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旧優生保護法ってなに?

記事公開日:2018年05月30日

旧優生保護法(1948~1996)のもとで行われていた障害者の強制不妊手術。今年1月、宮城県の60代の女性が、知的障害を理由に手術をされたことは憲法違反だったとして国家賠償請求を起こしたことをきっかけに、いま全国各地で声があがり、実態の掘り起こしが進められています。そもそも、優生保護法が生まれた背景はなんだったのでしょうか。そして、なぜこのことが大きく注目されるまでにこれほどの時間がかかったのでしょうか。長年、この問題に取り組んできた米津知子さんに聞きました。

“不良な子孫の出生を防止”を認めた優生保護法

― まず「優生保護法」とはどんな法律だったのか、ということから教えていただけますでしょうか?

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米津:はい。この法律は、1948年から1996年まで施行されていました。
「第一条」に “優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする”と書いてあります。つまり、優生思想をもった法律でした。障害をもつ人に、中絶や不妊手術をさせる条文がありました。

― 「させる」ということは「強制的に」手術ができたということですね。

米津:本人の同意がなくても不妊手術を行うことができたのです。それが、いま問題になっている「強制不妊手術」です。被害を受けた人の数は、分かっているだけでも1万6千を超えると言われます。“遺伝性”とされた疾患の場合は、不妊手術にかかる一切の費用を国が負担していました。それ以外に、本人の同意を得て行う規定もありましたが、障害者の立場がとても弱かったということを考えれば、本心からの同意だったのかはとても疑問です。ハンセン病の方たちがそうでしたね。実態は限りなく強制に近かったことが分かっています。

― どうしてこのような法律ができてしまったのか、歴史的な背景とあわせて教えていただけますか。

米津:優生保護法ができる3年前の1945年は、日本が戦争に敗れた年でした。食糧も家も不足している中でベビーブームが始まりかけていました。国としては、生まれる子どもの数を減らしたかった。一方、その前はどんなふうだったかというと、働き手や戦争に行く兵士になる子どもがたくさん欲しかったので、「堕胎罪」で中絶を禁止して、不妊手術も避妊も厳しく規制していたんです。

― 「産めよ、増やせよ」という言葉を聞いたことがありますけど。

米津:その通りですね。無理をして出産を繰り返して、身体をこわした女性もいたんです。「優生保護法」では、これとは逆に、一般の女性の健康の保護として、産まないこともできるようにして、子どもの数を減らそうとしたんです。

― つまり、人口政策ということでしょうか?

米津:そうです。それから、優生政策でもあったんです。生まれる子どもの数を減らすからこそ、健康な子どもだけが産まれるように、障害をもつ人に子どもを産ませないという規定を設けたんですね。

― 障害がある人は生まれてくるなという思想が「法律になっていた」ことにぞっとしますが、法律の枠外でも手術が行われていたと聞きました。どういうことでしょうか。

米津:たとえば、子宮の摘出やレントゲン照射によって、子どもを産むことも、月経も奪われてしまった女性もいました。施設に入所しようっていう時に、手術を勧められることがあったので、月経の介助の手間を減らすのが目的だったと考えられています。

― そうなると、もう、法律の拡大解釈とも言えますよね。その後、1996年に、「母体保護法」へと改正されますが、いってみれば「つい最近まで」この法律があったことに、衝撃を覚えます。

いま、問われていること

― NHKが全国で行ったアンケート調査によれば、未成年者が926人。
その中には、9歳の女の子もいた。9歳では、自分の身に何が起きたのか、わかりませんよね。

米津:そうですよね、でもそういう中で、被害者であることを明かして、私たちの「優生手術に対する謝罪を求める会」に連絡をして下さる方がでてきたんです。その方は、行政に自分の手術の記録の開示を求めるということもされていました。手術から何十年もたってしまったので、証拠になる資料というのはとても見つかりにくいですけど、昨年、お一人の方が、ご家族の助けを得て文書の開示を求めたら、その証拠が出てきたんです。それによって今年1月30日に彼女は国を提訴しました。5月17日にも、宮城県と北海道と東京で3人の方が新たに提訴をしました。

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原告団(宮城県仙台市)

― この実態調査は進んでいるんでしょうか。

米津:はい。厚生労働省は、都道府県市町村に、「記録を探し出して保全するように」「同意は得たけれど障害が理由だった手術も対象にするように」調べる場所も行政機関だけではなくて、「医療機関や障害者施設など広い範囲を探すように」通知で求めています。障害者団体では全日本ろうあ連盟が独自の調査を始めています。もし、心当たりがある人は相談をしてもらえるといいと思います。厚生労働省、それから都道府県に窓口が設置されています。弁護団が電話相談をすることもあります。

― 国は、当時は合法だったとして、謝罪や補償をしていないということについて、どのように思われますか。

米津:優生保護法みたいな、人権を侵害する法律があったっていうこと自体が、差別や偏見を作ってしまったといえると思います。国は優生保護法は間違っていたと、それを認めて、被害者にちゃんと謝罪と補償をしてもらいたいんです。それを伝えていくと、多くの人が、私たちも間違ったことを長年受け止めてきてしまったんだな、あのことは間違っていたんだなぁって、わかる人が増えてくるかもしれない。そして国は、差別をなくす政策をつくって貰いたいと思います。

― 一方で、国会でも救済に向けた動きが出ていますよね。

米津:はい。今年の3月に、超党派の国会議員連盟ができたんです。与党のワーキングチームも発足して、被害者の声を聞いて何らかの補償をという検討が、今、なされています。被害者の多くはもう高齢になられていて、裁判というのはとても時間がかかりますから、裁判に訴えなくても、記録が見つからなくても、補償を受けられる仕組みが必要だなと思っています。

― 今、改めて、優生保護法が多くの人たちに残したものって、何だとお考えですか。

米津:そうですね…。不妊手術を強制されたというような直接の被害の他にも、優生保護法ってすごく広く影響を与えたと思うんですね。「障害をもつのは不幸なんだ」とか、「障害者が子どもをもつはずがない」というような偏見って、今も根深いような気がします。

それからもう一つ、「家族との問題」というのも続いていると思います。
50代になる「網膜色素変性症」の女のひとが、私の友人を通して寄せて下さった体験があるので紹介させて下さい。その女性は、高校3年生の時に、お母さんが彼女の障害と遺伝について、初めて話をしてくれたんだそうです。子どもに障害をもたせてしまったという思いで、お母さん自身がとても辛い気持ちで生きていらしたということ、そして「あなたは絶対に子どもを産まないように」と強く言われたんだそうです。彼女はすごくびっくりして「私は子どもを産みます」とお母さんに言ったそうなんですが、「もし病気がわかっていたらお母さんは私を産まなかったのだろうか」と、そのとき、感じてしまったそうです。

― つらいですね…。

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米津:でも彼女は、「両親が私を育てた時代は優生保護法がすごく強い力をもっていたから、あれは親の個人的な問題ではなかったんだと、今はわかっています」と言っています。「優生保護法」は、不妊手術を強いられた人を傷つけた上に、たくさんの障害者と家族を苦しめて、悲しませて、引き裂いてきたんだと思うんです、…ということも言っていました。私も子どもの時に病気になったので、たぶん私の母もおんなじような気持ちだったと思うんです。でも、親が思うよりは、子どもって、元気でしっかり生きていますよね。

― そうですね。

米津:今お話しした女性とそのお母さんは、不妊手術を結局はされなかったわけです。でも、不妊手術を強制された被害者のそばにも家族はいたわけです。心ならずも、本人には伝えないまま手術を承諾した親や家族が、どれだけ苦しい思いをしてきたんだろう、この年月と思ってしまいます。差別っていうのは、受ける人だけではなくて、時には差別する側に回らざるを得ない人を作ってしまいます。その人もまた、苦しめるものなのだなと思います。

― 優生保護法はなくなりましたけれども、一昨年の津久井やまゆり園での殺傷事件など、「優生思想」というのはまだ根強く残っているのかなと感じています。そういう意味では、強制不妊手術の問題も、一部の人たちだけの問題ではなくて、障害のある人全体の問題とも言えるのかなと感じるんですけれども。

米津:そうですね。障害をもつ子が生まれることが否定されてしまった歴史は、障害のない人にも不安を与えていると思うんです。健康な子どもを産んで育てるのは女性の責任だっていう考え方も、今も深くあると思うんですね。子どもを産まない女の人や子どもが障害をもった女の人はちょっと低く評価されちゃうみたいです。そこに障害への不安が重なると、障害のない子を選んで産みなさいという圧力になって、子どもをもちたい人には苦しいことだなと思います。とくに女性を苦しめているんじゃないでしょうか。

― 先ほど、障害のある人全体の問題というふうに申し上げたんですけれども、私たち社会全体の問題ともいえますよね。子どもに障害があったらどうしようというようなプレッシャーを女性が抱えなければならないというのはみんなの問題ですよね。

米津:本当にその通りだと思います。障害のある子は、本人も家族も大変なんじゃないかっていう不安があると、たくさんの人を不安に陥れてしまうでしょうね。でも、私は歩くことに障害があるんですけど、この身体で生きてることはとても面白いと思ってきたんです。障害をもたないで生きるのと、そんなに変わってないんじゃないかなと思っています。だから、みんなに、障害があっても大丈夫って、私は言いたいです。


米津知子(よねづ・ともこ)
1948年、東京生まれ。2歳半でポリオにかかり、足に障害を持つ。
1970年代、ウーマンリブの中で優生保護法の問題を知る。
現在、「優生手術に対する謝罪を求める会」および、「SOSHIREN女(わたし)のからだから」「DPI女性障害者ネットワーク」のメンバー。

聞き手:高山久美子/宇野和博(視覚障害ナビ・ラジオ コメンテーター)

この記事は、2018年5月27日(日)に放送した「視覚障害ナビ・ラジオ」に基づいています。
全文テキスト書き起こしもあります。番組ホームページから
*音声もまるごとお聞きいただけます。

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