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【特集】消えない不安 原発事故10年・置き去りのままの障害者

記事公開日:2021年04月08日

東京電力福島第一原子力発電所の事故により避難を余儀なくされた福島県双葉郡。震災から10年を経ても、生活に必要な小売店や公共交通機関、そして障害者を支える福祉サービスや医療も不十分なままです。
早川千枝子さんは事故から4年半後に避難指示が解除された双葉郡楢葉町へいち早く戻り、障害者を支援する施設を開所させました。双葉郡の障害者は「置き去り」にされたままだという早川さんに、その状況と要望を聞きました。

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原発事故から10年経ってなお、帰還困難区域が広がる双葉郡の地図。赤い部分は帰還困難区域。令和2年3月10日時点

あの日から突如変わった障害者の暮らし

ハートネットTVは、被災後の福島の障害者の暮らしについて取材を続けています。その中で、2016年に楢葉町に障害者の支援施設を再開させた早川千枝子さんの活動も、当初から取り上げてきました。5年半経った早川さんの活動について、改めて伺います。

―早川さんが施設を立ち上げた当初と今では、活動に変化はありますか。

早川:帰還した直後は、ここに一人しか通っていませんでしたね。あれから、徐々に人数が増えて現在は約20名の障害者が通う就労継続支援B型事業所「ふたばの里」を運営しています。元々小物を作りバザーで販売していましたが、コロナ禍で仕事が減ってしまい、現在は、マスクを作って県外の支援者に送ったり、段ボールや古紙を回収し、再生紙を作る会社に持ち込むことで利益を得ています。
帰ってきた人や企業の数も限られているので、その中でどんな仕事のニーズがあるかを日々、みんなで話しています。年数は立ちましたが、環境は大きく変わりません。

―そもそも、早川さんは原発事故前には、楢葉町でどのような生活を送っていらっしゃいましたか?

早川:原発事故前は、楢葉町で障害者の日中の活動をサポートする通所施設を運営していて、およそ80名の障害者と関わっていました。毎日、本当に賑やかでした。みんなで歌を歌ったり、みんなで外食に出かけたり、思い出がたくさんあります。
10年前の原発事故は思ってもみないことでした。すぐに戻れるだろうという感覚でしたので、着の身着のまま避難しました。当時、ともに避難した障害者たちも、薬を数日分しか持っていなかったり、お薬手帳を持っていなかったりと、同じような気持ちだったと思います。私は約10名ほどの障害者たちとともに体育館や仮設住宅型グループホームを転々としました。しかし、1か月経ち、2か月経ち、時間が経つうちに、避難先の環境に馴染めず、体調を崩す人が次々増えてきました。
避難先の病院で処方された薬が合わず、アレルギー反応が起きて命を落としてしまったり、病状が悪化し、入院してそのまま亡くなったり、中には将来に希望を見いだせず、自ら命を絶つ人もいました。本当にショックでした。何か自分ができることがあったかもしれないと何度も思い詰めました。今でも亡くなった障害者の名前を書いたメモを手元に置いてます。原発事故がなかったら、亡くなることはなかったであろう人たちの名前です。忘れてはいけません。それくらい、障害者にとって新しい環境で馴染むことはとても大変なのです。

自助、そして共助で一から築いた帰還後の生活

早川:原発事故から4年半後、ようやく避難指示が解除され、すぐに戻ろうと思いました。故郷を追い出され、避難を余儀なくされた障害者が故郷で安心して暮らせるよう、手伝いをしたいと思いました。もちろん、私も故郷で暮らしたいと思っていましたから、戻りたいと思うのは自然でした。
しかし、「帰還」といっても、住民は、お店や企業、公共交通機関などの社会資源が十分でない楢葉町にすぐに戻ってくるわけではありません。また、一人暮らしをすることが難しい障害者が暮らせるような施設やグループホームなどの福祉サービスも乏しかったです。「帰還」の選択は、障害者にとってハードルが高く、不安だったと思います。

しかし、それでも故郷に帰る選択をする障害者もぽつぽつ見え始めました。施設はないので、初めて一人暮らしをする人もいました。まずはその人が何でも自分でできるようになるため、生活のお手伝いをすることから始めました。料理教室を開き、一緒に料理を作ったり、買い物の手伝いをしたり。そして、徐々に暮らしが落ち着いたら、就労ができるような作業所を立ち上げ、日中活動できるような仕事を地元で探してきました。障害者とともに、一から生活を築き上げました。

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地域のスーパーで段ボールなどを回収する仕事をする早川さんたち

10年経ってもなお、変わらない生活の不安

―震災時、避難を余儀なくされたのにもかかわらず、帰ってきたときの生活は、障害者の努力や工夫に委ねられたことに違和感を抱きます。帰還して5年半経ちましたが、現在の生活にも影響はあるのでしょうか?

早川:帰還から5年半経っても、まだまだ自助と共助では立ち行かないところもあります。

まず、生活に欠かせない雑品を購入できるお店の種類が少ないです。特に今、衣類関連を買えるようなお店が楢葉町にほとんどないので、洋服や下着が欲しい場合は隣町に移動しないといけません。しかし公共交通機関も乏しい楢葉町では、移動は簡単ではありません。
どうしても買いたいものがある場合は、タクシーを利用したり、私たちが仕事の合間に買い物に連れて行ったりしています。

そして、福祉に従事する人が少ないです。ヘルパーの事業所も現在、ふたつしかありません。
ある老人ホームでも、職員が少なく、ベッド数の限界までは高齢者を受け入れられないそうです。帰ってきた人のほとんどが障害者や高齢者になった楢葉町では、今後、最期まで故郷で過ごすことができるのか、不安の声を挙げる人もいます。

まだこの町は、震災前の人口の約8割しか戻っていません。現在の人口には、原発の廃炉作業をする作業員の方なども含まれているので、元々いた住民の方が、どれほど住んでいるかはわかりません。スーパーにいても、顔見知りと会う機会は少なく、故郷だけど、別の場所のように感じてしまいます。一人暮らしをしている障害者にとっては、周りに住む人が少ないことで、災害が起きた時のことが気になります。また、改めて地域で一から人間関係を築いていくことは、とても労力と時間がかかります。

―医療の面で不安はありますか。

精神科医療に関しては、双葉郡と南相馬市合わせて、かつては精神科病院が5つありました。しかし、そのほとんどが閉鎖されており、今は小規模の診療所が開所しているだけです。
精神障害がある人にとって、精神状態の変化を長い目で診てもらうことが、心の安定につながります。現在は以前避難していたいわき市などへ1時間ほどかけて通い、避難当時からの医師に継続して診てもらっているケースが多いです。医師や薬を変えることは、障害者にとって大きな不安になります。しかし、何か病状に変化が出た時に、近くに馴染みの病院がないのは不安です。

大きな体育館や立派な公民館が建ち始めましたが、私たちの生活は、なかなか不便なことが多いのが現状です。「復興」という言葉が先走り、障害者や高齢者の生活は取り残されているように感じます。

双葉郡で障害者が暮らすために求めること

―今後、避難指示が解除された故郷で障害者が生きるためにはどのようなことを求めますか?

早川:制度や仕組み、枠にとらわれない、人に寄り添った支援が必要だと思います。帰還した障害者は、社会資源も足りていないこの町で、一から生活を築き上げました。今後もそれは同じですが、制度や枠にとらわれない支援は行政にも求めたいです。
そして、今の生活は人と人とのつながりで、なんとかギリギリ保っていますが、将来この町でどれだけ生きられるのか、また故郷を追い出されなければならないのか、そういう不安が常にあります。障害者を支えるヘルパーの数も足りていないですし、在宅で患者を診られる医師や医療機関もほとんどありません。

新たな支援などを行政にお願いしても、「全国の制度でみるとできない」「この仕組みやルールがあるからできない」と断られることが多いです。そうではなく、原発事故で一時住民が誰もいなくなったこの町で暮らしていくためには、ルールに縛られていては障害者の暮らしはよくなりません。楢葉町に帰還した人のほとんどが、高齢者と障害者です。私たちの生活を本気で見つめようとしてくれている人はいないでしょう。

原発事故当時、68歳だった私も、もう78歳になりました。この10年を返してほしいと何度も思いました。今までの故郷とまるっきり変わってしまった故郷で、また再びみんなと笑える日々を大切にするためにも、今できることを頑張っていくしかないです。

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ふたばの里の前で語る早川さん

故郷での穏やかな暮らしを奪われた避難生活。それでも故郷にもう一度戻りたいと、何もないところから生活を構築してきた早川さんたち。自力で築き上げてきた生活の尊さを感じる一方で、それがいつ壊れてもおかしくない脆さも感じます。そして、再び故郷を追い出されるのではないかという不安を10年経っても拭い去ることができないことに、双葉郡の障害者が強いられる暮らしづらさが変わっていないことを感じさせられました。
この不安を当事者、早川さんたち支援者、そして双葉郡の行政だけが抱え、悩んでいることが果たして「復興」と呼べるのか。早川さんや支えている障害者たちの生活が置き去りになっているように思います。早川さんたちにとって、10年はただの数字に過ぎません。当時、福島の電力に頼って暮らしていた人間として、これからも故郷で暮らす早川さんたちの生活は他人事にしてはいけないと思います。

※この記事はハートネットTV 2021年3月10日放送「ゆらぎ続けて、なお~原発被災地 精神障害者の日々~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

執筆者:福田紗友里(NHKディレクター)

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