阪神・淡路大震災、東日本大震災など数多くの災害が起きた平成の30年間。災害時にとりわけ被害をこうむる人たち、「災害弱者」の存在が知られることとなりました。自力では避難できず、命を落としてしまう障害者や高齢者。同じ過ちを繰り返さないために、私たちに何が必要なのか。歴史を振り返りながら、平成が突きつけた「災害弱者」の課題を考えます。
戦中から戦後すぐの日本では、毎年のように千人から数千人が、地震や台風で亡くなっていました。そのような時代、昭和22年の国会で「災害救助法」が成立します。さらに昭和36年、5000人を超える犠牲者を出した伊勢湾台風のあとに「災害対策基本法」が成立しました。
法の成立後は、治水技術も進み、大雨による被害は減少していきました。そして経済成長の時代、犠牲者千人規模の大災害は起こることなく、昭和は終わりを迎えました。
一方、昭和の時代は障害者運動が立ち上がった時期でもありました。
長く障害者運動に関わってきた福永年久さんです。脳性まひで車いすで生活をしています。
福永さんは22歳の時、「青い芝の会」という自立生活を目指す障害者団体と出会います。この団体は苛烈な運動で知られていました。川崎では、車いすでの団体乗車を拒否したバス会社に抗議すべく、全国から40人が結集。無理矢理バスに乗り込もうとして運行を妨げました。いわゆる、川崎バス闘争です。
福永さんも抗議に参加しました。その後も、福永さんは障害者のための運動に半生をささげます。運動をはじめて3年後、福永さんは25歳のときに運動の仲間である三矢英子さんと結婚。子宝にも恵まれました。
そんな中、「災害の時代」は始まります。
平成7年1月17日、福永さんが暮らしていた地域で、阪神・淡路大震災が起こります。死者6434人は、当時、戦後最多。未曾有の混乱のなかで、明らかになったのが「災害弱者」の存在です。
地震の日、自宅で1人寝ていた福永さんは、起き上がれずにいたところを、駆けつけたヘルパーの学生に救助されました。しかし、公私ともに連れ添った三矢さんは、近所で建物の下敷きとなり、17歳の娘を遺して亡くなりました。
救出された福永さんは、近くの避難所に向かいました。ところが、開放された部屋は2階と3階でエレベーターはなく、入ることもできませんでした。他の避難所でも、車いすが通れる通路がない、トイレも使えない。障害者は、危険な自宅へと戻るしかありませんでした。
「災害弱者」である障害者は、声を上げなければ助からない。そう感じた福永さんは西宮市に、建物の1階にある会議室を要求し、仲間たちの避難所にしました。避難生活の中で、希望となったのが、障害者団体のネットワークです。すぐに全国から、福永さんのもとにボランティアや物資が集まりました。
福永さんたちは、障害のあるなしにかかわらず、疲れた被災者へ温かい食事を振る舞いました。障害者のつながりが力を発揮したのです。
「僕らとしては、もっともっとネットワークを広げていかんかったら、こんな時、どないもできへんなとつくづく感じた。今こそやらんかったら、もう障害者の自立はありえない」(福永さん)
大震災をきっかけに、福永さんは全国の仲間と、被災した障害者を支える団体「ゆめ風基金」を設立します。この「ゆめ風基金」は、平成を通じて大きな役割を果たしました。
阪神・淡路大震災では、もう一つ大きな課題が浮き彫りとなりました。地震で助かった人が、避難環境の悪さから命を落としてしまう、いわゆる「災害関連死」が919人にもなったのです。そのうち9割は高齢者でした。
国は災害弱者の対策に動き出します。平成9年、厚生労働省の課長通知により、自治体任せだった災害救助の方法に指導が入ります。第3項には、高齢者や障害者など、特別な配慮が必要な人への支援で、避難所のバリアフリー化などが提言されました。
震災から2か月経った日のこと。福永さんたちに事件が起きます。避難先の総合教育センターが、通常業務を再開したいという理由で、福永さんたちに立ち退きを要求したのです。福永さんは、まだ住む場所のない障害者がいることから、別の避難場所を市に求めました。
福永さんたちの要求に対し、市が新たに提示した体育館は、車いすでの出入りがしづらく、他の避難者も大勢いて、介助者と生活することが難しい場所でした。その体育館がだめならどこが良いか示してほしいと、担当者は福永さんに求めます。
市「これはどうしても無理やから、もっとこういうところをと、(候補を)出してもらって・・・」
福永さん「それ、僕らがやらなあかんことか?市が考えるべきやろ。僕らが考えることちゃうやんか。あんたら全然考えてないやないか」
被災した全ての人の暮らしを守るのが行政の責任。
ところが、その「全ての人」の中に、障害者の存在があまりにも想定されていないのではないか――
福永さんのこの訴えは、今の時代にまで通じる重要な問題意識を含んでいました。福永さんは、こうした理不尽なことがたくさんあったと、当時を振り返ります。
阪神・淡路大震災のあとも大規模災害は相次ぎました。
平成16年7月には新潟・福島を豪雨が襲います。新潟で浸水した民家では、高齢の妻が寝たきりの夫を動かせずに2階へと逃れ、目の前で夫が濁流にのまれるなど、「避難」の課題が明らかになりました。
また、震度7を記録した新潟県中越地震では、地震による直接死16人に対し、災害関連死は52人。原因は、車中泊で生じた静脈血栓などで、その8割は60歳以上の高齢者でした。
これらを受けた翌年、国は自治体に新たな伝達を行います。「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」です。
このガイドラインでは、行政の力には限界があることを前提に、災害時の避難は自助や近隣の共助が基本となると明示されました。そして市町村に対し、自力での避難が難しい災害弱者の名簿、いわば「命のリスト」を作り、一人一人の避難計画を立てるよう促しました。
ところが、防災と福祉の連携が欠かせないこの構想は、縦割りの行政のなかで思うように進まないまま、次の大災害を迎えることになります。
後編では『「災害弱者」 繰り返される悲劇』では、「災害の時代」平成の後半を振り返り、防災のあるべき姿を考えます。
※この記事は2019年3月6日(水)放送 ハートネットTV シリーズ平成が残した宿題「第8回 災害弱者」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。