新型コロナウイルスの感染拡大が始まって2年目の夏。コロナ禍で大きく変わったことのひとつが、人やものにはなるべく触らないという新たなマナーが生まれたことです。感染予防という点では大切なことですが、接触が減っている現状に危機感を覚え、触ることの重要性を訴えている人がいます。文化人類学者で、国立民族学博物館准教授の広瀬浩二郎さんです。「触ること」の意味を伺いました。
全盲の広瀬浩二郎さんは、昨年「それでも僕たちは濃厚接触を続ける」というタイトルの本を出版しました。人との接触を避けるソーシャルディスタンスが求められている今、あえて濃厚接触を続けるのには理由があります。
「コロナが猛威を振るうようになって、非接触が強調されてきました。これまではそんなに意識してなかったことですけど、点字の本を読むとか、駅員さんに誘導してもらうとか、日常生活が人やものとの触れ合い、濃厚接触で成り立っている。もちろん感染予防は当然なんだけど、それが強調されることによって、視覚障害である自分の存在が否定されるような危うさを感じます。本来、濃厚に触れ合うことによって人間は文化を作り、歴史を歩んできた。それを視覚障害の立場からしっかり発信していかないと、自分自身の存在が危ういものになるという危機感がありました」(広瀬さん)
非接触が求められるようになり、人との触れ合いの大切さに気付かされたという広瀬さん。さらに、外出時にマスクを着けたことで新たな発見がありました。
「大阪の万博公園の中を15分くらい歩いて通勤するんですけど、公園にはあまり目印がないので、風を感じたり、木のにおいを感じたり、そういうものをすごく意識しながら歩いていたわけです。それがマスクによって遮断されてしまうと、20年通っている道の勘が狂って、迷ったことがありましたね。これは意外な発見で、マスクをしたことによって、あらためて顔でいろんな情報を得ていたんだなと気付きました」(広瀬さん)
触ることの重要性に気付いた広瀬さんは、“触文化”の研究を始めます。手だけではなく、全身の感覚を意識するという意味で“触”という言葉を用いた研究。その原点は盲学校での授業にありました。
「僕のルーツは盲学校の授業です。実は視覚以外の感覚からいろんなことを知るというのはそこに原点があった。たまたま博物館に就職したことによって、思い出したというか、発展した部分がある気がします」(広瀬さん)
広瀬さんの母校、筑波大学付属視覚特別支援学校の生物の授業では、植物や昆虫、化石など、様々なものに触って授業が行われます。触ったり、においをかいだり、ときには舐めてみたり、あらゆる感覚を使って観察することで心の中にイメージが刻まれ、その体験で得たことは、時を経ても鮮明に記憶に刻まれていると言います。授業を通して、視覚以外のあらゆる感覚への気付きがあったと振り返ります。
「僕が“触文化”、触る文化を訴えていくようになったきっかけは、触らないとわからないことがある。見るだけじゃわからないことがあるから。触るという世界を極めていくと、目に見えない世界はいろいろあるわけですよね。目に見えているものは、実は事物であったり、自然現象のごく一部、表面的なものであって、目に見えない部分にいろんな情報が隠れているわけです。目に見えない世界に入っていくためのひとつの手がかりとして、触るという行為があるんじゃないかな」(広瀬さん)
広瀬さんは大学卒業後から現在に至るまで20年にわたって、大阪吹田市にある国立民族学博物館に勤務しています。博物館では“世界を触る”という常設展も設けており、そこで展示の開発、普及に力を入れてきました。
「博物館で展示されているものは民俗資料といって、世界各地の人々が実際に作ったものであり、使っている道具であり、伝えてきたものです。作る、使う、伝えるというのは、手を使っているわけですよね。そういうものに実際に自分自身も触れたときに、見るだけじゃわからないことがあると再認識できます」(広瀬さん)
展示物を触る広瀬さん
広瀬さんが“世界を触る”コーナーを作ったのは、視覚に障害のある人にもっと博物館に来てもらいたいという思いからです。そして、もうひとつ意識したことがあります。
「目が見えている人たちにもっと触ってほしい。目が見えていると視覚はすごく便利なので、いい悪いは別にして、視覚に頼っちゃう。見えてしまうと、わかったような気になるわけです。でも、見るだけじゃわからないことがあるでしょう。だから、ふだん視覚に頼っている人にこそ、もっと触る世界を伝えたいと意識しました。従来、博物館は見ることに偏っていたわけですけど、せっかく5つ感覚があるのだから、もっといろんな感覚を使えるようになると楽しい。逆に、いろんな感覚を引き出してくれる場所として、博物館が位置付けられるといいなと思いますね」(広瀬さん)
五感をフルに使ってもらいたいと願い、博物館に“触る”コーナーを作りましたが、広瀬さんには来館者の動きにあまり満足していません。
「目の見えている大人の方は、意外と触ろうとしないですね。結局、見るというのは便利だし、博物館は見学する場所だというある種の常識が刷り込まれている。だから『何か面白そうなものがある、次に行こうか』みたいな感じで見て、スーッと次のコーナーに行ってしまうことが結構多くて。せっかくだから触ってほしい」(広瀬さん)
そこで広瀬さんは、ものにどう触ればいいのか一緒に体験しながら考えていくスタイルのワークショップを実施してきました。ワークショップでは、参加者は視覚に頼らず作品を触るだけでイメージを膨らませます。そのあと実際に作品を目で見て確認し、想像とはまったく異なることに驚いてもらうのが狙いです。
「今の学校教育では、答えがなるべく早くわかったほうがいいと強調されます。だから、視覚は非常に便利で早い。そういう早さや、正解に行きつくことを大切にする考え方ももちろん否定はしません。でも時間をかけて、これは何だろうかと自分でいろいろ考えながら手探りする体験も大切にしてほしい。能動的な体験は、40年経ったあとでもよみがえるかもしれない。こういう鑑賞を、僕は“無視覚流鑑賞”と言って、視覚を使わない鑑賞なんだと。決して視覚障害の人の疑似体験じゃない。視覚に頼らないでものと触れ合う新しいやり方なんだと思っています」(広瀬さん)
そんな思いを実現するため、この秋、広瀬さんは新たな企画「ユニバーサル・ミュージアム さわる!“触”の大博覧会」に挑戦します。9月2日から11月30日まで国立民族学博物館で開催予定のこの展示会ではすべての展示物に触ることができ、広瀬さんは来場者に全身の触覚を意識してほしいと願っています。
「展覧会は6つのセクションに分かれていて、その中でユニークなのは『風景に触る』『音に触る』『歴史に触る』というコーナーです。『音に触る』は、直接的には音を聞くコーナーなんですけど、単に耳で聞くだけじゃなくて、打楽器とか自分で叩いて振動を感じてみる。『風景に触る』は、風の流れを感じるとか、においや音で空間の広がりを感じるとかですね。そういう風景の描き方、感じ方もあっていいだろうと、いろいろな風景を感じるワークショップをやってきました。その成果物を展示して、目で見る風景じゃないけども、場所を感じられる、全身を刺激する展示物がたくさんあります」(広瀬さん)
さらに展示物だけでなく、視覚に障害のある人が展示物に触れる姿も見てほしいと考えています。
「視覚障害の人が触っている姿を一般の来館者の人に見てほしい。視覚をふだん使っている人たちは、視覚に頼ってわかったような気になって触りませんが、盲学校の生徒の人たちはああやって触っている、何か楽しそうだな、じゃあ俺たちも触ってみようか、みたいな。触る展示の水先案内人みたいなことを視覚障害の来館者が果たしてくれると、意味のある展覧会になるんじゃないかなと思っています」(広瀬さん)
黒い袋に入った展示物を触覚で鑑賞した中野アナ。袋から取り出したものはカメルーンの木製の仮面
「ユニバーサル・ミュージアム さわる!“触”の大博覧会」は、3年前から構想を温めて少しずつ具体化してきた企画で、本来は2020年の秋に開催予定でした。コロナ禍で開催が1年延期になってしまい、その間に新たな決意が芽生えています。
「触る展示ですから、各セクションにコロナ対策もしなければなりませんし、正直言ってプラスのことは少なかった。ただ、1年与えられた猶予をプラスに考えないといけません。コロナによって触ることのコンセプトが鍛えられた。非接触がこれだけ強調されるときに、あえて接触を掲げる展覧会をやるのは、それなりの決意であり責任が伴う。逆に言うと、今やることに社会的な意義が出てきたと考えています。気を引き締めて臨みたいと思います」(広瀬さん)
2025年には大阪・関西万博が開催される予定です。この万博を広瀬さんはチャンスだと考えています。
「1970年の万博のテーマは『人類の進歩と調和』で70年代らしいと思うんですけど、残念ながらそこに障害者は入っていませんでした。2025年のテーマは『命輝く未来社会のデザイン』です。英語で言うと‘Designing future society for our lives’で、『私たちの生活のための未来社会をデザインする』。このアワ・ライブズ(our lives)、私たちの生活と言ったときに、“私たち”って誰なんだろう。そこに70年には入っていなかった、多様な人たち、障害者も入っていかないと、本当の意味での“私たち”にならない。僕ら当事者がいかにアワ・ライブズに参画できるのか、そこが僕がいちばん気になるところです。そういう意味で、触るということをテーマにする特別展が試金石になり、本当の意味でのアワ・ライブズを実現していくための第一歩にして、触るということの流れを万博につなげていければいいなと思います」(広瀬さん)
※この記事は、2021年7月11日(日)放送の「視覚障害ナビ・ラジオ」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。