ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

いのちの格差 障害のある人の「逸失利益」をめぐって

記事公開日:2021年10月07日

いま、一つの裁判を通じて「いのちの格差」が、議論されています。3年前に大阪市で起きた、聴覚障害のある小学生の交通死亡事故。損害賠償を求めた両親に対し、加害者側が提示した「逸失利益」は、女性労働者平均の40%という低い水準でした。「娘の命の価値は他の子より劣るというのか」とショックを受ける両親。障害のある人の「逸失利益」をどう考えたらよいのか。これまでの判例や専門家の声も交えて探ります。

受け入れがたい裁判での主張

3年前、井出努さんと妻のさつ美さんは、最愛の娘を突然の事故で失います。

当時11歳だった安優香(あゆか)さんは生まれたときから聴覚障害があり、補聴器をつけて暮らしていました。しかし、下校中に信号待ちをしていたところ、暴走した重機に巻き込まれてしまったのです。

画像

当時の事故現場

刑事裁判が一段落した去年1月、損害賠償をめぐる民事裁判がはじまりました。主な争点となったのは「逸失利益」。将来働いたら得られたはずの収入のことで、損害賠償の算定において重要な項目です。

安優香さんの逸失利益について被告側の主張は、井出さんが予想もしないものでした。聴覚障害があったことを理由に、女性労働者の平均の40%にとどまるとしたのです。

「被告側の主張は、聴覚障害者だからという単純な理由。これはまさに差別にほかならない」(原告側弁護士)

被告側は減額した理由として、「聴覚障害者は思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職自体も難しい(被告側準備書面より)」と説明しました。たとえ就職できたとしても、安優香さんの聴力では仕事上のコミュニケーションに重大な支障を来すため、選択できる職種が限られて収入は低くなるという考えも示しました。両親にとっては受け入れがたい内容です。

画像

井出努さんと妻のさつ美さん

「聴覚障害を持って生まれてきたら、どんなに努力しても『あなたのお子さんは将来40パーセントの価値しかないですよ』って。それってふつうに差別ですよね。安優香は障害を持って生まれましたけど、ふつうの子どもと同じように育ててきたんです。ひとりの人間として見ていただきたいです」(さつ美さん)

「亡くなった娘に対して障害をまた持ち出してきた。すごい悔しいというか、2度殺された気持ち。この裁判で差別的なことを相手が言っていることがどうしても許せない」(努さん)

なぜ安優香さんの逸失利益を女性労働者の平均の40%としたのか。番組では具体的な根拠について被告側に取材を申し込みましたが、回答を得ることはできませんでした。

家族とともに成長してきた11年

井出家の長女として生まれた安優香さんは、生後1か月で感音性難聴と診断され、耳はほとんど聞こえないと医師から告げられます。安優香さんはろう学校に入学すると、聴覚障害のある仲間たちとふれあい、学力やコミュニケーション力を育んでいきました。

画像

当時の担任 細尾学さん

「安優香ちゃんなりに、友だちに応じて工夫して関わっていくことを学んできた。このお友だちと関わりたいと思ったら、ものすごく積極的に声をかけたりする。これから社会で生きていくうえで大事な力を持ってる」(細尾さん)

安優香さんが運動会でスピーチした動画が残されています。事故が起きる4か月前、努さんが撮影しました。

画像

運動会でスピーチする安優香さん

「赤組白組の思いのこもった手作りの旗と、迫力ある応援をご覧ください」(安優香さん)

難聴と診断されてから家族みんなで歩んできた11年。わが子の成長を感じた瞬間でした。

「安優香、成長したなって。こんなに大勢の前で、堂々とお話しできるようになった娘をすごく誇らしく思いましたね」(さつ美さん)

「僕も思わず動画を撮りながら涙を流してました。この先、もっと成長した姿を見せてくれるんだろうなと。安優香の将来がほんまに楽しみだった。いろんな可能性があったと思います」(努さん)

家族の“思い出”が裁判を闘うための“証拠”に

「聴覚障害者は、就職自体も難しい」「仕事上のコミュニケーションにおいて重大な支障を来す」 こうした被告側の主張は認めがたいとして、裁判の支援に加わった人がいます。久保陽奈弁護士です。久保さんは安優香さんと同じ難聴で、補聴器をつけて仕事をしています。

画像

弁護士 久保陽奈さん

「障害者の就労の可能性とかを被告側は否定する。私も聞こえない身としては当事者なので、そういった偏見に基づく主張をしているのは、憤りと怒りの気持ちが沸いてきました」(久保さん)

職場でのコミュニケーションの課題は、声を文字化して画面表示する音声認識アプリなどで対応してきました。

「コミュニケーションの方法は、今はテクノロジーも使うことができます。聴覚障害者はこうやって生き生きと働いていることを裁判官に分かっていただく必要がある。(聴覚障害者は)エンジニアやテレビのディレクター、外資系のIT企業とかいろんな分野で活躍している。安優香さんは、自分のなりたいもの、なんでも目指すことができたと思いますね」(久保さん)

両親もまた、安優香さんがほかの人と同じように働けると信じていました。それでも、裁判で被告の主張に反論するためには、具体的な証拠が求められます。安優香さんのテストの結果や、勉強に使っていたノートを必死にかき集め、さらに、娘の日記を専門家に分析してもらい、障害があっても年齢に応じた文章力があったと証明しようとしました。

画像

安優香さんの日記

しかし、そもそもなぜこんなことをしなければならないのか、やりきれない思いが日に日に募ります。

「なんで僕らが証拠を出して証明しないといけないんだって、納得いかない。何やってんだろうと思うことはありますね。過去のことを掘り下げて調べなあかんのは、ほんとにしんどいです」(努さん)

裁判が注目を集めるなか、ネット上には両親への批判の声も書き込まれるようになっていました。

『障害者だからしかたがないだろう』とか、『障害者だから逸失利益減額されて当たり前だろう』とか。ほんまに気分が悪くなるようなコメントでしたね」(努さん)

過去に、障害のある人の逸失利益をめぐる裁判に関わった弁護士の中谷雄二さんは、こうした裁判は総じて、原告の思いが理解されにくい構図があると指摘します。

画像

弁護士 中谷雄二さん

「批判が出るのは、『人の命の価値は平等だと言いながら、お前たちは金を請求してるじゃないか』とかね。民事裁判という制度を使う以上は、損害賠償の請求以外に方法がない。お金じゃないんですよ。本人を生かして返してほしいわけですよ。それができないからこそ、せめてほかの子どもと同じように扱ってほしいという思いがある」(中谷さん)

裁判を終えても埋まらない心の空白

一般的に賠償金の内訳は、逸失利益、精神的苦痛に対する慰謝料、葬儀費用などで構成されます。なかでも高い割合を占めるのが逸失利益です。

画像

一般的な賠償金の内訳(死亡事故の場合)

かつて、障害のある人の逸失利益はほぼゼロと判断されていた時代もありました。遺族たちが声を上げることで、逸失利益は少しずつ認められてきたのです。しかし、裁判を終えても遺族は複雑な思いを抱えています。

鶴田明日香さんは、自閉症で知的障害があった弟の早亨(はやと)さんを事故で亡くし、7年前に裁判を起こしました。障害者施設に入所していた早亨さんは施錠されていなかった扉から抜け出し、近くのスーパーで食べものを喉に詰まらせ窒息してしまったのです。食事を一気に口に詰めこむくせがあったという早亨さん。少しずつゆっくり食べさせてほしいと、対応を依頼してきたなかで起きた事故です。

画像

鶴田明日香さんと弟の早亨さん

裁判では、早亨さんが就職する可能性は低く、逸失利益は発生しないと主張されました。しかし、明日香さんは、そもそも逸失利益という物差しで弟の命を測ることに違和感があったといいます。

「議論自体がばかばかしく思えてくる。損害賠償で生産性は関係ない。それが命の価値に関係があるかと言われると、自分はないと思っています。人間の価値をもっと違うところで評価してくださいと、ずっと主張してきました」(明日香さん)

当初はゼロと主張された逸失利益。裁判は5年にわたり、最終的には施設が一定の解決金を支払うというかたちで和解にいたりました。裁判を闘い抜き勝ち取った結果ですが、2年たっても明日香さんはいまだに気持ちの整理がつかずにいます。

画像

鶴田明日香さん

「まだ納骨も済んでないんですけど、しまう気になれない感じですかね。早亨はにぎやかにしてくれる存在だった。すごく優しいし、素直に喜んでくれるし。早亨がいることで生活に張りがあったし、かけがえのない存在だから代わりがないですよね。家族を失った悲しみはお金では埋まらない。いくら払われても満たされないんだったら、せめて差別がないようにしてほしいと思います」(明日香さん)

残された家族の思い

「逸失利益」をめぐる裁判を闘う中で、井出さんは、亡くなったわが子の意外な一面に触れることになりました。 それは、親の手を離れて、自分自身の世界を広げ始めていた安優香さんの姿です。

画像

越雄さんが届けた写真

裁判が始まってから1年半、近所で町工場を営む新谷越雄さんが、1枚の写真を片手に、井出さんの元を訪ねてきました。 安優香さんは越雄さんの愛犬と遊ぶため、工場によく遊びに来ていました。一緒に散歩に行き、その道すがら、簡単な手話を教えてくれたといいます。

画像

新谷越雄さん

「(生きていれば)これからどんどん良くなっていく子やと思うねん、あの子。そやから自分の道はたくさんあったと思う」(越雄さん)

「いい顔してますね。いやあ懐かしい。好きなワンちゃんと一緒にいるんで、自然な笑顔ですね。私の知らない安優香の姿なんでね。いい人と出会ってたなと思って、安優香は。ありがとうございます」(さつ美さん)

7月、井出さんたちを勇気づける出来事がありました。聴覚障害者団体の呼びかけに応え、全国から10万を超える署名が集まったのです。

画像

全国から集まった署名

さらに、障害者差別を考えるシンポジウムで、安優香さんについて話してほしいという依頼が舞い込みました。今、こうした依頼や、励ましの声が全国から寄せられています。

「もう、涙、涙でしたね、拝見してて。ありがたいなって。私たちの知らないどこかの誰かがそうやって応援してくださっているのを知ることができて、ほんとにありがたいなと思って」(さつ美さん)

「自分も動いて何か訴えなあかんなと。すべて、安優香が導いてきてくれてんのかなっていう感じで」(努さん)

8月26日、被告は裁判所に新たな準備書面を提出しました。逸失利益について従来の主張を撤回し、聴覚障害者の平均賃金をもとに算定するとしたのです。

画像

新たな逸失利益算定の基準

金額は上がったものの、一般の基準(497万2000円)には遠く及びません。わが子のいのちの価値を取り戻すために、裁判はまだ続きます。

※この記事はハートネットTV 2021年9月15日(水曜)放送「いのちの格差~“逸失利益”をめぐって~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事