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「扉の向こう側で」近藤彩さん
第55回NHK障害福祉賞・優秀

記事公開日:2020年12月09日

統合失調症を発症しても、希望を失うことなく歩み続ける道を照らしてくれる三つの大切なこと。そして、同じ辛さをかかえる人たちへのメッセージとは――。
今年度のNHK障害福祉賞、第1部門は「障害のあるご本人」からの作品です。
優秀賞を受賞した近藤彩さんの「扉の向こう側で」には、統合失調症の発症後、地域で幸せに生きられることを証明しようと、懸命に生きてきた日々が書かれています。周囲に支えられながら大学を卒業し、図書館に勤務。結婚や出産も経験してきました。次なる目標は、精神的・経済的な自立だといいます。


「扉の向こう側で」 近藤 彩


「二度とこの場所に戻らないような人生を送る」

精神科入院病棟の扉が閉まり、退院を見送ってくれたスタッフや患者さんの姿が見えなくなった瞬間、私はこの誓いを胸に刻んだ。売店にお菓子を買いに行くだけでも、他の患者さんと腰元の紐(ひも)で結ばれ、スタッフの監視下で行かなければならないような生活。あの人はこんな理由で入院した、あの人はこんな病状でここへ来た、と、噂(うわさ)好きな患者さんが皆へ広めて回るような生活。共用の冷蔵庫の飲み物を、またあの人が勝手に飲んだ、と、くだらないことが大ごとになるような生活……。もうそんな入院生活を送るのだけは嫌だ。この誓いどおり、私は発症当時の三か月の入院だけで、もう精神科病棟に入院することはなかった。外来の通院だけで十八年の時が過ぎようとしている。しかし、今でも潤んだ寂しそうな瞳で私を見送ってくれた、入院歴の長い患者さんを覚えている。私が今この文章を書くことが、その患者さんのような方々に、エールとなって届くことを、心から願っている。

私は、統合失調症という精神疾患だと診断されている。しかし、明るさや前向きさや希望を完全に失ったことはない、と言っても過言ではない。世間の精神疾患患者のイメージは、暗いものかもしれないが、本来のその人が暗いわけではないのだ。しかし、忘れてはならないのは、精神疾患だと診断されているという事実が、自分の足を何度となく引っ張り、自信を失わせた、ということだ。病状が安定しても、自分が精神障害者だというレッテルが、私の歩みを止めようとした。そのレッテルに打ち勝つこと。そのことが、発症してからの人生の一大テーマであったと言える。大学受験生の頃発症し、入院。二度と入院はしない、と誓って退院してから、大学に進学し、不調と闘いながら卒業。デイケアでの二年間。たくさんの困難を経験しながら、一歩一歩成長している現在までの就労生活。結婚、出産。子育て、家事と就労との両立。夫に障害を理解してもらいながら、パートナーシップを築くこと……様々な課題に常に向き合って、常に挑戦して、今まで生きてきた。精神障害者だから、と諦めることを一番恐れていた。まだ地域社会で精神障害者が暮らす体制が当たり前ではなかった時代、ある入院患者さんが退院前日に自殺した、という事件を本で読んだことがある。そんなことはあってはならない、私がまず、生きてやる。私がまず、証明してやる。精神障害者でも、地域社会でちゃんと生きられることを。一人の女性として、一人の人間として、幸せに生きられることを。人生を全うできることを。もう入院しない、という誓いは、その思いと繋(つな)がっていた。その思いが私を突き動かしていた。その思いが、今までの私の人生そのものだった。

決して一筋縄ではいかない人生だった。大学の四年間は、関東での一人暮らしをしながら、不調を騙(だま)し騙し生活をしていた。幸い、大学生の生活パターンは自分に合っていた。最初の二年間は、単位を取得するのに苦戦したが、後半の二年間は、興味のある分野の卒業研究をマイペースで行うことができた。昼近くまで起きない日もたくさんあった。やる気が起きず、自炊できない日は、アパートの近くの中華料理屋さんの三百八十円の餃子定食ばかりを食べていた。自分の心と身体を、できるだけ休ませながら、少しずつコツコツと課題に取り組む日々だった。焦りや、スマートにできない自分を責める気持ちが出てくることもあった。しかし、退院したばかりなのに、東北から関東に出させてくれた両親が、何度も何度も様子を見に上京してくれて、両親と東京の観光スポットや美味しい食べ物屋さんに行けることが励みだった。東北とは違う雰囲気の華やかな都会の空気が、苦しい日々を払拭してくれた。何とか大学は卒業することができたが、就職活動という壁が立ちはだかった。どこかで就職を諦める投げやりな気持ちがあったことは、否めない。新宿の百貨店の契約社員として、採用されたものの、毎日新宿の人混みにもまれて通勤することができず、数か月で辞職してしまう。帰郷することを決めた。帰郷したばかりの半年間は、関東での一人暮らしや大学生活、就労生活の疲労が蓄積していたのか、鬱(うつ)状態で思うように動けなかった。真夏の蒸し暑い部屋で、クーラーのエアコンを調節することも面倒で、ただただベッドに横になり、じっとしていたことを思い出す。「これからどうしていこう」何度も反芻(はんすう)する言葉に、すぐ答えは見出せなかった。
悶々としていたある日、ただベッドに横になっていた私は、ふと、「それでも人の輪の中に入りたい。その中で生きていきたい」と思った。その思いが原点となり、二年間、通院していた精神科のデイケアへ通所することになった。デイケアで出会った、同じ病名であったり、似たような病状を持った人々は、傷つきやすくて、繊細だったが、心根が優しく、癒される雰囲気を持つ人が多かった。人懐っこく、私のことも慕ってくれた。デイケアでの生活で、一番楽しかったのは、歌好きのメンバーでカラオケをすることである。各々が十八番を歌うのだが、その十八番がまさしくその人の人柄や、人生観を垣間見せるかのような選曲だった。ある人は島倉千代子の「人生いろいろ」。ある人は大滝詠一の「幸せな結末」。ある人は浜崎あゆみの「SEASONS」……。その人を表すかのような歌を聴かせてもらい、涙ぐみながら、私も十八番の中島みゆき「糸」やテレサテンの「別れの予感」を熱唱した。デイケア生活で、すっかり癒しをもらった私は、また人生を立て直そう、と意欲を持つことができた。読書が好きだったので、図書館に勤務しようと、求人に応募した。県立高校の図書館事務補助として、勤務することとなった。
最初は、勤務先の人々と、どうコミュニケーションを取ればいいのかも、よくわからなかった。何とか会話する糸口を見つけなくては、と、唐突に同僚の机にお菓子をばん、と置いて「よかったら、どうぞ」と言いながら、緊張して何も言葉を続けられず、その場を立ち去ったこともある。しかし、そんなコミュニケーション下手な私を理解して、職場の教員や事務の方々、高校生たちは、根気強く付き合ってくれていたのだ、と思い返すことができる。こんな不慣れな私に、図書館の運営を任せてもらえたことを、本当に感謝している。図書委員会の生徒たちや、図書館を利用している生徒たち、地域の人たちと交流できることが、何よりも嬉しかった。まだ社会人として、模範になるような私では決してなかったが、生徒たちがそんな私のことも「先生」と呼び、図書館活動を共にしてくれた経験は、大変貴重な経験だった。
その経験を、形にしたい、と、図書館司書の資格を通信大学で取得した。二年間、図書館に勤務させてもらった後、今度は他の県立高校の事務補助として勤務する。しかし、そこでは、失敗体験が待っていた。その頃、実家近くで一人暮らしを始めていた私は、環境が新しくなったせいで、躁(そう)状態だった。テンションが異常に高く、勤務先でも、いろいろな人に親しげに話しかけたりしていた。そのような態度が誤解を招き、同僚と関係が悪化し、職場にいづらくなる。半年間で辞めてしまった。
その辛い時期に、唯一私の味方をしてくれ、話を聞いてくれていた、高校教員と結婚することになった。周りに精神疾患の人がいるわけでもなく、精神障害とは無縁の夫ではあったが、その人を包み込むような大らかさが、自分にはない魅力だと感じた私は、この人といると、きっと自分も成長していける、と確信した。しかし、新婚当初は、体調不良になる時の私への対処がわからず、夫も随分悩み、もがいていた。私もあの話を聞いてくれた夫はどこへ行ったの、と、不満を感じていた。このまま結婚生活が継続できるのか、不安だった。
そんな時期に、娘を妊娠したことが判明した。再び県立大学の図書館に勤務していたが、一年間の産後休暇を取得し、出産、育児をすることとなった。新生児の世話をすることは、大変な苦労を伴った。深夜にミルクをあげなくてはならないことが、睡眠を確保しないと不調をきたす私にとって、大変きついことだった。夫も、仕事に疲れてなかなか起きてくれない。どちらが深夜にミルクをあげるか、揉(も)めた。それでもいざ子どもが泣くと、二人ともなんとか歯を食いしばって起き上がり、ミルクを作ったり、冷やしたりするのを分担し、交代であげた。日中はいつも寝不足で、体調不良だったが、新生児と一緒に寝ながら、何とか育児をした。夫も、協力的だった。子育てを通じて、やはりこの人とこの子を育てていきたい、と、夫婦の思いを強くした。
このまま専業主婦になり、子育てに専念する道も考えたが、せっかく働けるようになってきた自分をもっと試したかった。娘が一歳を過ぎた頃、保育園に入園させた。小学校の学習サポーターや事務サポーターの仕事をし、現在に至る。娘は三歳になった。小学校のサポーターの仕事は、昼過ぎに上がることが可能で、育児しながら無理せず続けることができている。まだ対人関係に悩むことはあれど、昨日より今日、今日より明日、少しずつ成長し、強くなっている自分を実感している。夫と娘のために、立派な社会人になりたい、という思いが募る。

画像(イメージイラスト。大切な本・言葉)

私に希望を失わせず、道を照らしてくれていたもの。それは、三つある。一つ目は、支えてくれた人々の存在。二つ目は、母や祖母のように生きたいという道標。三つ目は、大好きなおしゃれと「言葉」の励ましだった。

一つ目の支えてくれた人々は、今思い返せば、大勢の支え、励ましてくれた人々がいたのだ、と振り返ることができる。
発症してから、最初のキーパーソンは、主治医だった。十八年間、進学などで離れていた頃を除いて、ずっと同じ医師に診てもらっている。「第二の父」と呼ばせてもらいたい程、私にとっては、社会で生きていける自信をつけさせてくれた存在だと思う。精神疾患を患った私にも、希望を見出させてくれたのは、主治医が「自分のことは、自分で決めなさい」と言ってくれたからだと思う。「えっ、こんな私でも、自分で決めていいの?」最初は戸惑ったが、やはり、すごく嬉しかった。まだまだ自分は、自分で舵(かじ)を取り、自分の人生を生きることができる。そんな自信をつけさせてくれた主治医だ。
二人目は、大学時代を共に過ごした、同じ統合失調症の友人だった。ブログを通じて知り合ったその仲間と、ファミレスで深夜までずっと語り合ったり、遊びや旅行に出かけたりした。大学時代のキラキラした時間を共に過ごせた、その友人に、心から感謝している。その友人のおかげで、鬱状態の時期に、「それでも人の輪の中で生きたい」と思い直せたのだと思う。人と一緒にいると、楽しい、面白い、という気持ちや、人に対する信頼感を、その友人のおかげで持つことができた。
三人目は、デイケアでの仲間たちだ。似たような境遇を、決して多くの言葉にして語り合ったわけではなかった。それでも、言葉にはならない、たくさんの対話をした気がする。いてくれるだけで、ただ生きてくれているだけでいい。デイケアで仲間たちと触れ合い、いつもそう感じた。私も、家族や誰かにとっては、そんな存在かもしれない……その気づきが、私を突き動かした。デイケア卒業後に、就労を始めていけたのも、その気づきが大きかった。私も必要な存在。私も生きているだけでいい存在……そう感じられるだけで、力強くやっていけそうな気がした。
その他にも、就職してから仕事先で知り合った女性たちは、お手本となるようなしっかりとした精神の持ち主ばかりで、何度も気の引き締まる思いをさせてもらった。親切に仕事を手伝ってくれたり、お喋(しゃべ)りの輪の中に入らないか、と声をかけてくれた人もたくさんいた。人生の先輩のような存在として、彼女たちを見習いながら、真似をさせてもらいながら、自分を軌道修正させている。現在でもママ友として付き合わせてもらっている人もいる。そのような人々のおかげで、私は人を信じることができ、人との調和の中でこれからも生きていきたい、と思うことができる。
そして欠かすことのできない存在は、何と言っても、夫と娘である。夫と結婚し、娘を出産してからは、私の人生は後半ステージを迎えていると感じている。前半が病気に苦しみ葛藤し、自分のために捧げた人生なら、後半は自分や病気がメインではなく、夫と娘のために捧げるステージだと思う。病気だからと悩んでる暇なんてない!! 今朝も、十五キロの大柄な三歳児を抱えながら、タオルケットと敷布団の入った大きなバッグや通園バッグなどをたくさん腕に引っ掛けて、駐車場から保育園に向かって走る日々である。

二つ目は、女性として生きる道標となった、母と祖母の存在である。
教員として忙しくしていた母と、その代わりに私たち子どもを育て、家事をしていた祖母。その対照的な二人の女性の背中を見てきて、私は二人ともに憧れを抱いていたのだと思う。仕事をバリバリこなすキャリアウーマンになりたい、という憧れと、子育てや家事をする家庭的な女性になりたい、という憧れを、同時に持っていた。その両輪をこなすことは、障害を持っていない女性でも決して簡単なことではないが、私はチャレンジしたいという気持ちを、捨てることができなかった。祖母はもう亡くなったが、生まれてから身近にずっと見てきた女性の生き様が、こうも私の理想の女性像に影響を及ぼすのか、と驚いている。
現在の私のように、困難がありながらも、仕事に、子育てに、家事に、奮闘していた母と祖母の姿は、幼い私の目に焼き付いて離れなかったのだろう。母親が仕事に忙しく、私をちゃんと見てくれていない、と、誤解していた時期もあった。しかし、自分が母親となった今、あんなに忙しかった母が、よくこんなに私たちに気を配っていたものだ、と再発見する瞬間がある。我が子にも、今の私の姿が、良い意味で影響を及ぼせるといいのだが。精神安定の頓服を飲みながら、出勤するときや、帰宅してから夫に泣きながら仕事や子育ての悩みを吐き出すときもある。体調不良のときはごろごろしながら、おむつを替えるときもある。適当な夕食すら、作れないときもある。そんな姿を、我が子はどのように見るのだろう。反面教師にされてもいい。それでも、障害に負けずに、くじけずに、向かっていった母でありたい。

三つ目は、大好きなおしゃれと、読書やブログなどで見つけた「言葉」が、私を励まし、勇気づけてくれた、ということだ。
抗精神病薬は、体重増加などの副作用があるものもあり、私も太ってしまったが、それでもぽっちゃりをスッキリに見せられるよう工夫を重ねつつ、おしゃれな着こなしを楽しんでいる。服やアクセサリーを買うために頑張って働こう、とも思える。原動力になるのが、おしゃれである。
「言葉」は、勤務先の図書館の蔵書を読み漁(あさ)ったり、毎日の日課である好きなブロガーのブログを読んだりして、励みになる言葉を見つけていた。上を向かせてくれる言葉のおかげで、持ち直してこられた。例えば、アドラー心理学の本は大変役に立った。人には「勇気づけ」が大切だということや、「置かれた環境をどう捉え、どのように対応するのか決めるのは自分自身」という自己決定性の理論、仲間とのつながりや絆の感覚である「共同体感覚」が精神的な健康のバロメーターであることなど、知識としてだけでなく、アドラーという精神科医であり心理学者であった人物の、精神を患った人々への深い愛情が感じられる理論に、救われる思いがした。

現在、私には次なる目標がある。それは、精神的にも経済的にも自立することである。タレントの壇蜜さんが、結婚されたときに、雑誌のインタビューでこう答えていた。何で結婚したのか、という質問に、「四十代近くになり、自分ひとりでも生きていけるな、と思えるようになったから」。誰かに寄りかかる結婚ではなく、ひとりで生きていける者同士がする結婚がしたかった、という答えだった。私にはその答えが、とてつもなく胸に響いた。
精神障害者の私が、「精神」的に? 経済的に? と驚かれることだろう。それでも、私は更なる挑戦をしていきたい。精神障害者でも、精神力は鍛えられることを、長い就労生活の中で、体験してきた。最初は落ち込み、立ち直るのにも時間がかかる。それでも、何度も挫折を繰り返す中で、少しずつ強くなっていっている自分がいる。薬もみるみる減り、薬に頼らない自分がいる。人の意見に左右されるのではなく、自分の意見や感覚を一番にしていきたい、と思う自分がいる。これからも精神力をどんどん鍛えていきたい。経済的にも、まだまだ夫に頼っている面があるので、障害者枠の正職員として働けるよう、採用試験の準備を始めたところだ。我が子にも、自立を教えたい。だから、母である私も、しっかりと自立した女性でありたい。
真の自立とは、自分の力でできるだけやろうとしながらも、頼りたいときは、助けて、と言えることだ。私も、ヘルプを出してしまうことが、きっと山のようにあるだろう。それでも「なるべく自分のことは自分でやる、もしくはやろうとする」障害者でありたい、と願っている。障害になるのは、体調不良のときだけ。本来の自分は、「障害者」ではない。それは決して、陽性症状がくる、高揚感からの「過信」「自惚(うぬぼ)れ」ではなく、現在まで、挑戦し、励んできた軌跡からの「自信」だ。そう、どんな障害があっても、できるだけ自分のことは自分でやろうとしたり、それが叶わなくても、誰の人生でもなく、自分の人生を歩もうとしている障害者は、もはや「障害者」ではない。障害者のレッテルに打ち勝つために、奮闘してきた人生でわかったことは、医師であっても、有識者であっても、障害者のレッテルなんて、誰にも貼れないということだ。貼っているとしたら、それは、自分自身だ。精神疾患と診断されても、本来のその人の精神は、健康だと思う。そして、その人にその気さえあれば、どんな人生でも切り開ける。私はこれからも、そう信じて、それを身をもって証明し続けるための人生を歩んでいきたい。

そのベッドから、その部屋から、扉を開けてください。そして、一歩だけでも、進んでみてください。かつて、私もベッドから起き上がれず、布団にくるまって、泣いていました。だけど、希望を失わなかった。あなたと同じ病名でも。神様は、ちゃんと見ているよ。必ず、報われます。ちゃんと報われるよ。障害を持つ人生を選んだ私たちが、報われないわけがない。あなたを神様は、ちゃんと応援してくれるよ。だから、一緒に生きていこう。扉の向こう側で、私はあなたを、待っていますね。


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