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“安楽死”をめぐって(2)鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞く(前編)

記事公開日:2020年11月04日

去年11月、ALS患者の女性が面識のなかった医師2人に殺害を依頼したとされる、京都ALS患者嘱託殺人事件。女性は生前SNS上で、日本でも“安楽死”(※注)を受けられるようになることを求めていました。この“安楽死”について、私たちはどのように考えればよいのか。生命倫理と死生学が専門の鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞きました。

注:いわゆる「安楽死」には、
① 医師が致死薬を投与する「積極的安楽死」
② 医師が処方した致死薬を患者自身が服用する「医師ほう助自殺」
③ 延命治療を手控えたり、中止して死を待つ「消極的安楽死」
などがあります(他にも様々な分類や解釈が存在します)。この記事では①と②を合わせて“安楽死”と表記します。

「死にたい気持ち」は簡単に分かるはずがない

──今回の事件について、また事件が報道されて以降の世間の反応について安藤さんは、どのようにお感じになりましたか。

安藤:事件については、「やはり起きたか」という思いが強かったです。そういう流れがずっとできていたというか。例えば昨年、公立福生病院で、終末期とも言えないような患者に対して、透析を中止するという選択肢を医師が提示して患者が亡くなったという事件が報道されました。また、NHKスペシャルの「彼女は安楽死を選んだ」という番組で、難病を患う日本人女性がスイスに渡ってほう助自殺で亡くなっていくところまでがリアルに放映され、大きな反響を呼びました。実際、京都の事件で亡くなった女性も、その番組を観られてから死のほうに傾いていったということが言われているわけです。 こういう流れが、安楽死合法化の議論にスッとつながっていくのではないか、という危惧を感じました。実際にインターネットでいろいろな人の声を拾ってみますと、「自分がこういう状態になったら死にたい、だから安楽死を認めるべきだ」っていう声が圧倒的に多い。そのこと自体、あまりにも短絡的だという思いを強く持ちました。 そもそも、自分がそうなったときのことなんて、ほとんどの人には分かるはずがないんですね。実際にそういう病気をお持ちで、今はまだそこまで進行してない人がそうおっしゃるなら、何となく分かるわけです。ところが今は元気な人が、そういう病気になったときのことなんていうのは、分かるわけがない。
例えば有名な芸能人の方の自殺が報道されたときに、「自分がそういう状況になったら死にたい」なんて言う人はいないわけですね。そういう一見華々しく活躍されている方が「死にたい」という思いは、一般の人には全然分からないでしょう。それと同じで、難病でだんだん病気が進行して、できることがどんどん少なくなっていくような方の「死にたい」という思いというのも、本当は(そういうことをまったく経験してない人には)わからないはずなんですね。それなのに、分かるように思い込んでいる。人には死にたくなるような要因というのは、いっぱいあるわけです。逆に、同じ苦境にあっても、やっぱり生きたくなるような要因もいっぱいある。
分からないのに、病気がもう治らないから、どんどん死に近づいていくからという理由だけで、「死にたいという気持ちが分かる」あるいは「自分がそうなったら死にたい」っていうのは、おかしいのではないかと。そういうことを言うこと自体が、病気が進行した状態で実際に生きておられる方に対して、「私はあなたのような状態になったら死にたい」と言うことに他ならないわけで。これはある意味ですごく暴力的な言葉なんですね。それなのに、そのことを意識していない、自覚していないことに、ある種の傲慢さのようなものを感じてしまいます。

──今回の林さんの死というのを“安楽死”の議論に結びつけるのは良くない、とおっしゃいましたけれども、それはどういった理由からでしょうか。

安藤:まず、今回の医師がとった行為は致死薬を点滴に注入して患者を死に至らせたわけですが、今の日本の法律では、医師が致死薬を患者に注射して死なせる「積極的安楽死」や、医師が致死薬を処方し、患者がそれを飲んで自殺をする「医師ほう助自殺」は、認められていません。ただ、それが禁止されてるかというと、厳密にはそうではなくて、司法判断(裁判の判決)の中では、実はある一定の要件を満たせば、医師が致死薬を患者に注射しても違法にならない場合があるということが言われています。その要件の中には、例えば「その人の苦痛から解放するために他の手段がない」ということが入っているわけです。他の手段というのは、いわゆる緩和ケアでなされているような苦痛を取るための医療処置ということです。そういうことを全てやった上で、それでも苦痛が取り除けないということが条件になっているわけです。
つまり、“安楽死”が許されるかどうかという以前に、そのような行為をする医師と患者とのあいだには治療関係があるということが前提になっているのですが、今回の医師の場合は、SNS上で患者と知り合っただけで、患者の治療はもちろん、病状の診断すらしていないわけです。そのような医師が患者を死なせる薬を投与するということは、想定されていなかったということです。だから今回の事件というのは、人を死なせるための知識や技術を持っている医師が、たまたま嘱託殺人を頼まれて実行しただけであって、許されるか許されないかが問われるような“安楽死”以前の話なわけです。にもかかわらず、こういう事件を再び起こさないようにするために、“安楽死”の合法化が必要だ、人の死ぬ権利を認めるべきだという議論が起こってきている。そこは、「ちょっと待てよ」と言うしかないわけです。

実際、そういう患者が生きていくことを支えるケアやサポートの不備という現実があるわけです。例えば事件で亡くなった女性は、新聞の報道によれば、17もの事業所からヘルパーを派遣してもらっていたそうです。そうすると、ヘルパーのやりくりだけで、いっときたりとも気が休まらない。そうしたヘルパーさんの中には、技術の未熟な人もいるだろうから、利用者は安心して自分の身を任せることもできない。そのようにサポートが不十分なせいで、その人の尊厳を守れない状況がある中で、「死ぬ権利」が語られるというのは、あまりにも短絡だと思いました。

安楽死と尊厳死は違うのか

──今回の事件を受けて、安楽死と尊厳死という2つの言葉が盛んに聞かれました。この2つの言葉の違いはどこにあるのでしょうか。

安藤:「安楽死」や「尊厳死」という言葉には世界共通の定義などは存在しません。ただ、大まかな言葉の意味として、「安楽死」は、やっぱり耐え難い苦痛というものがあって──もちろん肉体的な苦痛だけではなくて精神的な苦痛も含みます──そうした苦痛から解放するために、何らかの行為によって死なせる、ということですね。「尊厳死」というのはもっと曖昧です。「(人のしての)尊厳が奪われている」と本人が感じるようなときに、同じように何らかの行為によって死なせることで「尊厳を守る」というのが「尊厳死」ということになりますが、ではその「(人としての)尊厳が奪われている」というのがどういう状態かと言えば、とても曖昧だし、人によってかなり違うのではないかと思います。また、「耐え難い苦痛がある」ような状態と「(人としての)尊厳が奪われていると感じる」ような状態というのはかなり重なっていますので、「安楽死」と「尊厳死」は語義からすると重なっていることになります。
つまり「安楽死」と「尊厳死」というのは、言葉として何か違うものを指してるわけではないし。世界的に見ても、たとえば世界で最初に医師ほう助自殺が合法化されたアメリカのオレゴン州でその法律が「尊厳死法」と呼ばれているように、「尊厳死」は医師ほう助自殺、場合によっては積極的安楽死も含む概念です。

ところが日本では、「安楽死」と「尊厳死」は違うもの、という理解が一般的です。なぜかというと、むかし、日本安楽死協会という団体が、積極的安楽死を合法化しようとしたのですが、非常に批判が強くて、1983年にその名前を日本安楽死協会から日本尊厳死協会に変えました。それまで積極的安楽死の合法化を目指していた団体が、まだ時期尚早だから、延命治療をしない、あるいは延命治療をやめることによって死なせる消極的安楽死、これが実は日本でいう「尊厳死」にあたるんですけど、この「尊厳死」の法制化っていうのを目指すことにして、名称も換えたんです。その影響をマスコミも受けて、「安楽死」は致死薬を医師が注射したりして死ぬこと、「尊厳死」は延命治療をしないことによって死ぬことだというふうに、2つは違うものだという理解が、日本では一般的になっていったのです。これは日本だけのことで、世界的にはほとんど両者は違わないと言って良いと思います。

画像(安藤泰至さん)

“安楽死”は本当に安楽か

安藤:ただ、ここで注意しないといけないのは、ではその安楽死というのは本当に安楽なのか、尊厳死というのは本当に尊厳があるのか、ということです。こういうふうに考えたら良いと思うんです。つまり、耐え難い苦痛でどうしようもない状態に対して、例えば薬のようなもので、ある程度は苦痛を和らげることが可能なわけです。そうした場合、薬の効果で患者さんの苦痛が和らいだということは証明できますね。表情が柔らかくなったとか、今までできなかった会話ができるようになったとか、笑顔が出たとか、証明ができるわけですね。また、薬のようなものでなくても、その人の苦しい思いをじっくり聞いてあげるとか、そういうことだけでも、患者さんの(特に精神的な)苦しみが和らぐことはいくらでもあるわけです。
ところが、その人を死なせることによって苦痛から解放するというのは、本当に問題を解決したことになるのかというと、私は全然違うと思うんですね。つまり、死んでいく瞬間にその人が本当に安楽かどうかっていうことは、わからないわけです。亡くなったあとの人に、「あのときに楽でしたか」と聞くわけにはいかないし、亡くなる瞬間、仮に「こんなことをしなければよかった」という後悔が起こったとしても、それを表出できないわけですから。そうすると、安楽死で、なぜ耐え難い苦しみの中にいる人に救いみたいなものが与えられるかというと、「安楽死できるんだ、この苦しみから解放されるんだ」と知ったときの「心の安らぎ」ということなんですね。つまりそれは、「死の安楽」ではなくて、「生の安楽」だということです。
そういう「生の安楽」「心の安らぎ」というのは、安楽死以外のものによっても、もたらされる可能性があります。誰か新しい人と出会うとか、何か新しい希望を持つということは、いくら病気が進行しても、いくら身体が動かなくなってもあり得ることであって。例えばガンの終末期であと2、3日しか生きられないような人が、「これまで生きてきた中で、今がいちばん幸せだ」と語られるようなことは、しょっちゅうあるわけです。そうすると、安楽死を肯定する人たちが言うような、「そのような苦しみを取るには安楽死しか方法がない」という主張は、やっぱり非常に疑わしいと言わざるを得ません。

──死んだら安楽だったかどうかわからないという言葉が印象的です。そもそも安楽死の語源は……

安藤:ギリシャ語で「良い死」という意味です。

──「良い死」ですか。確かに、安楽死という言葉自体に、どこか良いものだというイメージがあります。

安藤:例えば私たちが、人生においていろいろな選択をするとき、例えば結婚するとか就職するとか、進学するとかいうときに、それが良かったかどうかは、後になってみて分かる。つまり、いくら結婚する前に、自分にとって理想的なすばらしい結婚だと思っていても、後々うまくいかなくなることはいくらでもある。逆にそのときはよく考えずに勢いで結婚してしまったとしても、後から「あのときに結婚できて良かったな」と思うことはいくらでもあると思うんです。そういうふうに、後から「あれは良い選択だったな」と思えるような、そういう生き方を私たちはしなければいけないという面があります。
ところが「死ぬ」という選択というのは、実はこちら側──生きてる側、まだ死んでいない人の側──からしか見えないわけです。死んでしまってから、死ぬという選択をして正しかったのか証明されることは、絶対にないわけです。逆にそこで思いとどまったときに、後から「あのときに思いとどまって良かったな」と思う人は、安楽死であれ一般的な自殺であれ、いくらでもあることですね。そういう可能性を絶ってしまい、死を選ぶことを肯定するというのは、いくら自分で選んだものだと言っても、やはり命を軽んじていくことになってしまうんじゃないかと思います。

自己決定は尊重されるべきか

──自分で決めたこと、自己決定は尊重されるべきという言葉は強い説得力があります。自己決定だから、安楽死や尊厳死が認められるべきという考え方について、どうお感じになりますか。

安藤:積極的安楽死とか自殺ほう助が合法化されてる国や州がいくつかありますが、そういうところを見ていると、日本とは明らかに文化が違うという感じがします。一言で言うと、非常に個人主義が強い。個人主義が強い社会というのは、本人が決めたことであれば、例え家族であろうとも、周りの人はその人の決定を尊重しなければいけない、絶対口出しはできないということが、社会的に共有されている社会。つまり、その人のことはその人にしか決められないということが、社会の前提になっているような、そういう社会です。
ところが日本の場合、例えば自分がこのように生きたいと言ったとき、あるいは、こういう考え方だから自分はこういうふうに行動するんだと声高に言ったときに、周りがそれを認めてくれる社会かというと、そうじゃない。同調圧力が非常に強いというか、個人の価値観とか人生観というのを、「それはその人の生き方だからね」って認めてくれるような社会ではないんですね。日本では、「死ぬ権利」ということの基盤となってるような「生の権利」がそもそも尊重されていない。それはただ「生存する権利」ではなくて、その人の生き方を尊重するということ、その人がまさに「個人」であるということを認めるということです。にもかかわらず、死ぬときだけ、その人が「死にたい」って言えば死なせてあげてもいいんじゃないかというのは、ちょっと本末転倒な感じがするわけです。
例えば、人が過労死をするような社会というのは、自分の生き方を貫けない社会です。つまり会社とか組織とかの都合でもって、若く元気な人が過労で亡くなってしまう。そういう働き方をさせられてしまうっていう社会というのは、決してその個人を尊重する社会ではないわけですね。そういうところで、死ぬときだけ個人の権利を守れというのは、やはりおかしいと。
今の日本の社会では、どんどん公助の部分が削られていっている。生活保護のような当然の権利ですら、受ける権利があるのに受けない人もたくさんいるし、生活保護を受けている人に対してバッシングがある。そういう社会の中で、結局人は生きたくても死のほうに追いやられていく。そんな状況で、安楽死合法化というのは、全く逆の話ではないかと。生きたくない人が死ぬのではなくて、実は生きたい人まで死のほうに追いやられてしまうような流れができてしまいます。非常に危険だと思います。

先ほど、「自分が治らない病気になったら死にたい」というのは、ある種の非常に暴力的なものの言い方にもなると言いましたが、自分に自信があって暴力的だとか傲慢になってるのではなくて、逆に、自分に自信がないからなんではないか、と私は思っています。それはつまり、例えば今の自分を支えているものが非常にぜい弱で、ちょっと自分の世界を越えるものとぶつかったら、それがたちどころに崩れ去ってしまう。そういう不安の中に皆が生きていて、本当に信頼できる家族とか信頼できる友達というのがいない。自分が本当にこう苦しい状況になったときに、SOSを発することができる人がいない。国もそんなことは助けてくれないだろう。そういう中で、死しか選べないんじゃないか。そういう思いが、人々に「自分が治らない病気になったら死にたい」というような言葉を発せさせていると思うわけですね。

特集 京都ALS患者嘱託殺人事件
(1)NPO「境を越えて」理事長・岡部宏生さんに聞く
(2)鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞く(前編) ←今回の記事
(3)鳥取大学医学部准教授・安藤泰至さんに聞く(後編)
(4)フリーライター・児玉真美さんに聞く(前編)
(5)フリーライター・児玉真美さんに聞く(後編)
(6)国立病院機構新潟病院院長・中島孝さんに聞く

※この記事は、11月4日放送のハートネットTV「特集 京都ALS患者嘱託殺人事件(2)“安楽死”をめぐって」の取材内容を加筆修正したものです。

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