戦後の混乱期、進駐軍の兵士と日本人女性との間に生まれ、孤児となった子どもたちがいます。彼らは「ボーイズ・タウン」と呼ばれる施設で共同生活を送り、社会に出てからは、進学や就職、結婚などさまざまな場面で差別や偏見にさらされ続けてきました。同じ境遇の仲間たちを“戦友”と呼ぶ当事者が長年胸に秘めてきた思いを初めて語る、戦後史秘話です。
終戦直後、進駐軍の兵士と日本人の間に生まれた子どもたち。70歳を過ぎた青木ロバァトさんもその一人です。
青木ロバァトさん
「青木ロバァト。棒(ー)じゃないのよ。ロ・バ・ァ・ト。父親がロバァト、母親が青木ゆき。で、青木とロバァトをくっつけただけ。考えなかったのかな。父親は兵隊だったの。アメリカに家族持っていた人。ようするに現地妻ですよ、僕の母親は。昭和30年頃、オヤジがいるときはよかったけど、任期が終わってアメリカに帰っちゃえば、俺とお袋は日本人のターゲットになっちゃう。ようは仇じゃない? 戦争で負けてんだから日本は。“あいの子”、“黒んぼ”という言葉だけじゃない。いきなり叩かれたり、つば吐かれたり。そういうのはしょっちゅう。人扱いされなった気がする」(ロバァトさん)
子どもたちが暮らした施設ボーイズ・タウン
ロバァトさんが預けられたのは、ボーイズ・タウン(少年の町)という混血児と呼ばれた子どもたちが暮らす児童養護施設です。地元住民から反対の声も上がり、施設を作るまでに2年の時間を要して、昭和29(1954)年に完成しました。大学生で住み込みでアルバイトをしていた石川琢馬さん(77)が、設立当時の様子を振り返ります。
石川琢馬さん
「アメリカの基地の人たちを中心に、養子縁組を進めていきました。女の子のほうが養子はもらい手が多かったですね。だから男子が残っちゃった。たいてい黒人の子が残っちゃって、それで、日本の司教団が意見をまとめてバチカンへ窮状を訴えて、世界から寄付が集まった。昭和29年に、そのお金でボーイズ・タウンの土地と建物を作ったという経緯は知っています。私が来たときには総勢41人でした」(石川さん)
その後、昭和47(1972)年にボーイズ・タウンは閉鎖。卒業生のアフターケアのために建物の一部が残されました。「ヨゼフ寮」と呼ばれています。差別や偏見にさらされ、行き場を失った卒業生たちが、安心して帰ってくることができる故郷のような場所です。石川さんは、働きながら、50年以上ヨゼフ寮に住み、卒業生を見守ってきました。
ヨゼフ寮
「いちばん大きいのは横のつながり。ここがあることによって、つながりができる。1人で孤立しちゃうのを防げるんじゃないかと思ったんですね」(石川さん)
中学卒業と同時に、ボーイズ・タウンの子どもたちは、施設を出て暮らします。施設を出た彼らを待っていたのは、厳しい現実でした。
ロバァトさんはこれまで数限りない回数の職務質問を受けてきたと憤ります。
「悪者に見えるんだね、悪党に。いきなり『外国人証明書、見せろ』って来たの。そんなもん、持ってないもん。だって俺、日本人だもん。持ってるわけねえじゃん。失礼だろ?」(ロバァトさん)
20代の頃のロバァトさん
青木ロバァトさん
「人として見てくれというのは、もう無理かな。じゃあ、頼むからほっといて。俺たちを君たち日本人のターゲットにしないでよ、みたいな。殺気ってあるでしょ。侍の殺気。あれを感じるんだよ。人ごみの中を歩いていても、殺気は感じます。殺気としか言いようがないんだ。ボーイズ・タウンの子はみんなそう思ってる。闘ってきたんですよ、僕らは日本人と」(ロバァトさん)
ボーイズ・タウンの卒業生、岩波望さん。小学校時代の忘れられない経験を話してくれました。
岩波望さん
「小学校6年の父兄参観日のときに、両親を必ず呼ぶじゃない。それで悪ガキに言われてね。『岩波、両親来てないのか』って。馬鹿にされるわけよ。『あいの子とは遊びたくない』と。そういう嫌な言葉で毎日いじめられたよ。日本語でいちばん嫌いな言葉は“あいの子” 。ひとり寂しくトイレで泣いてたよ。ほとんど泣いてたな。なんで俺この世に生きてたのかって。(親のいる人は)嫌なときは親に相談できるでしょ、甘えることもできるでしょ。精神的な支えがあるから、親のいる人はいいけど、僕らはいないからつらかった」(岩波さん)
物心ついたときからボーイズ・タウンにいた岩波さん。母親を知りません。
子どもの頃の岩波さん
「恨みとかは一切ない。ただ、自分の心では『お母さんがいないな』と思ってたのよ、ずっと。もう、あきらめ。いつまでもくよくよしたくないし、前向きで生きたいなと思った。じゃないと、自分がみじめ。そんなことばっかり考えてたら、むなしく感じるから」(岩波さん)
「自分は母親がいない」と言い聞かせて生きてきた岩波さん。社会に出て、ある思いが岩波さんを支えてきました。
「両親健在、兄弟健在、親戚兄弟がいるでしょ。そういう人間を僕は“一般市民”の人間だって言ってんだよ。そういう人間に対しては、社会に出たら負けたくないのよ。一般市民には絶対負けたくない。反骨精神かな?」(岩波さん)
ボーイズ・タウンを出て、必死に働いてきた岩波さん。73歳になった今も、週に5日も働きます。
35歳のときには秋葉原で電気製品の卸問屋を開業。その頃、5つ年下の女性と出会い、結婚を考えました。しかし、相手の父親に挨拶に行った際、思いがけない言葉を吐かれました。
「両親、兄弟、親戚のいない、訳の分からない人間のところに娘をあげるわけにいかないって言われた。二度と来るなって言われた。何ちゅう男だと思ったけどしょうがない。彼女に、俺はこのオヤジについていけないから別れよう、この話はなかったことにしようと言って別れたんだよ。そういう人間はボーイズ・タウンに多い。ほとんどが俺と同じ経験してる」(岩波さん)
ボーイズ・タウンができて、67年。ヨゼフ寮から思いもよらない資料が見つかりました。
岩波さんの出生についての記録が書かれたカードです。施設に来た経緯などが記されていました。
出生についての記録が書かれたカード
「これがいちばん欲しかったのよ。どこで生まれたか、親がいたのかいないのか。今までこれがなくて、小さいときから捨て子かと思ってたのよ。お母さんの名前が、岩波ハマってなってんの。お母さんはアメリカ人の家庭の女中をしていたわけよ。僕としてはそれはいいのよ。女中になってようが、なっていまいがかまわない。ただ、お母さんがいたってことだけでうれしかったのよ。捨て子じゃなかったことが。これがなけりゃ、いまだに捨て子かと思ってるだけだから、俺の人生は。僕は施設に預けられたんだってなるでしょ。じゃあ、なぜ施設に預けたのかってお母さんに質問したいわけよ。もし生きてたら聞きたいわけよ」(岩波さん)
岩波さんは資料に記載された住所を頼りに、母親の消息を追うことにしました。資料には詳しい住所が載っていませんでしたが、現地を訪れて聞き込みを続けた結果、母親の妹が見つかります。
岩波さんの叔母・千代子さん
「私は90ですからね、明日お目にかかれなくなるような時でしたからね。お目にかかれて、良かったです。あなたのお母様である濱子さん、とにかく、きっちり、シワひとつない洋服を着ている人です。髪もロングにしてね。綺麗に後ろに流して、手先も器用だったと思います。濱子さんの写真あればいいんですけど、爆弾で焼けて全部なくなっちゃたんです」(岩波さんの叔母・千代子さん)
岩波さんの母は女学校を卒業後、17歳で地元の企業に就職しました。ところが、ある出来事をきっかけに家族と衝突して勘当され、身を寄せたのが住み込みで働ける「外人ハウス」です。その後、子どもを産んだことを誰にも告げずに消息を絶ち、現在まで連絡はないことが分かりました。
「お母さんにはお母さんの事情があったと思うよ、戦後すぐだから。お母さんが生きるのに、俺を育てるのはできないから施設に入れたっていう。僕が生まれた以上、長く生きなさいっていうために施設に入れさせたのか。でもいちばんうれしいのは、生きてる間に分かったから。年はくっちゃったけど、生きてる間にお母さんがいたってことがうれしかった」(岩波さん)
この春、ボーイズ・タウンの運営に尽力した修道士が亡くなりました。トマス・アンドレ・トランブレさん(享年89)。ボーイズ・タウンを一つの家族のように考えていたトマスさんは、岩波さんにとっても特別な人です。
生前のトマス修道士、左上が岩波さん
「トマス先生は僕の人生の中でいちばん大事な存在の人。一人寂しく便所で泣いてて、もう死にたいって、トマス先生に相談したの。そうしたらトマス先生が『死ぬことを考えるのやめなさい』と。神様は見守ってるから、人生つらいときも楽しいときもあるからって。それからだね。つらくても死を考えなかった。だからここまで生き延びられた。トマス先生の影響でね」(岩波さん)
取材の最後に、青木ロバァトさんに連れてきてもらった場所があります。
横浜外国人墓地に隣接する納骨堂です。
納骨堂を訪ねる青木ロバァトさん
ここに、身寄りのないボーイズ・タウンの仲間たちが眠っています。そのうちの一人、53歳で亡くなったデニスさんの思い出を話してくれました。
「デニスは優しい子で、でも仕事がうまくいかないで自殺しちゃった。周りがそうしちゃったんだよな。偏見・差別がなければ、普通にあいつら生きれたはずなんだ。“戦友”なんです。日本の普通の家庭の人と闘っていたイメージで、僕は戦友って言葉を使ってる。戦争がなければ生まれてきてない子たちだし、戦友もありかな。だから、戦後生まれだけど戦友なんです、僕らは」(ロバァトさん)
※この記事はハートネットTV 2021年8月9日(月曜)放送「ぼくらは“戦友”だった ~ボーイズ・タウンの子どもたち~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。