ハートネットメニューへ移動 メインコンテンツへ移動

山内一也さん ある老ウイルス学者の追憶

記事公開日:2020年07月27日

東京大学名誉教授の山内一也さんは、天然痘の根絶に貢献したことでも知られる日本を代表するウイルス学の権威です。山内さんは、毎年梅雨の季節がめぐってくると、58歳で亡くなった妻の洋子さんと過ごした最後の日々を思い出します。コロナ禍の今、山内さんは静かに過ごす日々のなか、洋子さんとの思い出を語りました。

ウイルスは人生のパートナー

東京大学名誉教授の山内一也さんは現在88歳。半世紀以上にわたりウイルス研究と感染症対策に取り組んできた、日本を代表するウイルス学者です。

画像

東京大学名誉教授 山内一也さん

山内先生は、天然痘、そして牛の急性伝染病である牛疫の根絶プロジェクトに参加したことで知られています。人類が根絶に成功したウイルス感染症は、天然痘と牛疫、この2つしかありません。特に、数千年の歴史をもつ天然痘は、世界中で恐れられてきました。致死率は20%~30%にも及び、感染力も極めて高く、ひとつの家に患者が出ると家族の80%以上が感染したといいます。

当時、山内先生が取り組んだのが、種痘ワクチンの改良です。ワクチン接種の徹底によって、有史以来、人々を苦しめ続けてきた天然痘の歴史にピリオドが打たれました。山内先生は、新型コロナウイルスの感染拡大は不思議ではないと語ります。

「免疫のない状態の所に入ってきた新しいウイルスですから、広がること自体は不思議ではないと思います。コロナウイルスは、こうもりと恐らく1万年くらいは共存していると思います。そういうウイルスがたまたま人の世界のほうに入り込んできたというのが現状だということですね。我々は遭遇したことのないものが入ってきた場合には免疫がないわけですから、脅威と言えば脅威です」(山内さん)

ウイルスは脅威。しかし、山内先生にとって恐怖の存在ではありません。

「ウイルスは私にとって、研究人生を通してパートナーだったと思っています。好奇心を満たしてくれるパートナーとしてとらえて、恐怖の存在ではありません。敵というか、これは勝つとか負けるとかそういう相手ではないですね。全然違う存在だと思います」(山内さん)

最愛の妻との別れ

毎年、紫陽花(あじさい)が見頃を迎える時期になると、山内先生は妻の洋子さんと過ごした最後の日々を思い出します。洋子さんは37年前に58歳でこの世を去りました。

画像

生前の洋子さん

「昭和58年6月30日、洋子が亡くなりました。手術室で切除した腫瘍塊を前にして、卵巣がんであったことを告げられた時から、いつかはこの日が来るかもしれないと覚悟はしていたものの、予想以上に早くその日が来てしまいました」(山内さん)

卵巣がんがもとになって広がり、全身の血液が凝固する重い症状でした。

「実際に摘出した卵巣腫瘍を見た時から、完治は望めないというのは分かっていました。洋子のほうは、子宮筋腫の大きいものということで、医師の方もそういう説明をしていて」(山内さん)

患者への癌の告知が、現在のように広く認識されていなかった時代です。山内さんは洋子さんの病気が発覚してから、亡くなるまでの21か月間を無我夢中で過ごします。

「無我夢中というか、その日その日がちゃんとつつがなく過ごせればと。先を予測するというようなことは、あまり記憶していません。なかったと思いますね」(山内さん)

人生そのものを共に歩いた2人

山内先生が洋子さんと初めて出会ったのは昭和30年のこと。登山の帰り道でした。

画像

初めて会った時の山内先生と洋子さん

「私は友人と2人で金峰山に登って下りてきて。それで黒平の宿へ泊まった。その時に女房は弟と友人と3人だったと思いますが、同じ宿に泊まって、そこで初めて会ったというわけです。それから山だけではなく、音楽だとかいろいろなもので話が非常によく通じて」(山内さん)

その後、2人は何度も会うことになります。そんなある日、山内先生に別の女性とのお見合いの話がありました。

「考えたらお見合いするには、今まで付き合ってきた洋子のほうがはっきりイメージされて。それで『こういうお見合いの話もあるのだけれど、結婚してくれないか』といったような内容の話をして、結婚することになったわけですね」(山内さん)

結婚してからもそれまでと変わらず、2人で登山や音楽などを楽しむ「パートナー」だったと山内先生は振り返ります。

画像

スキーを楽しむ山内先生と洋子さん

「私が北里研究所に入って間もなく洋子と結婚したので、研究者としての道を歩き始めた最初からずっと一緒に生活してきたわけです。うちは子どもがいなかったし、しょっちゅう山へ行ったり、音楽会とか、映画とか、いろいろな所へ行きました。私も仕事した後、非常にリラックスする機会が得られていたのだと思います。ですから、まったくのパートナーですね。人生そのものを、洋子と共に歩いてきたということですね」(山内さん)

洋子さんの闘病日記

結婚から24年目の秋、洋子さんの体に異変が見つかりました。闘病記は亡くなる2年ほど前から始まっています。

画像

洋子さんの闘病記

「56年9月25日。10時。斉藤先生の紹介で外科へ。去年どうしてもう一度来なかった、といわれたって無理。別に心配ないと思っただけ。」

「夜ねむれない。Kにもいっておかなくてはならないこと、次から次へと。」

「薬を袋から出しておどろいた。カプセルでなく白い粉。又いやな感じ。いったい何に効く薬なのか。」
(洋子さんの日記より)

「疑っていたのですね。卵巣がんというのは。どこかで卵巣腫瘍の可能性も頭に入っていた。だから、絶えず気持ちが揺らいでいたのは事実ですね。ただ、私には言わないですから、そういうことを一切。いつも明るく過ごしていましたから。日記を書いていたことも気がつきませんでしたから」(山内さん)

「明けた。痛みはつづく。Kも6時には来てくれて夕食をすませて又今夜も泊まってくれる。うれしい。」

「よくねむれて今朝はさわやか。Kがコーヒーを持って来てくれ久しぶりの朝食らしい食事。パンにバターとジャムをたっぷりぬって、本当においしい。」
(洋子さんの日記より)

「忙しくないと言えば嘘ですけども、『今度はこういう山に登ってみたい』とか、『あそこに行ってみたい』といった話があると、それなりの時間は取っていたと覚えています」(山内さん)

画像

登山をする山内先生と洋子さん

手術から1年後、洋子さんの容態は徐々に悪化していきました。

「Kから電話。成田へ定刻2時半着。やれやれ。忙しかったそうだけれど結構楽しんだみたい。」

「ずっと考えていたこと、言いそびれてしまう。」
(洋子さんの日記より)

「分かりませんね。何を言いそびれたのか。ずっと考えていたことっていうか何か、将来のことか、何かしら考えていたのだろうと思うのですが。お互いに気をつかいすぎていたのでしょうね。あまりお互いに口にださない間柄だったのかもしれない」(山内さん)

「雪の中で死ぬのは楽かな。雪の中で眠ったら死ねるかも。それともガケ、何処の?飛び下りは勇気がいる。」

「Kだってもうくたくた。むしろこれから又人生のやりなおしをして貰いたい。」
(洋子さんの日記より)

「これは本当の、心の叫びみたいな。やっぱり読むのはつらいですよね」(山内さん)

「リュックを背負いたかった。もう一度スキーをはきたかった。」
(洋子さんの日記より)

「紫陽花」がつないだ縁

洋子さんの日記は、亡くなる10日前で終わっています。その後は、意識レベルが段々低下し、最後の2~3日は痛みや苦しみからも解放され、安らかな死を迎えました。

「最後というのははっきり分かって。兄弟なんか呼び寄せていましたから。(死を)受け入れて、特別の感慨とかではなく、心電図が平になっていくのを見ていくという。その時間はずっとただ目で追っていただけで。来るものが来たと淡々と受け止めたのだろうと思います」(山内さん)

洋子さんの死後間もなく、山内先生は手書きの日記帳を見つけました。初めて日記を読み、あらためてつらかった時期のことがありありと思い出されてきました。

そして、思い出の写真と共に1冊の本にまとめ、病床生活を支えてくれた友人・知人、医師や看護師に送りました。タイトルは「紫陽花(あじさい)」。花を愛した洋子さんですが、なかでも紫陽花は最も好きな花のひとつでした。

画像

洋子さんの闘病記「紫陽花」

「日記を整理しているうちに、私の頭の中では洋子のイメージと紫陽花がだぶってきたような気もしてきました。本小冊子の題名は、このような気持ちからつけられたものです」(山内さん)

洋子さんが亡くなってから2年後。友人のひとりに送った病床日記が、山内先生に思わぬ出会いをもたらすことになりました。ピアノの先生をしていた悠子さんとの出会いです。

画像

山内先生と悠子さん

「(友人に)ずっと洋子のことは相談を持ちかけていて。(洋子が)亡くなって日記を彼に送ったら、彼の娘さんがピアノをやっていて、その娘さんが『紫陽花日記』を悠子に渡したんですね。何回か読み返したらしいのですが。見合いをする気になって、いろいろ話をしているうちに結婚しようということになったのです」(山内さん)

この偶然の出会いは、洋子さんが引き合わせたと山内先生は考えています。

「再婚はまったく考えたことはなかったですね。仲立ちをしたのが病床日記だったのですね。ですから、洋子が仲人をしてくれたようなものじゃないかなと思っています」(山内さん)

この夏、89歳の誕生日を迎える山内先生は、研究者人生の集大成となる最後の本の執筆に取り組んでいます。そして、静かに過ごす日々のなか、洋子さんの思い出を語りました。

画像

執筆に取り組む山内先生

「思い浮かぶシーンはいっぱいありますね。だいたいみんな楽しいというか。紫陽花という、この紫の太陽のような花というイメージと、ものすごくよく合っていた。紫陽花を見ると思い出しますね」(山内さん)

※この記事はハートネットTV 2020年7月14日放送「紫陽花時光(あじさいじこう)~ある老ウイルス学者の追憶~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

あわせて読みたい

新着記事