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最愛の母と一緒に過ごした4年間 川中美幸さんの介護

記事公開日:2021年08月03日

2017年に最愛の母を亡くした歌手・川中美幸さん。川中さんと母・久子さんは、とびきり仲の良い親子として知られていましたが、久子さんの病気をきっかけに介護が始まります。仕事をしながら在宅で寄り添うことにこだわり、悩みながらも4年間の介護をまっとうした川中さん。2年前に母親を亡くしたタレントで女優の青木さやかさんが聞き手となり、親の老いとの向き合い方を考えます。

元気な母に起きた異変

川中美幸さんは1955年、鳥取県で生まれました。母・久子さんは音楽好きで、よくレコードを聞かせてくれたと言います。

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川中美幸さんが幼い頃の家族写真

川中さんが3歳のとき一家は大阪へ。間もなく父が交通事故を起こし、さらに体調を崩します。事故の賠償金と生活費を一人で担うことになった久子さんは、朝から晩まで、働きづめでした。

そんな母を助けたいと川中さんは歌手を志し、15歳で東京へ。長い下積みを経て、1981年に紅白歌合戦に初出場。誰よりも喜んでくれたのが母・久子さんでした。

青木:幼い頃は、お仕事で一緒にいられないことも多かったんですか?

川中:そうですね。私は子どもの頃、いわゆる鍵っ子で、母が一家の大黒柱として働きづめで、とにかくいなかったんです。だから学校から帰ってきて、雨が降って雷が鳴ると、よくアパートの押し入れの中に隠れて布団をかぶって、「おかあちゃーん」って泣いてました。でも今、考えると、いつもスキンシップがありました。大人になっても、仕事でどこか出かけるっていったら、「ちょっとキッスしとこう」とか「頬ずりしとこう」とかね。愛情深い母でしたね。

東京に出たばかりの頃も、久子さんから心のこもった応援が届いていました。

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川中美幸さん

川中:当時、大阪と東京に離れて暮らしていて、母は大阪の吹田でお好み焼き屋さんをやっていました。手紙をくれると、その中にいつも千円札が10枚。封を開けると、ぷーんとお好み焼きのにおいがするんですよ。私も子どもの頃、お店手伝っていたことがあるので、1日千円、2千円売り上げるっていうのは大変な時代だったんですね。なので、そのにおいをかぎながら、もう泣きながら電話をして、「おかあちゃん、必ずこの1万円、倍にして返すから」って。そうしたら母が「あんたのためやったら、惜しない、惜しない」って言うんです。私も母のために、一生懸命、働いてましたね。

そうして2005年、川中さんが49歳のときに夫と暮らす家に久子さんを呼び、同居を始めます。父はすでに他界し、一人で暮らしていた久子さんは80歳になっていました。

お好み焼き店は東京・渋谷に移転。「娘のファンや関係者が来てくれたら感謝を伝えたい」。そう言って、久子さんは休むことなく店に立ち続け、その姿はたびたびメディアで取り上げられました。

しかし2014年。久子さん88歳のとき、異変が起きました。

川中:地方に行くと母に電話をするんです。「おかあちゃん着いたよー」って。そのときに、声に元気がなくてね。「おかあちゃん、どうしたん?」って言ったら、「あのな、肩と背中が痛うてな」って言うんです。骨折しても、「ばんそうこう貼ってたら大丈夫や」と言うような、そんな母なんですよ(笑)。

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青木さやかさん

青木:強いですね(笑)。

川中:それでちょっとおかしいなと思って、慌てて主人に電話して病院に連れていってもらったら、「急性心筋梗塞」と言われたんです。先生に「すぐに手術をしないと今日、明日、持つか持たないかだ」と言われて。いつも「おかあちゃんはな、内臓は元気やねん」と自分で言ってましたから、「お母さん、内臓は元気なんだ」とずっと思い込んでいて。

青木:急な手術って心配になりますよね。

川中:「ちょっと手術せなあかんみたいよ」って言ったら、母はそういうところはすごく冷静で、「あぁ、そうか」って感じだったんで。

介護の始まり 親子の時間を取り戻すきっかけに

1か月半の入院後、久子さんは要介護3に。自分で立ち上がる、歩くことが難しい状態で、ここから介護が始まります。川中さんは58歳でした。

青木:介護は具体的にどんな感じでされていたんですか?

川中:私、母のことを全部したい人なんですよね。でも自分の体も年齢もいって、もたなくなるじゃないですか。そうしたら、主人の妹が介護士の資格を持っていたので、「こういう制度を頼ったほうがいいよ」「負担を軽くしたほうがいいよ」と教えてもらって、ヘルパーさんに来ていただいたり、デイサービスにも週に何回か行ってもらって、そういうところから始めました。

青木:ずっと元気だったお母様を介護する毎日になって、しんどさはなかったですか?

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川中美幸さん

川中:若ければ母を抱きかかえたり、買い物に行く、家の掃除をするって、どうってことないわけです。だけど自分もそれなりに年も重ねてきて、母を抱えたときに、腰にグキッときたんです。

青木:うわー。大変だ。

川中:母は小柄で細いけど、重いんですよ、ものすごく。「ああ、これが命の重さなんだ」って感じるんです。あんなに軽い母なのに、小柄なのに、病気をして、もう力が入らない母を抱きかかえたときの、あのつらさ。赤ちゃんでもね、よく言うじゃないですか。

青木:(本人が)力を抜いてると、重さをものすごく感じますよね。

川中:私自身も思うように体が動かない。イライラ、イライラするんです。でも母にはそれを見せられない、っていう葛藤もありましたね。正直、しんどくなかったっていうのは嘘です。やっぱりしんどかったです。

青木:現実的には、介護する側の体力は絶対に必要なんですね。

川中:あと10年、20年若かったらって本当に思います。

川中さんが介護をする中で最も悩んだことのひとつが、仕事との両立でした。

介護を始めておよそ2年の頃。デビュー40周年を控えた川中さんは、記念イベントなどがめじろ押しの中、多忙な日々を送っていました。

川中さんはデイサービスや訪問介護などのサービスをフル活用。夫や親戚とも協力して、仕事をしながらの「在宅介護」を続けました。

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川中美幸さんと青木さやかさん

川中:周年のときって、みんな気合いが入っていろんな企画が上がるじゃないですか。でも自分の人生を振り返ったとき、仕事、仕事で来た私でしたけど、母を誰かに任せて、どこか施設に入れて、「お願いしますね」っていう40周年もあれば、母といる40周年もいいなと思って。後悔したくない。やっぱり母と一緒にいたいと思って。

青木:相当に密な親子の時間なんだろうと想像しますが、どうですか?

川中:振り返ってみたら、本当に母とこんなにじっくりいた時間、意外となかったなって。昔は叶わなかったけれど、母と今は一緒にいられる、この時間がとても有意義な時間だし、本当に(一緒にいられなかった)当時を取り戻しているかのような時間でしたね。

青木:お母様の様子はどうでした?

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川中美幸さん

川中:あんまりうちにいると、かえって母は心配していました。「あんた仕事どないなってんの?」って(笑)。

青木:あぁ(笑)。

川中:売れてない時代もありましたからね。

青木:いつまでも心配されるんですね。やっぱりね。

川中:だから私がいないときは、ヘルパーさんに「私のコンサートビデオと、それからプロモーションビデオをできるだけ流してください」とお願いして。そうしたら、母が元気になるじゃないですか。だからよくお願いしてましたね。

寝たきりの母にかけられた「自分の人生を生きや」

介護が始まっておよそ3年。久子さんはほぼ寝たきりになっていました。川中さんは久子さんから片ときも目が離せませんでした。

川中:母の横に寝て、「何かあったら、私を起こしてね」って言うんだけど、やっぱり気を遣って起こさないんですよ。あるとき、夜中ぱっと目が覚めたら、母がベッドの下で尻もちをついた形でいたんです。「おかあちゃんどうしたん?」って聞いたら、「あんた起こしたらな、悪いしな」って。そういう母なんです。だからあるときからずっと母のベッドの横で眠っていましたね。

川中さんには、その頃の印象深い品があります。

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鈴を集めて腰紐に結び付けたもの

川中:うちの母は、地方に行くと、その土地のかわいい鈴を買ってきて、バッグにいつもつけていたんです。それがいっぱいたまっていたので、私がかき集めて、腰紐の真ん中に鈴の束をつけて、片方を母の手にかけて、(もう一方を)私の腕に結んで、毎晩、寝るんです。何か用事があったら、ピッピッと引っ張れば音がするんです。

青木:へぇ!

川中:私がもし熟睡していても、この音で起きる。私を起こす合図ですね。「おかあちゃんどうしたん?」って言ったら、「ちょっとおしっこ」とか。やっぱり離れたくなかったんですね。

川中さんには「片ときも離れたくない」という強い思いがありました。

川中:母がだんだん、だんだん愛おしくなってくるんですよ。弱っていく母を見るのはつらいですよ。あんまり喜怒哀楽がでなくなった母を見て、ちょっとつらくて、泣いたこともありましたけどね。

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青木さやかさん

青木:私は、親と一緒に生活をしながら介護した経験がないので、24時間ずっと目を離せなくて、ずっと大変なんじゃないかっていうふうに想像するんですけれども、そんなことはないんですか?

川中:そうですね。やっぱり寝不足になるじゃないですか。寝不足になると、人間ってゆとりもなくなるし、イライラもするんですけど、母親は赤ちゃんのときに、何時間おきかにミルクをあげて、眠れないって言うじゃないですか。

青木:はい。

川中:だからそのときに思ったんですよね。母に「世話かけるな。ごめんな」って言われたときに、「何言うてんの。私が赤ちゃんのときにも、こうやって2時間置きぐらいに起きて、私を育ててくれたんや」って。「だからそれをやるのは当たり前やんか」って母によく言ってましたね。親のありがたみっていうのは、わかってはいたけども、余計にやっぱり深くわかるようになりましたね。

青木:泣いちゃう。

川中:ね、お子さんを産んでらっしゃるから。

青木:はい。

日を追うごとに体が動かせなくなっていく久子さん。そのさなか、川中さんは40周年の舞台に立っていました。

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40周年の舞台に立つ川中美幸さん

熱唱する川中さん。しかし心の内では、家で待つ母が気がかりでならなかったといいます。

青木:仕事を休もうという選択肢はなかったですか?

川中:うーん、正直やめたかったですね。やめて24時間一緒にいたかったんですけど、やっぱり仕事っていうのは、先々に決まっていくものじゃないですか。やめることもできなかったし、周りの方にご迷惑もかけるし。

青木:はい。

川中:でも途中で母のためにも、頑張らなきゃいけないなって思うようになりました。「お母さん、私、仕事やめた」ってなると、母がまた調子が悪くなっちゃうんじゃないかなって。やっぱり私の生き生きした姿を見ていると、母はすごく喜んでいたので、その葛藤はありました。着物を着たときも、メイクもそのまんまで、できるだけ母に見せる努力はしていました。介護をしてるときって、自分もジャージの上下着て…。

青木:はい。動きやすいかっこうになりますよね。

川中:化粧もしないし、髪はもうばらばらだし。だけど、衣装のまま家に帰って、こういう姿を母に見せると、母も元気になる。母がベッドから言うんですよ。「きれいやな」って(笑)。あと、仕事はできるだけ地方はなくしてもらって、日帰りできるような形にはしました。

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川中美幸さんと青木さやかさん

青木:逆に、介護が大変ななかでも仕事を続けてよかったなと思った部分はありますか?

川中:介護の中にどっぷり浸かってしまうと、自分自身も元気がなくなる。だから仕事場に行くことによって、ヘルパーさんにお願いをして、親戚のお姉さんに来てもらって、そこで自分も気持ちが元気になる。元気になれば、またしてあげることもできるじゃないですか。いいバランスでやれたなという感じでした。

そんなときに川中さんを支えてくれた久子さんの言葉があります。

川中:母にご飯を食べさせるときに、いつも「ありがとう。ごめんな。感謝やわ」って。「おかあちゃんはあんたみたいな親孝行のええ子がいてるから幸せやけど、でもな、おかあちゃんはええから、自分の人生を生きや」って。いつも言ってました。「何言ってんの。おかあちゃんの人生が私の人生やんか」とか言いながら。

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川中美幸さん

青木:もう言葉にできないというか・・・。私なんかは本当に親不孝もしてきて、川中さんの話を聞いて、母が生前、元気なうちから、こういう心で母と接してあげたらよかったなって。川中さんのお母さんの子どもを思う気持ちを聞くと、言葉がでないです。

母の介護から学んだ3つのこと

寝たきりになって半年後の2017年5月。久子さんに胃がんが見つかります。しかし、手術に耐えられる体力は残っておらず、医師からは「年内の命だ」と告げられました。

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川中美幸さん

川中:母の様子がだんだん変わってきて、亡くなる半年ぐらい前ぐらいから、美幸っていう名前を言わなくなったんですね。私の本名は「岐味子(きみこ)」なんですが、「きみちゃん、きみちゃん」って言うようになったんです。私はうれしかったんですけどね。「美幸ちゃん」って言われると距離を感じるじゃないですか。だんだん表情がなくなってきても、「おかあちゃん、私、誰かわかる?」って言ったら、「き、きみこ」って。ちょっと時間があきますけど、私のことはしっかりと覚えていてくれたので。

青木:あまり言葉がでなくなっても、川中さんはずっとお話されていたんですか?

川中:はい、していました。母の大好きな美空ひばりさんの歌を横で歌って、マッサージしながら、「私、あのとき、どんな子やった?」とかね。昔の話は意外と覚えてるんですよ。「お父ちゃん、亡くなってだいぶになるけど、今度、生まれ変わったらお父ちゃんと一緒になる?」って聞いたら、「うーん、別の人がええ」って(笑)。「でも、あんたという子ができたから、お父ちゃんやな」とかね。そういうできるだけ楽しくなるような会話をするようにはしましたね。

青木:楽しい会話を心がけていたんですか?

川中:本当は母の弱っていく姿を見るのはつらくて泣きたいんだけど、一人になったときに泣いて、母の前では極力明るく、気持ちが楽しくなる話をずいぶんしましたね。「おかあちゃん、来年、劇場の話があんねんけど、お母ちゃん車椅子でも連れていくからな」って。「うーん、車椅子、うーん。もう無理や」。それが最後の言葉になりましたけどね。でも最後は、私がちゃんと見送ることができて、母はよかったんじゃないかな。顔が笑っていましたしね。「ありがとう」っていう感じでした。

2017年10月1日未明。久子さん享年92。最期は眠るように旅立ったといいます。

その2日後、川中さんは生放送の舞台に立っていました。久子さんの人生をつづった歌です。

♪負けちゃ駄目だと手紙の中に/皺くちゃお札が入ってた/晴れ着一枚自分じゃ買わず/頑張る姿が目に浮かぶ/お母ちゃん……苦労を苦労と思わない/あなたの笑顔が支えです
「おんなの一生~汗の花~」作詞:吉岡 治 作曲:弦 哲也

「自分の人生を生きや」

母の言葉を胸にステージに立った川中さん。歌手として、娘として、自分の人生と向き合い続けた4年間でした。

川中:歌うのはすごくつらかったですけど、でもこれはおかあちゃんのためにも歌わなきゃいけないなという気持ちが強かったですね。「おかあちゃんありがとう」って。

川中さんは、久子さんとの介護を通して、3つ学んだものがあるといいます。

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「母から学んだこと」のパネル

①「人はひとりじゃ生きていけない」

川中:あんなに気丈に生きてきた母が、人の手を借りないと生きていけなくなったときに、「おかあちゃん、やっぱり人っていうのは、人の手を借りんと生きていかれへんねんな」と。「ほんまに人を大事にせなあかんな」って母がよく言っていたのを覚えてます。

②「自分の人生を生きる」

川中:明日はどうなるかわからない人生、自分の人生をしっかり、母を亡くしてからまた見つめ直しました。今も人生を見つめ直すいい時間なんですけどね。「自分の人生を生きや」っていう言葉をしっかり胸に抱いて。そう思うと、気持ちがすごく元気になっていく自分がいるんですよね。

③「人はいずれ死ぬ」

川中:覚悟は少しずつできていましたけど、親はいて当たり前みたいなところがあるじゃないですか。

青木:うんうん。

川中:でも、あぁ、やっぱり確実に人って死ぬんだっていうね。だから、「自分の人生を生きる」と同じで、自分の人生を振り返ったときに、「私は本当に幸せでした」っていう人生をまた送りたいなっていう気持ちがより強くなってる。だから、明日もしものことがあっても、今、本当に「ありがとう」って言える自分がいるんですね。

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青木さやかさん

青木:私なんか、自宅で密に誰かを介護したっていうことはないんですよ。だから「わかります」なんて言うのはおこがましいし、そこは全然わからない。でも大変なことでも、きっと笑顔で、感謝をしながら、よく会話をしていらしたんだろうなって。それが大変なことではなくて、本当に感謝で、楽しい時間だったっていう思い出になってらっしゃるのがすごいなと思いましたし、そうでありたいなと思わせていただきました。

川中:私は環境的にね、頼れる主人もいたし、スタッフもいてくれたので助かりましたけど、そうじゃない方もたくさん世の中にいらっしゃいます。皆さん大変ですけども、自分の気持ちをしっかり持つためには、とにかく全部自分で抱えないことですね。どんな人でも100パーセントはないですからね。電話で友だちに愚痴を聞いてもらうのもいいし、自分で絶対、全部抱えないことですね。

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川中美幸さん

今年デビュー45周年を迎えた川中さん。あらためて、親子で一緒に過ごした時間を振り返ります。

川中:本当にすごく密な時間が取れたので、その期間だけでも、これから前向きに生きていける大きな力をもらった年数でもあるなって思います。母が残してくれた言葉、母が一生懸命生きてきたあの姿こそが遺言だと思って、今、前向きに生きています。

※この記事はハートネットTV 2021年6月29日(火曜)放送「私のリハビリ・介護 おかあちゃん そばにおるで 川中美幸」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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