薬物をやめることよりも、当事者の健康被害を減らすことを第一とし、支援につながることを重視する“ハームリダクション”(Harm Reduction=被害の低減)。現在80以上の国や地域で導入され、世界で主流となっている薬物問題へのアプローチです。薬物をやめられずにいる当事者はハームリダクションをどう捉えているのか、カナダ・トロントの現場で声を聞きました。
民間支援団体が運営する「モスパーク・オーバードーズ・プリベンションサイト」。政府の援助を受けたトロント市内に9つある“注射室”の一つです。
カナダの薬物法の例外条項によって、“注射室”の中に限り、違法な薬物の使用が罪に問われることはありません。薬物をやめられない人たちが来られる場所を用意し、それをきっかけに必要な支援につなぐことが目的だからです。
モスパーク・オーバードーズ・プリベンションサイト施設内
スタッフのジェニファー・コーさんが迎え入れてくれました。
カナダでも薬物使用者に対する偏見は根強くあります。
利用者の安心感を保つため、取材はプライバシーに踏み込まないことを条件に許可されました。
「利用者の多くは犯罪者扱いされ、周囲から非難されています。なので個人情報は聞き出さず、プライバシーを守ることに気を配っています」(ジェニファーさん)
私たちの前に現れたのは、ストゥさんと名乗る男性です。カメラを向けても構わないと申し出てくれました。
半年前から、ほとんど毎日この場所を利用しているといいます。
席に座るストゥさんに、スタッフのサラ・グレイグさんが話しかけます。
サラさん「昨夜は何をしたの?」
ストゥさん「特に何も。友達に会ってしゃべっただけさ」
ストゥさんは、自分で手に入れた薬物を持ち込んでいました。
ストゥさん「新しい薬が出回ってる」
サラさん「使ってみたことある?」
ストゥさん「ないよ」
サラさん「じゃあ(私たちが監視できるから)持ってきてくれてよかった」
闇市場で売られている薬物には、どんな成分が入っているか分かりません。隠れて1人で使用した場合、命に危険がおよぶケースも珍しくないといいます。
「本当はやりたいことじゃないけど、生活の一部になってしまっているんだ。いずれは使わなくてすむようになりたいと望んでいるけどね」(ストゥさん)
サラさんに消毒してもらい、自分で薬物を注射するストゥさん。薬物をやめたいという気持ちと、やめられない現実とのはざまで悩む、正直な思いを語ってくれました。
ストゥさん
「ここは安全なんだ。前は隠れてやっていたんだ。恥だと感じていたから。ここなら死なないと安心できる。誰かが気にかけてくれるから。もし薬物を使って危険な状態になっても、助けてもらえることが一番大きいね。必要な時にはいろいろ助けてもらえるし、気分がすぐれない日には、ここの人たちが力になってくれる。もっとこういう場所が必要だよ」(ストゥさん)
利用者の多くは、薬物を使う背景にさまざまな困難や痛みを抱えているといいます。この場所で人とつながることは、苦しい日々を抜け出すための助けとなっていきます。
「私たちはここに来る人は誰でも一人の人間として敬意をもって迎えます。彼らの多くは家族との関係が悪かったり、連絡を断っていたりします。家族のような存在を求めてここに来ているんです」(サラさん)
デイブさんと名乗る男性にも話を聞くことが出きました。
以前は路上生活をしていましたが、2年前にこの場所につながり、薬物の使用を非難されず安心して支援を受けられたことで、人生に大きな変化があったといいます。
デイブさん
「ここのスタッフはすばらしいんです。心が広くて何でも相談できます。住居でも何でも、支援がいる時には助けてくれます。泣きたければ肩を貸してくれる人がいるんです。ここは多くの人生を変えてきた場所です。僕は薬はまだやめていませんが、特に支障もなく働けています。前みたいに盗みなどもせず、社会の一員として貢献できています。この場所のおかげです。そうでなければ今の仕事にもつけず、薬欲しさに何かしでかしていたでしょうね」(デイブさん)
スタッフのジェニファーさんが案内してくれた部屋の一角には、食べ物が用意されており、利用者を歓迎する施設の姿勢が感じられました。
「私はここでの支援が有効だと信じています。温かく迎えてくれる場所があり、批判されることなく一人の人間として話を聞いてもらえること。それは人生を良くする上で大きな助けになるはずです」(ジェニファーさん)
日本とはまったく異なる薬物問題へのアプローチをどう捉えたらいいのか、ハームリダクションについて調査・研究を行う、薬物政策評価センター・ディレクターのダニエル・ワーブさんに伺いました。
「(ハームリダクションは薬物使用や依存する人を減らすことに)つながっています。ハームリダクションは単独で実施されるものではなく、薬物を使っている人を医療や住宅などの支援につなげることが目的です。こうした重要な支援を彼らは利用しません。あまりにもハードルが高いからです。ハームリダクションは、中継地点(ハブ)のようなものです。治療へのアクセスを促し、薬物依存者の数を減らすことが最終目標ならば、ハームリダクションは最善の手段です。社会から取り残されている人々と、医療や福祉などの支援の間にある溝を埋めるからです」(ワーブさん)
日本では、薬物使用者に対するスティグマ(偏見)が根強く、こうした考え方を社会が受け入れるのは難しいような気もします。その点について、ワーブさんはカナダでの経緯を話してくれました。
「カナダでも他の多くの国と同じように薬物の使用に対してスティグマ(偏見)がありました。ほとんどの人が薬物を使う人は弱い人たちで、倫理的に問題があると考えていました。ですから、ハームリダクションの実施に関しては、激しい論争が起こりました。しかし、ある時点で薬物使用が社会に与える損害が耐え難いものになったのです。スティグマはまだありますが、実用主義がそれを上回ったのです。薬物の使用に関してどう個人が感じようと、そこから生じる社会問題を解決するには実践的なアプローチが必要だと。それ以来、スティグマ(偏見)が減少しました」(ワーブさん)
ハームリダクションの取り組みによって、薬物依存から抜け出した人にも会ってみることにしました。
訪ねたのは、さまざまな困難を抱える女性を支援する民間団体「シスタリング」です。ここでは薬物使用の経験がある人が、スタッフとして働いています。
彼女たちはピアワーカーと呼ばれています。ピアとは「仲間」、つまり「同じ経験をした人」という意味です。
シスタリングで働くピアワーカーたち
ピアワーカーの1人、シェリ・ロージさんは、ここで働いて3年になります。薬物依存に苦しんでいた自分を救ってくれたのは、ピアワーカーとして働く仲間たちだといいます。
「10年前、私は路上生活をしていて、重度の薬物依存とアルコール依存でした。行くところもなく、シェルターを転々としていました。他にもいろいろと人生で失い、地べたからはい上がらないといけませんでした。自分の人生をやり直したいと思えるまで、およそ2年かかりました。そのための動機が必要でした。薬物依存はとても深刻です。人生に絶望をもたらします。でも、大勢の女性に助けられ、今の私がいます。だから私も、ほかの女性たちを助けたいんです。『あなたにだってできるわ』ってね」(シェリさん)
この団体では8人のピアワーカーが働いています。仕事をし、賃金を得る。そのことは、彼女たちにとって大きな意味があると、ハームリダクション・コーディネーターのザーラ・ボルウクさんはいいます。
「彼女たちもスティグマを負ってきました。世間から無視されたり、非難されたり、そうした苦悩を経験してきたからこそ、ピアワーカーの気持ちは本物なんです。机上の理論ではなく、実際に生き抜いてきた体験を持っています。だから信頼できます。熱を出したことがある人は『熱がある』という状態がよくわかります。薬物使用も同じです。だから彼女たちに賃金を支払います。それは彼女たちの自信になります。『ちゃんと仕事をして稼いだ』『取り残されている人を助けられた』と」(ザーラさん)
シェリさんは今、リーダーとして後輩を導く立場になりました。次の目標は、10代の若者たちを危険な薬物使用から守ることです。
「多くのサポートのおかげで仕事を続けられています。真剣に取り組んでいるし、助けが必要であれば何でもします。恩返しがしたいのです。薬物依存の苦しみを知っているから。私には大きな役割があります。決して楽な仕事ではないけれど、大きな充実感を感じています。数年前と比べて、今の自分に誇りを持っています」(シェリさん)
カナダで見てきた“ハームリダクション”。
日本の薬物乱用防止教育では、薬物を使っている人は「怖い」というイメージばかりが先行しています。しかし、今回の取材で出会った当事者は、みな穏やかに話をしてくれる“普通の人”でした。どの現場でも彼らは尊厳を大切にされ、安心できる空間であることが“回復”に繋がっているように感じました。
日本はこれから薬物問題にどう向き合っていくのか――
人の「尊厳」を大切にした、「実践的な」アプローチについても考えみるときが来ているのではないでしょうか。
【特集】薬物依存を考える “ハームリダクション”の現場から
(1)薬物をやめることより「支援につながること」を重視
(2)「尊厳を大切にされること」が回復につながる ←今回の記事
(3)いま日本に必要なことは?
※この記事はハートネットTV 2020年4月7日放送「特集 薬物依存を考える① 安心して支援につながるために ~“ハームリダクション”の現場から~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。