ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

女性差別 わたしの視点③ 社会心理学の立場から~東洋大学教授・北村英哉さんに聞く~

記事公開日:2021年12月09日

「女性差別」。いまの日本社会において、この言葉の受けとめ方は人によって実に様々です。女性差別がない社会を目指し、#MeTooをはじめ、新たなムーブメントが次々に起きています。一方で、社会的地位の高い男性からの女性への差別的な発言はなくならず、ネットでは女性差別のトピックを巡って炎上や激しい論争がたびたび起こっています。

様々な立場の方の視点を通じて「女性差別」を別の角度から考えるインタビューシリーズ。第3回は社会心理学者で、差別や偏見などの研究を行う北村英哉さんに聞きました。

北村英哉(きたむら・ひでや)
東洋大学社会学部教授。専門は社会心理学、感情心理学。著書に『あなたにもある無意識の偏見 アンコンシャスバイアス』『偏見や差別はなぜ起こる?』(共著)など。

差別がある社会を正当化してしまう

――2021年8月に起きた小田急線車内での刺傷事件では、女性が最初に襲われ重傷を負ったこともあり「女性差別」や「フェミサイド」(女性であることを理由にした意図的な殺人)という言葉を使って考えるべきだ、という声があがりました。一方で、男性も犠牲になっている、死者は出ていないといった理由でこうした声を否定する意見もありました。

私は問題を大きくして構わないと思います。犯人の動機や、女性を狙っていたかについては、まだ不明な点も多く慎重な議論が必要です。しかし、犯人がどうであったかということを超えて、女性が被害に遭う犯行があった場合に、それをきっかけとして、日本の社会において男性と女性がどういう立ち位置にあるかという議論はしたほうがいいと思います。
そうした議論を否定するのは、男性側に自分たちをかばい、防衛する気持ちがあるからだと思います。私は社会心理学者ですから、人間の行動について科学的な観点から見ています。日本の社会では今、例えば会議で女性が発言したときに「黙っていろ」「あなたの意見は採用しません」といった対応を示す場合と、男性が発言して女性が「黙っていろ」と男性に言い、意見を採用しないケースで考えれば、女性の声を封殺することが圧倒的に多いという事実があります。これをもっても男性と女性に、日本社会の中で格差があるということは、明らかなことです。
他にも、女性の平均賃金は低いですし、女性の会社役職での登用は遅れていますし、国会議員の数も少ない。客観的に、日本の社会の中で女性が不利な位置にあるということは歴然とした事実なわけですね。
だから、女性が意見を言ったときに、男性がそれを「大したことがない」「大げさだ」というふうに押しとどめるのは、男性が有利なままの今の社会のシステムをそのまま維持したい、そのまま享受していたいという防衛のあらわれであって、結局それは、差別を続けたい、差別を続けてしまうという結果にしかつながらないと思います。

――ジェンダーギャップ指数や賃金の話を聞くと、男女格差があると気づくわけですが、普段の暮らしで女性と接している分には、男性がなかなか差別を実感しにくい部分があります。

日本社会の中では、差別されていると感じない女性も多いですし、ストレスもなく日々幸せを感じてる女性もたくさんいます。人間というのは、ストレスを抱えながら生きていくのは大変です。自分が常に不利な状況に立たされているとか、社会的で理不尽な目に遭っているとか、差別をされていると考え続けるということは、心の負担になるわけですね。
社会心理学で「システム正当化理論」というものがあります。「男性に役職が多く、賃金が高い社会は自然だ」とか、「女性が子育てをするのが当然で、だから女性が仕事を辞めるのだ」とか、こうした男女のあり方を正しい結果なのだと正当化することによって、現状を維持してしまう方向に傾く心理を取り上げた理論です。現在の社会、経済、政治、全てのシステムに対して、これは間違っていない、正しいんだと、思い込んでしまう。このシステム正当化理論でいえば、現在不利な状況に置かれている人ほど、幸せに感じるために、現状の格差を認めてしまうという研究結果があります。

――差別があっても、現状を受け入れてしまう。そうすると、差別に対して声を上げないですよね。

差別されていても、主観的には幸せになっちゃうんですね。気分よく暮らせるわけです。

――「幸せに感じているなら、いいのでは?」と思ってしまう部分もありますが…。

でもそれによって、子ども好きな夫婦が、賃金が低いために1人しか育てられないと思ったり、待機児童問題のために子供を諦めていたりしたら、社会全体が希望する人生をシャットアウトすることになってしまう。あまりいいことはありませんよね。
不利な状況に置かれているということを、加害者や被害者は必ずしも気づかない。差別が無意識に行われていることが多くて、最近では「アンコンシャス・バイアス」と呼ばれていますね。自分が差別やバイアスによって不愉快になったり、モヤモヤしたり、傷つけられたりしていることを自覚しにくい仕組みになっています。
そのため現在では政策を決定するのに、社会調査でデータをとってデータに基づいて政策を進めるのが先進国では主流になっています。「エビデンス・ベースド」といわれますね。例えばフランスでは、幼少期の教育投資の方が、長じてからの投資よりも後の収入などへの影響が大きく、効率的であるという実証的証拠が得られたので、保育園など幼少期の教育に力を入れ、保育士の養成や待遇にも配慮するようになりました。
そうすると、単純な現状満足、つまり自分はこの状態が正しくて幸せだと感じている状態から、「ここはもうちょっと改善できることじゃないか」と積極的に気づくきっかけになると思います。こうしたデータ教育とか、実証性に基づいた考える力をつけるのは大事ですね。

感情的に叫ばなければ、誰も聞かない

――差別の加害や被害に対して自覚のない人がいる一方で、「差別がある」と感じて声を上げ、訴える人もいます。そうした人に対して「感情的だ」「主観的だ」と否定する声もあがります。こうした事態はなぜ起こるのでしょうか。

声の封殺という問題があります。フェミニストに対して「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」とか「そんなに声高に言わなくてもいいじゃないか」という形でのバックラッシュ、差別というのはよく見られます。
実はマイノリティの声というのは、マイノリティだからあまり声が上がらないわけなんです。だから初めは冷静に、例えばデータから「こういうような不利益を私たちは受けています」と訴えても、誰も聞かないわけですね。小さな声は誰も聞かない。結局、感情的な大きな声になるまで社会の側が耳を傾けないわけです。
女性が働こうと思っても、子供を預ける場所がなかった。日本では不思議なことに、待機児童という預けられない子供が大勢いました。保育園の抽選に落ちた親による「日本死ね」という感情的な書き込みがなされて、初めて政治問題になりました。初めて待機児童というものが本格的にクローズアップされて、政治家も県や町で待機児童をゼロにするのが目標だと掲げるようになりました。強い調子で大きな声で言ったから、初めて聞く人ができたんです。
差別ってそういうもので、不利益ってそういうものなんです。だから不利益を被っている人は、最初大きな声で感情的に叫ばない限り、それを聞いてくれる人は誰もいないんです。それに対して「大きな声で言うな」というのは、「不利益や差別を解消したいと私は思っていません」「現状維持のほうが気持ちがいいです」と揺り戻していることに他ならないんですね。
また、男性側の多くがそう考えている限り、なかなか社会が動きません。なぜなら、企業を変えようと思っても取締役は男性であって、学校を変えようと思っても校長先生が男性であって。そういう組織だらけであれば、男性みずからが自分の欠点を暴いて、自分が引いていく、というのは非常に難しいことです。女性や連帯する男性も含めて大きな声が社会的に上がらないと、決定権を持った年長の男性が考えを変えて、制度や仕組みを変えるには至らないと思います。

――女性差別について考えると、他のマイノリティに比べても人口が多く、全員が全員、差別を感じてはいません。女性差別と、他のマイノリティに対する差別とは、重なる部分と重ならない部分があるように感じるのですが。

まず人権というのは、世界中の生きてる人間全てにあるものです。差別を受ける人が一部にすぎないとか、声を上げる人が少ないというのは、女性差別がない理由には全くなりません。全ての世界に生きている人が、命を尊重されて、基本的な権利が守られるべきというのが、国連も承認している人権の考え方だと思います。
その上で、女性差別の問題が他のマイノリティ差別の問題と少し異なるのは、おっしゃるとおり世界に男性と女性は、ほぼ半々いるということ。それが違ったところではあります。
他のマイノリティ集団の場合、民族差別や部落差別などは「回避的差別」といって、加害者の側が接触しない、近づかない、避ける、見ないと言った「回避」をすることで問題に気づかず、差別が持続します。しかし男女の場合には、女性差別をしていても、一生のあいだ女性に全くかかわらない男性というのは少ないんですね。
結局、異性愛の場合であれば、男性は女性に対して、差別をしながらも好きであると。女性に対して「私は女性が好きです。だから私は差別心を持っていません」という言いわけをする。そういう言説も、時々見受けられます。しかし、好きという気持ちがあったら、免責されるわけじゃないですよね。好きさが余って、暴力を振るってしまうのがDVで、それが性暴力になる場合もあります。
「嫌って避ける」ということが民族などのマイノリティ集団にはあるのに対して、男性は女性と近づきながら攻撃を加えたり虐待したりするという面で、ちょっとほかのマイノリティ差別とは違う、独特で難しい問題があるのは確かだと思います。

「うっかり差別心を持ってしまう」という自覚

――男性と女性は常に身近で、互いが目に触れないということは殆どありませんよね。そのような社会で差別をしないために、どのような点を心がけるべきでしょうか。

第一に、自分がうっかりと差別心を持ってしまうことがあると自覚する。自分もこういうインタビューでお話をしますが、生活のちょっとした側面に差別的な態度があらわれている可能性があると思っています。誰しも、差別をしてしまう可能性があるということを自覚しながら、反省気味、遠慮気味に自分の行動をチェックするということが必要だと思います。
世界比較の中でも、日本人は自分の感情に気づくのが下手な方だというデータがあるんです。子どものころから気持ちを抑え込んだり我慢したりすることが、学校の文化の中でたくさんありますよね。大人になっても、嫌な仕事を我慢しながらやる。自分の本当の気持ちに気づかないわけですよね。
女性が差別を訴える声に対して、何かモヤモヤしたり腹が立ったりしたら、それはなぜか考えるといいかもしれません。自分の気持の中に入っていって、どこから沸き起こっているんだろうということを。

第二に、ちゃんと相手の話を聞き対話するという、コミュニケーションをすることで防ぐことのできる問題は多いと思うんです。例えば男女格差関係で、好きだけれども攻撃してしまうというということがありますが、心理学的に言えば、攻撃は接近行動です。相手に興味があるから近づくんです。もしマイノリティが怖ければ近づかないですよね。本当に嫌っていて、避けるべき嫌悪的対象だと思ったら近づかないわけです。だけど、女性差別の問題というのは、近づいてしまう。多くの男性は女性を好きだし、自分自身を認めてもらいたいという願望もある。しかし、自分に十分注意が向けられていないと思ったとき、接近行動をするんです。この、コミュニケーションが未熟だったときに、攻撃行動をとってしまう。どうしたらお近づきになれるかわからないから、セクハラをしたり、嫌な言葉を投げかけたりするわけです。
ネットでも、女性に対して攻撃的で感情的な書き込みをしてしまうのは、近づこうとしているけどコミュニケーションが下手だからです。相手は傷つけられて、ますます怒るだけですよね。つまりこれは、人との関わり方を知らないということです。

――差別について心掛けるべきことは分かったのですが、自覚せずに差別してしまっていると考えすぎるあまり辛くなってしまうことはないでしょうか。

毎日、自分が差別しているのではないかと脅えて、ネガティブな感情を募らせる必要はないと思います。人間って優秀で、時に応じて変われるのです。差別があることを忘れないでいるだけで、“今の社会がパーフェクトで幸せ”ではなく、色々な問題点があるということを冷静に1つ1つ見ることができますね。そうすることで、自分が加害者の側に立っているとしても、社会の問題に対して、意思決定や署名をする、選挙で投票をする、賛同するなどの行動ができれば、それが一番ではないでしょうか。

シリーズ記事 女性差別 わたしの視点
①フェミニズムの立場から~名古屋市立大学准教授・菊地夏野さんに聞く~
②ダブルマイノリティの立場から ~DPI女性障害者ネットワーク・米津知子さんに聞く~
③社会心理学の立場から ~東洋大学教授・北村英哉さんに聞く~ ←今回の記事

あわせて読みたい

新着記事