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「学び」を取り戻したい 沖縄・自主夜間中学校の日々

記事公開日:2019年08月02日

那覇市にある自主夜間中学校。通ってくる多くは、戦争による混乱と貧しさのため学校に行けなかったお年寄りの人たちです。それぞれに共通するのは、学齢期は過ぎても学ぶことへの強い意志と、失われた青春を取り戻そうとする姿。人はなぜ学ぶのか? 70年越しの学びの時間を見つめました。

夜間中学校の日常

沖縄県那覇市にある自主夜間中学校・NPO法人珊瑚舎スコーレ。昼間のフリースクールの子どもたちと入れ替わりで夜間中学校が始まります。

画像(NPO法人 珊瑚舎スコーレ)

夕方6時前、クラスメイトが集まってきました。

画像(教室に集まってきた上原美代さんたち)

上原美代さん(72)は中学2年生。級長の具志堅政雄さん(86)は勉強家です。いつもころころ笑っているのが小田ミヅエさん(72)。新里好子さん(86)は昔のことをよく覚えています。最年少の翁長エツ子さん(68)は文学少女。平日の夕方6時から、毎日3時間。雨の日も風の日も、一緒に学んでいます。

まずは、昼間の授業を終えて残っているフリースクールの子どもたちや先生たちとウチナーグチ(沖縄の方言)ラジオ体操です。そして、授業が始まります。具志堅さんと美代さんは他のクラスメイトと分かれて初歩のクラスで勉強します。先生は、元教員など全員がボランティア。手当をすべてNPOに寄付しています。美代さんと一緒に授業を受けるのは、中等部2年の山川虎雅(たいが)さん。子どもたちの助けも借りて授業が始まります。

画像(英語の授業を受ける美代さんと虎雅さん)

先生「英語の授業を始めましょう」
美代さん・虎雅さん「レッツスタート、アワイングリッシュクラス!」

美代さんの大好きな英語の授業。基礎のアルファベットから学んでいます。何度も練習していますが小文字がなかなか覚えられず、苦戦中です。

先生「大文字と小文字一緒になったぞ」
美代さん「兄弟ですよ」
先生「たしかに兄弟だけど。ははは」
美代さん「あ~そっか、OPQ、Qは・・・、これに近いわけだ」
先生「そうそうそう」

画像(一緒に授業を受ける美代さんと虎雅さん)

スコーレは、昼間のフリースクールの子どもたちも自由に参加できるのが特徴です。保護者の迎えを待つ子ども、夜間中学の生徒になついて参加する子ども、戦争の話を聞きたいと思って参加し始めた子ども、動機はさまざまですが、誰かが誰かにいつも一方的に「教えてあげる」のではなく、よく知っている人が知らない人に教えます。

この日、最年長の具志堅さんは、数学の文章問題に苦戦していました。小数点のある数字が邪魔をして、問題文を理解できません。虎雅さんが一生懸命説明しようとしましたが、なかなかうまくいきません。高等部3年の上野響生(ひびき)さんに助けを求めます。

画像(響生さんのサポートを受ける具志堅さん)

響生さんは3年前、みんなと同じように地元の一般高校に進学することに疑問を持ち、ここに入学してきました。みんなで授業を「つくろう」というスコーレの目標が気に入ったといいます。

「計算ができるようになってほしいっていうことでもちょっと違う。でも見てて、やっぱり楽しそうだなっていうのは思うから、楽しんでいたらそれは俺だってうれしいし、たぶん向こうもそれは同じで、僕がやっぱ楽しそうにうれしそうに一緒にそこの空間にいるっていうのは、向こうにとってもうれしいんじゃないのかなとは思う。だから、そこに対して頑張ろうとかもっとこうしてあげようとかは、別にそんなにない。一緒に楽しく笑えてたらいいんじゃないかなっては思う」(響生さん)

燃え上がった「再び学びたい」気持ち

美代さんたちが今になって中学校に通うのには、沖縄の歴史が関係しています。

画像(1945年6月23日 沖縄本島の組織的戦闘が終了)

1945年、太平洋戦争終戦の年。沖縄では地上戦により、住民の4人に1人が命を奪われました。沖縄本島で組織的戦闘が終了したのは、米軍の侵攻から3か月後。1945年6月23日のことでした。以降27年間にわたり、沖縄は米軍の占領下におかれます。その間、人々は生活を一から立て直さなくてはなりませんでした。

子どもたちの教育も、そのひとつです。地上戦で、ほとんどの学校が崩壊。授業の大半が青空教室やテントで行われ、教員や教科書も不足していました。

画像(5歳から14歳の5人に1人が未就学。(1950年琉球政府調べ))

終戦から5年後に行われた調査では、少なくとも5歳から14歳の5人に1人が学校に通っていなかったことが明らかになっています。

美代さんは終戦から2年後、那覇市で生まれました。7人きょうだいの長女だった美代さん。家計は苦しく、きちんと小学校に通うことができませんでした。

画像(上原美代さん)

「朝の仕事して、水くみして、掃除して、家畜のえさあげに、豚のえさを担ぎながら友達にかばん渡して学校に先に行かせておいて。それから私は1時間遅れ、2時間遅れて、学校行って、っていう生活してますから。全部の授業を受けてないんですね」(美代さん)

当時、沖縄の町には、親を失ったり、家計を助けるために働く子どもたちが数多くいたといいます。美代さんも小学生の時からアルバイトを始め、中学校になっても遅刻や早退の繰り返し。授業はどんどんわからなくなっていきました。学びたい気持ちを抑え、稼げる仕事を探して米軍関係のクリーニング、介護など様々な仕事に就いて働き続けてきた美代さん、24歳で結婚してからは、子育てと夫の商売の手伝いやその借金の返済に追われ、自分のために使える時間はありませんでした。

70歳になった頃、ニュースで夜間中学校のことを知ります。「再び学びたい」という気持ちが燃え上がり、すぐに連絡を取ったのです。

「やっぱり、自分がね、勉強できなかったときになんで意地でも勉強しなかったかねって思うんですけどね、でも私たちは親を助けるために、兄弟を助けるためにね、この働くという、自分が勉強しなくても、兄弟がやればいいさって。今だったら、あのときやらなかったから今ができるんだ、ってまた幸せを逆に受けとるようにしてますね」(美代さん)

美代さんの日課は授業の復習。家事の合間にノートに向かいます。アメリカに嫁いだ妹に会いに行くのが目標です。

消えなかった義務教育への思い

辺野古の基地の問題から文学作品まで。
美代さんのクラスメイト、具志堅政雄さん(86)は新聞を隅々まで読み、次女のかおりさんと語り合うのが日課です。

画像(次女と新聞について語り合う具志堅政雄さん)

終戦を迎えたときは13歳。すぐ下の弟が空爆で亡くなり、長男の具志堅さんが年の離れた兄弟の面倒をみなくてはなりませんでした。具志堅さんはわずか15歳で大人にまじって米軍基地で働き始めます。仕事は日雇いの土木作業やトラック運転手などでした。

画像

米軍で働いていた時の具志堅政雄さん(右上)

「道で同級生を見たりすると、道を避け、避け、自分で、なんとなく避けちゃうんですよね。負けてるようでと思ったけど、実際負けているんだから。意味ないんで。『意地はるな』と自分でも自分自身に言い聞かせながら。『うわ、悔しいなー』っていう気持ちで、もういっぱいだから」(具志堅さん)

子どもや孫に恵まれても、義務教育をきちんと受けていない、という悔しさは消えず、かえって強くなっていきました。その穴を埋めるために、中学校の参考書を買い集め、自力で勉強しつづけてきました。

画像(テキストが並んでいる具志堅さんの本棚)

「楽しいです。なんというんですか知識が増えるっていうのが楽しいですね。その知識を活用できるところまでやりたいって気はある」(具志堅さん)

学ぶことで豊かな存在に

夜間中学校に通う人たちの年齢はさまざま。年を重ねた分だけ人生経験があります。先生たちは、そんな生徒たちにぴったりの授業をしてくれます。この日の理科は、沖縄に住む人たちにとってとても身近な「台風」の話題。先生が「経験談を聞きたい」と言うと、「それきた!」とみんなの体験談が飛びかいます。

画像(台風についての授業を受ける美代さんたち)

新里さん「沖縄は『台風の道』って言われておりましたから」
ミヅエさん「釘を打って、桟を打って」
新里さん「竹で戸を閉めたり」
具志堅さん「家ごと隣を越して向こうの道路にそのまま道の真ん中に家が持って行ってしまって」
先生「今は?」
新里さん「今はもう遠ざかっておりますから」
美代さん「来てもそんなに強い台風きませんでしょ」

そして、ここからが授業のメインテーマです。

先生「なぜだと思います?」
美代さん「なぜかと思いますかと言われたら・・・」

身近な話題から、地球の温暖化と沖縄の台風との関係まで。おしゃべりしているうちに地球の仕組みを学習していました。こうした授業の様子を記録して、本にまとめた人がいます。沖縄大学学長の盛口満さんです。7年前まで、この夜間中学で理科を教えていました。生徒たちが自分の経験を語り合いながら進める授業の中に、「学ぶ」ことの本質を見つけたと感じています。

画像(沖縄大学学長 盛口満さん)

「昔は、ほんとに小さいときから家畜のえさを刈ってどの草がやぎが食べるとか、そういう体験をたくさんしているわけですよね。夜間中学のおばあちゃんたちはいろんな形の何かのものを持っているんだけど、あんまり意識できなかった。でもそれをたとえば理科の何かの法則みたいなものに結びつくと、『そういうことだったのか』ってすとんと落ちるって話だと思うんですよ。『私がやってきたことはきちんと意味があるんだ』と確認ができる。さらにその確認をもとに新しい自分というものに出会って、また少しものを積み上げていく。これが学びなんだな、と」(盛口さん)

戦争で義務教育を受けられなかった人の学びの場として、珊瑚舎スコーレが自主夜間中学を始めたのは15年前。2011年には、沖縄県の支援が始まりました。これまでに92人が卒業。しかし、2018年3月、県の補助金が打ち切られることになり夜間中学は危機を迎えます。この危機を救ったのが、卒業生や在校生、教師など、学校の存続を願う人たちでした。2万を超える署名を集め、支援再開にこぎつけたのです。このとき、中心になって自主夜間中学の大切さを訴えたのは、スコーレ代表の星野人史さんです。

画像(NPO法人 珊瑚舎スコーレ代表 星野人史さん)

「『夜間中学校の人は今さら行ってなんになる』ってことでしょ?そういう風に言う人も実際いますから。『そんな年とって数学できるようになってどうするんだよ』って。違う。それは豊かになっていくんですよ。自分自身が豊かな存在になっていくんですよ。そうすると社会はすごく優しくなっていく。つまり、人はいつでも学べるときに学べなくちゃいけないですよ。そういう場が必要なんですよ」(星野さん)

生徒の美代さんも学校で学び始めたことで人生がどんどん豊かになっていくのを感じています。
2年前から、母子家庭などの理由で学校に行けない子どもたちと勉強するための居場所を開きました。覚えたてのアルファベットを、子どもたちと一緒に学びます。

画像(子どもたちと一緒に勉強するする美代さん)

「自分にできなかったことが、今の子どもたちに教えておけば、結果は今出るんではなくして10年後、20年後だから。そのときには私80、90になってるから。楽しみはいっぱいありますよ。その間、私も(学校)通って勉強せんといけないし、もう体力勝負だ。あはは・・・」(美代さん)

年齢も、境遇も違う仲間と、机を並べるからこそ出会える「学び」。その喜びを求めて、今日もみんな学校にやって来ます。

※この記事はハートネットTV 2019年6月19日放送「失われた日々 取り戻す日々~沖縄・自主夜間中学校~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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