長年ピアノを教えてきた三川泰子さん(63)は、5年前に若年性認知症と診断されました。脳の萎縮で形の認識が難しくなり、楽譜が読めず、鍵盤と音が結びつかなくなります。一時は落ち込んでピアノにも触れなかった泰子さんを支えたのは、チェロ愛好家で夫の一夫さん。ふたりで練習を再開し、「注文をまちがえる料理店」に夫婦で共演を目指します。
ピアノ教師を38年間務めた演奏家の三川泰子さん。夫の一夫さんは、元中学・高校の数学教師でチェロの愛好家です。来年、結婚40年を迎えるふたりが長らく続けていることがあります。ピアノとチェロの二重奏です。
自宅の音楽室で「アヴェ・マリア」を演奏していた泰子さんが、ピアノを止めます。
泰子さん「どうしたらいいんだろうな、まったくもう。」
一夫さん「大丈夫だよ。落ち着いてね。」
泰子さんは5年前に若年性認知症と診断されました。
モノの形を捉えることが難しくなり、鍵盤の位置もわからなくなることがあります。
「左の頭頂葉の萎縮によって、モノの形がはっきりわからない。例えば、そこにコップがあって、『そこのコップ取ってね』と言っても、なかなか見つけられないとか、そういうのがありました。記憶の方は、最近のことは意外と覚えてて、ちゃんと話をしてくれるんですよね。だから、テレビを観ていても、ストーリーを話してくれたりすることはできるんです。」(一夫さん)
泰子さんは日常生活でできないことも増えましたが、ピアノは弾き続けています。
それは、ピアノが好きだからです。一夫さんもその気持ちに応えるためにも二重奏に付き合います。
「自分の得意なものを奪われてしまうっていう。他のものはまだいいんですよ。自分が好きだったこととか、特にピアノですよね。これは本当に、なんでなのってやっぱり、今も言ってますけどね。本当にかわいそうだな、って思いますよね。」(一夫さん)
昭和54年、「音楽」で結ばれた一夫さんと泰子さん。
披露宴でもふたりは息のあった二重奏を披露しました。結婚後、3人の子どもにも恵まれます。
自宅で毎年のようにミニコンサートを開催。ふたりの生活はいつも「音楽」とともにありました。
そして、一夫さんが泰子さんの異変に気が付いたのも「音楽」がきっかけです。
2010年の冬、泰子さんが55歳のときの様子を一夫さんは思い返します。
「クリスマス会を兼ねたミニコンサートのときに、弾いてくれって言われて『夢のあとに』を弾こうと。これだったら、いつも弾いてるからねって言って。弾き始めたら、弾けなかったのね。だから、多分その頃から始まってたんだなって思います。」(一夫さん)
泰子さんは、徐々にピアノの楽譜が読めなくなっていきます。
また、一つ一つの鍵盤を音と結びつけて捉えることが難しくなりました。
大好きなピアノを避けるようになった泰子さん。
しかし、一夫さんは「また一緒に練習しよう」と誘います。
「人に聴かせなくても、ふたりでちょっとでも楽しめるんだったら、いいんじゃないのって私が思ったわけ。やっぱり、合わせてるときが一番楽しいよね。しかも、合ったときね、気持ちが合ったとき、今日はいいなって、正直思えるもんね。」(一夫さん)
ふたりの一日は毎朝4時に始まります。
朝食のおみそ汁作りは泰子さんの担当。一夫さんが前の晩に用意した具材を鍋に入れます。
たとえ時間がかかっても、一夫さんは優しく声をかけながら見守るのが役目です。
以前は料理が得意だった泰子さん。認知症になり、具材の大きさや形がわからなくなって、包丁を握ることを止めました。しかし、一夫さんは泰子さんに、今できることを、これからもやってもらおうと思っています。
泰子さん「なんかでも、私がさ、全然できないじゃない? だから、父さんに悪いなって思って。」
一夫さん「言ってるじゃない。昔、いっぱいやってもらったんだから。まだチャラにもなってないから大丈夫。」
5時になり、朝食を仕込み終えると散歩に出かけます。
少し天気が悪くても家の周りを30分。
一夫さんは、泰子さんのために毎日、同じことを同じ時間にするよう心がけています。
そして、今日は月に一度の特別な日。
若年性認知症の本人と家族が集まる「小さな旅人たちの会」の日です。
ふたりはこの「ちいたび会」の集いを楽しみにしています。
他の参加者からも、ふたりの仲がよい様子は評判です。
「すっごい仲良しです。」(女性参加者)
「『ちいたび会』一番の仲良し。いつも肩組んで、手をつないだりしてる。」(男性参加者)
一夫さんはビールを飲みながら楽しそうです。
「酔っ払いました。当然ですね。だって、こんな気持ちよくさせてもらえるのは、『ちいたび会』だからね。ね、母さん。」(一夫さん)
泰子さんも笑顔でうなずきます。
泰子さんがピアノの練習を再開して2年。
2017年、ふたりにあるイベントへの誘いがありました。3日間の期間限定で、接客係は全員が認知症という「注文をまちがえる料理店」からの招待。
「注文した料理が届くかは、誰にもわからない。そんな間違いを受け入れ、楽しもう」というお店です。ふたりはお客の前で二重奏を披露することになりました。
「私は三川一夫と申します。女房の泰子です。よろしくお願いします。」(一夫さん)
ふたりが演奏するのは「アヴェ・マリア」。
しばらくすると、泰子さんがピアノを弾く手を止めました。
泰子さん「もう1回やってもいい?」
一夫さん「(会場に向かって)すみません。みなさんいいですか?」
会場からは大きな拍手。そして演奏が再開すると、曲を聴きながら涙ぐむ人も。
今度は無事に弾き終えることができ、ふたりは再び万雷の拍手に包まれました。
ピアノを弾くことで、音楽を奏でることで、人と分かち合えるものがあります。
次の演奏会は京都での「注文をまちがえるリストランテ」です。ふたりがこれまで奏でてきた「アヴェ・マリア」を披露する予定で、演奏会に備えて毎朝欠かすことなく練習をしています。
泰子さん「ごめんなさい!もう1回やっていい?」
一夫さん「大丈夫、大丈夫。」
昔のようにはうまくできない二重奏。それでも一夫さんは満足しています。
「ずっと練習してきたから。音色がよくなって、響きもよくなって、そうすると、音が通るしね。きれいな音になるしね。それは前みたいに弾いてほしいって思うけど、ふたりで合わせる時間を作れるっていうのが、幸せだから。それで幸せって思ってるからね。」(一夫さん)
練習後には、つかえながらも弾く泰子さんのピアノをほめ称えます。
一夫さん「あなただけで弾く最後のところね。あそこがきれいに弾けると、やっぱりいいね。よかったって感じがするし。」
泰子さん「いつも言われるんだよね。」
ピアノが弾けなくなったことで自信を失い、一時は生きる望みまでなくなった泰子さん。
今では演奏をする喜びに包まれています。
一夫さんが心がけているのは、泰子さんと一緒にできる楽しみを探し続けることだと語ります。
「この人ができることを取り上げないっていうのかな。できることはあるはずだから、そういうものを見つけてあげるっていうのが、ふだん気をつけていることですね。あとは、ふたりで楽しむように、いろいろ考えていきたいなっていう風に思ってますね。」(一夫さん)
泰子さんの音楽と笑顔に惹かれたという一夫さん。ふたりの二重奏はこれからも続きます。
※この記事はハートネットTV 2018年9月27日放送「リハビリ・介護を生きる『二重奏で愛の調べを』」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。