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コロナ禍で問われる命の重み 【前編】生活困窮者支援・稲葉剛さんの原点にある体験

記事公開日:2021年09月10日

東京で、仲間たちと生活困窮者を支援する活動をしている稲葉剛さんと小林美穂子さん夫妻。住まいを失った人が一時的に暮らせる部屋を提供するなど、先駆的な取り組みを続けてきました。コロナ禍で失業者が10万人を超える中、生活を取り戻してもらおうとする活動は、かつてない切迫感に直面しています。稲葉さんの原点にあるのは、20年以上前に体験した“取り返しのつかない死”。後悔と自問を抱えて歩む二人の半生を通して、コロナ禍で問い直される命の重みを考えます。

すべての人が安心して暮らせる「住まい」を

東京・中野区の住宅街にある一軒の古い雑居ビルに、生活困窮者支援団体「つくろい東京ファンド」の事務所があります。ここを拠点に、稲葉剛さんと小林美穂子さんは仲間とともに、生活に困窮したり、住まいを失ったりする人たちを支援してきました。代表を務める夫の稲葉さんは、バブル崩壊以降30年近く貧困問題の最前線に立ち続けています。

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稲葉剛さんと小林美穂子さん

団体では、住まいを失った人が一時的に入居できる仮住まいの「シェルター」を都内各所で59部屋運営。長年の路上生活で体を壊し命の危険もある人たちを病院へ連れて行ったり、携帯電話や身分証などを一緒に準備したりします。3か月間のシェルター入居中に、主に生活保護などの公的支援とつなぎ、その後自分の部屋で自分の生活を営んでもらうことを稲葉さんたちは目指しています。

4月下旬、入居者の鈴木さんがシェルターから自分の部屋へ引っ越しました。元路上生活者の鈴木さんは、これまで生活保護を受けるたびに一人一畳ほどの相部屋施設への入居を条件にされ、耐えかねて路上に戻っていました。5年振りに自分の部屋を得た鈴木さんが、路上生活をしていたときのことを涙ながらに語ります。

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自分の部屋を得た鈴木さん

「(路上生活時代の)印象に残っているのは、目の前で仲間がごはんを食べて、それもたった1食だけど。それで、こっちのベンチに座って、隣のベンチに行こうとしたときに、目の前で倒れて亡くなった。自分にとってはつらかったですね」(鈴木さん)

望んだ場所で安心して自分らしく暮らすのが、稲葉さんたちが取り組む「ハウジングファースト」の理念です。鈴木さんの家賃は月5万3700円。生活保護制度の住宅扶助費でまかなえるように手続きしました。

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「つくろい東京ファンド」代表 稲葉剛さん

「残念ながら(行政が紹介する)都内の民間施設は、ほとんどが相部屋です。そこで人間関係のトラブルに巻き込まれて、また路上に戻ってくる方が多い。役所の職員の方も、『ホームレスだったんだから、屋根があるだけでもありがたく思え』と言わんばかりの対応が多いんです。それではご本人が安心して次のステップに進めない。まずはご本人が安心して暮らせる環境を整えることに力を入れています」(稲葉さん)

急増する若い人からのSOS

生活に困窮する人たちの声を真っ先に受けとめるのが妻の小林さんの役目です。この1年、新型コロナウイルスの影響で30代以下の若い世代からの相談が急増しています。この日は、非正規雇用の仕事を掛け持ちしている若い人が、不安定な収入のため普通の生活すらできないと泣きながら電話してきました。

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相談者からの電話を受ける小林美穂子さん

多くの人が自力で何とかしようと、限界まで追い詰められていることが二人には気がかりでした。所持金がなく、電話もかけられない人には、直接会いに出かけます。小林さんが現地へ駆けつけたのはこの1年で240回以上。生活保護の申請や住まい探しなど、一人ひとりの暮らしが安定するまで手伝います。

小林さんがいちばん最初に受けた相談は、地方から出てきた20代前半の女性からです。コロナで解雇されて行き場を失い、頼れる親がいないためネットカフェで暮らしますが、所持金がなくなり、死ぬしかないと考えるまで追い詰められていました。

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小林美穂子さん

「お腹を空かせていたのでファミレスに行き、食事をしながらジュースを入れたら『甘いジュースを飲むのは久しぶり』って。ずっとネットカフェで無料のお茶とか水しか飲んでなかったから。ビジネスホテルにご案内すると、いちばん最初に『髪を洗いたい』とおっしゃった。愕然としますよね。ジュースも飲めない、髪も洗えない。これが日本の現実なのに、誰にも知られずにこういう人たちがたった1人で生きようとしている。彼女は『死ぬしかないと思ったけど、私も人間なんですかね。生きたいと思っちゃったんです』って。生きたいと思うのは当たり前のことなのに、若い人にこんなことを言わせてしまうこの社会って何?この1年間、やり場のない怒りをずっと抱え続けました」(小林さん)

二人のコンビネーションが成果を生む

生活保護の申請を最も多く行い、現場をいちばん分かっていると稲葉さんも認める小林さんの発案で、生活に困窮する人たちにアンケートを行いました。そこで浮かび上がったのが、生活保護を受けることへの高いハードルです。最も多かったのが「家族に知られるのが嫌」という回答でした。

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「つくろい東京ファンド」が行ったアンケート

生活保護を申請する時、役所は家族や親族に経済的援助が可能か問い合わせをします。この「扶養照会(ふようしょうかい)」という手続きが、強い抵抗感につながっていました。

アンケートの結果を受けて、2月、稲葉さんたちは他団体とともに、厚生労働省に対して扶養照会の見直しを求める要望書を、3万筆あまりの署名を添えて提出。3月末、厚生労働省は自治体に、扶養照会に関する通達を出します。扶養照会を本人が拒否する場合は理由を丁寧に聞いて検討するよう求めるもので、実質的に扶養照会の運用を狭める内容でした。

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厚生労働省に要望書と署名を提出する稲葉さん

「やっぱり(稲葉さんと)一緒にやらないとできないんですよ。専門性だとか、知識が全然違う。私は現場しか見てないけど、彼は広いところを見ている。法律から仕組みから、人間関係だとか、専門家たちがどういう動きをしているかも知っている。稲葉さんのおかげで、ちょっとした思いつきが大きく発展します」(小林さん)

名前も知られずに亡くなる路上生活の人たち

二人が出会ったのは、12年前。稲葉さんが長年続けていた路上生活者支援の現場に、小林さんが足を踏み入れたのがきっかけでした。

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出会った当時の稲葉さんと小林さん

「彼はすごくクールで取っつきにくい人ですよね。貧困業界のスターみたいに言われていたので、憧れみたいなものがあったんですけど、最初のうちはすごくめんどくさい女が来たぐらいに思われていたので、『何あの人!』とずっと思ってた。ただ、非常にひたむきな人で全くぶれないんですよね。誰かを変に歓待したり、もてなし感を出すこともしない代わりに、排除も全然しない。偉い人だろうと、路上の人だろうと、変わらない。誰に対しても同じというのはずっと変わらないですね」(小林さん)

稲葉さんは広島市の生まれ。女手一つで一家を支える母・敏恵さんは、被爆者でした。原爆や戦争のことをぽつりぽつりと話してくれました。

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稲葉さんと母・敏恵さん

東京大学に進んだ稲葉さんは、湾岸戦争などに反対する平和運動に関わります。1990年代に入りバブル経済が崩壊すると、仕事を失った人が路上にあふれました。

1994年2月に新宿駅西口の地下通路で路上生活者が住む「ダンボールハウス」が撤去されたという新聞記事を読み、稲葉さんは社会の大きな変化を感じ取ります。そして、実際に当事者から話を聞かなければ何も分からないと考え、友人たちと新宿の「ダンボール村」に足を踏み入れました。

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大学時代の稲葉さん

「実際に住人の人たちと話すようになって大変びっくりしたのは、路上で人が亡くなってるという状況でした。肝臓が悪くて顔が真っ黄色だったり、足がパンパンに腫れ上がっていたり、ガリガリに痩せて栄養失調の方とかですね。餓死状態、凍死状態で見つかった方もいらっしゃいます。救急車で運ばれて病院で亡くなった方を含めると、何十人も亡くなっている現実を知りまして、大変ショックを受けたんですね」(稲葉さん)

稲葉さんがさらに衝撃を受けたのは、亡くなった人たちが名前も知られずに埋葬されている現実です。

「岩田さんという60代の方が意識不明の重体で新宿から救急で運ばれて、お見舞いに行ったんです。すると、病院のベッドのところに『新宿百六十七男』と書かれていたんですね。新宿区内から運ばれてきた身元不明の男性で167番目という意味で書かれたと思います。岩田さんは結局意識が戻らず亡くなられたんですが、『新宿百六十七男』という名前で埋葬されたんです。誰にも知られず、誰からも名前を呼ばれることなく、『新宿太郎』とか『新宿百何十男』とか、記号のような名前で亡くなっていく方がたくさんいる。新宿だけじゃなくて、全国にたくさんいると考えたときに、私たちの社会って何なんだろうという思いを抱きましたね」(稲葉さん)

取り返しのつかない死から「住まい」を得る活動へ

1996年、東京都は新宿駅西口地下通路の「ダンボール村」を一斉に撤去します。そこで暮らしていた人たちは不法占拠者として扱われ、強制的に排除されました。生活保護などの運用が厳しかった当時、路上で生きる人たちにダンボールハウス以外の「家」はありませんでした。そこで、支援グループのリーダーだった稲葉さんの呼びかけで、新宿ダンボール村が再建されます。ところが2年後、悲劇が襲います。ダンボールハウスで火災が発生し、またたく間に燃え広がり、4人の住人が犠牲になったのです。

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火災で焼失した新宿ダンボール村

「私たちが命を守るために行っていた活動によって命が奪われた。ある意味、私たちが4人を殺したという事実と向き合わざるを得なくなったんですね。ダンボール村の火災で亡くなった方の中に、ご夫婦で路上生活されている方がいて、火事の起こる前の週に相談を受けていたんです。二人で生活保護を受けてアパートに暮らしたいと。しかし、当時の私たちの力量ではお二人の夢を実現できなかったんですね。亡くなった命の取り返しのつかなさは常に感じていて。これは背負っていくしかないと思っています。そこから、野宿から抜け出して安定した住まいを確保することが必要だと考えるようになりました」(稲葉さん)

家もなく、名前も知られず死ぬ人がいる社会を変えたいという思い。路上で暮らす人が家を得るのを後押しすることが稲葉さんの活動の中心になります。

コロナ禍で問われる命の重み
【前編】生活困窮者支援・稲葉剛さんの原点にある体験 ←今回の記事
【後編】生活困窮者支援・小林美穂子さんの原点にある出会い

※この記事は2021年6月27日放送 こころの時代「あなたを知ってしまったから」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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