NHK障害福祉賞をご存じでしょうか?障害のある人や、ともに歩む人が書いた手記を募るコンクールです。1966年に始まって55回、これまで累計約1万3千の応募作から、725点が受賞作に選ばれています。選考委員をつとめるノンフィクション作家の柳田邦男さんが「人間理解の宝庫」と言い、「こうした作品を読む理由が分からないという気持ちが分からない」とまで言い切るその魅力とは何か?番組作りを通してディレクターの私が「これだ!」と思ったことを記します。
ノンフィクション作家 柳田邦男さん(84歳)が障害福祉賞の選考委員になったのは1985年。選考委員が読むのは、毎年応募作から最終選考に残った20編ほどなので、合計およそ700編の手記を読み続けていることになります。700人の人生から、柳田さんは何を読み取ってきたのでしょうか?
去年、この賞を主催するNHK厚生文化事業団が創立60年の節目を迎えるにあたって、柳田さんが案内役となって過去の受賞作の作者を訪ね、戦後日本の福祉がたどってきた道を振り返る番組が企画され、私・川村雄次はディレクターとして制作に携わることになりました。
実は番組作りは、私が関わる1年前から始まっていました。柳田さんが福祉の歴史の年表を作り、それぞれの時代を象徴するキーワードと、代表的な手記を30数編選び出していたのです。打合せで示された細かな手書きのメモを見て、私は、柳田さんがこれらの手記の一編一編をどんなに大事に思っておられるかを感じ、身が引き締まる気持ちになったことを思い出します。
1985年から選考委員をつとめるノンフィクション作家 柳田邦男さん
私たちはその中から4つの手記を選び、作者と柳田さんに対話してもらうことにしました。柳田さんが最初から明確に言っていたのは、自分は作家だから、どうして手記を書いたのかとともに、書いた後どんな展開があったかに関心がある、ということでした。自己表現したことが新しいステップになり、人生が変わるはずだから、それを確かめたい、というのです。
柳田さんが障害福祉賞に35年関わった中で強い印象を受けた人としてあげたのが、2008年に優秀を受賞した天畠大輔さんでした。天畠さんの手記を読んだ印象について、今回の番組でこう語っています。
私はこの手記を読んで、「人間ってすごい!」、重い障害があっても、こんなにも独創的で豊かな生き方が出来るのだ、と驚きました。そういう生き方を可能にした条件は何なのか。
天畠さんは1981年生まれ。中学3年の時、体調を崩し入院した際、心臓が止まった状態のまま20分以上放置されたため、脳に大きなダメージを受けました。自力では全く動けず、声を出して話すこともできません。医師から「一生植物状態。知能も幼児段階まで低下している」と言われていました。しかし、知能は保たれていました。「ロックトインシンドローム(閉じ込め症候群)」と呼ばれる状態でした。頭の中ではさまざまなことを感じたり考えたりしているのだけれど、伝える方法がないため、わかってもらえない、まさに「閉じ込められたような状態」でした。
そこから天畠さんを救い出したのは、母親の万貴子さんでした。万貴子さんが見つけたコミュニケーション方法により、意思疎通を回復したのです。天畠さんが頭の中で思い浮かべている言葉を、一音ずつ探り当てていくもので、「あ・か・さ・た・な話法」と名づけられています。
この独自のコミュニケーション方法は、天畠さんのホームページではこのように解説されています。
介助者が私の手を持つ。介助者が「あ・か・さ・た・な・・・」と子音を言う。
私が伝えたい子音の所で手を引く。子音が決まる。
例えば「あ」で止まった場合、今度は介助者が「あ・い・う・え・お」と母音を言う。
「う」で止まったら、最初の言葉は「う」となる。
この繰り返しで会話していく。
(「天の畠|天畠大輔Official Site」より)
天畠さんはこの方法を駆使して大学に進学し、卒業論文を書き上げた経緯を手記に書き記していました。
天畠大輔さんと柳田邦男さん。2人は2008年に障害福祉賞の贈呈式で初めて会った
私の会話を読み取るためには、本当に根気がいります。私は人に自分の考えていることや、今の気持ちを少ない言葉でしか伝えることができません。しかし、聞いてくれる相手も、私の少ない言葉で、私のことを一生懸命にわかろうと努力してくれます。伝えたい気持ちと、わかりたいという気持ちが、うまくかみ合った瞬間は、とても心地よいものです。
(天畠大輔『「あ・か・さ・た・な」で大学に行く』)
天畠さん自身が書いているように、この方法はとても時間がかかります。そのため多くの場合、介助者は最初の数音を聴きとると、「予測変換」を行います。それは、単語や文だけでなく、ひとまとまりの文章になる場合もあります。その内容は、時にはユーモアを含んでいて人を笑わせ、時には社会への深い洞察を語っていることもあります。天畠さんの手記は、こうしたプロセスを経てつむぎだされたものだったのです。どうしてそういうことができるのだろう?本当に天畠さん自身の考えなのだろうか?と思う人もいるに違いありません。
なぜそれが出来るかについて、介助者の斎藤直子さんは、柳田さんにこう説明しています。天畠さんと日ごろから接していて、ふだん何を言っているか、今何を研究しているか、今までどういう文章を書いてきたか、5年、10年、10何年という「共有知識」の積み重ねがあるからなのだ、と。
天畠さんは、その後も「あ・か・さ・た・な話法」を駆使して大学院に進んで博士号をとり、研究者として生活し、社会に発信しています。博士論文のタイトルは、「『発話困難な重度身体障がい者』の新たな自己決定概念について――天畠大輔が『情報生産者』になる過程を通して」。自分自身を研究対象とする「当事者研究」の実践です。さらには自分同様に重度の障害者を支援するための一般社団法人も立ち上げて運営しています。
天畠さんの生活や活動は、実に独創的でクリエイティブです。そこに魅力を感じ、刺激を求めて、多くの人々が集まり支えています。天畠さんは24時間見守り介助がなければ命を保つことが出来ない不自由さをかかえていますが、「うらやましい」と感じる人も多いだろうと思うほどに、笑い声にあふれ、楽しそうです。
介助者とともに対話にのぞむ天畠さん
しかしそれでも、天畠さんは「ジレンマがある」と、柳田さんに問いかけます。新型コロナウイルスが爆発的に流行している状況で、生死に関わらない知的な活動や発信を介助者の手を借りて行うことについて、社会の理解が得られるだろうか?これに対して、柳田さんはこう答えました。
「当然です。だって、天畠さんの場合は表現する、伝える、人とコミュニケーションを取るということが、生きる上でご飯を食べること以上ぐらい、命を保つ上で大事なわけですね。意味のある人生を送るために不可欠なものですね。ですから、当然表現するために介助者が必要になるっていうことは、大事な要素だと思いますね」(柳田さん)
そして、天畠さんとの対話の終わりに、こう感想を述べました。
「今日、僕は普通のインタビューと同じスピードであえてしゃべっていたんですが、それがほとんど100パーセント伝わっているんで大変うれしいです。天畠さんの前頭葉の中ではものすごい知的な回転が行われているんだなということをビンビンに感じますね」(柳田さん)
天畠さんが発する声は「うー」とか「あー」とか言うだけで、それを言葉にしていくのは、介助者と柳田さんでした。天畠さんが発する声に刺激を受けて、介助者も柳田さんも前頭葉をフル回転させているのです。しかし、天畠さんという存在がなければ、そうした言葉は決して生まれません。
対話終了後の天畠さんと柳田さん
今回、天畠さんの取材をしながら、私は何度も「共同作業」という言葉を思い浮かべていました。柳田さんとのこの対話は、天畠さんと介助者の共同作業であると同時に、柳田さんとの共同作業でもありました。それは、天畠さん自身が論文に書いている言葉であり、現在の研究テーマでもあります。私が目にしていたのは、「足りない部分を補う」ことを超えて、「新しいものが生まれてくる」現場でした。それは「支援」の現場でもあるけれども、「共同作業」の現場でもありました。
柳田さんが「ビンビンに感じる」と言う感覚を、取材する私もともに感じていました。「ここに福祉社会が生まれている!」と。2015年に国連で議決されたSDGsは、「誰ひとり取り残さない持続可能でよりよい社会」を目標とすることをうたっていますが、それはまさに福祉社会であると言っていいと思います。そうした社会は、障害のある人との「共同作業」でなければ、絶対につくることが出来ない。福祉社会というのは、「障害のある人のために障害のない人が作るもの」ではなく、「障害のある人と障害のない人との共同作業によって作るもの」である。そんなことを当たり前のこととしてビンビン感じたのでした。
次に柳田さんが語り合ったのは、この番組や、この賞の目指すところを言い表しているような一文を含む手記を記した人です。
「文字の獲得は光の獲得でした」
この一文を記したのは、2002年に最優秀に選ばれた、藤野高明さんです。1938年、福岡に生まれた藤野さんは1946年、小学校2年の時、不発弾の爆発により両目と両手を奪われ、10年以上にわたって文字のない生活を送りました。指がなければ点字を読むこともできないと、盲学校に入ることも許されませんでした。教育委員会からは「就学免除」と言われました。本人は勉強したくて仕方がないのに、「勉強しなくていい」と言われたのです。その後も盲学校や職業補導所に「学びたい」と何度も言いに行くのですが、そのたびに、かなわない夢を捨てて現実を受け入れ、施設でおとなしく暮らすように諭されることが続いていたそうです。
点字タイプライターを打つ元教師 藤野高明さん(82歳)
そんな中で藤野さんは19歳の時、ふとしたことから、唇や舌で点字を読む人たちがいることを知り、自ら試してみたそうです。点字を刻んだ紙が、最初は単なるザラザラとしか感じられなかったのが、何日も練習するうちに、その中から文字が浮かびあがってくる。まさに文字を獲得したように思った、その喜びを表した言葉でした。
手記は、こう続きます。
私は、光を失った自らの世界に、一筋の光が差し込んでくるのを感じました。(中略)
私は猛然と学習意欲を感じました。それまで押さえつけられていたものが一気にふき出すように、勉強したい、友だちが欲しい、外へ出たい、みんなと一緒に何かをしたい、そういうもろもろもろの思いが心を焦がしました。
(藤野高明『人と時代にめぐまれて』)
その翌年、藤野さんは、大阪市立盲学校の中学部に20歳で入学。幾多の困難を乗り越えて、1973年に34歳で大阪市立盲学校高等部社会科の正教諭になり、1000人の若者たちに学ぶ喜びとあきらめずに生きることを教えました。
藤野さんは30年間盲学校の教壇に立ち、今もその経験を伝えている
障害福祉賞に応募したのは、盲学校を退職した2002年。
柳田さんはこの手記についてこう語っています。
「日本では戦後になっても長いこと、障害者に対する差別が当たり前のように行われていました。
障害があっても自分らしく生きようとすることは、差別や偏見との闘い抜きには考えられません。
その時、「言葉」がどんなに大きな力になるかを教えてくれています」(柳田さん)
私も、その通りだ、と思いました。しかし、この番組を作りながら、何度も考えたのは、ひょっとしたら藤野さんが経験したことを「差別だとは思わない」、という人もいるかもしれないな、ということでした。藤野さんの就学を拒んだ人たちに特別な悪意があったわけではなく、当時の常識に従って、「無理しない方があなたのためだ」と言っているのだから、と。「無理をして傷つくのはあなただし、高望みをしなければ、周囲と摩擦を起こさないし、みんな平穏無事に暮らせるのだから」と。
障害福祉賞に応募した藤野さんの手記
しかし、差別というのは、多くの場合そういうものです。他の多くの人たちが当たり前に行っていることを、「障害があるから無理」だと決めてしまって、「どうしたら出来るか」を考えないこと。結果として、障害のある人は、勉強や仕事や楽しみごとなど、どんどんあきらめないといけなくなっていきます。
藤野さんの闘いは、「あきらめて生きる」ことを拒み、「前を向いて生きる」ことを求めるものでした。「無理ではない」ということを、自分の生き方によって立証することが差別との闘いで、その最大の武器は「文字」であり、「言葉」でした。
おそらく藤野さんは、何度も「無理かもしれない」と思ったに違いない。その都度、「いや、そうではない」と奮い立たせたのは、まさに「言葉」そのものだったでしょう。「文字の獲得は光の獲得でした」という思いが、藤野さんの一歩一歩を支えたのではないでしょうか。
藤野さんが手記につづったのは、まだ「障害者の権利」というような言葉になじみがなかった時代に、道なき道を切りひらいた個人の人生の軌跡であり、日本社会の軌跡でもありました。「権利」という言葉を獲得したところから、社会全体が次のステップに進んでいくのです。
番組ではさらに、発達障害のある子どもの散髪に取り組む赤松隆滋さん、自分自身の摂食障害の体験を記した竹口和香さんの手記を紹介しましたが、天畠さんも含め、「書くこと」がゴールではなく、次の一歩を踏み出す足場づくりになっていることを感じました。
番組は、『文字の獲得は光の獲得でした ~作家 柳田邦男が読む いのちの手記~』。2021年1月24日に放送しました。(2022年1月23日までNHKオンデマンドで配信しています。また、NHK厚生文化事業団の福祉ビデオライブラリーでDVDを無料で貸し出ししています。いずれもどなたでもご利用になれます。是非ご覧ください。
2020年12月に開かれた第55回NHK障害福祉賞贈呈式。受賞者はオンラインで参加した
障害福祉賞の贈呈式では毎回、柳田さんが選考委員を代表して、その年の受賞作から何を読み取ったか、ちょっとした講演をします。それを聴いていると、いま私たちが歴史の中のどこにいて、手記にどんな意味があるのかが見えてきます。
柳田さんは、36年間に読んできた700人分の人生が、ひとつの長い物語のように読んでいるのではないでしょうか。その大きな視野に立った深い読み取りを信頼して、柳田さんに読んでもらおうと、多くの人たちが手記を書く。賞というのも、書く人と選考委員との共同作業なのだなあ、と思うのです。そしてまた、そうして選ばれた作品を読む人との共同作業でもある。それによって何を目指すかというと、やはり福祉社会づくりなのではないか。それを人間の血と心の通ったものにするために、読むことによって参加しているのではないか。
最後に、取材を通して私が感じた障害福祉賞の魅力について記します。ひとことで言うと、「参加感がある」ということです。自己完結した作品をただ読んでいるというよりは、共同作業に参加している感じがする。最初は自分自身に関わりのないことのように思って読んでいても、同時代に同じ社会の中で生きている人の経験だから、ビンビン感じるポイントがあり、いつしか引き込まれ、自分自身の「いま」とつながってくる。
そんなことを思いました。
障害福祉賞の入選作品集
※この記事はハートネットTV 2021年5月5日放送「文字の獲得は光の獲得でした ~両目と両手を失って~」および2021年1月24日放送の「文字の獲得は光の獲得でした ~作家 柳田邦男が読む いのちの手記~」の取材内容を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。
※「文字の獲得は光の獲得でした ~作家 柳田邦男が読む いのちの手記~」が6月19日(土)午後2時より再放送されます。(Eテレ) くわしくはこちら。
執筆者:川村雄次(NHKディレクター)