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自分ひとりで生きようとしない ~両目と両手を失った元教師の言葉より~

記事公開日:2021年04月06日

障害のある人や、ともに歩む人の手記のコンクール「NHK障害福祉賞」。2002年に最優秀賞を受賞した元教師 藤野高明さん(82)は、目が見えず、手がありません。手記に書いたのは、二重の障害を持ちながら教師を目指し、次々と行く手をさえぎる差別・偏見と闘い、夢をかなえた苦闘の半生です。ですが、そのタイトルは、「人と時代に恵まれて」と、明るい。この明るさはどこから来るのでしょう?また、長年選考委員をつとめる作家・柳田邦男さんがひときわ印象深く記憶する言葉「文字の獲得は光の獲得でした」はどうして生まれたのでしょう?30年にわたって教壇に立ち、軽妙な「藤野節」の語りで、多くの若者たちに生きる希望を伝えてきた熱い思いを聴きました。

※差別に関する表現は、藤野さんの実体験を伝えるため、ご本人の証言を使用しています。

不発弾爆発から始まる闇の時代

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手記

――藤野さんの手記でひときわ印象に残るのが「文字の獲得は光の獲得でした」という言葉です。この言葉はどうして生まれたのですか?

藤野:私は1938年、福岡の生まれで、戦争の終わった翌年の1946年、小学2年生の時、不発爆弾の事故で両眼の視力をなくしただけでなく、両手もなくしてしまい、ずっと学校に行けてませんでした。ずっと家にいて、悶々とする日々だったんです。
体も心も普通に成長もしながら学校に行けない自分がどこで持ちこたえていたかというと、いつかは目の手術をして見えるようになる、そういう日が来るだろうという、淡い夢を持っていたんです。それにすがっていたんですけど、17~18歳のころ主治医から、「もう見えるようにならない」と言われて、そこからすごく落ち込んだのです。

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藤野さんと弟の正明さん。正明さんは不発弾の爆発で即死した

藤野:私は15歳で父をがんで亡くしていて、母子家庭でした。母親が私たち5人兄弟を一生懸命育てているのを見ていました。どうしたらいいか分からないときにね、ハンセン病の人が舌だとか唇で点字を読むって聞いたんです。
最初はうそだと思ったんですね。全然私には実感がなかったんですけど、よく聞いてみると、本当にそういう人がいることを知りました。それで点字を唇で読む練習をして、読めるようになったときに、本当に真っ暗い暗闇の世界に光が差し込んでくるような、そういう気持ちがしたんです。文字を覚えたら、何かができるかもしれない。ひょっとしたら学校に行けるようになるかもしれない。いわば社会に戻れるのではないかという気持ちがしたんですね。そういう気持ちだったですね。

「人と時代に恵まれて」にこめた思い

――過酷な人生なのに、どうして手記を「人と時代に恵まれて」というタイトルにされたのですか?

藤野:『人と時代に恵まれて』というのは自分で付けた題ですけど、本当にそう思ったんですね。「時代に恵まれた」というのは、もし戦争中だったら、私たちのような障害のある人たちは役に立たないし、非常に肩身の狭い思いを先輩たちがしてきたのは知ってますから、もし時代が違っていたら学校にも行けなかったし、教職にも就けなかっただろうと思いますからね。
戦争が終わっていろいろ紆余曲折はあったけれども、だんだん人間を大事にする、人権を大事にする、平和を大事にする、そういう時代に恵まれたっていうのが1つです。

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藤野さんと母

――では、「人に恵まれて」とは?

藤野:一番は、やっぱり親に恵まれたんだと思いますね。というのは、7歳、小学2年生の子どもが、さっきまで見えてて、手もあったのに、それがなくなってしまったときに、父や母はどんな思いだったか。そして、動いたらぶつかるし、落ちるし。学校には行けなくなるし、近所の子どもたちは、みんなどんどん賢くなっていってるのに、取り残されていっている。
そういう状況の中で父も母も明るかったし、一生懸命働いて、生活は苦しかったと思いますけど、そういうやさしい親がいて兄弟がいて、目は見えないけれどもね、普通にご飯が食べられて、ラジオが聴けて、本も読んでもらってという。まず親に恵まれたと思いますね。

一人の看護師と一冊の本との出会い

藤野:私は目の手術のために15歳から20歳まで入院したんですけど、18歳の時、主治医から「もう藤野さんの目は自分の手には負えない」と言われて目標をなくし、自暴自棄になっていました。そのときに、私より3歳年上の熊本敏子さんという看護学生がいて、その人が病室に来て話をしている中で、「私、藤野さんにできること、何かある?」と言ったんです。「本を読んでほしい」っていったら、その人が持ってきて読んでくれたのが、北條民雄の『いのちの初夜』だったんです。
「面白くないと思うけど」と彼女が言うから、それなりに覚悟して読んでもらってたんですけど、確かに面白くはないけれども、なんかすごく引き付けられて、一気に読んでもらって。

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前列左端が藤野さん、その後ろ(3列目)が熊本さん

藤野:1人の青年がハンセン病を告知されて、生きる希望をなくして、国立療養所に重いトランクを持って歩いていくところから始まるんですよね。その箇所から始まってね、だんだん物語が深くなっていくにつれて、ますます面白くなくなるんですよ。深刻でしんどいし。
それでもね、面白くないけど、興味と関心は本当に水のように湧いてくるんですよ。だから、この次また読んでもらうのが楽しみで、長い時間は読めないから、夜ですし、患者さんたちも寝ないといけないからちょっとずつ読んでもらったんです。「藤野さん、続きは明日、あさって読むね」とか言って。それがね、面白くないのに待ち遠しいっていうことあるんですね。

それを読んでもらって、私は、「世の中にはすごい不幸があるんやなあ。私がけがをして、弟が死んで、私のような障害を持つということも人生にはあり得ることやな」と思ったんです。なんかそれから心が荒れなくなりましたね。荒れなくなるというか、荒れそうになる心を鎮めるんです。

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北條民雄著「いのちの初夜」

――『いのちの初夜』をきっかけにハンセン病の人たちに関心を持つようになり、病気のために視力や指を失った人たちが、舌や唇を使って点字を読んでいることを知ったのですね?

藤野:最初はね、私も18歳の若者でしたから、どちらかというとかっこよくありたいと思ってたんですね。ですが、舌で点字を読むなどというのは非常に普通でない読み方ですし、本がつばで傷んで、自分も他の人ももう読めなくなる、そういう読み方があると知ったときに、非常に感動すると同時に、これは自分とは無縁だと、私はハンセン病ではないし、そういう生き方をしなくてもいいのんと違うかなあと。だから、別世界のことであってほしいという、正直言うとね、そういう相反する2つの気持ちがありました。

私は、「本を読みたい。人間の作った文化を学びたい」という気持ちが非常に強かったのですけど、自分が唇で点字を読み始めたら、ハンセン病の人たちが舌先でなめるようにして本を読む、本当になりふり構わないで生きる、そういうエネルギーが自分に乗り移るというか、「私もそうありたい、彼らのように生きたいなあ」と思うようになりました。なんか吹っ切れたというか、かっこよく生きるんじゃなくって、しっかり生きたいと。せっかく生まれてきたんやし、生きるということにもっとまじめにならないかんというか、かっこよく生きようなんて思ったらあかんというふうに感じたんですね。

教師になるまでの苦難の道

――点字と出会った翌年、大阪市立盲学校中学部に入学。人生が変わりましたか?

藤野:7歳でけがをして20歳まで13年間、私は学校に行けない「不就学の時代」を送りました。本当に暗黒の、しんどい時代だったんですね。
20歳のときから大阪市立盲学校で5年間勉強しました。そのときに私が感じたのは、「どうして13年間学校に行けなかったのかなあ。こんなに盲学校って楽しいし、勉強もできるのに、これまで盲学校に入れなかったっていうのはね、盲学校の先生たちがさぼってたんちゃうか」ということでした。20歳ちょっと過ぎですからちょっと生意気にね、そういうことを思ったりして、「もう二度と、そういう障害が重いために学校に行けない子どもたちを作ってはいけないなあ」という気負った気持ちもあったし、自分の希望がだんだんと社会科の先生になりたいなあというね、気持ちになっていきました。

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大阪市立盲学校入学のころ

教師を志すようになった藤野さんですが、次々に壁が現れます。

藤野さんが大阪市立盲学校を卒業したのは1964(昭和39)年、25歳の時でしたが、当時は、視覚障害者が大学で学ぶことすら珍しい時代でした。二重の障害のある藤野さんは4つの大学に受験そのものを断られ、翌年、東京の私立大学の通信制に障害を隠して入学することにしました。そこでまた壁が現れました。藤野さんが目指す高校社会科の教員免許をとるためには、どうしても大学に行って授業を受ける必要があったのです。藤野さんの障害について知った大学職員に何度も学業をあきらめるように説得されました。

1971(昭和46)年に大学を卒業し、教員免許をとりましたが、さらなる壁が立ちはだかっていました。当時の公立学校の教員採用試験は全盲の人が受けることを全く想定していなかったのです。藤野さんは1年かけて教育委員会と交渉し、点字受験が出来ることになり、6倍の競争率を突破し、合格しました。ところが、「欠員がない」として採用してもらえず、非常勤講師として働くことを求められました。当時としては極めて例外的なことでした。正教諭としての採用を求める藤野さんに対し、翌年、教育委員会は「採用試験の期限が切れた」として、再度採用試験を受けることを課しました。藤野さんは2度目の試験にも合格し、1973(昭和48)年、34歳で正教諭として採用され、2002(平成14)年まで、母校の大阪市立盲学校(現 大阪府立大阪北視覚支援学校)で教えました。

手記に書かなかったこと

――藤野さんがNHK障害福祉賞のために手記を書いたのは2002年、30年間務めた盲学校を退職した年ですね。「人と時代に恵まれて」というタイトルからは順風満帆な人生を思い浮かべる人も多いと思いますが、手記に書かなかったこともありますか。

藤野:人間にはね、思い出したくもないことっていうのはいっぱいあるんですよ。思い出したくもないことっていうのは、文章にして残したくなかったんですね。

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唇で点字を読む

藤野:普通に考えたら順風満帆なはずがないでしょ。この間まで目が見えてて、手があった普通の子どもが、一瞬の不発爆弾の爆発で視力を失い、手指をなくし。で、弟はさっきまで元気でごはん食べとったのに5歳で死んでしまった。
私は子どもでしたから、絶望感なんていうのはあんまり感じないんですよね。ただ、もう真っ暗になって見えなくなって、手が使えず何もできないから、ずいぶん戸惑いました。どうして見えなくなったんやろと。どうして手がなくなったんやろうと。で、友達はどんどん勉強して賢くなっていくでしょ。私はずっと小学校2年生のまま。
大人はよく子どもに、何年生って聞くでしょ。「小学2年生から行ってないんですよ」と母親が事情を説明するんですけど、初めての人は「何年生になる?」っていう。そういうのがね、すごく苦しかった。

昔の家屋は、朝起きたら裏の戸も縁側も開け、玄関も開けて、風通しよかったし、近所づきあいもオープンでしたから、子どもたちはよく遊びに来て、縁側で本読んでくれたり、今勉強してることを教えてくれたりしていました。ところが、だんだんみんな賢くなっていくし、勉強も進んでいくし、私はついていけなくなってきた。
で、子どもはよくけんかしますから。けんかしたらね、めくらとか手なしとか言うんです。で、子どもってよくじゃんけんするでしょ。鬼ごっこするにしても、何をするにしても。で、その友達が「手がなかったらじゃんけんもできないやないか。グーしか出されへんやないか。悔しかったらパーとかチョキとか出してみい」って言ったんです。それがもう悔しくってね。ばかにされたっていうか、足蹴にされるよりつらかったですね。普通は仲良しやったのに、そう言われて、彼の家の前で首吊って死んだろうかと思ったことがありました。

子どもって直情的ですから、思い詰めると本当にしかねないですよ。私もまじめに思うとったんで、小さな縄を用意して、ポケットに入れとったんですよ。で、母親がこれを見つけてね。「これ、何のためにこんなん入れとお」って言うから、「いや、何もないよ」って。
で、母親が「なんかあんた変なこと考えとっちゃないとお」と言うから、「いや、変なこと考えとらんよ」とか言うとったら、母親がこれはおかしいと思って、いろいろ聞かれたんです。で、私も子どもやから、もう泣き始めて。母親からものすごく怒られたね、あのときは。母親も泣きながらね、なんか「あんた、ばかやねえ。そういうのをね、犬死にというとよ」っていうてね、死んでも何にもならん言われてね、あのときはね、本当に反省しましたね。

自分ひとりで生きようとしないこと

――では、この手記で一番伝えたかったことは何ですか?

藤野:私は30年間、盲学校で教員をしてきて、視覚障害を持った子どもたちや、視覚障害に途中からなった人たちをいっぱい知ってきました。もともと自衛隊員やタクシーの運転手、レントゲン技師などをしていた人たちが途中から見えなくなって盲学校に来るにはね、2年とか3年とか時間がかかるんです。

視力を失うと、仕事を失うし、家庭が破壊される場合もある。それでも盲学校に来て勉強して、新しく人生をやり直そうという人たちもいる。また、ちっちゃいときから目が見えない人もいる。目が見えないだけでなく知的障害を持った人たちもいる。
そういう、私と同じ視覚障害という障害を持ちながら、さまざまな苦しみや差別に置かれてきた人たちに一番伝えたかったのは、あきらめないでほしいということやね。「あきらめない」っていうことと、「自分ひとりで生きようとしない」こと。大いに助けてくれる人には助けてもらう。助けてもらうことはちっとも恥ずかしいことではないし、うんと助けてもらったらいい。
そして、しっかり勉強してしっかり生きれば、助けてくれた人にとってはそれだけでいいお返しになるっていうことやね。だから、どんな状況の中でもあきらめないで人生を捨てないで、生きてほしい。それを伝えたかったんですね。

あきらめないでしっかり生きるためには何が必要かっていうと、一つはやっぱり、人の助けを、ちゃんとまともに受け入れる素直さとか、そういうのは必要と違うかなと思ったんですね。

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教師を目指す大学生に講義する藤野さん

それともう一つは、時代ですね。社会の問題、政治の問題。平和も福祉も天から降ってきませんから、困ったことがあったら必ず声に出し、言葉にして伝え、一緒に戦ってくれる人がいたら一緒にやる。障害者が働く状況とか権利とか生活とか、そういうのは天から降ってくるものではないから、やっぱり当事者が声を出して団結して頑張らなあかんの違うかと、私はずっと思ってきたんです。自分もそれを実行してきたから、生徒たちにも、後に続く人たちにも、政治にはうんと関心を持ちなさいと言ってきましたね。

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将棋を楽しむ藤野さん

藤野高明さんプロフィール
1938年12月、福岡市生まれ。
1946年7月、小学2年の時、不発弾爆発により両眼両手首を失う。
1959年4月、大阪市立盲学校中等部2年に編入。
1971年3月、日本大学通信教育部卒業。
1972年4月、大阪市立盲学校高等部時間講師。
1973年9月、同校教諭。
2002年3月、大阪市立盲学校退職。
2002年12月、第37回NHK障害福祉賞受賞。

※この記事はハートネットTV 2021年5月5日放送「文字の獲得は光の獲得でした 両目と両手を失って」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

※藤野高明さんの手記全文は、こちらで読めます。(NHK厚生文化事業団 ※NHKサイトを離れます)

※作家・柳田邦男さんが藤野高明さんを訪ねた番組「文字の獲得は光の獲得でした ~作家 柳田邦男が読む いのちの手記~」が再放送されます。6月19日(土)午後2時から、Eテレにて。 くわしくはこちら。

執筆者:川村雄次(NHKディレクター)

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