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体重20キロ 難病の私がなぜ妊娠・出産に踏み切ったのか

記事公開日:2021年05月31日

愛知県に住む寺嶋(てらしま)千恵子(ちえこ)さんは国指定の難病「脊髄性筋(せきずいせいきん)萎縮症(いしゅくしょう)」の患者です。この難病は、全身の筋肉が徐々に萎縮する進行性の病気で、寺嶋さんは背骨が大きく曲がり、体重はわずか20キロ。首から下の筋肉はほとんど動かす事ができず、24時間のヘルパー介助が必要です。ですが2018年、第一子を出産しました。妊娠当初、担当した産婦人科医は、命の危険があるとして反対。しかし、寺嶋さんは決してあきらめませんでした。そのブレない思いに、次第に医師の心は動かされ、出産への挑戦が始まります。寺嶋さんと医師は、障害による出産リスクとどのように向き合い、出産を決断したのでしょうか。

10万人に1人の難病と共に生きてきた寺嶋千恵子さん

寺嶋さんの難病が発覚したのは1歳6か月の時。父の市郎さんと母の美穗子さんが、娘が1歳を過ぎても歩けないことを心配して病院を受診すると、「脊髄性筋萎縮症」という10万人に1人という難病を発症していた事がわかりました。医師からは「成人までは生きられないだろう」と告げられます。この難病は現在も根本的な治療法が見つかっておらず、病気の度合いによっては亡くなる人もいたのです。

「このあと、どうするのかというのがすごく心配で、とてもこれから自分たちはどういう風に生きていけばいいのかなということをその時はすごく思いました」(母・美穂子さん)

その後の生活は一変しました。

「直接、抱っこしながらトイレも食事も全部、ずっと2歳、3歳になっても乳幼児の延長なんです。大きくなっても、ずっと赤ちゃんみたいな感じ。体や顔はだんだん変わるんですけど、でも動きはずっと幼児のまま」(父・市郎さん)

寺嶋さん自身も成長するにつれて周囲との違いをはっきりと自覚するようになります。

「お母さんに迷惑かけてばっかりで、生きてる意味がないんじゃないかなとか、自分で何もできないのに、生きてる意味ってなんだろうとか、そういうことを小さい頃にすごい考えました」(寺嶋さん)

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小学校の入学式に出席する寺嶋さん

ふさぎ込みがちだった彼女の心を変えたのは、両親や周囲の人たちの熱意でした。寺嶋さんは車いすの生活だったため、地元の小学校では「前例がない」として普通学級への進学を断られました。しかし両親は決してあきらめませんでした。

「どこの学校がいいかなという風に聞いたら、友だちと一緒の学校に行きたいと言ったものですから、そうなったらもう私たちは普通の学校に入れるために努力しようと思ったんですね」(母・美穂子さん)

両親は、受け入れてくれる小学校を直談判して探し当てました。さらに教育委員会に働きかけ、学校の階段に昇降機も取り付けてもらいました。ついに、寺嶋さんは無事に小学校に入学。はじめは車いす姿が珍しかった同級生たちも、次第にクラス移動や階段の上り下り、さらには車いすを押して登下校を手伝ってくれるようになったのです。

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小学生時代の寺嶋さん。校庭で車椅子を押してくれる友人と

「その都度、周りにいた人たちが手伝ってくれていたので、いつも周りにはすごくいい人がいたなと思います」(寺嶋さん)

寺嶋さんは地域の中学校・高校に進学。高校生の時にはバレーボール部のマネージャーにも挑戦し、母の付き添いの下で海外へのホームステイも経験。寺嶋さんはホームステイの経験を活かし、地元短大の英文学科に進学しました。充実した青春時代を過ごすことができたのです。

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大学2年の時、母とアメリカのホームステイ先を再訪問した時の写真

「どう生きるかは自分次第」支援者との出会いが人生を導いた

しかし、その間も病気の進行は続きました。短大を卒業する頃になると、手足はほとんど動かすことができなくなり、24時間のヘルパーの介助が必要となりました。周りの友達が就職する中、寺嶋さんは「就職は難しいだろう」とあきらめていたと言います。

その頃、寺嶋さんは地元・名古屋にある社会福祉法人「AJU自立の家」と出会います。AJUは重度障害者の仕事や暮らしの場の提供など、障害者の自立を目指す組織です。そこでは脳性麻痺の当事者などが作業所で働き、1人暮らしを目指した共同生活が行われていました。

両親の負担を減らし、自分も自立したいと考えていた寺嶋さんは、AJUでの暮らしを決意。パソコンの入力作業やホームページ制作などをしながら、初めて親元を離れて生活を始めました。ヘルパーへの依頼電話やスケジューリングなど、全て自分で行うルールだったため、初めて尽くしで困難の連続でしたが、生活時間を自身で設計できる自由も感じ、やりがいを見いだしていきました。

「かわいそうねって言われるけど、私は人生が、すごく楽しい。障害があってもなくても自分の人生をどうやって生きるかは、自分で決めることかなと思う」(寺嶋さん)

その後、東京の自立生活センターで3年間、同じように自立を目指す障害者の相談にのる仕事を始めた寺嶋さん。1人暮らしをしながら、自分の経験を活かして講演活動も始めていきました。

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一人暮らしを始めた頃の寺嶋さん。ヘルパーの介助を受ける

28歳の時、寺嶋さんは同じ法人内でヘルパーとして働く成人(しげひと)さんと出会います。寺嶋さんの意欲的な活動姿にひかれた成人さんが寺嶋さんに告白する形で交際がスタートしました。

「自分の中で波長というか、雰囲気とか、やっていることがすごいなとか、輝いて見えていました。」(成人さん)

いつしか互いを将来のパートナーと決め、二人暮らしを開始。寺嶋さんが31歳の時、成人さんとの間に妊娠がわかりました。寺嶋さんは付き合い始めた当初、妊娠も、その後の出産も難しいと成人さんに告げていました。しかし2人で一緒に暮らすうちに、お互いが自然と子どもが欲しいと思うようなったのです。

「(妊娠に)驚いたとは思いますけど、おーっと思って、でもうれしかった。私の障害で産む人ってそんなにいないかなと思うので、本当に産めるのかな、どうなんだろうなという。自分の中でも、やってみないとわからないという気持ちがありました」(寺嶋さん)

障害が妊娠・出産にどう影響するのか心配で、迷ったこともありました。しかし、少しでもチャンスがあるのなら挑戦したい。妊娠がわかり、2人は新たな命に大きな希望を寄せていきました。

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寺嶋さんと成人さん、互いの両親と共に顔合わせ

妊娠するも、医師の反対を受ける

2018年4月、寺嶋さんは地元の名古屋第二赤十字病院を受診。しかし、担当した産婦人科部長の加藤紀子医師からは「出産は難しいだろう」と告げられます。寺嶋さんの体重はわずか20キロ。背骨も大きく曲がっていたため、胎児が育つスペースは極度に小さく、成長するほど母体を圧迫して横隔膜が潰され、やがて呼吸ができなくなる可能性がありました。

「ご本人の強い希望には沿いたい。けれど、やはり妊娠をする事によって、お母さんの全身状態が今後、どんどん悪くなるかもしれない。妊娠の負荷をかけて、途中でこの人の命が危うくなったらどうしようという思いは、もう最初からありました」(産婦人科部長・加藤紀子医師)

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寺嶋さんの出産を担当した名古屋第二赤十字病院産婦人科部長の加藤紀子医師

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エコー写真。画像上部に写るのが胎児

寺嶋さんは大きなショックを覚えましたが、かつて成人までは生きられないと言われた彼女は、この時31歳。医師の見立てが全てではないと思ったと言います。

「できないことなんて山ほどあると思っています。でも今回の出産は、全然出来ないとは思えなかった」(寺嶋さん)

初診から2週間後、今度は両親も連れて病院を訪れた寺嶋さん。もう一度自分の気持ちを伝えました。しかし加藤医師からは「生まれる可能性は99%ないだろう」と前回よりも厳しい意見を告げられます。医師が調べた結果、国内でこの難病の患者が出産した例がなかったのです。両親も、命がけの出産には強く反対しました。

「階段が上れないとか、そういうレベルの問題じゃない。この出産には命がかかってる」(父・市郎さん)

「もしかして一生会えなくなってしまうというか、この子の命が奪われちゃうんじゃないかという思いがどんどん膨らみました」(母・美穂子さん)

しかし、寺嶋さんは「それでも産みたい」と言ってあきらめませんでした。

「私がおろしますと言ったら子どもの命は亡くなっちゃうわけじゃないですか。それはできなかった。」(寺嶋さん)

結局、この日、病院とも両親とも合意できないまま話し合いは終了。4日後、再び定期検診の日を迎えます。この時、寺嶋さんは妊娠10週。体の負担を考えれば、この時期での中絶がタイムリミットでした。いつも寺嶋さんに寄り添ってきた夫の成人さんも、妻と子ども、2つの命を左右する事態に大きな責任を感じるようになっていました。

そして、診察前の待合室で思い切った言葉を投げかけます。「俺がおろしてくれって言ったら、おろしてくれる?」

「本当にいろいろなことを思って発した言葉だと思います。本当に出産が難しいんだったら、そういうことも選択肢として最後にはあるかなという。」(成人さん)

支え合ってきた夫からの思いがけない言葉に、寺嶋さんの頭は真っ白になりました。

「自分も本当に極限状態だったなと思います。正解って何だろうって思いました」(寺嶋さん)

「先生、私はもうどうしたらいいのかわからなくなりました」
診察室に入った寺嶋さんは、涙を流し、初めて弱音を吐きました。「やっぱり出産は難しい」そう諭されてあきらめることになると思ったそうです。しかし加藤医師からは「あなたが本気で産みたいなら、あなたに寄り添うと決めました」と思いがけない言葉を告げられました。

実は、寺嶋さんのどうしても産みたいという強い気持ちに押され、どうにか妊娠継続の糸口がないかと探り続けていたのでした。出産のあらゆる可能性を探るため、出産を共に担当する新生児科や麻酔・集中治療科など、各科に寺嶋さんの出産を相談。病院内の医師や看護師、医療ソーシャルワーカーで構成される倫理コンサルテーションチームの会議にも相談を持ちかけた結果、本人がリスクを了承する前提で、妊娠継続への同意が得られました。このことが追い風となり、徐々に周りの医師たちからも、妊娠継続の協力を得られるようになったのです。

妊娠継続か否か、医師たちの葛藤と闘い

5月2日、寺嶋さん夫婦は病院側が作成した「症状説明書」にサインし、あらためて出産への挑戦を始めました。前例のない出産をどう乗り越えるか。加藤医師は、彼女に徹底的な検査と問診をして、体の状態を調べていくことにしました。その結果、寺嶋さんの難病の重症度が、最も重いⅠ型ではなく、Ⅱ型だと診断されます。発症当時、Ⅰ型と診断されていた寺嶋さんが、Ⅱ型だとわかったことで、海外では、この難病で出産した報告例も複数認められました。

さらにもう一つ妊娠継続を後押しする出来事が起こります。胎児が週数に比べて、小ぶりに成長していました。胎児が大きければ、脳や内臓などの機能が十分発達する前に流産するリスクが高かったのですが、小ぶりだったことで、寺嶋さんの狭いお腹の中でも長く胎児を保つことができたのです。

「何とか妊娠期間が延びていってくれたらと祈りながら、毎週の検診を見守っていました。」(新生児科・山田崇春医師)

しかし、それから2週間後、寺嶋さんが緊急外来に運び込まれたと加藤医師は連絡を受けました。妊娠21週目に入り、小ぶりながらも大きく成長した胎児が寺嶋さんの内臓や骨を圧迫して痛みが出始めていたのです。

「とにかく痛いのと、この痛みを今どうにかしてほしいっていう気持ちでした」(寺嶋さん)

この頃になると、寺嶋さんは自分で呼吸することが難しくなり、1日中、人工呼吸器をつけて生活するようになりました。加藤医師は大きな岐路に立たされます。実は法律上、妊娠21週までは母体を優先して中絶することもできたからです。

「この妊娠を継続してよいのかどうか。止めさせることができるのに、それをしなくてよいのかと思っているのが一番苦しい時期でした。」(加藤医師)

加藤医師は、再び寺嶋さんの体の状態を徹底的に検査。そのデータを元にチームの見解を求めました。その結果、体はまだ何とか持ちこたえることができそうな状態。そして寺嶋さん自身も、黙ってその痛みに耐えていたのです。彼女が痛いと言い続ければ、妊娠継続は難しいと判断したかもしれないと加藤医師は振り返ります。しかし、寺嶋さんの覚悟は、医師たちが思っていたよりもはるかに大きなものでした。彼女のその姿に加藤医師は21週を越えての妊娠継続を決定。本格的に出産を目指すという大きな決断でした。

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加藤医師と共に出産プロジェクトに参加した新生児科の山田崇春医師(左)と、麻酔・集中治療科の藤井智章医師(右)

胎児が母体を出ても救命率が90%以上になるのは24週以降とされていますが、その後の発達を考えれば27週まで妊娠することが必要でした。寺嶋さんが妊娠23週目(6か月)に入った時、加藤医師は寺嶋さんに入院を要請。新生児科の意見も参考にしながら、妊娠27週となる8月21日に、帝王切開手術を行うことを決めました。寺嶋さんは痛みと呼吸の苦しさの中、2週間の入院生活を耐えたのです。

「少しでも妊娠期間が長ければ、胎児の生存率が1日で3%上がるって先生が言っていたので、出来るだけ長くいければいいなと思いました」(寺嶋さん)

「千恵子には、たぶん、基本的に覚悟が出来てるんですよどっかに。だから、だからあれだけのことが出来るんです。親として、それを止める権利はない。本人の一生なので。それ以上のことに口を出す権利はないわけだよね」(父・市郎さん)

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寺嶋さんの入院時の写真

一つ一つの壁を乗り越えて迎えた出産の瞬間

しかし、出産にも大きな壁がありました。出産は帝王切開が予定されましたが、大きく曲がった寺嶋さんの背骨には、下半身麻酔のための注射を行う事ができなかったのです。そのため、代わりに全身麻酔が可能か検討されましたが、寺嶋さんの呼吸の力が極度に低下していたため、このままでは術後に人工呼吸器が外せなくなる可能性が高かったのです。

「何とか帝王切開できるような状況にはしなきゃいけないんですけれども肺の機能が著しく低下していました。」(麻酔集中治療科・藤井智章医師)

そこで麻酔を担当する藤井医師は、全身麻酔をかけて眠らせる前に気道確保することを提案。ただし、寺嶋さんの口があまり開かないため、鼻から人口呼吸用のチューブを挿入することとしました。それにはかなりの痛みを伴うことが予想されたため、なるべく寺嶋さんに負担をかけないように部分麻酔を行いながら管を通すことにしました。

そして迎えた出産当日。藤井医師が気道確保を始めました。寺嶋さんの喉の空間は極端に狭く、予想以上に難しい作業となりました。数分かけてわずかな空間に管を通し、ようやく気道を確保した藤井医師は、無事に全身麻酔に成功。命のバトンを受け取った産婦人科が帝王切開を始めました。そして10分後、寺嶋さんのお腹から無事に胎児を取り出すことに成功したのです。776グラムの赤ちゃんは、すぐにNICU(新生児集中治療室)に運ばれました。

「27週での出産でしたけど、週数相当に元気に泣いてくれて、元気な男の子だった」(新生児科・山田医師)

それから4時間後、寺嶋さんも無事に目を覚ましました。心配されていた呼吸も安心できる状態に回復。麻酔・集中治療科を含めたICUの看護師やスタッフなど、集中治療室の適切な処置のかいもあってのことでした。
最初に我が子と対面した成人さんは涙を浮かべて喜びました。

「言葉にできないっていうか、命が一つ産まれてきたっていうところで、本当に本当にすごいなって。頑張ってくれたなって思いましたね」(成人さん)

次の日、寺嶋さんはついに我が子との対面を果たしました。母親になった喜びは想像を超えるものだったと言います。

「すごくかわいかった。とにかくもう、ちょっとの動きがすごく、あー動いてる、生きてると思って」(寺嶋さん)

当初、寺嶋さんの出産を反対していた両親も満面の笑顔。

「こんなにたくさんの人たちが協力して、支えてここまで来てくれたんだって、すごくそれに感動しました」(母・美穂子さん)

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寺嶋さんと出産から3か月後の篤郎君

あれから2年がすぎ、息子の篤郎君は体重10キロにまで成長しました(2020年8月時点)。とてもわんぱくな男の子だそうです。

今回の出産ケースでは、幸い母体にも赤ちゃんにも大きな問題は生じませんでしたが、出産を担当した加藤医師は「重い病気があるなど、出産の困難が予想される人を全部受け入れますとは言い切れません。やはり客観的な情報を元に判断し、医療を提供していく姿勢が大事だ」と言います。

今、寺嶋さんは育児という人生の中でも最大の挑戦の日々を送っています。ヘルパーの力を借りながら、料理作りや散歩、寝かしつけの毎日です。

「加藤先生には、やるって決めてもらったときから、すごく本当に力になってもらったので。やっぱり周りのサポートっていうのがすごくいっぱい私にはあるので、支えてもらいながら、自分も周りの人たちに返せることは返しながら、篤郎を育てていけたらいいなって思います」(寺嶋さん)

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寺嶋さん、成人さん、篤郎君

※この記事は逆転人生 2020年11月16日放送「難病の女性が奇跡の出産 二つの命をめぐる決断」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
執筆者:八木下雄介(NHKディレクター)

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