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【特集】水俣から考える(1) 漁師・緒方正人さん

記事公開日:2020年06月23日

新型コロナウイルスによる、感染した人たちや周りの人たちへの偏見や差別。こうした病への恐怖が差別や偏見を生むという状況は、過去にも起きてきました。64年前に起きた戦後最大の公害、「水俣病」です。今、被害者たちが伝えるメッセージに耳を傾けます。

家族の生活を一変させた父親の死

熊本県葦北郡芦北町女島。集落が面する不知火海(しらぬいかい)は、古くから魚が湧く海と呼ばれてきました。この海で代々漁業の網元として栄えてきた緒方家に正人さんは生まれました。

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網元の緒方家一族

その生活が一変したのは、1959年のこと。正人さんの父親で緒方家当主の福松さんが、突然、水俣病に倒れたのです。

当時、水俣病は原因不明の病でした。1950年代に水俣では大量の魚が浮いたり、ネコや鳥が突然激しいけいれんを起こしたりして次々に死んでいきましたが、その症状が福松さんにも現れ始めます。

「言葉がもつれて、よだれを流すようになる。視力は衰え、耳もだんだん聞こえなくなる。そして日に日に悪くなっていって、発病から1か月半くらいしてからけいれんがくるようになって、病室の中をのたうちまわった」(正人さん)

やがて福松さんは食べることもできない状態になり、やせ細って亡くなります。

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父親の緒方福松さん

その後、緒方家の人々は次々と水俣病に襲われ、一族20人以上が発症しました。原因不明だった水俣病は、当時「奇病」「伝染病」として恐れられ、緒方さん一家は周囲から差別を受けていたと正人さんが振り返ります。

「学校の行き帰りに、私や親父のことが噂になって。後ろでおじさんおばさんたちが話しているのが聞こえるわけ。『あの子の親父さんな、水俣病で狂って亡くならはった』と言う。うちの前を口を押さえて走り通り抜けていく人たちもいた。『あそこからは嫁をもらうな』という差別もあった」(正人さん)

その後、水俣病の原因はチッソの工場排水であることが判明。チッソは当時、プラスチックの原料となるアセトアルデヒドの生産量で国内トップを誇っていました。その製造過程で発生した水銀を、25年以上にわたり海に垂れ流し続けていたのです。

そして、汚染された魚を食べた水俣の人たちの多くに、症状が現れるようになります。福松さんは激しい症状を示す急性劇症型の水俣病で、町の最初の患者でした。

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緒方正人さん

「子どもながらに、世の中こんなのかと思った。自分の気持ちを収めようがないわけ。親父に毒を飲ませたのは、何者なんだと。『チッソとは何なんだ』というテーマがずっと残り続けた。早く大人になって、チッソをダイナマイトでぶっとばしたいと思っていました。仇討ちをしないと気がすまない。仇討ちをすることが、親父への応え方だと思っていたのです」(正人さん)

闘いのなかで感じた自己矛盾

チッソは、原因が分かった後も排水を止めず、被害は拡大しました。そして、被害者たちはチッソの責任を追及し補償を求めるようになります。

一方で、こうした患者運動は新たな差別の対象になりました。加害者でも被害者でもない町の人たちから「補償金目当てだ」などと揶揄され、水俣の町は分断されていきました。

こうしたなか、正人さんは父親の無念を晴らすために、被害者たちの運動に加わります。20歳で水俣病の認定を申請し、チッソや国、行政に対して補償や患者認定を求めていくようになるのです。

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交渉を行う20代の正人さん 提供 宮本成美

被害者と、チッソや国との対立は深まっていき、正人さんの闘いは10年以上にわたりました。

「加害者を問うという発想からボールを投げたけど受け止めてくれない。仇討ちからだんだん離れてしまうことが、苛立ちとしてあった。認定制度や裁判制度、行政不服審査請求など、さまざまな枠組みの中の水俣病になってしまった。なぜ水俣病事件を認定や補償という金で終わらされていくのか。加害者たちの責任という意味は金だったのか。すり替え、ごまかしではないのかと思った」(正人さん)

自らを見つめ直して恨みから解放される

正人さんは、亡き父の「仇を討つ」という自らの思いと、チッソや行政の責任を追及する患者運動との間に大きなずれを感じていました。そして、31歳で運動から突然離脱します。そのときの思いを自身の著書「チッソは私であった」に書いています。

私は狂いに狂っていたんです。
家のテレビを外に放り投げてぶっ壊しました。あるいは信号機を見ても嫌悪感を感じましたし。
自分を取り巻いている今日(こんにち)の社会を自分が拒絶しようとして出た一種の禁断症状ではなかったかと思います。
みかん山に一日何回も行ってそこの草木と話をするなんてこともありました。
海に行って両手をついてひれ伏すというか、両手を海につけたくなったりもいたしました
(緒方正人著「チッソは私であった」より)

真実に出会いたいと思った正人さんは、漁師として生きてきた自らを改めて問い直しました。

「漁業をやっていて、自分は海から魚を捕って養ってもらってきた。初めて気が付いたけど、いわばイオ(魚)を捕ることは泥棒なんだと。それまでは善悪論で生きていた。善人・悪人と、どこかで思い込んでいた。ところが自分も罪深い存在であると。たくさんの生き物を殺して食って。チッソの責任と言っているけれど、その問いは自らにも向かってくる。『私もチッソの中にいたら同じことをしていたんじゃないか』という問いを発して、絶対に同じことをしなかったという根拠がないことに気が付いたのです」(正人さん)

正人さんはその後、チッソの正門前に座り、従業員一人一人に語りかけ始めます。やがて、座り込む正人さんにチッソの社員が話しかけて来るようになりました。

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座り込む正人さんに話しかけるチッソの社員 提供 宮本成美

「チッソの人たちをダイナマイトで爆破しようと思っていたのは、どこかで人ではなくて鬼人だと思っていたから。ところが、人として受け入れると、自分の危うさも同時に気が付いた。おそらく、許されたのはチッソだけではないです。私自身も許されたのです。私自身の恨みから解放されたのです」(正人さん)

思いを込めて石仏を彫る

チッソが海に流し続けた水銀は150トン以上ともいわれます。熊本県はその処理のために、汚染されたヘドロや魚を2500本以上のドラム缶に詰め込みました。そして、そのドラム缶で海を埋め立て、汚染源の封じ込めをはかります。

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ドラム缶に汚染されたヘドロや魚を詰め込む様子

16年以上にわたる工事の末、水俣のかつて海だった場所には58ヘクタールもの広大な埋め立て地が生まれ、遊歩道や運動場が整備され、市民の憩いの場へと変貌しました。

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埋め立てて造られた人工緑地「エコパーク水俣」

しかし、正人さんはこれで水俣病の問題を終わらせてはいけないと考えています。

「政治や権力に対して、『消しゴムで消すようにはいかないよ』と言いたいですね。いくら水俣病のことを終わらせようとしても、そうはいかないよと。私は、毒を毛嫌いして忌避するだけではすまないと思っている。見えなくして蓋をして隠してしまうだけではダメだと思うのです。罪を行った側の人間の目覚めこそが大事です」(正人さん)

1994年、正人さんが40歳のときに、犠牲になった生き物たちを埋め立て地に奉ることを水俣市に提案します。正人さんたち水俣病患者は自らの手で石に仏の姿を彫り始め、不知火海を望む場所に25年以上にわたり建て続けてきました。

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正人さんたちが彫った石仏

「海を代表する恵比寿様に詫び入れの気持ちがあったからです。一見すると都会にあるような公園風の感じで、市民が集う憩いの場みたいに見えるけど、その下には何があるのか、どういう歴史を背負ってきたのかということを思っていたから」(正人さん)

水俣病に終わりはない

父親の仇討ちから始まった正人さんの活動は今、全国で起きている環境汚染の問題にも向けられています。原発事故の被災地・福島、基地建設のために埋め立てられる辺野古の海などを訪れて、水俣の経験を伝えてきました。

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福島県で講演する正人さん 2012年 提供 水俣フォーラム

「『水俣病』という言葉のなかに、近代文明社会の病んだ姿があるのです。極めて普遍的に、今の環境問題が起きていると思っている。海、山、自然界のことを地球的な規模で多くの人が心配している。その通りだけど、逆に自然界が我々のことを心配していると思う。このままだと人間たちの行く先はどうなるのだと。『まだ目が覚めんのか、お前たちは』と言われている。実は世の中が思っているのと逆で、私たちのほうに願いがかけられていると思う。目覚めてほしいという願いが」(正人さん)

正人さんの現在の水俣病に対する思いは著書から読み取れます。

水俣病は病気のことも大きかですけれども、家族、地域が壊されてきた。
そういう問題がまだ尾を引いている。
水俣病事件に終わりはないと思います。
そのことの痛みを感じ取っていきたいし、我が身に引き受けたいと思います。
(緒方正人著「チッソは私であった」より)

公式確認から64年あまり。今も1500人以上が認定申請を続けるなど、水俣病をめぐる問題は終わっていません。

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緒方正人さん

【特集】水俣から考える
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※この記事はハートネットTV 2020年6月22日(月曜)放送「水俣から考える 第1回 漁師・緒方正人さん」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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