ナチス時代、ドイツは“優生思想”に基づいたさまざまな政策を進めました。そのひとつが第二次世界大戦中の「T4作戦」。障害のある人や病人などを殺害する極秘指令です。命を奪われた人の数は7万人ともいわれ、ヒトラーは彼らの死を“恵みの死”と呼び、家族や社会の負担を減らすものだと考えました。さらに分かってきたのは、一般市民も迫害に関わっていたということ。私たちの心の内にある差別の意識を変えていくことはできるのか?ドイツの歴史から考えます。
ドイツ中西部のハダマーに、障害者等を計画的に殺りくする “T4作戦”の現場だったハダマー精神科病院があります。その地下に作られたガス室で、障害のある人たちが次々と殺害されていました。
T4作戦が始まった頃、当時7、8歳だったというハインツ・ドゥフシエーラさんには忘れられない思い出があります。それは病院の煙突から吹き出し続けていた煙の匂いを嗅いだ兵士の言葉です。
「戦場で死体が焼かれる匂いと同じだと言ったのです。それを聞いて大人たちはびっくりして声をひそめて話すようになりました。満席のバスが高台に上がっていくのですが、帰りはいつもからっぽでした。『施設の中はいっぱいのはずなのにおかしい』…何か妙なことが行われているという証拠でした」(ハインツさん)
住民は病院で人が殺されていることに勘付いていました。しかし、住民たちは止めようとしなかったといいます。
「今とは違って、当時はデモをするなど考えられない時代です。この町の人たちは、いつも受け身で『どうせどうすることもできない』と思っていました。『山の上で何かしてはいるけれども、自分たちとは関係ない』と距離を置くようになっていったのです」(ハインツさん)
T4作戦は家庭内での差別も助長します。
ギーゼラ・プッシュマンさんの叔母ヘルガさんは、てんかんのためハダマー精神科病院に連れて来られ、T4作戦で殺されました。しかし幼い頃のギーゼラさんは、叔母の存在を知らなかったといいます。父親はてんかんを持つ妹のことを一度も話したことはなく、隠し続けました。
しかしギーゼラさんは、大人になってから叔母のことを調べるようになります。そしてT4作戦により、ヘルガさんが病院で殺されたことを知ったのです。さらに、ヘルガさんが犬小屋によく閉じ込められていたことも親戚から聞きました。
ギーゼラ・プッシュマンさん
「父は自分の愛犬について、たくさん話してくれました。でも妹については、一言も話したことがないのです。兄弟が自分の妹を忘れる、また忘れるふりをするなんて、私には理解できませんでした」(ギーゼラさん)
人の心の内にひそむ差別の意識。それは医療関係者も例外ではありません。T4作戦の現場に選ばれた病院や施設は全国で6か所あり、それぞれの施設で働く医師や看護師のほか、運転士や遺体処理係などが働いていました。
ある看護師の戦後の証言によると、ベルリンで次のような業務命令を受けたといいます。
「治療不可能な精神病患者が国や国民、家族の負担になっているため、法律が作られた。いわゆる安楽死計画によって、精神病患者に“恵みの死”を施し、命を終えてもらうことになった。我々はそのために選ばれ、法律および計画を実現させる義務があるのだ」(業務命令で行われた説明)
施設では離れた空き地にガス室が作られていました。連れて来られた人たちは診察の後、シャワー室に見せかけたガス室で殺されたのです。そして、医師の助手として病人たちの服を脱がすなどして手伝った看護師は、次のように言い放ちます。
「私は生涯一度も悪いことをしたことがない」(T4作戦に関わった看護師)
T4作戦に関わりながらも、「責任はない」と考えた理由。歴史家のハンス=ヴァルター・シュムールさんは、プロパガンダが浸透した結果だと指摘します。
シュムールさん
「当時、精神病院で働いていた看護師や介護士は無条件で医師の指示に従う時代でした。また彼らは何年もかけてプロパガンダの連続射撃を受けていました。殺すべき患者はほかの人より価値が低い人間だと教え込まれてきたのです。それで(自分は正しいことしているのだと)自己を正当化できたため、より気楽に関与できたのではないかと思います」(シュムールさん)
“社会の役に立たない命”に“恵みの死”を与えると唱えたナチス。関わった人々も良心の呵責を感じなくなっていました。
しかし、その状況に異を唱えた人物もいます。ドイツ北西部の町、ミュンスターの司教だったフォン・ガーレンは、信者の家族が殺されているという噂を聞いていました。そして、教会の説教でそのことを取り上げ、人々に訴えかけたのです。
「貧しい人、病人、非生産的な人、いて当たり前だ。私たちは他者から生産的であると認められた時だけ、生きる権利があるというのか。『非生産的な市民』を殺してもいいという原則ができ、実行されるならば、我々が老いて弱った時、我々も殺されるだろう」(フォン・ガーレンの説教より)
そして、行われていることは「恵みの死」ではなく、単なる殺害だと明言します。
ヒトラー政権は、フォン・ガーレンの原稿を没収しようとしました。しかし書き写された言葉は全国のキリスト教団体に郵送され、さらにその複写が一般の市民の手に渡っていたのです。
その結果、ヒトラーは1941年8月24日に「T4作戦」の中止を決めました。
「このことで分かるのは、市民として勇気を出して、公然と声をあげれば、政府の行動を阻止する余地があったということです。ナチスのような政権も国民の感情をとても気にしていたのです」(シュムールさん)
「T4作戦」の中止が決定しても、悲劇は形を変えて続きます。ナチス政権は、それまで差別を受けてきたユダヤ人を標的にしました。
1942年、ナチスはいわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定。ヨーロッパ中のユダヤ人を強制収容所へ送りました。このとき、大きな役割を果たしたのがT4作戦に関わった医師や看護師です。さらに運転士、遺体焼却係なども加わりました。医療に直接携わらない彼らも効率的な殺害を支えていたのです。
そして1945年、ドイツが敗戦した時、強制収容所はユダヤ人の遺体で溢れかえっていました。ヨーロッパ全土で犠牲になったユダヤ人は600万人とみられています。
さらに、その後、占領軍によって驚くべき事実が明らかにされました。T4作戦中止後も、医療関係者などによって、障害のある人や病人などの殺害は続けられていたのです。戦場でトラウマを負った兵士、ユダヤ人との間に生まれた子どもなども殺されていました。
占領軍に尋問を受ける殺害を続けた医療関係者
この悲劇は、のちに“野生化した殺害”と呼ばれました。人々の心の内にある差別が明らかになったのです。
「医師たちはT4作戦の最中に中止にあい、不満を感じていました。どうすれば人目を引かずに、政治に振り回されずにやり続けられるか。悲劇的にもその体制はすでに出来上がっていました」(シュムールさん)
犠牲者の数はT4作戦で殺された7万を大きく超え、終戦までに合わせて20万以上の障害のある人たちが命を奪われたのです。
T4作戦で叔母を殺されたギーゼラ・プッシュマンさんは、新聞広告にメッセージを載せました。
ヘルガ・オルトレップ
あなたはナチスの言いなりになった協力者によって殺された。
そして、家族によっても黙殺された。
私はあなたを忘れない。
あなたの姪、ギーゼラより
(新聞広告に載せたメッセージ)
「叔母が殺されたことは私にとって悲しいことです。でも本当に重くのしかかっているのは、家族がずっと沈黙を続けてきたことなんです。それが今でも悲しくて仕方ないのです。ヘルガおばさんの尊厳を取り戻し、人々の記憶に残していきたいのです」(ギーゼラさん)
75年前に優生思想が生んだ悲劇。支えたのも、抗ったのも、ドイツの人々でした。
そして今、日本では、私たちが優生思想とどう向き合うか、問われています。
2016年7月に、障害者施設で入所者19人が刃物で殺害されました。事件を起こした施設の元職員の言葉からは“命を選別”する優性思想を思い起こさせます。さらに、ネットの一部では、加害者の元職員を支持する声も上がりました。
今年8月 犠牲者を悼む人々(津久井やまゆり園)
自身も視覚障害があり、日本障害者協議会代表の藤井克徳さんは、私たちにできることは、私たちの心の“内なる差別”から目を背けないことだといいます。
藤井克徳さん
「優生思想を克服しようとか壊滅させようとするよりは、これは避けられないものだという前提で考えていくこと。(優生思想は)残念ながら、人類が避けられない“性(さが)”のようなものです。したがって、いつの時代も、どの社会も起こり得る。私たち個人の中に内在しているということを前提に考えていく」(藤井さん)
そのうえで大切なことは、他者を受け入れる寛容さだと語ります。
「競争でも優生思想でも、ほかの人の権利や自由を脅かしたときにストップするという、自分の中でルールを持つこと。あるいは、社会の中でそういうルールを確認すること。そうしたことを私たちは個人のレベルで、社会のレベルで、あるいは教育段階で培うべきではないか。競争はだめと言うのではなくて、その分だけ相手の痛みを知ること。違った意見を受け入れる寛容さがないと、優生思想がはびこる土壌になっていく。僕らができることは、異なった意見を大事にすることです」(藤井さん)
自分と異なる存在に歩み寄ることができるのか。ドイツの歴史が問いかけます。
優生思想と向き合う 戦時ドイツと現代の日本
(1)繰り返される命の選別
(2)内なる差別と向き合う ←今回の記事
※この記事はハートネットTV 2020年8月11日(火曜)放送「優生思想と向き合う 戦時ドイツと現代の日本(2)」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。