「女性差別」。いまの日本社会において、この言葉の受けとめ方は人によって実に様々です。女性差別がない社会を目指し、#MeTooをはじめ、新たなムーブメントが次々に起きています。一方で、社会的地位の高い男性からの女性への差別的な発言はなくならず、ネットでは女性差別のトピックを巡って炎上や激しい論争がたびたび起こっています。
女性差別を考える上で、今の社会にはどのような視点が欠けているのでしょうか?様々な立場の方へのインタビューを通じて、ジェンダーと差別について別の角度で考えるシリーズ企画です。第1回目はフェミニズムの視点から、研究・発信を行う名古屋市立大学准教授の菊地夏野さんです。
菊地夏野(きくち・なつの)
名古屋市立大学人間文化研究科准教授。専門は社会学、ジェンダー/セクシュアリティ。優生手術被害者とともに歩むあいちの会・共同代表。主著『日本のポストフェミニズム』、『ポストコロニアリズムとジェンダー』。
――今年も世界経済フォーラム(WEF)が各国の男女格差を数値化したジェンダーギャップ指数が発表されました。日本は156か国中120位、主要7ヶ国(G7)では最下位でした。ここ数年、このジェンダーギャップ指数の結果が注目を集めていますが、菊地さんはどう受けとめていらっしゃいますか。
最近のジェンダーに関する報道で、あるパターンがあることが気になっています。「ジェンダーギャップ指数で日本を見ると非常に低い地位にある。先進国なのだから、ジェンダーの格差解消についてもっと取り組まなければいけない」という言われ方がすごく増えて紋切り型になっています。多くの人は恐らくこれについて「なるほど、日本は遅れてるんだな」ということで、「じゃあがんばらなければ」と考えると思います。ですが、ずっとジェンダーについて研究している人間からすると、ジェンダーギャップに関する言説はある種の「流行」で、危うさを感じているところもあります。
――どのような点に「危うさ」があるのでしょうか。
ジェンダーギャップ指数について、例として触れる分には問題ないと思います。私も授業の入門などで使っています。ですが、今の日本のメディアのジェンダー関連報道が余りにジェンダーギャップ指数に偏っていて、外圧によらないと何事も変えられない傾向を表しているように見えます。というのは今まで何十年何百年と日本の女性たちは性差別に反対の声を上げてきました。それに目を向けるのではなく、国際比較の順位には飛びつくというのはどうなのでしょうか。そもそも性差別解消というのは国家単位で序列をつけて競争すべきものなのでしょうか。
ジェンダーギャップ指数を発表しているところは、海外の権威ある組織として受け止められるわけですね。“権威”に指摘されると耳を傾けるけれども、自国の足元の女性たちの声にはなかなか目を向けようとしない、重視しないこと自体が、日本という国の男性中心社会のものの見方とか考え方を表してしまっているわけです。
女性やジェンダーに関する事柄を軽くとらえて、それよりも経済や政治などのニュースになるようなマクロな問題、それは長く「男性的テーマ」とされてきた問題なわけですが、狭い意味での経済的政治的な事柄を重視し、女性の声やジェンダーの問題を軽視してしまうという男性中心的なものの見方が、差別に気づけない理由にも、原因にもなっていると思います。
――フェミニズムは長年、女性差別の存在を訴えてきました。にもかかわらず、未だに女性蔑視発言がなくならず、女性差別が見えづらいと感じる男性が少なくないのは、なぜでしょうか。
フェミニズムというと男性に向けて語られる主張とか異議申し立て、とイメージされがちなんですけれども、実はそうではなくて、“男性に分かってもらおうとするのをやめる”ところからフェミニズムが生まれたのではと、改めて思っています。
理解してもらわなくていいというのは、例えばすごく苦労して説明して周りの男性に分かってもらった時に、その男性に対してすごく感謝したり、褒めたりしなくてはいけない。それはあまりに不平等じゃないかということですね。
具体例でいうと、イクメンという言葉があります。女性は通常、自分の子育てをしても特に褒められたり、お金をもらったりはしませんが、男性がするとものすごく評価されて講演に呼ばれたりするわけです。そういうイベントがワーク・ライフ・バランス政策の中で行われています。そういう大きな不均衡が男女間にあるために、女性は常に男性の顔色をうかがってコミュニケーションしなくてはいけない現状があると思います。 男性が主役の世界に、今私たちは住んでいるという事です。女性は常に男性に認めてもらうよう努力しなければいけない。で、その中にフェミニズムもあるんだろうと思われてますし、逆に言うと、男性は女性を分からなくてもやっていける世界になっていると思います。
性差別が見えづらいのは、端的には私たちが男性中心的なものの見方で世界を見て、それに基づいて社会の仕組みが作られているからです。性差別を見なくても済む社会、気づかずにいられる社会、それは実は性差別にもとづいて作られている社会でもあります。
――「男性は女性の声を聞かなくてもよい」という構造が社会に残っているため、差別も見えづらいということでしょうか。
その通りです。そもそも近代社会自体に、「男性からの“男女の不均衡”の見えづらさ」が含まれています。私たちの社会の基礎をつくった「近代」はフランス革命以降、“公私”の区分を発明しました。革命によって、貴族や王族といわゆる平民との差を取っ払って全員平等だという建前にしたわけですが、その平等というのは公的世界、政治や経済や芸術文化の世界だけの平等でした。その一方で、私的な領域である家庭の中では、人々は自由に好きなように暮らしていいということになりました。公私の区分を作ることで社会を編成していったわけです。けれども、それと同時に公的世界は男性の領域で、私的領域が女性の領域とされたため、大きな矛盾が組み込まれてしまいました。
公的世界では、性別はもちろん人種とか民族とか階級にかかわらず皆平等だと、建前上されたのですが、その公私の区分に元々男性と女性が振り分けられていたため、女性は私的領域にいる存在として二流市民にされたわけですね。 このような建前と現実の二重構造がジェンダーと結びついています。
そこで、平等といいながらも実際に性差別はあるじゃないかと指摘するところから、フェミニズムが生まれました。そもそも近代社会の成り立ち自体に、ジェンダーバイアスが組み込まれてるところがあるのです。
セクハラや女性の性的対象化といったこともそうなのですが、こうした問題は「女性の問題」、つまり私的領域のこととされてしまう。そして、近代社会では公的領域のほうが私的領域よりも重要であると見なされていますので、セクシャリティに関わることが軽視される。だから性暴力やセクハラが見えにくくなってしまってるわけですね。
このように、ジェンダーバイアスというと個人の意識の問題だけに捉えられがちなのですが、そもそも社会の仕組や歴史に表れているんだというところを、理解してもらいたいなと思っています。
――8月に東京・小田急線で起きた無差別刺傷事件をめぐっては、女性が最初に襲われ重傷を負ったため「女性差別」や「フェミサイド(注1)」(女性であることを理由にした意図的な殺人)だという声があがりました。一方で、男性も犠牲になっているなどの理由でこうした声を否定する意見もありました。こうした状況をどうご覧になっていますか。
(注1)フェミサイド:狭義には、女性であることを理由にした意図的な殺人のこと。より広くは、女性や少女に対するあらゆる殺害の意味で使われる。
2016年、韓国でも同様の事態が起きました。ソウルの江南駅での殺人事件ですが、女性が狙われて殺害されたのです。これに韓国の女性たちが大きな衝撃を受けて抗議運動が始まり「これはミソジニー(注2)である」「フェミサイドである」という声が広がるわけです。それと同時に「どうしてそれがミソジニ―なのか」「フェミサイドと言えるのか」という男性側からの非常に大きな反発が起きました。
このときに書かれたのが『私たちには言葉が必要だ』という本です。著者は若い女性なのですが、男性から質問を浴びせられ、反発も大きく、それにどう応えたらよいのかということに苦しんで、10日間で書き上げたものです。ベストセラーになり、日本でも翻訳されて話題になりました。この本で書かれているメッセージは何かというと、先程も述べたように「女性は男性に理解してもらわなくていい。合わせなくていい」ということです。
フェミサイドに対する海外の動きではもう1つ、「ニ・ウナ・メノス」(=ひとりの女性も欠けさせない)という南米の運動が有名です。これは、アルゼンチンが発祥で、2015年にある女の子がボーイフレンドにレイプされて殺される事件があり、それに対して女性たちが抗議しました。当初SNSでのハッシュタグ運動から始まり、路上での異議申し立てデモンストレーションに発展しました。
これは個別の事件への抗議に留まらず、その後中絶禁止の法律を変えさせることにまで発展します。さらに、福祉や医療の予算を削る国の新自由主義的な緊縮政策に対しても「女性に対する暴力だ」として抗議運動を展開しています。
フェミサイドというと日本では、「女性」が明確にねらわれていたかどうかという点のみが注目されますが、「ニ・ウナ・メノス」など世界の動きはより広い、非常に色々なレベルにまたがった取り組みになっています。ごくプライベートな私的領域の事件と思われがちな事件に対して、それに抗議しながらも、法律や経済、政治も結びつけて女性差別や女性への暴力として変えようとしていくことが、フェミニズムの特徴なんです。
(注2)ミソジニー:女性蔑視、女性嫌悪。個人の女性に対する感情という側面だけではなく、家父長制や男性優位なシステムを維持するという側面が指摘されている。
――今回の事件に限らず、広く女性差別を訴える声に対して、ネットなどでは反発する声もあがります。その背景には何があるのでしょうか。
今まで話してきた男性中心的な見方の問題と、そういう男性中心社会を変えることへの恐れや反発が、私たちの中にあるせいだと思います。
やはり男性は自分自身も意識してないところで、いまの世の中が男性中心社会であることの恩恵や利益、安心を得ていますので、それを失うことは非常に抵抗を感じるだろうと思います。
これは他の差別問題でも言えることで、例えば私も障害者の運動に関わったりしてますけれども、自分は健常者として暮らしてるので、マジョリティ側の人間として何か批判されるのではないかという不安とか怖さを感じる瞬間がありました。これは、男性が女性差別の指摘に関して感じることと共通しているかもしれません。 マジョリティはマイノリティからの批判に不安を感じるのですね。 しかも性差別は、個人や社会が根本的に変化しないと解消しないところがあるので、なおさら不安や恐怖も大きいと思います。
――男性中心的な見方から離れることは、なかなか難しそうに思えますが、そうした人が女性差別の存在に気づくためにどうすればよいでしょうか。また気づいた上で、どのように行動をとればよいでしょうか。
男性中心のものの見方というのは、女性でさえ内面化していることが多いです。そうすると、女性からも声が上がりにくい。なかなか難しいところですが、違和感を持っている女性の意見は特に埋もれがちですので、まずは女性の言葉、女性たちが感じている男性中心社会への違和感に、耳を傾けることが大事です。
それから、ジェンダーとかフェミニズムの動きに目を向けてもらうとか、あるいは、男性の特権とか、男性同士の競争について改めて考えてみるとか。男性社会、つまり男性の価値観やコミュニケーションは競争とか上下関係を根本原理としていますので、それに自覚的になる。
そこで何か気づくことがあれば、その先の行動として、そこから降りることを模索してみる。これは、男性学や男性運動のテーマになります。また、ミソジニーやバッシングやフェミサイドに女性とともに抗議するということも重要だと思います。 ともかく、価値観や自分自身が変わることをおそれずに、あえて耳を傾けて心を開いてみることかなと思います。
シリーズ記事 女性差別 わたしの視点
①フェミニズムの立場から~名古屋市立大学准教授・菊地夏野さんに聞く~ ←今回の記事
②ダブルマイノリティの立場から ~DPI女性障害者ネットワーク・米津知子さんに聞く~
③社会心理学の立場から ~東洋大学教授・北村英哉さんに聞く~