、嫌でした。」(中村さん)

1980年、富山の施設に移った中村さんは、ある決断をします。

「あの嫌な顔とか嫌な言葉を投げかけられるくらいだったら、子宮を取っちゃいたかったし、自分で。自立したいという思いが強かった。その両方があったんで、子宮の摘出手術をしようという気持ちが強かった。」(中村さん)

中村さんは、子宮を摘出する手術を受けました。22歳のことでした。手術後、中村さんは後遺症と、自分の選択が正しかったのかという苦しみを背負うことになりました。

「やっぱり体に影響あって、月に1回すごく胸が張って。女性やけど、女性じゃないんじゃないかなって思ったりもしたし。自分に対して後ろめたい感じがしたんだと思います。」(中村さん)

形の上では、自ら望んで手術を受けたことになる中村さん。優生保護法の強制不妊手術には含まれません。そもそも法律が対象としていたのは、遺伝性の疾患とされた人や、知的障害者・精神障害者です。本来、脳性マヒは含まれていません。

専門家は、中村さんのようなケースの背後にも、優生保護法の存在があると言います。

「優生保護法というものが、国が障害のある方の生殖機能を暴力的に奪っていいと。それが合法だと国が認めてたことがありますので、そこが非常に大きなベースとしてあり、それを反映して社会もそれが正しいと認識し、非常に強固なものになっていってしまった。」(立命館大学 客員研究員 利光恵子さん)

優生保護法ができた8年後、専門家が知的障害者の優生手術について語りあった記事があります。

photo

医師:医者の立場で考えていきますと、精神薄弱というものが遺伝的なものであれば、子どもは生まれてほしくない。

養護学校長:今の先生のお考えに私も大体賛成です。育児能力がないということで子どもを産むということは封じた方がいい。

大学教授:かりに子どもがノーマルでも精神薄弱の親を背負って一生暮らすのは大変なことじゃないか。

医師:断種でしょう。
(知的障害者の家族会の機関誌 「手をつなぐ親たち」(1956年)より)

社会に当たり前にあった、障害者が子どもを持つことを否定する空気。そうした空気が、さらなる障害者の不妊手術を推し進めていきました。

中村さんの40年来の友人、福田文恵さん(57)。脳性マヒで中村さんと同じ施設にいました。

当時、2人の周りでは、不妊手術を迫られる話が、当たり前に聞かれたと言います。

「私は2度、子宮を取られそうになったことがありまして。最初の医者が言ったことは、『ある施設の女性は皆取ってる』と言われたんですよね。おかしいなと思いましたし、取るということを平気で言うって、やっぱりおかしいよなと。私たちみたいに発信できる人しか、今、報道されてないですよね。けれど、知的障害とか精神障害の方って発信できない方が大勢おられます。」(福田さん)

どのくらいの人が、どのように不妊手術へ追い込まれていったのか。国は今、優生保護法の枠内で行われた不妊手術について、調査を始めています。年度ごとの国の記録によると、本人の同意なしに、およそ16,500人が手術を受けたとされています。しかし、そのうち個人が特定できるのは、およそ2割。手術の詳細が分かる文書の多くが、既に廃棄されているためです。

法律の枠の外となると、さらに記録はなく実態はほとんど分かりません。そのため、手術が優生保護法によるものかどうか分からない人もいます。

何も知らされず突然の不妊手術

兵庫県洲本市の勝楽佐代子(88)さんは、3年前に亡くなった夫、進さんが不妊手術をされました。

photo

2人はともに30歳の頃、ろう者どうしで結婚。50年以上連れ添いました。結婚当時に不妊手術をされた進さん。それは突然のことでした。

「私は何も知らずに、その医者のところへ自転車で行きました。私は『子どもを産んで大丈夫ですか。』と教えてもらいたいと思ったのです。いきなり、看護婦四人が私の両手足を押さえつけました。ズボンを引きおろされて睾丸の所を切って手術されました。」
(進さんが手話で語った体験記より)

なぜこのような手術をするのか医師の説明はありませんでした。

「夫は痛い痛いと言い続けていました。そういう話をされて、受け入れるしかなかった。仕方なかったの。親どうしが知らないうちに不妊手術を決めていた。目が見えない、聞こえない、足が悪い子どもが生まれるからダメだって。」(手話:佐代子さん)

佐代子さんが暮らす施設の理事長、大矢暹さん(70)は、不妊手術の聞き取り調査を行ってきました。勝楽さんのように、手術について何も知らされていないケースは少なくないと言います。

「周囲の人間は、障害者は説明しても理解できないと決めつけていた。本人が分からないということが、本当の問題だと思います。本人が説明できないという実態がいちばん問題なのです。だから周囲は『証拠がない』『本当か嘘か分からない』と傲慢なことを言う。」(手話:大矢さん)

両親も医師も亡くなり、記録もない。怒りを何にぶつけたらいいのかも分からない。

2人は、悲しみを胸にしまい、あることに打ち込み始めます。廃品回収で拾った瓶に、手作りの洋服を着せた人形づくりです。もし、自分の子どもが生まれていたらどんな子どもになっていただろうと想像しながら…。

法改正後も迫られた不妊手術

1996年。優生保護法は国際的な批判もあり、母体保護法へと改正されました。法律上、強制不妊手術はなくなりました。しかし、岩手県に暮らす統合失調症のある60代の男性が手術されたのは、優生保護法の改正から7年後のことでした。

「受けた手術は2003年11月26日です。1996年に法律廃止になったとことも知らなかった。何も知らなくてさ。先生は知ってたのかな。」(男性)

男性は40代半ばの頃、同じく統合失調症の女性と恋に落ちます。入籍は家族が認めませんでしたが、披露宴は開きました。

「1998年に彼女が妊娠して、1週間で流産したんですけど、そしたら兄夫婦が子どもはダメだって言ったんです。男性がパイプカットするか、女性が卵管結紮(らんかんけっさつ)かどっちかにしろって。彼女は自分がやるって手術したんですよ。」(男性)

その後、女性と、男性の家族の関係が悪化。2人は別れます。

「2002年に体調を崩して入院してしまって、病院に兄夫婦が来て、パイプカットしないと一生入院させるって言われた。うちの兄は絶対的だしさ。助けてくれる人、いなかったもんな親戚も。精神の病気になるとだんだん友達もいなくなるんだよね。家族しかいなくなってさ。」(男性)

photo

結局、男性はパイプカットの手術を受けるしかありませんでした。優生保護法の改正から7年後のことでした。

「彼女も統合失調症だったし、俺も統合失調症だから。でも、憲法でも保証してるでしょ。子どもを産んだり結婚するのは自由だとか書いてるでしょ。」(男性)

社会に今なお亡霊のように息づく旧優生保護法。「障害者は生まれてはならない」という認識を人々の意識に植え付けてしまった影響は、現在の日本でも完全に消えてはいません。旧優生保護法の「外」で望まぬ不妊手術を受けざるをえなかった人たちの苦しみは、今も続いています。

※この記事はハートネットTV 2018年6月5日放送「シリーズ 闇に埋もれた真実は(1)私も不妊手術を受けさせられた ~優生保護法の“外”で~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事