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原発事故をめぐる、母親たちの子育てへの不安と願い

記事公開日:2018年10月11日

福島原発事故から7年。その年に生まれた子どもがこの春、小学生になりました。放射線の影響を受けやすいとされる子ども。原発事故が起きたとき、避難区域の外側に住む母親たちはわが子をどう守るか、厳しい選択を迫られました。わが子を守りたい一心から夫を福島に残し、子どもを連れて関西に自主避難した母親。家庭の事情から福島を離れることができず、地元に残った母親。2人の証言をもとに、母親たちが何に苦しんできたのかを考えます。

自主避難を選んだ母親 見知らぬ土地で暮らす孤独

福島市出身の山本さん(仮名)は一度東京で就職しましたが、子どもを自然の豊かな場所でのびのびと育てたいという思いで、福島市にUターンしてきました。しかし、思い描いた人生はある日、突然変わります。原発事故発生当時、山本さんは妊娠7か月。完成したばかりのマイホームに、2歳の長女と夫の3人で暮らしていました。

山本さんの心にいつまでも拭えない不安と恐怖がとりついたのは3月15日のこと。放射性物質が南東の風に乗って福島市にも飛来し、放射線量が上昇します。この日、山本さんは食料調達の買い出しのため、子どもと一緒に長時間外にいました。

「もう放射能を浴びているので『生まれてきた子に何か障害があったらどうしよう』とか。あまりに妊婦、乳幼児ってとにかく危険だと言われていたので。全部が当てはまりすぎてて、福島にとてもいたくないくらい恐怖感が出てきました。」(山本さん)

6月に無事長男を出産した山本さんでしたが、その喜びに浸る間もなく、新たな恐怖に襲われます。山本さんが住む福島市は、国の指示で住民が避難した区域に含まれていません。ところが、区域外でも国が住民に避難を勧めるほど線量が高い場所が次々と見つかります。もっとも近いものだと自宅から8キロしか離れていませんでした。

画像(出産直後の写真)

長男を出産した翌月、山本さんは自主避難することを決断します。一刻も早くここを離れたいという思いで、国の避難指示は待てませんでした。向かったのは、福島からの自主避難者に無償で住宅を提供すると宣言していた関西の自治体でした。

「もう見る風景のすべてが泣けてくる。本当だったらずっといたかった福島をこういう形で出て行かねばならない気持ちと、まずは自分ができることといったら、自分の子をとりあえず避難させることしかできなかった。」(山本さん)

山本さんが入居したのは、築50年の公務員住宅。夫はこれまでの仕事を続け、ローンが残る新築の家を守るために福島に残りました。山本さんは誰も相談相手がいないなか、2人の子どもの世話と家事に追われます。さらに、被ばくしたという自覚からつのる不安。それを打ち消してくれる情報が欲しくてパソコンにしがみつきました。

「さまざまな情報が錯乱していて、それをすべて見てしまうとのめり込んでいって。見過ぎは良くないなって自分で思ったりもしましたけど、見ずにいられないようなときもありましたし。放射能は目に見えないものなので。」(山本さん)

家族バラバラの生活は、山本さんをさらに追い詰めました。心配した夫は、福島から頻繁に関西まで通います。その支出が、家のローンを払いながら避難生活を続ける一家にのしかかりました。自主避難のため、公的な支援は限られています。
深まる孤立、家計のひっ迫。関西に来て1年たったある日、泣きやまない子どもたちを前に、気がつくと山本さんは電話で夫に叫んでいました。

「『これ以上、私は1人ではできない』ってもう我慢の糸が切れる感じで。そのとき言ってしまった。『本当に無理だ』と。限界を超えていたというか、自分自身がちょっと壊れていたと思います。」(山本さん)

結局、山本さんの夫は福島の家を処分。収入の安定した職も捨て、関西で一緒に暮らし始めます。しかし、転職を繰り返しましたが収入は思うようには上がらず、暮らし向きは厳しいままでした。

山本さん一家が福島に帰ることを思い立つのは2015年。この年、自主避難者を支えてきた住宅の無償提供の打ち切りが発表されました。収入が落ち込んだなか、家賃の負担は重すぎると考えた山本さんは、悩み抜いた末に決断します。2人の子どもを守りたい一心で始まった関西での自主避難生活は、5年で終わりました。

山本さんが福島市に戻ったのは2016年3月。事故がもたらした影響は、一家が関西に避難している間に大きく変わりました。2015年1月に米の全袋検査で、震災後初めて基準値を超える米がゼロになります。同じ年、福島市の空間放射線量の平均値も、事故直後に比べて76%あまり低くなっていると発表されました。

それでも、福島に帰ってきたばかりの山本さんは不安を拭い切れずにいました。当時4歳だった長男を通わせることにしたのは、40キロ離れた山形県米沢市にある保育園です。ここまで来れば安心して子どもを思う存分外で遊ばせることができます。およそ50分の道のりは、福島の母親を支援するNPOが無料で送迎。長男を少しでも放射線量が低い場所にいさせたいという一心で通わせ続けました。

「放射能の心配のない所から帰ってくると、外で思いきり子どもを遊ばせることに対して不安がどうしても拭い切れません。」(山本さん)

しかし、そうした不安を山本さんが口にすることはあまりありません。一度福島を離れた山本さんは、立場が違えば話題にできない壁があると感じています。

「話せる人とは話すけども、関心がなかったり、あんまり話したくないんだろうなと思う人には、放射能のことは全くこちらからは話さない。」(山本さん)

福島に残った母親 放射能への不安

事故の影響からわが子をいかに守るか。重い選択を迫られたのは、地元に残った母親も同じです。

佐原さんは、家庭の事情から福島を離れることは困難でした。当時、長女は6歳。福島に残って子育てを続けることは、悩み抜いた末に下した苦渋の決断でした。

「自主避難をするという選択は本当に大変なことだけど、それを選べるのは『羨ましい』というのはありました。でも、わが子を連れて避難する選択はないと決めたので、福島にいる中でどうやって守っていけばいいのか、ずっと考えていました。」(佐原さん)

事故の1か月後、佐原さんの長女が小学校に入学します。この頃はまだ線量が高く、児童は全員長袖でマスクを着用。授業は窓を閉め切って行われていました。

画像(小学校入学式の写真)

夏休みに除染が行われ線量が下がると、保護者の態度や行動に違いが生まれます。佐原さんはまだ安心できないと考えていましたが、周囲にどれだけ合わせるか悩みました。

「『そういった不安を感じているのはもうおかしいことなのかな』とか。給食を止めて自分で家から作ったものを持たせたりという方もその時期はいたけど、だんだんそういう人たちが少数派になってくると、それを続けるのがつらくなってきてしまう。自分の子どもだけ違う行動をさせることに子どもに申し訳ない気持ちもあります。」(佐原さん)

佐原さんは長女に対して、学校では周りに合わせるかわりに、自宅では対策を徹底するという選択をします。そして、家では外で遊ぶことを一切禁じました。

この頃、長女が描いた絵があります。「夢」として描かれているのは、思いきり外で遊ぶ自分の姿。わが子を絵の中でしか外で遊べなくしていることに佐原さんは気づき、愕然とします。母親として子どもを守るためにした選択が、娘を苦しめている。身を切られる思いも重ね、佐原さんはいつも精一杯の決断をしてきました。

画像(長女が描いた絵「夢」)

「避難する、しないの選択もやはりそうです。一概に『不安じゃないから外で遊ばせてる』とか『不安じゃないから福島に残ってる』って言えません。そのときこの選択をするというのは、本当にその家庭それぞれです。福島に残った人は『子どもが大事じゃないのか』と責められるし、どの選択をした人も違う意見の人からジャッジされて苦しむというのは経験してると思うんです。」(佐原さん)

とらえどころのない放射線の不安と正面から向き合うために、佐原さんが続けてきたことがあります。それは、身近な食品に含まれる放射性物質の量を測定すること。

「毎年どのくらい減っていくかを調べるのにも、旬のものを測るのは大事だなと思っていて。タケノコとか春の山菜とか。」(佐原さん)

この日、福島市内のNPOに持ち込んだのはレンコン。客観的な数値を記録して比較することで、つのる不安と折り合いを付けてきました。

「ずっと測っていると、この食品についてはずば抜けて高いものはないなというのがわかったり。それで徐々に福島産のものでも少しずつ食卓に取り入れていくようにしました。自分が福島で子育てしていくにも、できるだけ安心できるポイントを探したいという気持ちがあります。」(佐原さん)

ある日、高校生のときに自転車で来て、福島市内を見下ろしながらおにぎりを食べた思い出の地、信夫山(しのぶやま)を訪れました。しかし、そこには除染で出た土砂が積み上げられていました。

「いつきれいな信夫山に戻るのかな。私が生きているうちですかね?死んでからだったりして。」(佐原さん)

「ちょっと心配しすぎた自分たちがバカだったね」と、笑えるくらいの未来になってほしいというのが佐原さんの願いです。

母親へのアンケート調査から見えてきた実態

中京大学のソン・ウォンチョル教授は、周囲からは見えにくい、避難区域の外側に住む母親たちの心理の分析を始めました。ソン教授は事故の翌年から6年にわたって毎年、福島のおよそ千人の母親とその子どもに対して約15ページの「福島原発事故後の生活と健康に関する調査」というアンケートを実施。母親とその子どもの心と体の状態を調べ、記録しています。

この調査に対して「自分たちをモルモット扱いしてほしくない」という怒りをあらわにしたのが山本さんです。ところが、自由記述欄の文章は、思わぬ言葉で締めくくられていました。

「どうか私たちを助けてください。よろしくお願いします。」

画像(記入されたアンケート)

この記述に対する心理を、ソン教授は次のように分析します。

「調査者に対する不信、怒り、悲しみという気持ちと同時に、助けてほしいというある意味では混乱している、相反する気持ちを表しています。多分それが実態だったのではないか。」(ソン教授)

ソン教授が6年にわたって続けてきた心理調査からは、複数の不安が時期をたがえて母親たちを苦しめているという実態も浮かび上がってきました。

事故の直後は、食べ物や子どもの遊ぶ環境など「生活の不安」。これは時間の経過と共に軽減しました。これに対して、高止まりを続けるのが「子どもの健康の不安」。そして、2017年に入って急上昇してきたのが「人間関係の不安」。山本さんのように福島に戻る人が増えたのが一因です。

山本さんはこの7年を思い起こし、最新のアンケートで次のように綴っています。

「子どもたちが元気に成長してくれていることに感謝し、この先も無事に成長を願うのみです。不安を消し去ることはできないけれど、そのなかでも日々を明るく笑って過ごすことは大事だと思っています。どんな選択をも受け入れられる社会となるよう、願うのみです。」

※この記事はハートネットTV 2018年3月7日放送「シリーズ 東日本大震災から7年 第3回 母親たちの原発事故“消えない不安” の日々」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

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