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自殺~生き心地のよい社会へ~ 平成30年間を振り返る

記事公開日:2019年01月21日

平成に入ってから自殺で亡くなった人の数は80万1,291人。経済危機が深刻化する平成10年に自殺者数が急増、年間3万人が命を絶つという事態は14年間続きました。今も10代や20代の死因第1位が自殺となるなど、若者の自殺も課題として残っています。NPO代表や自治体職員、専門家、そして遺族、それぞれの立場で「自殺」と向き合った方々と30年を振り返りました。

タブー視された自殺

昭和58年。年間の自殺者数は2万5,000人を超え、戦後最多となりました。自殺者が増えていることについて社会の関心も高まりましたが、当時は「若いのにバカみたい」(街頭インタビューに答える男性)、「自殺するんだったら、ちゃんと保険がもらえるような死に方をしてほしい」(街頭インタビューに答える女性)といった声も。自殺に対する世間の意識は低いものでした。

根岸親さんは、8歳のとき、父親を自殺で亡くしました。ホテルの従業員を務めていた父は、うつ病を患っていました。根岸さんは父の死が自殺であったことを10年間知りませんでした。

画像(NPO法人・ライフリンク 副代表 根岸親さん)

そんな根岸さんが感じていた当時の風潮は、自殺への「タブー視」でした。

「私自身、事実を知るのは平成9年、大学に入ったころでした。当然、母親は事実を知っていて、世の中の空気というものは感じていたと思います。私たちの家族にも、まさかそんなことが起こるとは思ってなかったと思うんですけど、それが起こってしまうと、そのことは決して触れられないし、後ろめたさみたいなものを何故か感じていました」(根岸さん)

馬場優子さんは、足立区・衛生部で、保健師として自殺対策に携わってきました。自殺に対する、自分自身の当初の認識をこう振り返ります。

画像(足立区 衛生部 こころとからだの健康づくり課 課長 馬場優子さん)

「自殺は自分には関係のないことと思っていました。私は昭和の終わりは大学病院で看護師をしていたんですね。そうすると、自殺未遂で脳挫傷で搬送される方もいたんですけれども。まだ当時の私はどこかで、『この人は自殺をしようとして、死にきれなかったんだな』と思って。そして『あとに不運にも交通事故に遭った人が控えているんだけどな』という気持ちを抱えながら、手術に臨んでいました」(馬場さん)

平成中期 動き始めた自殺対策

自殺を「他人事(ひとごと)」とする世論が未だ根強かった平成の初め。しかし、平成の中期、日本の自殺対策は大きな転換点を迎えます。

平成9年の山一証券廃業をはじめ、金融機関が相次いで破綻し、深刻な経済危機に突入。中小企業の倒産、社員のリストラが相次ぎました。平成10年になると中高年の自殺が急増し、年間の自殺者数は3万人を突破します。

そんななか、平成12年、一冊の文集が発表されました。タイトルは、『自殺って言えない』。
親を自殺で亡くした子どもたちが、誰にも言えなかった心の内を初めて言葉にしたものです。

画像(文集「自殺って言えない」)

この頃、NHKのディレクターだった清水康之さん(現:NPO法人 ライフリンク 代表)は、文集を書いた遺児たちの取材を始めました。取材を始めた3年後、清水さんは自ら自殺対策に取り組むため、NHKを退職してNPOを設立。遺児たちのことばを聞いたときの思いを清水さんはこう説明します。

画像(NPO法人 ライフリンク 代表 清水康之さん)

「言ってはいけないと思っていたことを、言わなければならないという引き裂かれるような状況のなかで、でも、腹をくくって語ると決めたら、正々堂々とマスコミに対しても声を出した。彼らが踏みだした一歩を、その一歩だけにとどめるのか。それとも、社会としてそれをしっかりと引き継いでいくのか。ある意味、球をわれわれに投げられたと感じました。本当にど直球の、ど真ん中の球を彼らは投げてくれた」(清水さん)

国を動かした自殺対策基本法の成立

根岸さんたちが文集を発表したころ、全国に先駆けて自殺対策に乗り出したのが秋田県です。うつ状態にある人への適切な接し方を学ぶなど、地域の人々の力を活用する新しい取り組み。モデル事業を行った地域では実施前と比べて自殺率が47%減少しました。

当時は「自殺したいほど深刻な状況にある人たちに素人が手を出すべきではない」、「病気の問題なのだから、医者に行って治すべき。なぜ社会全体でやる必要があるのか?」といった声もありました。

しかし、秋田大学医学部でモデル事業の中心を担い、現在は自殺総合対策推進センターのセンター長を務める本橋豊さんは、地域が力を合わせて取り組むことが重要だと考えました。

画像(自殺総合対策推進センター センター長 本橋豊さん)

「さまざまな社会的な背景要因があって、それが精神疾患などの最終的な状態に影響しているのであるから、もっと上流のところのいろいろな要因をきちんと考えなきゃいけない。それはお医者さんだけの仕事ではなくて、さまざまな専門家、それから一般の方々が関与しなくてはいけない。そういう意味では、地域全体で力を合わせてやるべき仕事」(本橋さん)

一方、NPOを立ち上げた清水さんは、自殺対策の法律を作ろうと国に働きかけました。法制化を求める署名活動も行い、2か月間で10万人の署名を集めます。清水さんが目指したのは、自殺対策を国レベルで進めることでした。

「自殺対策をボランティアレベルではなくて、社会全体で進めていく。その枠組みを作るとなれば、当然政治に対して働きかけというのは不可欠です。いかにして社会的な枠組みを作るか。つまり、法律を作るか、ということを考えていました」(清水さん)

画像

シンポジウムに登壇する清水さん(資料提供:NPO法人 ライフリンク)

平成17年、参議院議員会館で開かれたシンポジウムで、清水さんは、国が自殺対策を進めることの必要性を強く訴えました。当時の政府や関係省庁は自殺対策に対して慎重でしたが、出席した厚生労働大臣は、初めて政府として取り組む意志を示しました。

このことをきっかけに、超党派の国会議員らの活動も活発化し、平成18年、自殺対策基本法が成立しました。

平成最後の10年

平成最後の10年間は、法律に基づいた具体的な実践へと進みます。清水さんたちがまず始めたのは、自殺の実態を把握するための調査でした。

亡くなった人はどのような悩みを抱えていたのか、遺族への詳細な聞き取りを行ったところ、職場や家庭の問題、経済的困難など、平均すると4つの要因が重なり、自殺に至っていたことが分かりました。

画像(自殺に至る要因)

調査結果を受けて動いたのが、自殺者数が東京都の23区で最多だった足立区です。
区が開始した「こころといのちの相談支援事業」の中心を担った馬場さんは、それまで「控えるべき言葉」とされていた「自殺」という文字をあえて広報紙の一面に入れ、「こころと法律の相談会」をやることを周知しました。

平均すると4つの悩みがあるならば、相談に来た人を必要な支援に繋げるため、誰かが一緒に各窓口を渡り歩かなければならない。連携の仕組みも模索段階にあるなか、橋渡し役を担ったのは、馬場さんたち保健師でした。

そんな馬場さんが掲げたキーワードは「支援者が孤立しないこと」。

画像(馬塲さんが掲げたキーワード「支援者が孤立しないこと」)

「半年ぐらい経ったときには私もいっぱいいっぱいになっていて。何の心当たりもなく、ただただ涙があふれちゃってたまらない日がありましたね。でもライフリンクの事務所で清水さんと会ったとき、『本橋先生と、足立区で1人で頑張ってる馬場さんを2人で支援しようねって話をしたんだよ』っていう話を聞いてすごくうれしくて。本橋先生からはよく、自殺は孤立の病だっていうふうに伺っていたんですけれども、このときに自分がすごく感じたのは、『支援者が孤立しないこと』。いかに味方を増やして、仲間を増やして、一緒に横並びで進めるか。難しいことなんですけど、それをやっていかないと、この対策は進まないと感じました」(馬場さん)

自殺対策 のこされた課題

その後、平成28年に法改正が行われ、全国すべての自治体に自殺対策の計画が義務づけられました。平成24年、年間の自殺者数は、15年ぶりに3万人を下回り、減少を続けていますが、10代と20代の自殺率は高いまま。現在は若者の自殺が大きな課題となっています。

これまで自殺対策に携わってきた4人に、平成がのこした「宿題」を書いてもらいました。

画像(4人が書いたキーワード)

清水さんが書いた言葉は「必要としている一人ひとりに届ける」。

「死にたいというよりは、今存在している自分を消してしまいたい、というような思いの若者が多い。ですので、若者の自殺対策といったときには、誰もがこの社会で生きていこうと、自分自身であることに納得しながら、満足しながら生きられる、そういう地域や社会をどう作っていくか。年間の自殺者数が減っていることで満足するのではなくて、裏を返すと届いてない人がまだ2万人を超えるということなので。しっかりと、必要としている一人ひとりに届けていく必要があると思います」(清水さん)

根岸さんは「今できることを重ねて形に、つながりに」。

「文集『自殺って言えない』のことや、基本法ができたり、たくさんのご遺族が聞き取り調査に協力してくださったりということが重なって、今できることが増えてきていると思うんですね。それをさらに重ねて形にしていくこと。それは、私たちだけということではなくて、今まだ関心がない人とか、まだ連携がない人たちとも一緒につながりながら広げていくことができたらなと思います」(根岸さん)

本橋さんは希望を込めて「他人事(ひとごと)から我が事へ」。

「共感していく。それは支援される側も支援する側も、お互いに人間として生きていくための共感力みたいなものを、われわれはもっと養っていく必要があるのではないか。直接的な自殺対策ではありません。ただ、そういう社会のあり方をわれわれが常に考えていくときに、『他人事から我が事へ』と考えられるとみんな少し変わっていって、日本の自殺率の底下げにつながるのでは、という希望を込めて、このことばを掲げさせていただきました」(本橋さん)

馬場さんは自身の取り組みについて「ずっと関わっていく」と記しました。

「今まで約10年間ずっと抱えてこの仕事を手放さずやってきたんですけれども、どこかでもしかしたら、部が変わったりして手放さなきゃいけないときが来るかもしれない。でも、今までみんなが関わり続けてずっとその人たちとつながっているように、もし異動があったとしても関わり続けて、一緒にその場所でこの対策を進めていきたいなと思いました」(馬場さん)

画像(4人の出演者)

特設サイト『自殺と向き合う』には、日々「死にたい、生きるのがつらい」という声が届いています。ハートネットTVでは、これからも「死にたいほどつらい気持ち」を安心して言える場を守り、すこしでも生き心地のよい社会になるには?と問いかけ続けていきます。

※この記事はハートネットTV 2018年12月5日放送「平成がのこした宿題(4) 自殺~生き心地のよい社会へ~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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