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2023年3月16日大垣日大 いざセンバツへ








大垣日大高校 阪口慶三監督
「56年間、自分が指導した歴代チームの中でもトップクラス」
これは大垣日大高校の阪口慶三監督が、ことしのチームを評したことばです。阪口監督は78歳。甲子園最年長の監督にそこまでいわしめるチームとは。





【 あの阪口監督に会える 】



わたし、記者の西田隆誠は、岐阜県の高校で野球に打ち込んでいました。“めざせ!甲子園”と意気込み、ノックや素振り、ランニングと練習に明け暮れました。わたしにとっては“ライバル”にあたる大垣日大高校。阪口監督の存在はずっと意識していて、いつか会えたらと思っていました。私の甲子園出場の夢は叶いませんでしたが、記者となり、スポーツを担当したことで、名将に会うチャンスがやってきました。

大垣日大高校が2年連続5回目のセンバツ出場を決めたことし1月でした。わたしは神戸町にある大垣日大の練習場に向かいました。選手たちは、センバツ出場決定目前で緊張していたと思いますが、わたしは、阪口監督の目の前で、ドキドキしていました。そして、出場が決まり、その時がやってきました。

その時、ことしのチームについて名将が発したのが、冒頭のことばでした。高野連=日本高校野球連盟の選考委員会も大垣日大高校について「エースに安定感があり、しっかりとゲームを作る。選手全員の意識が高い」と太鼓判を押していました。その強さは何か。私は、グラウンドに通いました。

2月某日。



阪口監督



阪口慶三監督
「ようこそ。きょうはありがとうございます。どうぞこちらへ」

阪口監督は、すてきな笑顔で私をベンチに招き入れてくれました。





【守備力と投手力】



阪口監督と1対1の勝負。監督歴56年の阪口監督に対して、記者1年目の私では、勝負にならないかもしれません。ですが、まず理想とする野球について質問しました。

阪口慶三監督
「チーム作りはまず“守り”から入る。大切にしているのは守備力と投手力。1点の重要性を考え、点をやらないこと。そうすればコンスタントに勝てる、ゲームを作れる」





【2度の敗退をばねに】



しかし、守備力と投手力のチーム作りは、必ずしも順当ではありませんでした。新チームで挑んだ去年秋の2つの大会で、苦い思いを経験したのです。1度目は、岐阜県大会、優勝を逃しました。2度目は、秋の東海大会の準決勝でした。相手はかつて阪口監督が率いた東邦高校(愛知)でした。大垣日大高校の選手たちは、大事な場面でエラーや悪送球などのミスを重ね、敗退したのです。

阪口慶三監督
「東海大会はエラーで負けた。ボールの位置に行くのが遅い。ボールを体の正面で捕らない。足の運びが悪くボールの正面にいけないもんで、悪い形でスローイングするもんだから暴投につながる」

その時を振り返った阪口監督の表情は変わらなかったものの、目が鋭く光ったように見えました。その時私はある呼び名を思い出しました。

“鬼の阪口”



阪口監督




阪口監督は、かつて“鬼の阪口”と呼ばれるほどの、猛練習で知られていました。私はストレートに質問を重ねました。

記者
「“鬼の阪口”と呼ばれていましたが、どういうことを考えて指導していたんですか?」

阪口慶三監督
「選手をいかに燃えさせるか。やる気を起こさせるか考えてた。そのためには自分が選手以上に熱くやっていました」





【“鬼”をほうふつ 足腰強化】



苦い経験を重ねた“秋”以降、阪口監督が指示したトレーニングは、“鬼”を思い起こさせるきつい練習でした。狙いは徹底的な足腰強化です。特に短距離走を多く取り入れたといいます。選手たちの証言です。

証言①
「5メートルくらいの短い距離をひたすら走りました。多いときには100本くらいです」



5メートルを全速力で走る



“5メートル走”の狙いは、瞬発力の強化です。最初の一歩を早く踏み出すことができれば、次の塁が狙え、守備範囲も広がります。


証言②
「ボール置き換え走は、ほぼ毎日です」



ボール置き換え走




腰を落とし、ボールを反対側に移す“置き換え走”というトレーニング。狙いは、低い体勢を体にしみこませ、エラーを防ぐことです。しかし、想像以上にキツい練習です。


証言③
「グラウンドの近くの金生山で走り込みます。監督に金生山いくぞと言われると、内心嫌だなと思います」



坂道での走り込み



選手も思わず“嫌”と思う走り込みは、グラウンド近くの山で行われます。急な勾配を駆け上がったり、おんぶして駆け上がったりと、より負荷をかけ下半身の強化を図ります。





【これだけやれば大丈夫】



ノックの練習




その上でこだわったのがノックです。なんと、練習のおよそ8割を費やしたというのです。狙いは、もちろん「守備力」の強化。雨や雪でグラウンドが使えない日は、屋内練習場で、転がしたボールを捕るなど、守備の基本動作の確認を繰り返したといいます。徹底的に守備力を高めようと取り組んできました。

私も、高校時代には同じような練習を重ねてきましたが、これほどきつい練習ではありませんでした。阪口監督は、走り込みの本数も、ノックの終わり時間も、選手たちには知らせないといいます。“あと5分で休憩”でなんとか練習を耐えた私にとっては、想定外、“鬼“の側面を、いっそう意識しました。でもなぜですか?監督。

阪口慶三監督
「選手たちができる日は追い込めるし、疲れているのなら、早めに切り上げる。あらかじめ決めるよりも、選手の状況を見極めているんです」





【“仏の阪口”も】



指導者ならではの深い思慮がありました。




坂道で声をかける監督




ノックの際、78歳の阪口監督は「いいぞ」と声をかけ、坂道を懸命に上がる際にも「手を振れ!いいぞいいぞ!」と選手たちを見守り励まし続けていました。これに選手たちも「よっしゃー」と大きな声で応じていました。きつそうですし、実際にきつい練習ですが、選手たちの表情はとても生き生きしていて、そこに深い絆を垣間見ました。

阪口慶三監督
「厳しいだけじゃだめ。選手たちがのびのびやれるよう、褒めて育てるんです。やればやるほど守備はうまくなる。うまくなったね。体が大きくなったパンチ力もついて動きも速くなったし全ての面で成長した。走り込みとノックで鍛えた足腰はバッティングにも好影響を与える」

悔しさをバネに、足腰強化を図ってきた選手たちは、守備に自信を深めていました。





【投手力に信頼】



阪口慶三監督
「ブルペンを見に行きましょう」




案内をする監督




阪口監督に案内されてブルペンに向かうと、「ナイスボール!」とキャッチャーの大きな声が響いていました。この春、タイプが異なる4人の投手でセンバツに臨みます。この中でも阪口監督が最も信頼を寄せているのが、エースの山田渓太投手です。

阪口慶三監督
「心強いですよ。エースの山田の球はキレがある」




山田投手




阪口監督が目を細めながら見守る山田渓太投手は、最速143キロの伸びあるストレートが持ち味です。身長1メートル73センチ、体重は73キロ。この冬、体重は3キロ増えました。ただ、投手としては、決して大柄とは言えません。なぜ速い球が投げられるのでしょうか。

阪口慶三監督
「ピッチャーは下半身で放るもんだというのが私の持論です。山田は脚のバネがあるんです」

実は、山田投手、中学時代は陸上選手としても活躍していました。この冬、チームで取り組んだ足腰強化の結果、体重移動をする際に踏ん張りがきくようになり、山田投手の強みをさらに伸ばしました。




山田投手のフォームの比較




この1年の山田投手のフォームの比較です。左側が去年3月、右側が1年後のことし2月です。ボールを放つ“リリースポイント”が前に移動しています。リリースポイントが前になるということは、打者に近づくということです。打者は、タイミングが取りにくくなり、球をより速く感じるといいます。すると・・・。

阪口慶三監督
「スプリット投げてくれるか。 記者さんにみてもらいなさい」

“スプリット”とは、フォークに似た変化球です。ストレートと同じ軌道で、打者の手元で急に落ちるのが特徴です。打者はストレートだと思った球が変化するため、うまく打てません。去年まで山田投手の持ち玉は、ストレート以外に、スライダーとカーブだけでした。東海大会の準決勝では、ストレートに頼りすぎたため、それを狙い撃ちされてしまいました。




監督と山田投手




阪口慶三監督
「東海大会が終わってからはピッチングに幅を作ろうと。スプリットはなかなか覚えられる球じゃありません」

阪口監督と山田投手はこの冬、二人三脚で、スプリットの習得に取り組んできました。阪口監督は、ストレートと同じフォームで投げるよう、重ねてアドバイスしてきました。肘の角度、腕の振り下ろしと、握り方以外、ストレートと同じにすることで、打者を惑わすのが狙いです。

エース 山田渓太投手
「1年生からスプリットの練習はしてきましたが、なかなかものにできませんでした。この冬、阪口監督は、つきっきりでアドバイスして下さいました。やっと今の時期になって体を縦に使ってまっすぐ落ちるようになってきました。まっすぐと変化球のコンビネーションをうまく使って抑えたい」





【おじいちゃん】



別の場面で、阪口監督が表情を緩ませる瞬間も目撃しました。実の孫、高橋慎選手です。センバツへの出場が決まった際にも、自然と、高橋選手の姿を追ったといい、「孫と一緒に夢の場所にいけることは、おじいちゃんとしては最高やね」といっそう目を細めていました。




喜ぶ選手たち




練習には厳しい阪口監督ですが、言葉のひとつひとつに選手たちへの愛情を感じます。「選手たちがかわいい。勝たせてあげたい」と話す阪口監督。その気持ちは選手たちに伝わり、「優勝して監督を男にしたい」と口々に話していました。

阪口慶三監督
「ことしの選手たちは本当に真面目で、キツい練習にも弱音を吐かずついてきてくれた。実はセンスのいい子もいっぱいいる。甲子園は面白くなると思いますよ」




日比野主将



日比野翔太 主将
「きついからこそ自分たちはやったんだという気持ちになれる。秋からやってきた大垣日大の野球を甲子園でもやりたい」





【初戦は18日】



センバツ高校野球は3月18日にはいよいよ開幕します。大垣日大高校は、初日の第3試合に沖縄県の沖縄尚学高校と対戦します。秋の九州大会で優勝した沖縄尚学高校は、140キロ中盤のストレートを投げるエースを中心に、公式戦打率4割越えの強力打線で、15年ぶり3度目の優勝を狙っています。

わたしは初戦は、投手戦になるとみています。山田投手が、相手の強力打線を抑え、バックがそれをもり立てる。その上でチャンスを確実にものにする野球を展開できるかが勝敗を左右します。

この冬、チームで取り組んだ「守備力と投手力」の“阪口野球”の真価がとても楽しみです。






西田隆誠記者

NHK岐阜放送局 記者
西田隆誠
岐阜県高山市出身。2022年入局。事件・スポーツ取材を担当。
小学校2年生からキャッチャー一筋。そのためノックを受ける経験は少なく、ゴロは苦手です。練習の8割がノックの大垣日大では生き残っていけないかも知れません。でも,阪口監督ならなんとか育ててくれるのかも・・・。

2023年2月22日市役所の育休パパたち










ダブル抱っこ




平日の朝8時。あるお宅には、慌ただしく幼い息子2人の支度をする男性の姿がありました。子どもをこども園に連れて行かなければなりません。朝ご飯を食べさせ、服を着替えさせバタバタです。まさに“戦場”。ようやく玄関に向かおうとすると、なんと、今度は2人そろって泣き出してしまいました。結局、男性は、右手で次男を抱え、左手には長男を抱きかかえる“ダブル抱っこ”の裏技で乗り切り、子どもたちをこども園に送ったのです。

この男性は、美濃加茂市の市長、藤井浩人さんです。市役所に行かなくて大丈夫なのでしょうか……?





【 市長だって“育休”をとりたい 】



市長の会見の様子




去年12月、藤井さんは会見を開き、次のように語りました。

美濃加茂市 藤井浩人市長
「市長自ら休暇をとることで、職員そして市民に、子育て、出産に対する意識をいま一度持ってほしいと思います」


去年12月に3男が生まれた藤井さん。それをきっかけに、育児のための休暇をとると宣言しました。岐阜県の自治体のトップが育児を理由に休暇を取得するのははじめてのことでした。 特別職の市長には育休の制度はありません。休暇を6回に分けて取り、育児にあてることにしました。





【 男性の育休取得率23.5% 】



女性が98.1%に対して、男性は23.5%。
岐阜県が去年、県内の民間企業1400事業所を対象に行った「男性の育児休業取得率」の調査結果では、パパとママの育休取得率に大きな隔たりがあります。女性の場合は出産前から休暇に入り出産後も休む人が多いため、ほとんどの人が育休を取っていて、男性の取得率の向上は大きな課題です。こうした“差”を縮めたいというのが藤井さんの思いなんです。





【 市長の“育休”は休めない!? 】



取材にお邪魔したのは、6回目の休暇を取得した日でした。藤井さんは、長男と次男の育児を担当します。そして、2人をこども園に送ったあとは、3男の育児を行います。




赤ちゃんにミルクをあげる市長




上にも2人の子どもがいるせいか、おむつを替えたり、ミルクをあげたりする姿は堂に入っています。藤井さんが3男をあやしている間、藤井さんの妻の伊吹さんは洗濯や洗い物など、ほかの家事を行います。お互い育児を分担・協力をしながら、1日過ごすはずでした。ところが・・・。




仕事に行くためにバイバイをする市長




ほどなくして、スーツに着替え、市役所に向かいました。“休み”を取得していても、急きょ入った公務には対応しなければなりません。それでも、自らが育児のために休みを取る姿勢を見せることに意味があるといいます。

美濃加茂市 藤井浩人市長
「私自身が育児のための休暇を取ることで、職員たちも、自分も取れるんだという気持ちになってもらうこと。そして上司も含めて、周りの職員が取ることが当たり前だと思ってもらえる環境作りにつながればと思っています」





【 育休を取得した職員 】




赤ちゃんと梅村さん




去年9月に第1子が生まれたのは、美濃加茂市収税課に勤務する梅村侑さんです。1月23日から1か月間の育休を申請しました。申請は市長の育休宣言の前でしたが、その姿は梅村さんの背中を押したと言います。

美濃加茂市 収税課 梅村侑さん
「市長も“育休“を取るということで、気持ち的にも楽に取らせてもらった」





【 新米パパの育休は・・・ 】



ハイハイする赤ちゃん




お邪魔したのは、育休3週目。梅村さんは、子どもに寝返りの練習をさせたり、ミルクを作ったりしていました。




だっこされて泣く赤ちゃん




ただ、なんだか、接し方にはぎこちなさが・・・。うまくあやすことができず、妻の南月さんに助けを求めます。




お母さんにだっこされて泣きやむ赤ちゃん




南月さんがあやし始めたとたん、すぐに泣きやみました。

美濃加茂市 収税課 植村侑さん
「つらいですね、お母さんにはかないません。想像以上に育児は大変です。子どものことだけで1日があっという間に終わって、息抜きの時間もほとんどないです」




親子3人仲良し




それでも、妻の南月さんは、いっしょに子どもを育てる実感が心の余裕につながると話します。




育休について話す南月さん




妻 梅村南月さん
「一緒に面倒見る生活をするので夜中でも安心して任せられる。泣いたりぐずったりしても、自分の気持ちに余裕があるから、優しくできるというか、あたることがない」

梅村さんに、育休を通じてわかったことや気づいたことを聞いてみました。




育休について話す梅村さん




美濃加茂市 収税課 梅村侑さん
「こんなふうに子どもが成長していくんだっていうのを肌で実感できて、妻にも本当にこんな大変なこと毎日やってくれているんだってすごく感謝しています。外出先の施設に、授乳室はあるけど、授乳室だと女性しか入れないので男性も入ってお世話ができるようなところがあるといいなと思いました。男性の育休はやっとちょっと浸透してきたところなのかと、育休を取ってみてそういうことがわかりました」





【 育休取得の課題 】



ただ、育休を取得する際、梅村さんには、職場を離れることへの後ろめたさがあったといいます。




市役所収税課の様子




梅村さんが勤務する収税課にとって、確定申告が始まるなど、2月は忙しい時期のひとつです。

そこで、梅村さんは、担当業務をほかのメンバーに丁寧に引き継ぐことを心がけました。




日比野さん




美濃加茂市 収税課 日比野公哉さん
「もちろん業務量は増えたんですけれども、係員全体でフォローしていますので、一人ひとりの負担はそれほど大きくなっておりません」




市役所




美濃加茂市では、まずは足元の市役所から男性の育休取得を広げていきたいとしています。

美濃加茂市 藤井浩人市長
「市役所のことだけではなくて市民の方々が、子育てに関われる雰囲気というのは作っていきたいと思う。市長の育休を市民に理解してもらえたかはわからないが、今回感じたことを政策などにいかしていこうと思っています」





【 パパ育休促進へ国も後押し 】




男性の育児休業取得率




女性と男性とでは、育休の取得率に大きな隔たりがあります。しかし去年の男性の取得率は、前の年よりも6.5ポイント増えています。令和元年と比べ実に約4倍に増えました。

政府は、2年後までに男性の育休取得率を30%までに引き上げるという目標を立て、去年10月には、新たな制度を設けました。




産後のパパ育休取得の図




それが「産後パパ育休」、簡単にいうと男性が育休を小分けにするなどして柔軟に取れるよう選択肢を提供する制度です。

「産後パパ育休」では、子どもが産まれて8週間以内に、4週間の休暇を取得できます。さらにそれを2回に分けて取ることができるようになりました。

そもそもの育休の制度も柔軟に取れるようになったため、こどもが1歳になるまでに最大4回まで細かく刻んで休むことができるようになったんです。これによって多様な働き方や家庭の状況に合わせて柔軟に休みが取れるようになりました。





【 パパ育休普及へ 今後は 】



広まりつつあるパパ育休ですが、取材をしてみて、さらなる推進には、職場の理解や環境整備が必要だと感じました。岐阜県内の企業は中小企業がほとんどです。代わりの人がいないなどの理由で、取りたくても取れないのが実情です。

男性の育児が当たり前の社会にするには、まずできるところから率先して取り組むこと。その上で、行政や企業が男性が育児に参加できる環境づくりをいっそう進めることが必要だといえます。






齋藤恵実記者

NHK岐阜放送局 記者
齋藤恵実
2019年入局。警察・県政担当を経て、中濃地域などを担当。
藤井さんの妻の「産後の母親が肉体的・精神的につらいと理解して育児に参加してほしい」という言葉も、梅村さんの「こんなふうに子どもが成長していくんだっていうのを肌で実感できた」という言葉も心に刺さりました。
取得率の向上だけではなく、こどものため、パートナーのために、そして自身のために、男性も当たり前に育児や家事をする社会になってほしいと思います。

2023年2月13日新型コロナ後遺症 わかってきたことは




実った柿



新型コロナの感染者が国内で発生してから3年。岐阜県内の感染者はのべ50万人を超え、計算上は県民の4人に1人が感染したことになります。今回は、多くの人が苦しんでいる後遺症について、県内の専門外来でわかってきたことをお伝えします。





【 どうすればいいかわからない 】



新型コロナについて話す塩満大介さん




兵庫県の塩満大介さん(43)は、2年ほど前に新型コロナに感染しました。療養期間が明けて仕事をしていたとき、どうきと息切れを感じたといいます。検査を受けても原因はわからず、医師からは“後遺症かもしれない”と告げられました。症状はおよそ3か月続き、仕事を休んだこともあったほか、寝ている時でもどうきがあったせいで寝不足に悩まされたといいます。
塩満大介さん
「療養中は軽症だったのですが、日常生活に戻ったとたん体の異常があり怖かったです。何もわからず、薬も処方されなかったので、どうすればいいのか手探りの状態でした。後遺症専門の医療機関などあればよかったのにと思います」





【 そもそも「後遺症」とは 】



新型コロナウイルス




WHO=世界保健機関は「新型コロナの発症から通常3か月間以内に出て、少なくとも2か月以上続く、ほかの病気の症状としては説明がつかない症状」を「後遺症」としています。けん怠感や息切れ、記憶障害、嗅覚や味覚の障害など、症状は人それぞれです。





【 岐阜大学に専門外来 】



こうした患者を救おうと、岐阜大学病院はおよそ1年前に「後遺症外来」を開設しました。総合内科の医師が当番制で診察し、必要に応じて他の科の医師とも連携しながら治療にあたっています。




後遺症と診断された男性


後遺症と診断された40代の男性が、先日、再診に訪れました。だるさや眠気が続き、一時期、歩けなくなったといいます。

男性
「だるさが基本的に消えて、歩いて買い物に出かけられるくらいになったかな。車にも少し乗れるようになりました」
医師
「次の日に疲れが残っていることはないですか」
男性
「残っている日もあります」
医師
「ずっと家にいると体力が落ちてしまうんですが、次の日も疲れが残るくらい動くとかえってよくないです。動けるなら毎日少しは動いたほうがいいですね。前はもっとだるそうだったので、こういう話もできなかったんですけど」



解決策を探る医師




外来では、こうした生活指導や漢方薬の処方などを組み合わせ、解決策を探っています。

受診した男性
「症状が良くなってきている気はしますが、治るかはわかりません。それでも、定期的に診察してもらえると気持ちが落ち着くし不安も取り除けます」
診察に同行した男性の妻
「家族からみると、夫は以前と様子が変わらないときもあり、夫婦でどうすればいいか考えて動くしかありませんでした。そこに医師の先生が入って“これはいい” “あれはだめ”と的確にアドバイスしてくれるので、完治に向けた目標ができた感じがします」





【 患者データを分析 】



森田教授




後遺症外来の開設を主導した、総合内科の森田浩之教授です。
内科はもともと原因不明の患者や症状が長引く患者を診察することが多く、新型コロナの後遺症においても経験を活かせると考えました。
治療だけでなく、患者への情報提供につなげようと研究も行っています。ことし1月、後遺症と診断した130人のデータから、特徴を分析しました。





【 いつ発症する? 】



新型コロナ後遺症発症までの分析グラフ




新型コロナ感染から後遺症発症までの期間を分析したところ、多くの人は感染したときから症状が続いていました。一方、感染して時間が空いてから発症する人もいて、▼1か月後が15人、▼2か月後が9人、▼3か月後が3人、▼5か月後が1人いました。





【 いつ治る? 】



新型コロナ後遺症が治るまでの分析グラフ




通院を終えた82人について、感染してから後遺症が治るまでの期間を分析したところ、最も多いのは4か月後(20人)でした。また、73%にあたる60人が5か月以内に治っていましたが、2人は1年後も治っていませんでした。





【 症状は? 】



新型コロナ後遺症の様々な症状




症状の種類や程度は人それぞれです。複数の症状を訴える人もいます。その中で圧倒的に多かったのがけん怠感(80人)でした。次いで、多い順に▼頭痛(30人)、▼不眠(26人)、▼味覚障害(23人)、▼記憶障害(21人)、▼咳(20人)などとなっています。
森田教授は、つらさが理解されにくい症状が多いため、周囲との積極的なコミュニケーションが重要だと指摘します。

森田教授
「後遺症になった人は、できないことを率直に説明した方がいい。何も恥ずかしいことではないんです。周囲の人も、本人が我慢していたら、困っていることを聞いて配慮してほしい」





【 社会生活への影響は? 】



社会生活への影響を示すグラフ




初診の際、▼会社や学校を休んでいた人が36%、▼休んでいなくても影響があった人が24%でした。

森田教授
「一番大事なことは、仕事ができない、学校に行けない症状を取り除いてあげること。対症療法が中心とはいえ、経験的な治療法はわかってきているので、できるだけ早く社会復帰できるようサポートを続けていきたい」





【 “インフルと同じ”ではない 】



政府は、5月8日に感染症法で新型コロナを季節性のインフルエンザなどと同じ「5類」に位置づける方針を固めました。ただ、今後も別の感染症であることに変わりはありません。




インフルエンザとの違いを話す森田教授



森田教授
「インフルエンザの場合、脳炎にかからなければ後遺症のリスクはほとんどない。新型コロナの後遺症は、味覚障害や嗅覚障害、ブレインフォグ(頭にモヤがかかったように感じ、思考力や集中力が低下する症状)など、インフルエンザにない症状も出ている。必要な感染対策は続けていく必要がある」





【 “後遺症かも?”と思ったら 】



まずはかかりつけ医や地域の医療機関を受診してください。後遺症の症状は多岐にわたるため、医師の専門から外れる場合もありますが、その場合も別の医療機関を紹介してもらえます。
ただ、かかりつけ医がいない、どの医療機関を受診すればよいかわからないという人もいると思います。その場合、岐阜県の新型コロナの健康相談窓口(058−272−8860)か保健所に連絡すれば、近くで対応してくれる医療機関を教えてもらえます。
さらに、岐阜県はこのほど、後遺症に対応している県内の医療機関をホームページで公開しました。その数、2月5日時点で166機関。どのような症状なら対応できるか、かかりつけの患者でなくても診てもらえるかなどが整理され、一覧になっています。県は「患者と医療機関のミスマッチを事前に防ぐためにも活用してほしい」と呼びかけています。

(参考)
岐阜県ホームページ 新型コロナウイルス感染症の罹患後症状(後遺症)について






吉田記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
2020年入局 県政を担当
私は新型コロナに感染したことがなく、後遺症になった方の体験談を聞いても、症状をリアルに想像しきれない部分がありました。ただ、私も、いつ感染し後遺症になっても不思議ではありません。自分のためにも、身の回りの人たちのためにも、後遺症について、もっと学んでいきたいと思います。

2023年2月10日円安・物価高騰 技能実習生・特定技能の人たちは…




実った柿



【 厳しさが増す技能実習生や特定技能在留外国人 】



岐阜県では、去年6月時点で、ベトナム人や中国人などの技能実習生や特定技能の在留資格を持つ人が1万3000人余り働いていて、さまざまな現場を支えています。ただ、こうした人たちを取り巻く環境は今、厳しさを増していて、人材の流出などが懸念されています。





【 3年ぶりの旧正月の催し 】



旧正月の催しの様子


岐阜県関市でことし1月、3年ぶりに旧正月の催しが開かれました。ベトナムや中国の技能実習生などが久々のイベントを楽しみました。



ファム・フィ・フォンさん


運営側として催しに参加した、ベトナム人のファム・フィ・フォンさん(31)です。2017年に技能実習生として来日し、2020年からは「特定技能」の資格で働いています。

「ベトナムでは旧正月は1年で最も大きい祭りです。きょうはみんな一緒に集まれて、とても楽しくてうれしいです」





【 物価高・円安が打撃に 】



日々の暮らしについて話すフィ・フォンさん




しかし、その笑顔の裏で、日々の暮らしは厳しい状況が続いています。その理由の1つが、去年から続く物価の高騰です。フィ・フォンさんはほかのベトナム人と4人で一緒に暮らしていますが、電気代が上がっているため、冬でもエアコンはなるべく使いません。

「いまは何でも高いですから、毎日節約しています」




冷蔵庫の中を見せるフィ・フォンさん


冷蔵庫の中を見せてもらうと…。

「いつも、値下げの時にスーパーに行きます。豚肉、半額で買いました」




スマホで為替を確認



生活費を月4万円余りに抑えて、家族への仕送りを続けてきましたが、そこに追い打ちをかけたのが、急激な円安でした。

おととし2月ごろは1円が220ドンほどでしたが、今ではおよそ180ドンに減少。実質20%ほど目減りしてしまうため、仕送りを半年以上ストップしています。

「円が高くなったらすぐ送ります。いまはとても安いですから、送りません」




フィ・フォンさんの家族写真



遠出もほとんどせず、来日してからは一度も帰国していません。妻と子どもからは電話するたびに戻ってくるようにせがまれています。




家族のことを話すフィ・フォンさん



「5年間ずっと会っていないです。早く家族に会いたいです」





【 受け入れ会社も懸念 】



金属加工会社




フィ・フォンさんが来日してから勤め続けている金属加工会社です。特定技能の資格などを持つベトナム人あわせて10人が貴重な戦力になっています。円安を理由に辞めた人はいませんが、会社では今後、日本が渡航先として避けられることを懸念しています。




シズテック 堀部資宏社長


シズテック 堀部資宏社長
「円安の状況だと、ベトナムに戻ったときの給料で換算するとあんまりよくはないと思うので、もともとちょっとベトナムでは、なかなか人材が集まりづらくなっていたところもあるので、敬遠される可能性はあるのかなというのは少なからずあります」





【 支援者にも切実な声届く 】



フィ・フォンさんの自宅を訪れるタパまどかさん




フィ・フォンさんの自宅を定期的に訪れている、関市外国人支援センターのタパまどかさんです。技能実習生などの支援にあたっていて、生活の状況などを聞きとっています。タパさんのもとには、円安などが続けば、帰国も考えざるを得ないという切実な声が届き始めているといいます。




関市外国人支援センターのタパまどかさん


関市外国人支援センター代表 タパまどかさん
「もともと日本に来る理由は、働く技術の取得もあるのですが、お金はけっこう大きなウエイトを占めていて、あまり母国で働くのと変わらない状況になってくると、帰りたいという声は、よく聞いています。外国から来て、日本に働く人たちにとっても、安心して生活できるような経済に早く戻ってほしいなと思います」




フィ・フォンさん


フィ・フォンさんは当分帰国せず、日本に残るつもりです。先行きが見通せない中、しばらくは我慢の日々が続きます。

「ほとんどいま世界でどちらの国でも経済減りました。帰りたいですけど、いろいろなことをまだ勉強したいのと、お金を稼ぎたいです」





【 取材を終えて 】



県内で実習生などの受け入れや支援を行っている複数の協働組合に話を聞くと、円安が理由かどうかははっきりとしないものの、在留資格が切り替わるタイミングで一時帰国したまま日本に戻らない人が少しずつ増えているほか、ベトナムでは、国内経済が発展していたり、韓国やオーストラリアなどを渡航先に選んだりして、日本離れが進みつつあるそうです。

国内の人手不足も続くなか、政府はことし1月、日本で働く人がまだ比較的少ないとされるインドネシアに、特定技能の資格を取るための教育施設を開校するなど、人を送り出す側の国での取り組みも行われています。

また、技能実習制度については、発展途上国の人材育成を主な目的とするにもかかわらず、実際は、労働環境が厳しい業種などで人手を確保する手段になっており、目的と実態がかけ離れているとの指摘もあるため、政府内では制度の見直しに向けた検討も始まっています。

取材でフィ・フォンさんに日本に残る理由を聞いたところ、勤務先の企業の働きやすさのほか、地域の安全性や暮らしやすさをあげていました。

円安などの状況の変化を待つだけでなく、受け入れる側の企業や地域が安心して暮らせる環境を整えることも選ばれる国になるために重要だと思います。






森本記者

NHK岐阜放送局 記者
森本賢史
神奈川県出身。2016年入局。金沢局を経て2020年から岐阜局勤務。県政取材を担当。

2022年12月23日「片耳が聞こえない」それって大変なの?




片耳が聞こえない それって大変なの?



「“自分は難聴になった”って学校で言っても、みんなわからないんですよね。普通にしゃべれるし。伝えても、みんな忘れちゃうんですよ」
片方の耳が聞こえづらい「一側性いっそくせい難聴」の当事者のことばです。
「それって大変なの?」「もう片方の耳は聞こえるんでしょ?」そう言われたこともありました。
500人から1000人に1人がなるとされる一側性難聴。外見や会話からは気づかれにくく、悩みを理解してもらうのが難しいといいます。どんなことに困っているのでしょうか。





【 突然、水が入ってきたような… 】



セミナーで語る小川博史さん


「ある日突然“あなたはきょうから右側が聞こえないです”と言われた感じがして、衝撃を受けました。“僕なんか悪いことしたの?”って思いました」

こう語るのは、自身も一側性難聴で、岐阜大学大学院医学系研究科の医師、小川博史さん(31)です。



一側性難聴のセミナーの様子


12月、岐阜県で初めて開かれた一側性難聴のセミナーで、当事者の子どもやその親に、自らの体験を伝えました。



幼いころの小川さん
幼いころの小川さん(左)


生まれたときは両耳ともよく聞こえた小川さん。聞こえづらくなったのは、小学5年生の冬休みでした。友達とテレビゲームをしていたときに突然、右耳に違和感を覚えたといいます。



突然聞こえにくくなった時の様子を話す小川さん


小川さん
「“ポン”って急に水が入ってきたような違和感があったんです。“別に水入れてないのになんでやろ”と思いました。耳をくちゅくちゅやっても全然治らないんですよね。でも、片耳は聞こえるので、会話はできちゃう」

当初は、いずれ元に戻るだろうと思い、親にも話さず、そのままにしていました。しかし、長引く聞こえづらさに耐えかねて両親に相談し、診察を受けたところ、右耳の突発性難聴だと診断されたのです。





【 みんな、わからない 】



その後、新学期が始まりました。右耳が聞こえづらくなっても、外見はほかの子と同じ。会話もできます。ただ、右側に座っている同級生の話が聞き取れず、トラブルになりました。

小川さん
「“自分は難聴になった”って学校で言っても、みんなわからないんですよね。普通にしゃべれるし。伝えても、みんな忘れちゃうんですよ」

一側性難聴の困りごとは、小学生の頃から増えてきます。本格的に集団生活が始まり、聞こえづらい方向から話しかけられ、聞き取れないことなどが増えるためです。一方、外見や会話からは気づかれにくいため、説明してもすぐに理解してもらうのは難しいといいます。
相手の話が聞こえなかっただけなのに「無視している」と誤解されることもありました。また、相手の話を何度も聞き返すのがおっくうになると、よく聞こえなくても文脈から想像して話を合わせるようになります。そのため会話がかみ合わなくなり「ちゃんと聞いていない」と言われることもあったそうです。





【 耳はどうして2つある? 】



片方が聞こえづらいことで、音がどこから発せられたのかもわかりづらく、特にうるさい場所やグループでは、誰の声なのか聞き分けるのが難しくなります。その理由を、小川さんは、目に例えて説明しました。




聞き分けるのが難しいことを説明する小川さん


小川さん
「どうして目が2つあるかというと、ピントを合わせられるからです。 “あなたを見たい”と対象の人に集中する。それ以外はぼやっと見える。でも、片方の目を閉じると全体が見えちゃって、距離感がわかりにくいですよね。耳も同じなんです。どうして耳が2つあるのかというと、聞きたい音を特定できるからです。どれだけノイズがあっても“ここの音を聞きたい”、“あなたの声を聞きたい”というように選択して集中することができる。でも、片側の耳が難聴になると、それができなくなってしまうんです」





【 どうすればいい? ①環境をかえる 】



補聴器なども使えますが、原因がわからないことが多く、根本的な治療は難しいのが現状です。一方、環境をかえることで困りごとを軽くすることもできます。




小学校の座席配置



小川さんが通っていた小学校では、2人1組になるように机が並べられ、男子が左側、女子が右側に座る決まりでした。右側の音が聞こえづらい小川さんにとってはトラブルのもとでしたが、学校が座席を入れ替えていれば聞こえづらさは軽減できたはずです。ほかにも、教師の話が聞こえやすい位置を探るなど、学校が配慮できることは多いといいます。
こうした配慮は、大人の世界でもできます。小川さんが飲み会に参加するときなどは、聞き取りやすいよう、皆さん右側の隅の席を譲ってくれるそうです。





【 どうすればいい? ②信頼できる相談相手を 】



小川さんは、困ったときに相談できる、信頼できる人をつくることも大切だといいます。
学生時代はハンドボール部に打ち込んだ小川さん。試合中はさまざまな方向から指示が飛び交うため、聞き取れないこともありました。そこで、どうすればいいか、仲間と話し合いました。




ハンドボールをする大学時代の小川さん
大学生時代、ハンドボールの試合中の小川さん(中央)


小川さん
「“お前が聞こえなかったら体を叩いてもいい?”、“いいよ、叩いてくれ”と話し合うことで、お互い理解できたし、周りも配慮してくれた。話していく上で信頼関係ができていって、“お前はそういうことに苦しんでるんだな、気づかなかったけど大変なんだね”って、理解してくれる。そうするとこっちとしては救われる」

そして、こう強調しました。
「”聞こえないのは自分が悪い”と思わないことが大事なんです。ひとりで考え込むと、精神的につらくなります」





【 どうすればいい? ③周りの人ができること 】



セミナーでは、親を念頭に、一側性難聴の相手と接する際のポイントも説明されました。 まず、聞こえづらい方向から話しかけないこと。それから、相手の視界に入ってから話すこと。どこから音が出ているかを示すためです。また、現在は新型コロナの影響でマスクをする場面も多く、身振りや手振りをつけて話すのもポイントです。




セミナーで話をする小川さん



セミナーでは、保護者から「子どもをどのように見守っていけばよいのか」という質問もあり、小川さんは、「車や自転車の音がしたらあたりを見回して」などの身を守るためのアドバイスをすることや、「授業は聞き取れる?」などの声かけで、相談しやすい空気をつくることが大事だと答えました。一方で「危ないから」といって行動を制限しないでほしいとも伝えました。小川さん自身、ハンドボールで何度もけがをしたそうですが、仲間と一緒に競技に打ち込んだ経験はかけがえのないものだったといいます。





【 当事者が交流できる場を 】



こうした小川さんの経験は、セミナーに参加した親子にとって、とても参考になったといいます。




セミナーに参加した小学5年生


小学5年生
「僕は右耳が聞こえないから、右の端っこの席を選んで座るとか、友達に“聞こえないからくどくど言っちゃうかもしれない”と教えてあげることも大事かなと思いました」




セミナーに参加した女性


母親
「息子は“困ってない”と言うんですけど、私が心配なこともあります。支援に関する話とか、どこで吐き出してよいのかわからないことについて、皆さん同じように思うことがあるんだなと。共感できてよかったです」




一側性難聴の0歳児の母親


一側性難聴の0歳児の母親
「小学生、中学生、高校生と成長していく中で気をつけたいこととか、先生が実際に困っていたこと、トラブルがあったことを実際に聞けたのは、すごく自分の中で有益でした」

周囲から気づかれにくい一方で、いじめや偏見を恐れて周囲に一側性難聴のことを打ち明けられない当事者も多い中、セミナーを主催した「岐阜県難聴児支援センター」は、今後も毎年、当事者同士が交流できる場を設けたいとしています。最後に、小川さんに今後の課題を聞きました。




小川さん


小川さん
「ハンディキャップをさらけ出すことにためらいはありますが、理解してもらうにはこちらから発信するしかありません。“今の場面は一側性難聴で聞こえにくかったんだからしょうがないよね”、“もう一回聞き直すね”と言い合える、理解し合えるような社会をつくっていくのが今後の課題であり、僕ら一側性難聴の当事者の望んでいることかなと思います」

そうした社会をつくっていくためには、周囲の人たちが理解を深め、相談しやすい状況をつくっていくことが大切なのではないでしょうか。






吉田記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
2020年入局 県政を担当
12月3日にこの話をテレビで放送したあと「自分も片耳が聞こえづらい」「知り合いや家族に同じ経験をした人がいる」という声を複数聴きました。身近な存在だと感じるとともに、周囲の人に自然に配慮できるようになりたいと思いました。

2022年11月24日“柿ロス” 削減へ




実った柿



冬の味覚の1つ“柿”。いまは岐阜県発祥の甘柿「富有柿」の収穫、まっただ中です。
農林水産省によりますと、去年、岐阜県内で収穫された柿の量は1万2600トンと、全国4位です。岐阜が誇る“柿”ですが、食べられずに廃棄される“食品ロス”の問題と隣り合わせとなっています。

まずは、農家の人に話を聞くことにしました。





【 市場への出荷は収穫の7割 】



黒い点がある柿


この黒い点は、何だと思いますか?本巣市で富有柿を栽培している神山修さんに教えてもらいました。

農家 神山修さん
「これは、カメムシが吸ったあとなのですが、これだけ黒くなっていると、規格外なので、出荷ができない」

神山修さんは、ことしはおよそ30トンの収穫を見込んでいます。ところが、神山さんの場合、市場に出荷できる柿は、収穫した柿の7割にとどまります。さきほどのように、少しでも傷があったり、黒くなっていたりする柿は、「規格外」。このため市場に出荷できず、多くは廃棄される“柿ロス”となるのです。


農家の神山さん


農家 神山修さん
「取りはじめだと5割、6割くらい出荷できない。B品C品の柿が出てくる。そういう柿が多いと、せっかく作ったのに・・・にというのがあります」

冒頭に紹介した農林水産省のデータでは、市場への出荷は全体の9割にとどまっていて、残り1割のうち、廃棄される“柿ロス”は少なくないといいます。





【 加工してみれば・・・? 】



皮をむいて食べやすく切った柿


果物の加工品の定番の1つがジャムです。イチゴやブドウ、リンゴなどのジャムは、スーパーなどでよく並べられていますよね。柿も加工すればいいのでは?と思いました。しかし、スーパーなどで柿のジャムを見ることは多くありません。いろいろな人に話を聞くと、柿の加工には課題があるようです。

その1つが「色」です。
柿の果実は、鮮やかなオレンジ色をしています。煮詰めてジャムにするとおいしくいただけると思われますが、柿は熱を加えると黒っぽく変色してしまうのです。さらに・・・。



柿を食べた感想をはなすみなさん


「どんな感じといわれても・・・」
「柿の感じ?」
「突出したものがないというかこれといった特長がない」

街の人に柿の味について伺った答えの一部です。柿の味について、印象が弱いという指摘です。表現しにくいということかも知れませんが、主張しすぎない味は、加工品にしづらいというのです。




日本食文化会議会長 松本さん



日本の食文化の専門家も同じような意見を持っています。

日本食文化会議 松本栄文会長
「柿って酸味があるわけでもない、香りが強いわけではない、食感に特徴があるわけでもない。結局むいて食べただけがいちばんおいしいという結論になりやすい食材」

手厳しい意見です。
しかし、そう指摘する松本さんも、“柿ロス”をなんとか減らしたいと思っています。そこであることに着目しました。





【 柿の“成分”に着目 】



柿の成分


それが、柿の成分です。
うまみの成分となるアミノ酸、生食の柿には100グラムあたり0.3グラム含まれています。ぶどうやりんごなどと比べて多い上、アミノ酸を構成するグルタミン酸やイノシン酸などのバランスもいいといいます。松本さんは、柿が“みりん”に匹敵する調味料になると考えました。

日本食文化会議 松本栄文会長
「岐阜の富有柿はうまみが“濃い”。日本人が最もおいしいと思うアミノ酸が、果物の中では比較的多く含んでいる。うまみが濃いということは、それを料理に生かせばいい」





【 新たな加工品 】



加工品開発のようす


松本さんの提言を受けた、岐阜市にある障害者の福祉施設が、柿の成分を生かした加工品の開発に乗り出しました。作業所では、うまみを最大限引き出すために細かく刻んでミキサーに入れて、ペースト状にします。そこに、米こうじやしょうゆなどを加えます。ゆっくり混ぜ続けることで、光沢がでてきました。半年にわたって、試行錯誤を重ねた結果、新たな加工品ができあがりました。




柿を材料にした新たな加工品


それが、岐阜の柿をふんだんにつかった、おかずにも調味料にもなる新たな加工品です。ほのかな甘みと、ねっとりした舌触りが特長です。



いろいろな食品にあう調味料


ごはんにも、パンにも、刺身にもあうといいます。




開発を担当した山本さん


開発を担当した 山本慎一郎さん
「驚き、新鮮な発想、新しい出会いでした。つけるもの、あわせるものによって、味の出方が変わるのもおもしろいところです。柿はもともと風味が強いものではないので、柿だからこそできた調味料なのだろうなとも思います」





【“罪”のような出来栄え】



柿の調味料の試食会



11月3日に行われた試食会では、清流・長良川の鮎の塩焼きなどが並びました。そのうえに、完成した加工品をたっぷりと乗せて食べてみると・・・。




調味料をアユにつけて食べる人


「おいしい。アユとの相性がいい」
「甘さとうまみが口の中でうまく調理されて奥深い味に」
「すごくコクがあって甘みがあってお魚がより高級な味になりました」
「お酒と合わせる。これだけでもいい」




試食品を食べる松本会長


松本さんの実食です。感想はいかに・・・。

日本食文化会議 松本栄文会長
「甘くてこの香ばしいかおりと味わい。“柿びしお”と相乗すると・・・罪!」





【“柿ロス”を減らすには 】



新たな加工品は、ジャムのような、みそのような、岐阜の柿をまるごと閉じ込めた、とりこになる味わいと評判でした。
私たちに身近な冬の味覚“柿”。もったいない“柿ロス”を減らすには、消費拡大は不可欠です。松本さんに、その秘けつを聞きました。


日本食文化会議 松本栄文会長
「岐阜にある材料で、いままであったようでない、でもついついこれ作っておくと便利だよね、あるとつい手が出ちゃうよねを作る。それが大量にあふれる柿をおいしく1年間味わう秘けつだ」

取材中、富有柿を育てている農家の神山さんが「動物園に寄付できないかなぁ」と話していたことが印象に残っています。せっかく育てた食べ物が、食べられることなく廃棄されるのは、農家でなくとも心が痛みます。
「なんとか食べてもらいたい」
ジャムのような、みそのような、加工品には、““柿ロス”を減らす取り組みがさらに広がる糸口になるよう、期待が込められています。





【 放送後 】



11月17日の放送後、“柿ロス”の取り組みに少なからず反響がありました。このうち、NHKがお願いしているモニターからは、「柿は好きですが、皮をむいて切って食べるのみ」「家庭でも柿を美味しく食べられる方法があれば教えてほしい。特に、柿はこどもにはあまり人気がない」との意見が寄せられました。





【“柿ロス”削減へ あなたの“知恵”“工夫”をお寄せください 】



NHK岐阜では、“柿ロス”削減を目指して、とっておきの“柿レシピ”をみなさんから募集します。
岐阜の柿は「むいて食べる」だけでもおいしくいただけます。しかし、もっと食べたくなる、こんな味わい方もあるよといった、みなさんのひと工夫や知恵を“シェア”したいと思います。「まるっと!ぎふ」のお便りコーナーに、画像を添えて投稿してください。お寄せいただいた、みなさんの“知恵”は、番組内でご紹介します。






黒井美嘉

黒井美嘉
岐阜県出身
沖縄県の民放局や愛知県のケーブルテレビのディレクターなどを経て2017年からNHKでニュース取材や番組制作に携わる。岐阜県の明るい話題を追い求め、全国に向けて発信したい。
柿は固めが好きです。むいて食べることが多いですが、今回の取材を通じて、柿の“うまみ”に驚きました。焼いてきなこをまぶして食べるのがいま一番のおすすめです。

2022年10月12日看護師がいないと、保育所に通えない




「医療的ケア児」ということば、ご存じでしょうか。
人工呼吸器やたんの吸引などの医療的な処置が日常的に必要な子どもたちのことです。
岐阜県内では、このうち歩行や会話が難しい子どもだけでもおよそ200人が地域で暮らしているとされ、より軽度の子どもを含めるとさらに多くいるとみられています。
医療技術の進歩により、こうした子どもが全国的に増えてきたことから、今からおよそ1年前の去年9月には「医療的ケア児支援法」が施行され、保育所で適切な支援を行うことなどが自治体などの責務とされました。
ただ、保育所などに通うためには、ケアを行うことのできる看護師などを確保する必要があります。法律の施行から1年がたち、岐阜県内の保育現場はどうなっているのか。取材を進めると、看護師の雇用をめぐる課題や求められる対策がみえてきました。





【ほかの子とかかわりを】



認定こども園であぞぶ子どもたち


恵那市の認定こども園に通う三浦望愛(のあ)ちゃん(3)です。




胃ろうのケアを受けるのあちゃん


チューブを通して胃に直接、栄養や水分を送り込む「胃ろう」が欠かせません。「胃ろう」は、保育現場では、原則、看護師しかできません。




看護師の鈴木さん


看護師の鈴木富美子さんです。鈴木さんを含む3人の看護師が、日替わりで胃ろうなどのケアを担当しています。




みんなといる のあちゃん



恵那市で看護師が常駐している保育施設はここだけ。医療的ケア児の家族の希望を受け、市は去年から看護師を雇用しました。望愛ちゃんもことしから通い始め、いまは2人の医療的ケア児を受け入れています。




母親んだっこされるのあちゃん



望愛ちゃんはことばを話すことはできませんが、取材中も、園の友達や看護師の鈴木さんに対して、さまざまな表情をみせていました。お母さんによると、園に通い始めてから、表情が柔らかくなってきたということです。




のあちゃんの母親


望愛ちゃんの母親
「ほかの子とかかわりを持ってほしくて、保育施設に入りたいと思いました。本人も“楽しい”って感じている雰囲気が伝わってきますね。私もちょっと心の余裕ができて、またこの子と向き合える時間がしっかりできるので、すごくよかったなと思います」。





【看護師が集まらない】



ただ、こども園に看護師が常駐する態勢をつくるのは、簡単ではありませんでした。市は、職員のつてなどを頼って探しましたが、「子どもに医療的な処置をした経験がなく不安だ」などと、断られ続けました。週に数日であれば働けるという看護師3人を雇用して、週5日の常駐を実現するまでに、1年以上かかったといいます。




のあちゃんに話しかける鈴木さん



3人の中で最初に採用された鈴木さんは、当時、勤めていた病院を退職していましたが、職員からの熱心な誘いを受け、再び、働くことを決めました。

看護師 鈴木富美子さん
「市は、ハローワークとかいろいろ募集しても、看護師が全然いないから、医療的ケア児の受け入れを始められない、どうしても看護師がほしいと。そこで私に声がかかって、内容をきいたら、医療的なことは自分ができないことはないだろうということでお受けしました」。

ただ、当初は不安なことが多かったといいます。

看護師 鈴木富美子さん
「他の職種がメインのところで働くことに、私たちは慣れてない。経験の少ない看護師は不安だと思う。結局、医療といっても、自分が責任を持つだけで、あとは誰もいない」。





【県や看護協会は研修で支援】



研修会のようす



こうした不安を少しでも解消しようと、県や看護協会(医療的ケア児支援センターとしても運用)は、医療的ケア児などとの関わり方を学びたいという看護師向けに、地域で働く看護師などを講師に招いて研修を開催しています。




パソコンでのリモートのようす



知り合った受講者が相談しあうきっかけにもなっているということです。




医療的ケア児支援センター市川さん


岐阜県の医療的ケア児支援センター 市川百香里さん
「看護師は保育所や学校でも重要な役割を担うと思っています。ただ、看護師だからといって、だれでも医療ケア児に関してのケアができるわけではないので、まずは “ちょっとやってみようかな” と思ってもらうことを期待しています」。

課題はほかにも。そのひとつが、雇用の不安定さです。


岐阜県の医療的ケア児支援センター 市川百香里さん
「毎年毎年、同じ保育所に医療的ケア児が入園してくるとは限らないので、ずっと看護師を採用していくのも難しい感じがしますよね」。





【将来に備え看護師の雇用を継続】



こうした中、医療的ケア児の受け入れをきっかけに看護師の雇用を続ける自治体もあります。




看護師の天谷さん



可児市の保育所で働く看護師の天谷美緒さんです。3年前、医療的ケア児だった横田あこさんから市内で初めて登園の希望があり、当時はまだ保育現場に看護師が1人もいなかったことから採用されました。





看護師の天谷さん(左) と 横田あこさん(右)


あこさんは、天谷さんともう1人の看護師から日替わりでたんの吸引などのケアを受けました。そして、保育所で1年間過ごしたあと、市内の小学校に進学。いまは手術により、たんの吸引も必要なくなっています。




ランドセルを背負う あこさん



あこさんが卒業した年、ほかの医療的ケア児の登園の希望はなく、市内の保育所などには、2年間、医療的ケア児がいませんでした。
それでも、可児市は天谷さんの雇用を続けました。将来の医療的ケア児の登園の希望に備えるためです。




可児市こども課 梅田課長


可児市こども課 梅田浩二課長
「医療技術が進歩する中で、就学に向けて保育所などで集団生活にふれたいという希望は、当然増えてくると思います。急に看護師を雇用するのは難しいので、雇用を継続することには一定の意味があるのかなと考えています」。





【医療的ケア以外でも活躍】



可児市が天谷さんの雇用を続けた理由が、もう1つあります。




保育士を手伝う天谷さん



現在、天谷さんが働いている保育所には医療的ケア児がおらず、ふだんは0歳児と1歳児のクラスで保育士を手伝っています。
ただ、仕事はそれだけではありません。取材した日も、お昼ご飯の時間に保育士から呼び出されました。




保育士の話を聞く天谷さん


保育士
「男の子が、ずっと“目がかゆい、かゆい”って言っていて」。

天谷美緒さん
「じんましんっぽいですけど、一時的なものかもしれないので、いったん冷やしましょうか」。




子どもの手当てにあたる天谷さん



子どもにけがや体調不良があれば、医療の知識を生かして手当てにあたります。




土田園長


土田保育園 土田絵里子園長
「子どもはいつどこで何が起きるかわからないので、いていただけると本当にありがたいです」。

看護師 天谷美緒さん
「患部を冷やすのも、私だと嫌がられることもあるけど、保育士さんは子どもに接する引き出しをたくさん持っていて、うまく冷やしてもらえる。保育士さんの力がないとだめだと思う時がたびたびあるので、お互いに補い合っているんだと思います」。




手書きの対応マニュアル



天谷さんの仕事はほかにも。アレルギーや窒息の経験がある子どもたちの食事をどのように見守ればいいかわからないという保育士の話を聞き、対応マニュアルを作成しました。

可児市こども課 梅田浩二課長
「医療的ケアが必要ないお子さんへの手当てや、保育士への指導などをしていただくことで、園の安心感にもつながったと考えています。今でこそ看護師の役割がイメージできますが、当初は思ってもみない部分で貢献していただきました」。




思いを語る天谷さん


看護師 天谷美緒さん
「自分が必要とされている限りは、ここで働きたいです。また新しい医療的ケア児が入園したいということであれば、ぜひ力になってあげたいなと思っています」。





【看護師は集まるのか?】



可児市は現在、天谷さんを含め5人の看護師を雇用しています。それでも、必要な看護師を確保できず医療的ケア児の登園の希望をすぐにはかなえられていないケースが未だにあるということです。看護師にとって、保育現場で働く不安や責任感は簡単には解消できないようです。さらに、取材では、病院の方が給与水準が高い、専門知識も身につきやすいといった声が聞かれました。一方で、長時間の勤務や夜勤が難しい看護師にとっては、むしろ働きやすいという意見もありました。看護師は集まるのか、自治体の取り組みなどの取材を続けたいと思います。





【家族も看護師も相談を】



医療的ケア児支援センター 058-275-3234



岐阜県では、医療的ケア児支援センターが4つの拠点を置いて、家族や看護師からの相談を受け付けています。看護師向けの研修のほか、家族どうしの交流会も開いているということです。






吉田記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
2020年入局 県政を担当
複数の医療的ケア児の家族を取材しましたが、必要なケアや、保育所などでやりたいこと・できることはそれぞれ違いました。ただ、看護師が必要だという点は同じ。雇用が少しでも広がり、医療的ケアが必要な子どもも、必要でない子どもも一緒に過ごせる場が増えてほしいです。

2022年10月7日BEGINと“一五一会”な演奏会 




BIGINのボーカル比嘉さん


「沖縄で三線教室がたくさんあるように、“一五一会” に小さい頃から馴染んでいく。この岐阜、そして可児市から、世界に誇れる“一五一会” 弾きが現れると僕は信じております」

人気バンド・BEGINのボーカル、比嘉栄昇さんのことばです。この中ででてきた“一五一会”「いちごいちえ」をご存じですか?
“一五一会” は、岐阜県可児市のギターメーカー・ヤイリギターとBEGINが共同で開発した、新しい弦楽器です。10月、愛好家が集まるイベントが、9年ぶりに “一五一会” が誕生した可児市で開かれました。
BEGINのメンバーが伝えたい思いを取材しました。





【“一五一会”】



イベントで一五一会を手にする参加者


10月1日に可児市で開かれたイベントです。訪れた人たちが手にしていのが、“一五一会”、ギターより小さく、ウクレレより大きい弦楽器です。可児市にあるギターメーカー・ヤイリギターと人気バンド・BEGINが共同で開発した新しい楽器です。




楽器・一五一会


“一五一会” は4弦の楽器で、指1本でコードを奏でられることから、誰でも気軽に弾き語りを楽しむことができます。子どもからお年寄り、障害がある人にも気軽に音楽に触れてほしいという願いが込められています。





【9年ぶりの再会】



イベントでのステージのようす


イベントでは、ファンも演奏者も分け隔てなく、BEGINと同じステージの上で自分の音を鳴らしました。




BEGIN 比嘉栄昇さん


BEGIN 比嘉栄昇さん
「新型コロナウイルスが話題になる前はどうだったかというと、もうちょっと冷めていたような気がします。つながりを求めるまで至らないみたいな。こういう大変な時期をみんな過ごして、僕らも含めて、より “一五一会” の大切さに気付いて、仲間でもう一回集まりたいよねっていう気持ちが、誰からともなく集まってきました」





【ヤイリギターとBEGIN】



“一五一会” を製作するヤイリギターは、元ビートルズのポール・マッカートニーさんやサザンオールスターズの桑田佳祐さんなどにも愛される品質の高いギターを、職人が手作業で作っています。




ヤイリギターのみなさんとBIGIN
故・矢入一男さん(中央の青色の帽子をかぶっている男性)


BEGINも、デビューした頃からヤイリギターを愛用してきました。職人たちの確かな技術と、創設者で2014年に亡くなった矢入一男さんの人柄に惚れ込んだからです。

BEGIN 比嘉栄昇さん
「間近で工房で職人さんの技を見たときに、ここに俺らが思っている最高の楽器があると感じたのが最初です。そこから、矢入一男さんが親戚のおいちゃんみたいな感じで、酒飲もうと、飯食ったかと、俺はどんな男だ、おまえはどんなやつなんだというようなところから付き合いが始まりました」


作曲に行き詰まった時、三線でもギターでもない、それぞれの良さを併せ持った楽器が欲しいと、矢入さんに製作を依頼しました。そして2002年、“一五一会” が誕生しました。

BEGIN 比嘉栄昇さん
「指一本で弾けるんだったら、ギターを挫折した人も、小さな子どもも障害のある方も十分弾けるんじゃないかと、どんどんどんどん湧き出して。おいちゃん、いいの思いつきました!みたいな。ヤイリの社長に会いに行く!みたいな。その思いが、熱が冷める前ということで、岐阜まで車で行きました」





【“一期一会” な合奏】



“一五一会” が生まれた可児市で9年ぶりに開かれたイベントには、およそ300人が集まりました。




楽屋での様子
森幸久さん(黒いTシャツを着ている男性)


本番前、ある人がBEGINの楽屋を訪れました。当初から“一五一会” の製作に携わってきたヤイリギターの森幸久さんです。

ヤイリギター 森幸久さん
「“一五一会” というキーワードで、これだけの人が集まれることが、今は大変なことも多いけれども、またできるようになったということは、ものすごく感慨深いです」




イベントの様子


ここでは誰もが同じ「一五一会ファン」、自由に楽器を鳴らし、歌いました。




楽屋での様子


最後に演奏されたのは、BEGINの代表曲、「島人ぬ宝」です。観客も一緒に楽器を奏でるようすは、まさに“一期一会” です。




演奏を聴き入る観客


ヤイリギター 森幸久さん
「みなさん生き生きと歌っていて、すごく楽しくてよかったと思います。“一五一会” という楽器があれば自分で表現して楽しむことができるのでそういう人のために作ってきたんだなって、本当に思いました」


BEGINのメンバーも、感慨はひとしおです。




BEGIN 上地等さん


BEGIN 上地等さん
「この楽器 “一五一会” を通しては、観客も自分たちも本当に仲間のような存在です」




BEGIN 島袋優さん


BEGIN 島袋優さん
「“一五一会” がふるさと可児市に帰ってきたという感がすごくありました。里帰りしてのんびり話してるという感じのライブができたんじゃないかなと思います」


比嘉栄昇さんの思いは、最初に紹介したことばです。




BEGIN 比嘉栄昇さん


BEGIN 比嘉栄昇さん
「沖縄で三線教室がたくさんあるように、“一五一会” に小さい頃から馴染んでいく。この岐阜、そして可児市から、世界に誇れる“一五一会” 弾きが現れると僕は信じております」






齋藤記者

NHK岐阜放送局 記者
齋藤 恵実
2019年入局。楽器の経験は三味線のみ。
ほとんどギターを触ったことがありませんでしたが、取材の合間に5分ほど “一五一会” のレクチャーを受けたところ、簡単に演奏することができました。この手軽さから、“一五一会” は、けがからのリハビリなどにも使われているそうです。
楽器を通じ、可児市で生まれた新たな音楽文化が、各地に根付けば素敵だなと思います。

2022年9月22日終戦① 核廃絶へ “逃げてはいけない” 




太平洋戦争の終戦からことしで77年です。戦争で多くの命が失われました。NHK岐阜は、この夏、3つのリポートを放送しました。改めて、平和について考えませんか。

1回目は、核兵器廃絶への強い決意です。




【1945年8月9日】



発行された「鎮魂の叫び」


「防空壕はうめき声で満ち満ちていました」
「白血病で働くことも叶わない」


戦後50年を機に発行された「鎮魂の叫び」に記されていることばです。岐阜県に住む被爆者が被爆の体験や思いをつづりました。




8月9日長崎の写真
1945年8月9日 長崎


広島と長崎に原子爆弾が投下されてことしで77年。被爆者たちは、核兵器廃絶を訴え、行動し続けてきました。しかし、冷戦が終わっても、各国は核兵器の保有を続けています。長崎大学の調査によると、世界の核弾頭の数はことし6月の推計で、約1万2720発に上ります。





【82歳 いまも国際会議で訴える】



ウィーンで訴える木戸さん
2022年6月 ウィーン


岐阜市で暮らす、木戸季市さん82歳です。
2017年から、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の事務局長を務めています。被爆体験を語ることができる人が減っていく中、核兵器廃絶のために、みずから懸命に発言し続けています。

日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「その瞬間“ピカドン”と光を浴び、爆風で飛ばされ、気を失いました。私が見たものは、ごろごろと転がった死体。水を、水をと水を求める人の姿でした」




ウィーンでの国際会議での様子


2022年6月、ウィーンで開かれた、核兵器がもたらす人道的な影響について議論する国際会議で、木戸さんは一瞬にして日常を奪い、家族を引き裂いた原爆の実態を語りました。





【5歳のとき 長崎で被爆】



8月9日長崎の様子
1945年8月9日 長崎


1945年8月9日、5歳の木戸さんは長崎市にいました。爆心地からおよそ2キロの場所で被爆した木戸さんは、爆風で飛ばされたものの、一命はとりとめました。木戸さんは、被爆した事実を近しい人にもほとんど語らず、被爆者の運動にも積極的には関わらなかったといいます。




木戸さん


日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「隠すという意識はあんまりなかったんだけれども、しゃべるのはものすごくエネルギーがいった。いろいろな先輩がやっているわけで、いまやることをやらなくても許されるだろうと」





【岐阜で被爆者の運動に】



木戸さんは、29歳で岐阜市に移り住みました。転機は、50歳の時、健康相談会に多くの被爆者が不調を訴え詰めかける現状を目の当たりにしたのです。

日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「“ああその時がきたのかな”と思ったわけね。私は記憶がうっすらでもある最後の世代なのよ。だから、いずれ何かをしなくちゃならない時があるだろうと。やっぱりやらないかんかなあ、それから、逃げてはいけないと思った」

木戸さんは、岐阜県に被爆者団体を結成し、一心に、核廃絶に向けた運動に取り組んできました。そのひとつが、高齢化が進んだ被爆者の体験を取りまとめることでした。それが冒頭でも紹介した「鎮魂の叫び」です。岐阜の被爆者、計144人の実体験がつづられています。




鎮魂の叫びの一部
岐阜県原爆被爆者の会 「鎮魂の叫び」より


「助けて、助けての声が今でも耳に残って居ります」
「町は、黒一色でした」


とりまとめから約25年、岐阜県で暮らす被爆者の高齢化はいっそう進みました。被爆者手帳を持つ人は、1995年度の719人から、2021年度は275人と大きく減少しました。体験を語り伝える活動は次第に難しくなっていきます。





【経験と思いを伝え続けるために】



語り手を増やす取り組み
2012年 長崎


“被爆者の思いを引き継ぎたい”

木戸さんが力を注いでいるのが次世代への記憶の継承です。国内では、被爆した人の子ども“被爆2世”を集めて勉強会を開くなど、語り手を増やす取り組みを進めてきました。




ウィーンでの活動の様子
2022年6月 ウィーン


活動は海外にも広がります。原爆の悲惨さを知らない海外の若者に被爆の体験を語ることで、核兵器のない世界を実現するための担い手になってほしいと考えているからです。




木戸さん


日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「何もかも初めて見る地獄でした。こんなことは2度と起こってはいけない」

被爆者たちの強い思いも後押しし、2021年、核兵器禁止条約が発効しました。しかし、ウクライナに侵攻したロシアが核の使用をちらつかせて威嚇するなど、取り巻く環境は厳しさを増しています。




参加した若者


参加した若者
「被爆者の話を若者が聞くのはとても大切だ」




参加した若者


参加した若者
「人間は過去の出来事を繰り返し思い起こさないと忘れるので、被爆者の話はとても大切だと感じた」

木戸さんは次のように話しました。

日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「被爆体験の話を聞くことほど力強いものはない。体験していなくても、多くのことに接することによって自分のものにすることができる」




ニューヨーク国連本部の前で
2022年8月 ニューヨーク 国連本部前


木戸さんはこの夏、NPT=核拡散防止条約の再検討会議が開かれているニューヨークを訪れました。世界の核軍縮の方向性が協議されるなかで、国連の軍縮部門や核保有国の軍縮大使らと相次いで面会し、核兵器の廃絶を訴えました。国連本部のロビーでは被爆の実態を伝えるパネル展も主催しました。“77年前から続く苦しみを、ほかの誰にも体験させたくない”。揺るがない木戸さんの信念です。




木戸さん


日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「核兵器は人間の命を奪う、そしてまちを破壊することだけで、とにかく人類とは決して共存できない。核兵器の被害は終わらない、続いている、むしろ大きくなる。私の最後の仕事は、とにかく核兵器を無くして、人類を核兵器から守ること、それに尽きる」





【NPTの再検討会議 「最終文書」採択できず】



4週間にわたって協議されたNPTの再検討会議は、191の国と地域が議論しました。しかし、最終日にロシア1か国が反対しただけで、前回2015年の会議に続いて「最終文書」を採択できないまま閉幕しました。NPT体制への信頼が大きく揺らぎかねない結果になりました。

この結果について、日本に帰国した木戸さんに聞きました。

日本被団協 事務局長 木戸季市さん
「ロシアの判断がいけないのは当然として、核保有をしている5大国の横暴が目立っていて、その体制が問題だ。ただ、NPTの役割が失われたかのような報道がなされたが、そんなことはないと思う。多くの国が議論を積み重ね、NPTから生まれた流れが核兵器禁止条約を作り出した。“この流れを強めないと”と発言する国は多い。全体的な状況を見れば、こうした世界のすう勢に変わりは無く、前向きにとらえられる」

木戸さんは、核をめぐる状況は少しずつ進歩していると強調しました。そして、自身のこれからの活動については「被団協は、核兵器を共存できない絶対悪の兵器だとして66年運動を続けてきた。その道をこれからも続けないといけない。それだけだ」と力強く話していました。





【取材を終えて】



木戸さんは、これまで30年以上にわたって被爆者の運動に携わり、核廃絶を訴え続けてきました。取材でお会いした時、「あと10年は頑張らないと、と思っている」と明るく話しながらも「被団協のいちばんの課題は、被爆者がいなくなる日が近いということ」と、これからの運動に対する危機感をあらわにしたようすが非常に印象に残りました。木戸さんの被爆体験や長年の活動について、直接聞く機会をもつことができた1人として、私自身、少しでもその言葉を伝え続け、次の世代に引き継いでいく一助にならなければいけないと感じました。






森本記者

NHK岐阜放送局 記者
森本賢史
神奈川県出身。2016年入局。金沢局を経て2020年から岐阜局勤務。県政取材を担当。
沖縄のひめゆり平和祈念資料館や糸数アブチラガマなどでも戦争の悲惨さを目の当たりにし、語り継ぐ活動の大切さを強く感じました。長崎に訪れたことはありませんが、いつか足を運んで、長崎でも多くのことを感じ、学びたいと思っています。

2022年9月22日終戦② 8月15日平和祈念館にて




2回目は、8月15日終戦の日から考えます。




【8月15日平和祈念館にて】



ことしの8月15日終戦の日。皆さんは何をしていましたか?里帰りや旅行、レジャー、仕事という方もいたかもしれません。
岐阜県東部の山間にある、人口およそ2100人の東白川村では、慰霊式が開かれました。公民館には、多くの人が集まり、戦没者を悼み、平和への祈りをささげていました。会場の近くには、戦没者の遺品を集めた平和祈念館がたたずんでいました。





【戦争遺品を収める「平和祈念館」】



平和祈念館の建物


東白川村の平和祈念館は、およそ30年前に、村出身の元日本兵などが、戦争の悲惨さを次の世代にも伝えたいと開館しました。




平和祈念館の館内


村じゅうから集められた、軍服や兵士の手記など約850点を展示しています。民間のグループが運営していますが、高齢化が進み、予算も限られていることから、この「平和祈念館」が公開されるのは毎年3月から11月、月に2回の日曜日だけです。それも、1日にわずか2時間の開館です。しかし、ことしは平日にもかかわらず、8月15日に特別に公開されました。その1日を取材しました。





【午前9時30分】



平和祈念館の責任者 大坪さん


到着したのは、平和祈念館の責任者、大坪兼行さん、79歳です。父親を戦争で亡くしました。大坪さんは、戦争を経験した人や、元日本兵から話をきいた人が、年々少なくなっている現状に危機感を抱いています。

平和祈念館 責任者 大坪兼行さん
「けさもおやじに手を合わせてきました。おやじも“戦争なんて愚かなことをやっちゃだめだぞ”ということが僕に伝えたいことだと思う。皆さんに遺品を見て学んでもらって、平和ということは大事なんだと思ってもらえればありがたい」





【午前10時】



訪れる人のいない館内


午前10時に特別公開が始まりました。しかし、しばらくたっても訪れる人は現れません。





【午前11時30分】



慰霊式の様子
東白川村の慰霊式


午前11時30分から、近くの公民館で、村の慰霊式が始まりました。
東白川村によると、太平洋戦争が始まった1941年の村の人口は4649人でした。ところが、このうちの15%にあたる680人が戦地に送られ、169人が戦死しました。ことしも、子どもや孫たちが集まり、平和を願って祈りをささげています。





【午後0時30分】



最初の来館者


この日、最初の来館者です。村の慰霊式のあと立ち寄ったという40代の男性です。

40代 男性
「めったに触れる機会がないので、ちょっと感じたいなと思って」


男性は9年前、横浜から東白川村に移住、いまは自治会長を務めています。兵士が家族にあてた手紙などの戦争遺品を、時間をかけ注意深く見ていました。




戦争遺品を見る男性


40代 男性
「わかりやすいんじゃないかな。見たままだし、いいと思いますよ。このまま残していただけたら良いな」





【午後0時30分】



94歳の安江さん


同じ頃、平和祈念館を訪ねたのが、安江辰也さん、94歳です。安江さんは、16歳で招集されたものの、戦地に赴くことなく終戦を迎えました。




定男さんの写真
戦死した兄の定男さん


安江さんの9歳年上の兄・定男さんはサイパン島で戦死しました。ところが、遺骨はありません。

安江辰也さん
「“帰ってこれんような気がするが、両親を助けて世話してやってくれよ”って、それが最後の言葉でした」




返還された兄定男さんの日章旗
返還された兄・定男さんの日章旗


平和資料館に展示されているこの日章旗、5年前に安江さんに返還された定男さんの日章旗です。無事でいることを祈った「武運長久」の文字に、村の約180人の名前が書かれています。




日章旗が返還された時の様子
2017年8月 東白川村


太平洋戦争では、多くのアメリカ兵が日本兵の持つ日章旗を戦利品のように持ち帰っていました。定男さんの日章旗も、1944年6月、サイパン島で遺体を見つけた元アメリカ海兵隊員が持ち帰りましたが、元海兵隊員はいつか遺族に返そうとずっと保管していました。




日章旗を手にする安江さん


安江辰也さん
「命を引き取ったその場から返された遺品やもんでね。手渡された時には、すぐ旗の匂いを嗅ぎました。兄の匂いがするような気がしたもんで」

安江さんは、定男さんが同じ村の戦没者と一緒にいられるようにと、日章旗を祈念館に預けました。そして、毎年、兄に会うためにこの祈念館を訪れます。

安江辰也さん
「戦争というのは怖いなということを見て知ってほしい。私が言うよりも、遺品を見て感じてもらいたい」





【午後1時】



村雲さん


午後1時。続いて訪れたのは、村雲英子さん、74歳です。村雲さんは終戦の3年後に生まれました。父親は、南太平洋のガダルカナル島に出兵しました。しかし、生前、戦争体験について語ることはなかったといいます。

村雲英子さん
「何人殺したかっていう話になるわけでしょ?それを誇りに思っている人ではなかったはずです。今から思うと、もっと聞いとけばよかったな」




兵士の手記を手に取る村雲さん


友人に誘われ、20年ほど前、村の公民館で元日本兵の手記を読み聞かせる活動を始めました。祈念館に収められている兵士の手記に心揺さぶられたといいます。

村雲英子さん
「こんな小さな村なのに、資料が本当にきちんと残されている。一足飛びに関心のある人が増えることはないと思います。でも、ゼロにならないように、少数ではあるけど、そこに携わっている人がずっと継続してあることはすごく大事だと思います」





【午後3時 閉館】



閉館の様子


午後3時、終戦の日の特別公開が終わりました。訪れたのはわずか4人でした。




大坪さん


平和祈念館 責任者 大坪兼行さん
「もう少し来館者が多いかなと期待はしていたんですよ。77年という長い年月が流れたということで、みなさんの思いもかなり薄れてきてるんじゃないか。なぜ日本があの時に戦争に突っ走ったかってことを、学んでもらう。考えてもらう。そういう場になっていけば、この平和祈念館の意義があるんじゃないか」





【取材を終えて】



取材の中で、大坪さんは何度も、風化に対する強い危機感を話してくれました。 「戦争を経験した人だけではなく、その子どもの世代も少なくなってきている。親から話を聞くのと、おじいちゃんおばあちゃんから話を聞くのでは、やはり印象が違うのではないか」と。 戦争の体験を直接話せる人も、身近な話として語ることのできる人も、どんどん少なくなっています。わたしは1997年生まれ、今回村を取材するまで、戦争を経験した人から直接話を聞いたことはありませんでした。兵士たちの面影を感じられる遺品には、戦争を身近に感じさせる役割がますます求められていくのではないかと感じます。
大坪さんは、ほかの施設を参考に、展示方法の見直しや、若い人にかかわってもらう方法を検討しています。






吉田記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
千葉県出身。2020年入局。事件取材担当を経て、県政取材を担当。
戦争について多くの人に関心を持ってもらいたいのは私も同じです。平和祈念館の大坪さんとは年齢も経験も異なりますが、どうすれば戦争を語り継いでいくことができるか、意識して取材を続けたいです。

2022年9月22日終戦③ 戦後77年発見の“新史料”
岐阜空襲の痕跡に新たな光




3回目は、岐阜空襲から考えます。




【風化する記憶】



戦時中の岐阜市のようす


この写真は、戦時中に撮影された岐阜市のようすです。そのようすが一変したのは1945年7月9日でした。




岐阜空襲の写真


午後11時ごろ、アメリカのB29約130機が飛来、1万発を超える焼い弾を岐阜の町に次々と落としました。約900人が亡くなりました。




空襲後の岐阜市の写真


岐阜の市街地は、およそ7割が焼失しました。アメリカ軍が、終戦直後の8月下旬に撮影した映像からも、一面焼け野原となったことがわかります。戦後、その市街地は大きく変貌しました。




焼け残った元協会の門柱と戦火をくぐったイチョウの木


空襲で焼け残った元教会の門柱に、戦火をくぐり抜けたイチョウの木。岐阜市内には77年前の空襲の痕跡が一部、残っていますが、それを目にする機会は減り、記憶が風化しています。




まちの人にインタビュー


「あったのは知っているんですけれど、何年にあったとか詳しいことは」 
「なんとなく知っています。岐阜で空襲あったという話が出ることはないですね」





【北方町で見つかった記録】



こうした中、2021年、北方町の寺で見つかった新たな記録が、岐阜空襲の痕跡に新たな光をあてていると注目されています。




戦災顛末書綴


それがこの「戦災顛末てんまつつづり」です。空襲の2か月後の、1945年9月に岐阜県に提出されたとみられます。




戦災顛末書綴の文字の一部


「本堂、旧本堂、庫裏等全焼」
「本尊ヲ残シ全部ヲ焼失」


「戦災顛末書綴」には、岐阜市の51の寺院や教会の、空襲によって受けた被害が詳細に記されています。しかし、誰がまとめたのかなどはわかっていません。




見つかった場所を示す西順寺 三浦前住職


記録が見つかったのは、北方町の西順寺です。2021年7月、前住職の三浦真智さんが、書庫を整理していたところ偶然、発見しました。

西順寺 三浦真智 前住職
「ここで見つかりました。本がいっぱい並んでいて、そこに挟みこんであった。なんでこんなところにあるのかと」

見つかった「戦災顛末書綴」をもとに、三浦さんたちが仏教や歴史教育の関係者と調査を始めたところ、人知れず岐阜空襲の痕跡が残っていることが分かったのです。




西順寺 三浦前住職


西順寺 三浦真智 前住職
「それぞれのお寺を回ってみると、多くのところが、それが残っているということがわかって、これは記録にとどめなきゃいけない、空襲の実像を少しでも知っていく手がかりになるかなと」





【“焼け焦げた本尊” 浄土院】



浄土院 安藤住職


そのひとつ、岐阜市東駒爪町の浄土院です。

浄土院 安藤昌光住職
「これが残っていたご本尊さんでございます」




残っていたご本尊さん


本尊は、空襲による激しい炎で焼け焦げています。その箱書きには、焼い弾の攻撃で本堂など境内の建物は焼失し、本尊は住職が取り出したと記されていますが、箱に収められて本堂の脇にまつられたまま、長い間、人の目に触れることはありませんでした。安藤昌光住職は、今回の調査をきっかけに、焼けた本尊には戦争の悲惨さを伝える役割があると気付いたといいます。




浄土院 安藤住職


浄土院 安藤昌光住職
「戦争は、人々がよりどころとしていたもの、うちなら仏さんですね、そういうものでさえ燃やしてしまう。戦争はやったらいけないんだと、よくないことなんだと、ご本尊さんが語ってくれればありがたい」





【“灯籠の黒い痕” 正覚院】



説明する山本住職


岐阜市神田町の正覚院は、空襲の火が燃え移って本堂が全焼しました。8年前、寺を引き継いだ山本雅子住職は、当時住職だった祖父が亡くなったあと産まれたことから、直接、空襲の話を聞いたことはありません。




黒くなった灯篭


1941年に設置された灯篭の黒い部分は、今回の調査で空襲の際に焦げてできた痕だといわれたといい、山本住職の意識に変化が芽生えました。




正覚院 山本雅子住職


正覚院 山本雅子住職
「戦火をくぐり抜けて残ってきたと聞いて、お寺の大事な、貴重なものだなと。お参りに来て下さる地域の皆様に、そういうことが伝えていければ、平和の心が伝わっていくのではないか」





【“小さな痕跡 実像に迫る大きな足がかりに”】



研究会で説明する三浦さん
2022年8月 名古屋市


こうした動きが注目を集めています。調査を進めた三浦さんは、名古屋市で開かれた歴史教育に携わる人たちが集まった研究会に参加し、これまでの成果を発表しました。全国的に例がないとみられる「戦災顛末書綴」から見つかった小さな痕跡が、岐阜空襲の実像に迫る大きな足がかりになると調査の意義を強調しました。




研究会の参加者


研究会の参加者
「よく見つけたなと思いますし、あれを詳細に調査したら新しい事実がわかってくると思います」




パネル展で説明する三浦さん
2022年8月 岐阜市


さらに、三浦さんは、地元・岐阜市でも調査結果をまとめたパネル展を開催し、訪れた人たちに取り組みを説明しました。

来場者
「初めて知ることばかりで、忘れてほしくない。ずっと引き継いでいってほしい」





【空襲の痕跡に新たな光】



三浦前住職


見つかった「戦災顛末書綴」が、岐阜空襲の痕跡を探し当て、戦後77年たったいま、戦争の悲惨さを少しでもとどめようとしています。

西順寺 三浦真智 前住職
「岐阜もひとつの戦場だったとわかってもらえることが、非常に大事なこと。再びそういうことが起こらないようにするために今何をしていくべきか、したらいいかということを感じ取っていただきたい」

三浦さんは今後、「戦災顛末書綴」にある寺への調査をさらに進めるとともに、戦時中の寺院がどのように戦争に協力したのか、その実態についても迫っていきたいと意気込んでいます。





【取材を終えて】



岐阜局に赴任して2年がたちましたが、ふだん生活しているなかで、岐阜で空襲があったことを認識させられることはほぼありませんでした。しかし、偶然見つかったひとつの史料をきっかけに、まだまだ空襲の痕跡が市内各地に残っていることを知りました。戦争の記憶が次第に薄れていく中で、2度と同じような惨禍を引き起こさないために、終戦間際に岐阜を壊滅させた空襲について、引き継いでいくことがいまこそ大切なのではないでしょうか。






森本記者

NHK岐阜放送局 記者
森本賢史
神奈川県出身。2016年入局。金沢局を経て2020年から岐阜局勤務。県政取材を担当。
88歳の祖父がこどもの頃、東京で空襲に遭い、命からがら逃げ延びた話を何度も聞きました。そのことばから伝わってきた恐怖と絶望感は、私の心にも深く残っています。

2022年9月8日老舗書店閉店 最後の日曜日




「本当に楽しかった。青春の1ページです」
「思い出が詰まった場所。これからも漫画を読むたびに南陽堂のことを思い出したいです」

岐阜市の老舗書店「南陽堂」に訪れた人からきいたことばです。
およそ100年にわたり、子どもを中心に、地域の人たちに愛されてきた南陽堂は、ことし8月31日、その看板を下ろしました。





【地域に愛された書店】



書店の外観


正確な記録は残っていませんが、およそ100年前、南陽堂は、岐阜市内のいまとは別の場所に創業したといいます。
その後、名鉄岐阜駅に近い岐阜市神田町に移転しました。店は、1階と2階の2フロア。そこに3万冊の書籍が並んでいました。




コミックが並ぶ店内


この店に興味を持ったのは、デスクの1人が「南陽堂はコミックが充実していて、サブカル的な店だった」と懐かしそうに語っていたからです。実際、店に伺って驚いたのは、豊富なコミックの品ぞろえです。階段を上がった2階には、所狭しとコミックが並びます。3万冊の書籍のうち、およそ半分が、コミックだといいます。ほかの店とは一線を画した、圧倒的なコミックの品揃えの豊富さが、若い世代を中心に支持を集めていたといいます。





【“客を喜ばせたい” 店主の思い】



南陽堂の店主 山田さん


南陽堂の店主だった山田好昭さんは79歳。3代目で、およそ60年にわたり店を守ってきました。

店を特徴付けるコミックをそろえたのも山田さんだといいます。

“客を喜ばせたい”

その一心で、客からの要望に応えようとした結果でした。さらに、多くの人に気軽に読んでもらいたいと、コミックの “立ち読み” を認めました。駅やバス停が近く、多くの人たちが訪れました。山田さんによると、いまからおよそ20年前まで“立ち読み”ができたそうです。

南陽堂 店主 山田好昭さん
「“あったあった” って喜んでもらえるから、お客さんのために名古屋に仕入れに行った。それがみんなの評判になった」




壁に貼られた“マンガ一冊知識のもと”


店内で見つけたのは、「マンガ一冊知識のもと」という張り紙です。

別のデスクは「小さい頃、マンガを読むなと怒られた」とつぶやいていました。マンガが今ほど受け入れられていなかった時代、この言葉は、多くの子どもたちの励ましになっていたのかもしれません。





【体調不良・電子書籍・新型コロナ】



多い日には1日100人以上もの人が押し寄せていましたが、徐々に状況は厳しくなります。

店主の山田さんが、年齢とともに体調を崩しがちになりました。さらに、店舗販売はネット販売に、紙の書籍は電子書籍へと姿を変え、書店を取り巻く環境が一変します。そこに新型コロナの影響が加わり100年近く続く南陽堂の看板を下ろさざる得なくなったのです。




南陽堂の店主 山田さん


南陽堂 店主 山田好昭さん
「さみしいなと思います。仕方がないね、時代の流れだから。もうやめざるを得なくなっちゃった」





【最後の日曜日】



最後の日の店の外観


取材したのは、8月28日 日曜日。いつもなら日曜日は定休日ですが、要望に応えて特別に開店しました。




店主の妻 るり子さん


店主の妻 山田るり子さん
「もう最終日曜だから、行きたいから開けてくださいという客からの要望で、開けることにしました」

最後まで “客を喜ばせたい” という思いを持ち続けていました。




最終日曜日に訪れた男性客


この日訪れた1人、瑞穂市の男性は、思い出をたどるように、店内をまわっていました。

「学校を卒業するあたりからだいたい20代くらい、岐阜を離れるまで、何度も来ました。当時、宝探しをしたような感覚があって、こんな本あるんだ、他の所じゃ買えない、みたいな。なつかしくて、思い出があって、泣きそうになる」




2人組の女性客


続いて話を伺ったのは、中学時代からのつきあいがあるという2人組の女性です。
同じ高校にも進学した2人は、学校帰りに、よく立ち寄ったと話していました。2人も、懐かしそうに店内を回り、コミックを手にしていました。




コミックをながめる女性客


「『はいからさんが通る』。懐かしいね」
「これまだ続いてるんだ」
「うん、まだ続いてる」
「なつかしい」

当時の様子を聞いてみました。

「学校が終わるとここに来て、夕方近くまで漫画を読んで、ここでずっと過ごしていました」
「立ち読みばっかりしてました」
「青春時代の記憶がよみがえる」




思い出を語る女性客


「本当さみしいんです。ひとつひとつ、思い出のあるところがどんどんなくなっていく。だからさみしいね」




思い出の写真を撮る女性客


2人にとってここは単なる本屋ではなく、嫌なことを忘れることができる場所で、友人と語り、癒やされる特別な場所だったといいます。

2人は感謝の気持ちを伝えずにはいられませんでした。




店主の娘と会話をする女性客


女性
「いままで続けてくださってありがとうございます」
店主の娘
「こちらこそみなさんに支えられてやってこられたんです。みなさんからの暖かい言葉に感謝しかないです」




思い出が書かれたメッセージノート


ほかにも、用意されたノートには、大切な時間を過ごした人たちがメッセージを残していました。




インタビューにこたえるお店の夫婦


店主の山田さんに、率直な気持ちを聞いてみました。

南陽堂 店主 山田好昭さん
「みなさんには長い間ありがとうございました というだけです。
  感謝の言葉しかないです」




閉店後の外観


8月31日。
地域に根づき、文化を、子どもたちを育んできた書店「南陽堂」は、多くの人に惜しまれつつ100年近く掲げてきた看板を下ろしました。

閉店したあと、店の前を通りがかると、やはり、穴があいたような、寂しい気持ちになりました。私だけではなく、ほかの人たちも同じようで、NHKのニュースや、地元紙の報道を見て、SNSには、大手出版社も含め、惜しむ気持ちがあふれていました。

「田舎の高校生が初めて触れるオタクの世界」
「何百回も上り下りした階段」
「100年間 ありがとうございました」




グラフ:岐阜県内の書籍を取り扱う店舗数


経済産業省によると、古本などを含めた書籍を取り扱う岐阜県内の店は、平成6年に1157店ありましたが、その後20年あまりたった平成28年には322店と、3分の1以下の水準にまで減っています。

高校時代、私もよく本屋に通いましたが、近くにあったのは量販店ばかりです。多くの人が集まり、地域の文化を発祥し、醸成している「町の本屋」をうらやましく思い、それと同時に、みなさんと同じく、こうした書店が町から消えていくことを、さみしく感じました。






齋藤記者

NHK岐阜放送局 記者
齋藤恵実
2019年入局

2022年8月18日外国人観光客受け入れ再開から2か月 キャンセル相次ぐ




新型コロナウイルスの感染拡大で停止していた外国人観光客の受け入れが再開されてから8月10日で2か月となりました。
受け入れは、1日あたりの入国者数の上限2万人の範囲で行われ、入国の対象はアメリカや韓国、中国など102の国と地域です。感染拡大を防ぐために添乗員付きのツアー客に限定されています。




人気の少ない高山市観光地の様子


私が暮らし、取材している高山市は、感染拡大前の2019年、年間60万人の外国人観光客が訪れていました。




取材をする秋山記者


高山市の観光業者は、コロナ禍で大幅に減った外国人観光客が、受け入れ再開で戻ってくるのではと、大きな期待を寄せていました。ところがこの2か月、ほとんど海外からの観光客は訪れていないといいます。なぜなのか、取材しました。





【ツアー会社の場合】



まず取材したのは、高山市のツアー会社です。ここは、外国人観光客向けのオプショナルツアーなどを提供しています。古い町並みをそぞろ歩きするツアーが人気だといいます。




高山市のツアー会社






【約30人分 キャンセル】



この会社でも、受け入れ再開に大きな期待をかけていました。ところが、この2か月、海外からの観光客の利用は1度もありません。そればかりか、9月に予定されていたオーストラリアからの団体客およそ30人分の予約もキャンセルになったといいます。予約画面を見せてもらうと、確かに、キャンセルになっています。ツアー会社では国内の感染が再び拡大していることや、国のガイドラインでは行動が制限され自由に町歩きができないため、ツアー客が敬遠したとみています。




ツアーの予約が表示されたパソコン画面


ただ、今後の緩和を見越し、いまは受け入れが認められていない個人客からの予約や問い合わせが相次いでいるといいます。ツアー会社では、インバウンドの潜在的な需要は多いとみています。




インタビューにこたえる山腰社長


ハッピープラス 山腰陽一郎 社長
「ある程度、自由に旅行がしたい、いつになったら個人旅行ができるのかという声を聞いています。感染状況が落ち着いてきたら、新型コロナの感染拡大前と同じような水準で、なるべく早く受け入れていただければありがたい」





【ホテルの場合】



次に訪れたのは、客室290室のホテルです。




ホテルの外観



総支配人に話を伺うと、厳しい状況が続いているといいます。



杉本総支配人


ホテルアソシア高山リゾート 杉本篤史 総支配人
「大変苦しい状況でございます」



感染拡大前、このホテルには、年間5万人の外国人観光客が宿泊していたといいます。宿泊客全体のおよそ4割にあたりますが、コロナ禍でほぼゼロになりました。





【キャンセル相次ぐ】



ホテルフロントの様子


経営の根幹に関わるだけに、受け入れ再開に大きな期待をかけていましたが、現実は厳しく、予約のキャンセルが続いています。
私が取材したのは今月8日ですが、この時点で、8月の予約のうち8日まで100人以上がすべてキャンセルになったといいます。さらに下旬には海外からのツアーの予約が入っていますが、直前としては異例の“仮予約状態”だといい、ホテル側はキャンセルを覚悟していると話していました。
ホテルによりますと、ことし9月以降、来年3月までの外国人観光客の予約は感染拡大前の6割の水準にまで戻っているといいます。しかし、実際に宿泊客が来るかどうかは不透明だといいます。

ホテルアソシア高山リゾート 杉本篤史 総支配人
「入国制限やビザの緩和が進んでいません。ロシアのウクライナ侵攻など国際政治の不安定さも影響していますし、エアライン各社の供給状態も頭打ちで、飛行機の座席の確保も難しくなっています。国内の新型コロナの感染も含めて、いろいろな障害が緩和されないと残念ながら来年の2月ぐらいまでは非常に厳しいのではないかと考えています」





【次なる一手も】



それでも、ホテルではインバウンド需要は底堅いとみて、準備に余念がありません。




客室のキングサイズのベッド
キングサイズのベッド


欧米の宿泊客からの要望に応え “キングサイズ ” のベッドを初めて導入しました。




客室にあるダイニングテーブル
ダイニングテーブル


部屋には、食事が楽しめるようにダイニングテーブルや電子レンジ、大きめの冷蔵庫を備えた部屋も用意しました。

さらに海外の旅行会社と交渉し、一定数の客室を仮押さえする契約を交わすなど、インバウンド需要の確実な取り込みを狙っています。

ホテルアソシア高山リゾート 杉本篤史 総支配人
「営業活動は攻めに転じてやっております。実際に予約は受注しておりますので、“囲い込み” は成功しております。海外を見渡せば比較的緩和されている国が多いです。国には早く入国規制を緩和していただいて間口を広げ、外国人観光客を増やしていくというモードにまたなればと思います」





【取材を終えて】



観光地が待ち望んだ外国人観光客の受け入れ再開から2か月が過ぎました。
観光庁によると、8月5日から8月31日までに入国すると申請した外国人観光客は8500人余り、1日平均でみるとおよそ310人です。

国内では、第7波の感染拡大が続き、岐阜県だけで見ても、感染は収まる気配が見えません。一方で、円安を背景に外国人観光客の増加による経済効果を期待する声も出ています。こうした中、取材を通して聞いたある観光事業者の言葉が印象に残りました。

「すぐにインバウンドが回復するとは思っていない。これだけ感染の波が繰り返されれば、みんな賢くなって備えている」

この言葉からは、2年を超えるコロナ禍で、生き残る努力を続けてきたという自負と、次のチャンスは決して逃さないという静かな気迫を感じました。

“感染対策を徹底しながら、一方で経済の活性化も進めていく”。正解がない中、観光地では我慢の日々が続いています。






秋山大樹記者

NHK高山支局 記者
秋山大樹
2018年入局
岐阜放送局が初任地。事件取材、県政取材を経て、コロナ禍の2021年11月から高山支局に勤務。高山市、飛騨市、下呂市、郡上市、白川村を担当。
妻と7か月の長女と、夏祭りや花火を見て飛騨高山の底力を感じる毎日です。

2022年8月12日アユ釣りにはライフジャケットを




「岐阜ではアユ釣り中の事故で毎年多くの人が亡くなっているんだよ」
ことし4月にNHKに入った私は、デスクから聞かされたこのことばに驚きました。




手に持ったアユ


というのも、岐阜県高山市の出身の私、西田隆誠は、夏の楽しみといえば、幼い頃から打ち込んできた野球と、祖父が釣ってきたアユだからです。内臓に臭みがなく、スイカやキュウリのような独特な香りがすることから「香魚」と呼ばれるアユの塩焼きは、大変なじみある味です。そのアユを釣る時に命が脅かされるとは思いもしませんでした。

そこで実態を調べることにしました。





【相次ぐ川の事故】



橋の上から見た増水した川
ことし7月 郡上市 長良川


まず取材したのは、岐阜県警察本部です。
県警のまとめによると、去年までの10年間に、岐阜県内で“川の事故”で亡くなった人は、180人いることがわかりました。このうちの44%にあたる79人が“魚釣り”の際に命を落としているというのです。
このうち去年(令和3年)は、16人が亡くなっていますが、その半数が“アユ釣り中”だったといいます。ことしに入っても事故が相次ぎ、7月は郡上市の長良川で、8月には白川町の白川でアユ釣りに来た人が亡くなっています。

なぜアユ釣り中に亡くなるのか。その原因は、アユ釣りに“特徴”がありました。





【釣り方に原因】



アユ釣りの様子


アユ釣りは、漁期が決まっています。岐阜県内の川では6月から10月ごろで、釣り人は“遊漁券”を購入して川でアユを釣ります。主流はおとりのアユを使った“友釣り”です。縄張り意識の強いアユの習性をいかした伝統的な漁法です。おとりのアユに針をつけて川に放ち、縄張りを荒らされたと思って攻撃してくるアユを引っかけて釣ります。引きの強さから“格闘技”とも例えられます。




川に入ってアユ釣りをする人


より良いアユを求め、釣り人たちは川に入ります。中には、腰の深さの場所で釣る人も珍しくありませんが、川の中に入ることこそ、水の事故を引き起こす原因となっています。

川の流れは、見た目以上に複雑なのです。




川の「瀬」と「淵」


岩の間を勢いよく流れ、流れが速い「瀬」や、水深が深くなる「淵」など、川は場所によってさまざまな表情を見せます。




滑りやすく不安定な川の底


川底はアユが好むこけが生えていて滑りやすく、さらに不安定です。

一歩間違えると、バランスを崩し流されるおそれがつきまといます。自然の中で楽しむ「アユ釣り」は、まさに危険と隣り合わせの“レジャー”です。





【ライフジャケットで助かる!】



そこで、岐阜県や警察などが呼びかけているのが「ライフジャケット」の着用です。




ライフジャケット着用時とライフジャケット不着用時の比較
提供 日本赤十字社 東京都支部


日本赤十字社 東京都支部が行った実験です。
ライフジャケットを着用した場合、川に流されても、浮力によって顔が水面より上に保たれ、呼吸を確保することができます。
一方、着用しなかった場合は、川の流れにのまれて頭が沈み、呼吸の確保が難しくなります。
頭が浮いて呼吸が確保されれば、救助が来るのを待つことができ、岸までたどり着くことができるのです。
川でのライフジャケットの着用は法律で義務づけられているわけではありません。しかし、岐阜県は流された場合などのリスクを減らし、命を守るためにも、川で釣りをする際にはベスト型のライフジャケットを着用するよう強く勧めています。





【8人は助かったかも】



去年アユ釣り中に流されて8人が死亡しましたが、いずれもライフジャケットを着用していませんでした。警察は「ライフジャケットを着用していれば命が助かった可能性が高い」と話しています。




釣り人に話を聞く西田記者


しかし、アユ釣りをしている人は、ほとんどライフジャケットを着用していません。なぜ着用しないのか、7月、私は多くのアユ釣りが集まる郡上市八幡町の川で、釣り人50人に話を聞きました。





【“着用しない” なぜですか?】



ライフジャケット着用は50人中1人


50人のうち、3人がライフジャケットを持っていると答えました。しかし、実際にライフジャケットを着用していた人は、わずか1人でした。

毎年、アユ釣りの人が多く亡くなっているのに、着用しない理由を尋ねました。

釣り人
「子どものころから水遊びをしていた場所なので、危機感を感じていないのが正直なところです」
「腰に着けるライフジャケットやベスト状のライフジャケットはちょっと浮いちゃう。体が浮いちゃうと流されちゃって危ないんですよ」


ライフジャケットを着用していなかった49人のうちほぼ半数の24人が、「自分は大丈夫」「そんなに深いところにいかないし大丈夫」と回答しました。

私は、釣りをする人たちの間の“過信”ともいえる空気感を感じました。ただ、ライフジャケットを着ることによる不都合も見逃せませんでした。

49人のうち12人が、ライフジャケットを着るとバランスが崩れると答えました。

釣具店などでよく見かける“ベスト型のライフジャケット”では、川に入ると浮くため、腰まではいるような“友釣り”の場合、バランスが崩れかえって危なくなるといいます。さらにアユ釣りのシーズンは日差しが強い時期が多く、ベスト型のライフジャケットでは、熱がこもって暑くなる場合もあるからです。





【ライフジャケット 貸し出します!】



アユ釣りで多くの人が亡くなる現状をなんとか変えたい。
ことし6月のアユ釣り解禁にあわせて、郡上漁業協同組合は、ライフジャケットを貸し出す取り組みを始めました。





アユ釣り用のライフジャケット


漁協が用意したのは、ベスト型ではなく、首に巻くタイプの“アユ釣り用”のライフジャケットです。腰の高さまで川に入ってもバランスを崩さすことはなく、熱がこもる不便さにも対応しています。25着を購入し、実質無料で貸し出しています。




説明する白瀧組合長


郡上漁業協同組合 白瀧治郎 組合長
「やっぱり釣りというは本来楽しいものなんですよ。楽しく自分の欲求を満たしているレジャーであり、スポーツであり、生業なりわい であるわけですよ。そこで命を落とすなんてやはり“愚の骨頂”です」





【地道にコツコツ声をかけ】



組合長の思いもあって始まったこの取り組みですが、なかなか利用者は増えません。取材した7月21日の時点では、ライフジャケットを借りた人は貸し出し開始から2か月近くたっていたものの、わずか5人でした。

それでも1人でも多くの人にライフジャケットの重要性を知ってもらおうと、地道な呼びかけを続けています。漁協のメンバーが見回り、ライフジャケットを着用していない人を見つけると、川の中に入って近寄って声をかけていました。




アユ釣りの様子


組合員
「水難事故から身を守る。簡単で邪魔にならんようになっとるし、無料やもんで」
釣り客
「どうやって使うんですか」
組合員
「もし流されたらこれを引っ張ってもらうとふくらむ。そんなに邪魔にならんと思う」




ライフジャケット着用をすすめる白瀧組合長


郡上漁業協同組合 白瀧治郎 組合長
「楽しい釣りが悲しいものになってはいけません。“転ばぬ先のつえ”と思って油断することなく、ライフジャケットを着用していただき、楽しく釣りをしてほしい」
 





【取材を終えて】



ライフジャケットの着用が進まない要因のひとつは「アユ釣り」に対応したライフジャケットの種類が少ないことです。その一方で、釣り人たちの「あまり深いところまで入らないので大丈夫」や「周りの人がつけていないから」という声も耳に残っています。“自分は大丈夫”という釣りをする人たちの“過信”もまた、要因です。
8月はアユ釣りのシーズン真っただ中ですし“水の事故”が多い時期です。命を落とす万が一の可能性を見据えた準備をしてほしいと思います。

そして、この記者ブログを読んでくださった釣り人の家族のみなさんにもお願いがあります。

釣果はもちろん楽しみだと思いますが、安全に帰ってくることを最大の楽しみに、送り出す際に「ライフジャケットの着用を忘れてないでね」「無事に帰ってきてね」とひと言添えてくれませんか。

取材を終えたあと、郡上漁協が行っているライフジャケットの貸し出しが少しずつ増えていると聞きました。






西田隆誠記者

NHK岐阜放送局 記者
西田隆誠
2022年入局
事件・スポーツ担当
相手の立場に立った取材ができる記者になりたいです。
モットーは「“生きるために食べる”ではなく“食べるために生きる”」
祖父が釣るアユをいつまでも食べたい。早速、祖父にもライフジャケットの着用を勧めました。

2022年8月10日性犯罪捜査室




ことし4月、岐阜県警察本部で殺人や強盗など凶悪な犯罪の捜査にあたる「捜査第一課」に「性犯罪捜査室」が設置されたことをご存じですか?
これまでの組織から「室」に格上げされ、人員も拡充。13人体制の捜査員が捜査にあたっています。




パソコンに向かう後藤宏予警部補


総括係長を務めるのが後藤宏予警部補です。5年前に捜査第一課に異動し、性犯罪の捜査に当たってきましたが、いま力を入れているのが、被害者への聞き取り方を教える研修です。おととし10月から続けています。なぜ後藤警部補が、犯罪捜査の基本である「聞き取り」に力をいれるか、取材しました。





【岐阜県内の性犯罪】



去年、岐阜県内で起きた性犯罪の件数は65件とその前の年よりも14件も増えています。
このうち19歳以下の男女が被害者のケースはおよそ6割近くにあたる37件に上りました。





【捜査の基本 “聞き取り” 】



性犯罪の捜査にあたる後藤警部補は、捜査で最も重要なことは “聞き取り” だと言い切ります。性犯罪が起きる場所は、防犯カメラが設置されていなかったり、他の人から目につきにくかったりします。さらに、1対1で被害に遭うケースも少なくありません。そのため、捜査は被害者の証言を中心に進められます。証言の正確性こそが、犯人の検挙の証拠となるのです。

しかし、後藤警部補は、子どもが被害者だった場合は、その “聞き取り” の方法は異なると考えています。




インタビューに答える後藤宏予警部補


岐阜県警 性犯罪捜査室
後藤宏予 総括係長

「お子さんの記憶というのはとても繊細なので、ちょっとした言葉がけで記憶が変遷してしまったりとか事実と異なる方向に話がいってしまうということはよくありがちなんです」

後藤警部補によると、子どもは、例えば保護者や警察官から「こうなんじゃない?」「ああだったんじゃない?」と言われると、そうだったかもしれないと考え、記憶が変遷してしまうといいます。大人の何気ないひと言の影響も受けやすく、異なる事実に “誘導” されてしまうおそれがあります。実際、被害を申し出ても、大人たちのひと言で発言が変わってしまったことで、裁判で “証言が変遷した” とみなされた事例もあるというのです。





【被害の回復に】



さらに、子ども自身に話してもらうことが、 “被害の回復” につながるといいます。

岐阜県警 性犯罪捜査室 
後藤宏予 総括係長

「どんなお子さんでもこういうことがあってそれからこうなってこうなったんだよと話をしてくれるんですけれど、その話をするということも被害回復にとってはとても大事な過程です」





【負担をかけたくない】



後藤警部補が、 “聞き取り” の重要性に気がついたのは、 “多分そうじゃないか” と聞き取ったことで被害者を傷つけたかもしれない、負担をかけたと感じていたからです。

「何度も何度も被害についていろいろな人が繰り返し聞くことで、子どもさんに対する負担が大きかったというのが現状でしたので、それを解決するために子どもさんからの聞き取りは1回にし、適切な方法で聞くことが大事だ」





【研修に密着】



そこで、後藤警部補がおととし10月から始めたのが「研修会」です。警察官の何気ないひと言で、被害を申し出た子どもたちの証言が “変遷” しないよう、 “聞き取り方” を学びます。




研修会の様子


ことし6月、岐阜南警察署で行われた研修を取材しました。研修では、2人1組になり、聞き取りする警察官役と子どもの被害者役に別れ、ロールプレイなどを通じ実践的に体得します。
この日は、性犯罪の被害にあった幼いルミちゃんから、当時の状況を聞き出すという想定です。




研修の様子


警察官  
「何があったか教えてくれますか?」

ルミちゃん
「きょうは胸を触られた」
警察官
「胸を触られたことについて最初から最後まで全部お話してくれます?」

ルミちゃん
「学校終わって公園に行ったら、おじさんがいて、おじさんに胸を触られて逃げた」

警察官
「その時はおじさんとルミちゃんだけなのかな?おじさんとお友達といたのかな?それとももっと違う人もいたのかな?」

ルミちゃん
「ルミとお友だちとおじさん3人でいった」

大切なのは、 “問い” 、被害者の言葉をどう引き出せるかです。

後藤警部補は、「友だちが誰かということをきけるとよかった」などとアドバイスしていました。

研修を終えた参加者に話を聞きました。




実践に参加した警察官


「誘導にならないようにしないといけないところがありましたが、 “なんとかだよね” という聞き方が出来ないので、その辺の言い回しや聞き方が難しいと思いました」





【研修の狙いは】



研修の様子


後藤警部補に、研修の狙いを改めて聞きました。

岐阜県警 性犯罪捜査室
後藤宏予 総括係長

「最終的には親御さんもお子さんも含めて、警察に言ってよかったなと被害をちゃんと打ち明けてよかったなといってもらえるような結果を出したい。最終的には岐阜県警の警察官全員が、こどもから適切に話をきけるという状態にもっていきたい。そして、適切に話を聞けることが当然で、当たり前にできる警察でありたい」





【取材を終えて】



警察取材を担当している私は、後藤警部補が性犯罪の被害者をサポートするためのパンフレットを作成していることを知り、取材を進めました。そして「被害者が子どもと大人では聴取の仕方が変わってくるんです」と知りました。
性犯罪に遭った人の多くは、警察に届け出る前に家族など身近な人に相談するといいます。 “何気ないひと言” はなにも警察官だけに当てはまるのではありません。最初に相談を受ける家族もまた注意しなければなりません。心配するあまり「なんでそんなところに行ったのか」など、被害者を責める結果につながる言葉を発してしまいます。家庭でも「何があったの?」と、子ども自身が話すよう促し、こどもの話を最後まで聞き、そして子どもを責めるのではなく、 “褒めて” いただければと思います。






弘永優恵記者

NHK岐阜放送局 記者
弘永優恵
2021年入局
警察・司法担当 8月からキャップです。
“自分の決めつけで質問しないこと”。取材しながら、いつも難しく、そして大切なことだと感じています。

2022年6月28日和紙が糸に? 伝統の技術を現代に融合

美濃和紙


1300年前の奈良時代から岐阜県で作られている和紙「美濃和紙」。美濃市を中心に作られ、ムラが少ない高い品質と丈夫さが特徴です。2021年に開かれた、東京オリンピック・パラリンピックの表彰状にも使われました。

国産の「こうぞ」を原料に、認定を受けた職人が「流し漉き」という技法で手ですいたものは美濃和紙の中でも「本美濃紙」と呼ばれます。一方、大量に作られる和紙は、機械で作られ、原料には「マニラ麻」などが使われています。ところが、こうした紙を取り巻く経営環境は芳しくありません。





【減少する紙の需要】



製紙会社などで作る団体「日本製紙連合会」によりますと、2021年に日本国内で作られた印刷用紙などの紙の量は、約630万トンと、ピークの2000年と比べおよそ半分の水準です。デジタル化などを背景に需要が落ち込んでいるのです。
こうした中、美濃市の製紙会社は、新たな市場の開拓を進めています。大事にしたのが、培ってきた和紙作りの技術です。





【紙でできた服!?】



東京駅の近くの百科店


わたしが訪れたのは、東京駅のすぐそばに建つ百貨店です。多くの人が行き交う中、目指したのは働く女性をターゲットにしたブランドの店舗。その中で、ひときわ目立つ鮮やかな色のニットが、このブランドの春夏向けの商品です。タグを確認しました。




春夏向け商品のタグ
製品のタグ


そこに記されていたのがこちらの写真です。「分類外繊維(紙)」とは何か。このブランドを展開するアパレルメーカーの担当者に確認しました。




和紙の素材を使ったオレンジ色のニットの服


大手アパレルメーカー デザイナー 板橋章子さん
「和紙の素材を使ったニット製品です。一押しの素材で、3年連続使っています。今暑い時期ですが、本当に涼しく、ひんやりとした接触冷感的な素材になっていますので、手に取りやすいです」





【培われてきた和紙の糸】



岐阜県美濃市の静止会社


「和紙の糸」を作っているのは、岐阜県美濃市の製紙会社です。
昭和9年創業の開発力が強みの会社で、「特殊紙」を製造しています。




和紙の糸の材料となるマニラ麻
「マニラ麻」の繊維


こちらの会社が原材料のひとつとしているのが、マニラ麻です。バショウ科の植物で、その 繊維を使って作った紙は、紙幣にも使われるなど、丈夫さが特徴です。
機械を使って1日約10トンの美濃和紙を作っています。デジタル化などで紙の需要が低迷する中、この会社が力をいれているのが、「和紙の糸」です。




和紙の糸
「和紙の糸」


「和紙の糸」は美濃和紙を細長く切り、それをよって紡ぎます。高い通気性とさらりとした肌触りが特徴です。しかし「和紙の糸」は新しい製品ではありません。この会社では創業直後から「和紙の糸」の製造にかかわってきました。しかし、いまとは少し異なります。




これまでの和紙の糸のいろいろ


その頃の「和紙の糸」は、和紙に漆で金や銀の箔を貼って作りました。西陣織の帯を彩る装飾用などとして重宝され、会社の主力商品のひとつとなりました。ところが、着物の需要の落ち込みとともに「和紙の糸」の生産量も落ち込み、いまやピーク時の20分の1以下の水準です。




和紙の糸を作っている様子


この会社で顧問を務める荻康彦さんは、40年近くにわたって「和紙の糸」の開発などに携わってきました。需要が落ち込む中であっても、「和紙の糸」を作る技術は絶やしたくない。そう考えた荻さんは、誰も手がけていなかった市場を狙いました。「着物」ではなく「ふだん使いの洋服」のための「和紙の糸」です。

大福製紙 顧問 荻康彦さん
「なんとか金銀糸(帯用の紙糸)を作る技術で、今の市場に合ったものづくりができないかということで、昭和57年度にこの紙の糸の開発に着手しました」





【課題①糸の伸び】



ところが、すぐに課題に直面します。
「ふだん使い」には、ある程度の “伸び” が必要ですが、帯を飾る当時の糸には “伸び” がなく、すぐに切れてしまったのです。




糸の伸びの実験


そこで着目したのが「しわ」です。一見するとわかりませんが、特殊な技術ですいて「しわ」の加工を施すことで、紙の糸の「伸びる」余地を確保したのです。




糸の伸びの比較実験


右側の写真は「しわ」加工を施した「和紙の糸」です。左側は加工していない糸です。同じ圧力で引っ張ると、「しわ」加工を施した「紙の糸」は、加工していない糸の7倍伸び率があるといいます。





【課題②糸の耐久性】



さらに「耐久性」の向上も課題です。洗濯や染色は「ふだん使い」には欠かせません。荻さんたちは樹脂などを混ぜた特殊な液体を開発し、それをマニラ麻と混ぜてすく方法を思いつきました。




特殊な液体に糸を入れて実験


右側の特殊な液体を混ぜずに作った和紙は水に溶けますが、左側は全く形状が変化しません。

大福製紙 顧問 荻康彦さん
「全然形状が変化しなかった。当時これは世の中にはない糸だなと、感無量というか、驚きとともにみんなで喜びました」





【アパレルで注目の素材に】



こうして作り出された「和紙の糸」は、注目の素材として、さまざまなメーカーから熱い視線が注がれています。




デザイナーの板橋さん


大手アパレルメーカー デザイナー 板橋章子さん
「和紙は、吸水速乾で耐久性があるので、洗濯にも耐えられます。軽さと爽やかな清涼感が売りです。天然素材では綿、麻、和紙というのが3大巨頭として、夏の素材として他社でも多く見受けられます」




大福製紙顧問の荻さん


大福製紙 顧問 荻康彦さん 
「美濃和紙の技術、手漉き和紙の技術の延長線上でものづくりを継承しています。今までにない客、例えばヨーロッパなどの展示会に出して、美濃和紙の糸が非常にいいということを知ってもらいたいです。皆さんに喜んでいただける商品づくりができればと思います」





【和紙の糸の今後は】



和紙で作られた糸


会社によりますと和紙の糸は少しずつ生産量が増えているということです。しかし、例えば太さ1ミリの糸の卸価格は、綿の糸の3倍とまだまだ価格に開きがあるということです。 会社では量産化に向けた開発を進めて価格差をなくすほか、培ってきた技術をさらに高め、さまざまな太さの糸を作るなど改良を重ね、さらに販路を拡大させたいとしています。





【取材して】



ファッションの通販サイトを見ていたときに、いくつものブランドから「和紙製の洋服」が販売されていることに驚き、取材を始めました。
「紙」なのに洗濯に耐えられる意外性と、これからの季節にぴったりな清涼感のある素材に、さらりとした肌触りが印象的でした。
取材で見えてきたのは、岐阜の企業の“確かな技術力”と“伝統への誇り”です。かつて、紙を着ていた時代がありました。1300年に渡って受け継がれてきた技術がさらに磨きをかけ、いつか和紙の服が“当たり前”になる日が来るのかも知れません。






齋藤記者

NHK岐阜放送局 記者
齋藤恵実
2019年入局。初任地が岐阜局。
県警担当を経て、去年から県政を担当しています。
江戸時代には美濃和紙の産地を背景に、商業地として繁栄した美濃市。当時の富の象徴「うだつ」(屋根の両端に付けられた防火壁)が残る町並みは「うだつの上がる町並み」として現代に受け継がれています。必見です!

2022年6月9日誰もが働きやすいまちへ “超短時間雇用”の取り組み



「通院しながら働ければ」「子どもの送り迎えがある」「親の介護をしなければ」・・・。

多くの業界で働き方改革が進む中、柔軟な勤務をする人が増えてきました。しかし、あなたの周りに「週3時間」という “超短時間雇用”の人はいますか?

障害や難病などを理由に短い時間しか働けない人たちは、企業で働く機会が限られていました。そこで、“超短時間雇用”を広めて、誰もが働きやすいまちを目指そうという取り組みが、岐阜市で始まっています。





【仕事は週にたったの3時間】



仕事をする丹羽さん


岐阜市の建築事務所で働いている丹羽彰光さん。勤務時間は、毎週金曜日の午前9時から正午までの3時間だけです。

統合失調症や血液の難病を抱えていて、これまで何度も入退院を繰り返してきました。今も、治療や障害のある人たちが集まる自助グループへの参加などを優先していて、働けるのは極めて短い時間に限られています。これまで4回、フルタイムの仕事に挑戦しましたが、長く続けられませんでした。

「出勤して職場が近づいてくるとプレッシャーというか、ストレスを感じるようになってきました。毎日そう感じてきて、働き続けるのはきつかったです」





【政策の枠から外れる人たち】




障害や難病で長時間働けない人の求人は、ほとんどないのが現状です。障害者の雇用を定める法律はありますが、週20時間以上の勤務でないと「雇用」とはみなされません。また、障害者を雇用した場合に出される助成金も、勤務時間が短すぎると対象から外れてしまいます。企業は、こうした人の採用を避ける傾向にあるのです。





【岐阜市の秘策 “超短時間雇用”とは】



岐阜市は、制度や助成とは別の方法で、雇用を生み出せないか検討してきました。そして、企業の「ちょっと人手が足りない」というニーズを掘り起こし、こうした “超短時間雇用” を希望する人たちとマッチングしようと考えたのです。





【歯車がかみ合った丹羽さんと会社】



パソコンでデータ入力をする丹羽さん


丹羽さんの働く建築事務所は、丹羽さんの雇用前に、社員たちに手伝ってほしい仕事を調査。見つかったのが、公共工事の入札情報をデータベース化する作業でした。自治体のホームページから文字や数字を繰り返しコピーして、専用のワークシートに貼り付けます。

もとは、ほかの社員が週に数時間かけて行っていましたが、事業拡大にあたって扱うデータ量が増えて作業が追いつかなくなり、パソコン操作に慣れていた丹羽さんに託すことになったのです。

「3時間なので、ちょうど手頃ですね。単純作業で、わかりやすくてやりやすいです」




仕事の話をする丹羽さん


丹羽さんはすぐに仕事に慣れ、しばらくすると、会社に仕事を進めやすくするためのアイデアも提案するようになりました。上司も、丹羽さんを頼りにしています。

丹羽さんの上司
「こちらが求めてることを根気よくやってくれて、成果も出ているので、非常に助かっています。通常の労働者として受け入れるものなのか、少し配慮して受け入れるものなのか兼ね合いがわからなかったんですけど、通常の新入社員と何も変わらなかったです」





【社員や会社の意識にも変化が】



建築事務所の様子


建築事務所にとっては「ちょっと人手が足りない」ことがきっかけだった “超短時間雇用”。しかし、ただの「人手」以上の変化をもたらしつつあります。

社員の中には、丹羽さんとともに自助グループの集いに参加した人が現れ始めました。同じ職場で働く障害のある人たちを、もっとよく知ろうと思ったそうです。

意識の変化は社員だけでなく社長にも。これまでフルタイムの社員しかいなかった環境で、さまざまな働き方の可能性に気づき始めたのです。




建築事務所の八代社長


建築事務所 八代俊社長
「人手が不足している中で、子育てとか結婚を機に1回リタイアして、またちょっと空いてる時間で仕事したいという人が結構います。仕事と時間に対する考え方も、その人がいつ仕事ができるかに合わせた方がやりやすいのかなと思うようになりました。もっといろんな働き方が増えるんじゃないかと思いますね」





【“超短時間雇用”のこれから】



「長時間働けないだけで、会社などからは必要とされている」

岐阜市は、多くの人と企業に“超短時間雇用”を知ってもらい、より多くのマッチングを成功させようとしています。ただ、2022年5月の時点で、マッチングが成立したのは、丹羽さんを含めて2組にとどまっています。

一方、同様の取り組みは川崎市や神戸市などでも導入が進んでいて、取り組みに携わる専門家によりますと、全国で200組以上のマッチングが成立しているということです。

岐阜市のセンターは、今後も企業への周知を重ね、取り組みの輪を広げていきたいとしています。




長短時間ワーク応援センター長の大原さん


岐阜市超短時間ワーク応援センター 大原真須美 センター長
「仕事を切り分けていくと、その人じゃなくてもできることが絶対にあると思います。その部分を誰かに担ってもらうことで、その人が絶対にやらなければいけない業務に専念できるとか、新たな業務にチャレンジする機会を増やすことができます。地域の中に、いろんな時間の長さの仕事があって、障害や難病がある人でもそれを柔軟に選んで働けるようなまちにしていきたいと思っています」




岐阜市長短時間ワーク応援センター 058-215-8280 平日 午前8時30分~午後5時


センターは“超短時間雇用”で働きたい人からの相談を受け付けるだけでなく、企業からの「こんな仕事でもお願いできるのか」といった相談にも乗っています。少しでも関心があれば、連絡してほしいと呼びかけています。






吉田紘生記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
2020年入局
警察・司法を担当
障害者や高齢者の取材を続ける

2022年6月7日春の象徴 サクラ




窓から見える桜



6月に入りましたが、2か月前の頃を思いだしてください。




わたし、弘永優恵は、サクラの開花に “わくわく”していました。寒さが厳しい頃には、天気予報で桜の開花予想が伝えられれば “そわそわ”。開花が近づくと、いつ咲くのだろうかと落ち着きをなくし、開花したと聞けば、サクラを探し、見つけては、ぼーっと見上げていました。そして、すっと息をのむほどの満開のサクラを見ては、しみじみ、春を感じていました。日本の春を象徴する花 “サクラ”。“名所” と呼ばれる“サクラ”だけではなく、街角に根を下ろす“サクラ”の、りんと咲き誇るその姿に心奪われました。振り返ってみると、わたしの人生の思い出にも、たびたびサクラが登場しています。





【サクラが危機に直面している】



去年、岐阜放送局に赴任したわたしにとって、ことしは岐阜で初めて迎えたサクラの季節です。その時を待ちわびていた私に、取材で知り合った人が「サクラが美しい花を咲かせるためには、年間を通じた手入れが欠かせないんだよ」と教えてくれました。「勝手に咲くのではないのだな」と、当たり前のことなのに、驚きを持ってその言葉を聞きました。しかしそれだけではなかったのです。次に続く言葉に、なんともいえない焦りのようなものを感じたのです。

「サクラが危機に直面している」

とにかく、調べ、現状を伝えたいと思いました。





【難航した調査】



岐阜県内の桜の名所の地図


調べ始めたものの。岐阜県内のサクラを網羅した資料は見当たらず、最初からつまずきました。“日本さくら名所100選”や“飛騨・美濃さくら三十三選”はありますが、母数が多くありません。わたしは岐阜県内の全ての市町村に取材し、あわせて148か所をピックアップし、それらの実態を調べることにしました。しかし、自治体の担当者ですら、管理している人がだれか、すぐにはわからないという所もあり、思った以上に取材に時間がかかりました。





【“ボランティアが管理” 18%】



ボランティアが管理している場所の地図


取材の結果です。
調査した148か所のうち、少なくとも18%にあたる27か所では、住民などのボランティアがサクラの管理を担っていることがわかりました。多くの所が、活動の中心は高齢者と回答し、中には70代から80代が管理していると打ち明けてくれる所もありました。
サクラの木の高齢化が指摘されていますが、取材では高齢者がサクラの木を世話している実情の一端も浮かびあがりました。
さらに、その約6割は後継者不足に懸念を示し、潜在的な課題があることも見えてきました。

当事者の話を聞きたいと、現場に向かいました。





【現場① 池田町 「雲上の桜」】



池田町の「雲上の桜」の木


最初に向かったのが、池田町の「雲上の桜」です。神社の敷地に堂々と根を下ろしています。樹齢500年を超える1本のエドヒガンザクラで、町の天然記念物に指定されています。
「雲上の桜」は、平成17年の大雪によって枝が折れ、樹勢が衰えました。そこで立ち上がったのが、石井智恵子さん(79)です。石井さんは、この桜を次の世代に引き継ぎたいと、地元の人たちに呼びかけ、平成24年に愛好会を立ち上げ、「桜守」としての活動を始めました。




雲上の桜を見上げる石井さん


この地区で生まれ育った石井さんは「子どもの頃に、家族と一緒にサクラのそばで弁当を食べたことが忘れられない」と教えてくれました。そして、サクラの木の下では「懐かしい匂いが充満していて、ここが大好きです」とやさしい表情で話してくれました。





【補助金で樹木医 でも・・・】



石井さんは奔走しました。岐阜県に補助金を申請して活動資金を獲得、樹木医に“治療”を依頼しました。樹木医のアドバイスをもとに、土壌改良などを進めました。その後、樹勢は回復しましたが、ここ数年は衰えが進んでいて、毎年の「処置」が欠かせない状況だといいます。しかし、石井さんが体調を崩したことなどから、補助金の申請ができず、ことしは樹木医の治療を受けるための資金がありません。愛好会のメンバーの高齢化も進んでいて、できることは、草むしりだけです。新たな担い手も見あたらず、解散の決断に迫られていました。





【現場② 各務原市 「百十郎桜」】



各務原市の川沿いに咲く「百十郎桜」


次に取材したのは、各務原市の「百十郎桜」です。岐阜県有数の桜の名所で、川沿い5キロに、およそ1000本のソメイヨシノが花を咲かせます。
この桜並木を守ってきたのが、「百十郎桜保全ボランティアの会」です。各務原市の呼びかけをきっかけに平成14年に結成されました。




桜の手入れをする須田さん


会長の須田長良さん(78)です。

須田さんは、メンバーとともに、春の一瞬だけに花を咲かせるサクラのために、毎週月曜日、1年かけて、手入れを続けています。不要な枝を切り、病気を取り除く作業を繰り返してきました。しかし、メンバーの平均年齢はおよそ76歳。老いに直面し、活動はもはや限界だといいます。

百十郎桜保全ボランティアの会 須田長良 会長
「みんなどんどん年を取ってきているし、実際に活動から身をひいて、最近は亡くなる人もいるので、われわれの会も終わりに近づいている」




百十郎桜保全ボランティアの会の会合の様子


ことし3月下旬、須田さんたちの会合には、地元のフットサルチームの若者も参加していました。




須田さんたちの話を聞くフットサルチームの監督


会合で、フットサルチームの監督が、「引き継ぐことも大事なのかなと思っております」と保存活動への参加を申し出ました。

ところが、意見の違いが浮かび上がります。須田さんたちが毎週月曜日に活動していることについて、学生が主体のフットサルチームから、活動日を休日に変更してほしいという要望がでたのです。




要望を聞く須田さん


須田さんたちは、市役所の職員と一緒に作業を行ってきた経緯などから、活動日を月曜日にしています。そのため別の提案を行いました。

百十郎桜保全ボランティアの会 須田長良 会長
「わたしたちは、平日でないと活動できないという制約があります。一緒にやるのではなくて、独自の活動をお考えになるといいのかもしれないと私は考えているのですが、どうでしょうか」

これに対してフットサルチームの監督は「私たちが主体でとかいう話だと、申し訳ないですけど出来ないと思います」と話しました。

この日、結論はでませんでした。





【“今が最後のチャンス”】



サクラの木の多くは、今、手入れを必要としています。専門家は、サクラを管理する担い手の高齢化が進み、このままではサクラが織りなす風景が楽しめなくなるおそれがあると指摘しています。




岐阜大学 林 名誉教授


岐阜大学 林進 名誉教授
「木も高齢化する、関わる人たちも高齢化するということで、じり貧になるケースが結構目立っています。今が最後のチャンス、この機会を逃せば切って植え替えるしかない」

林名誉教授は、次の3つの対応策を提案しています。

  1. 「持続的な仕組み」
    サクラの保全に向けて、資金を集めて若い人たちをはじめとした担い手を確保し、活動の継続につなげる
  2. 「削減」
    いまの体制でも管理できるように、サクラの木の本数を減らす
  3. 「植え替え」
    病気に強い品種や小ぶりなサクラに植え替え、管理の負担を減らす



淡墨桜





【サクラは咲き続けるのか】



わたしが取材した148か所の多くは自治体などによって管理されています。しかし、大丈夫だと安心するのは早計だと思います。人口減少などによって、自治体ですらサクラを管理するための財源が確保できなくなるおそれがあるからです。そうした状況を見越し、愛知県犬山市では、残すサクラとそうでないサクラを選別する保全計画を作っています。

6月に入りサクラの木は青々とした葉にすっかり覆われしまい、春の面影はありません。しかし、そうなった今も、次の春にもサクラが咲くようにと、人知れずだれかが懸命に手をかけ、サクラを守っています。

日本でも、岐阜県でも、高齢化や人口減少が進んでいます。“桜守”たちの高齢化も進み、担い手不足の問題も顕在化しています。サクラをどう守っていくのかを考えることは、今後の地域のあり方について考えることにつながると思います。道路や橋梁などが、暮らしに欠かせない“インフラ”であるように、サクラは、わたしたち日本人にとって“心のインフラ”と呼べる存在ではないかと、生意気にも思いました。
10年先、もう少し先、少しでも長くサクラを楽しめるようにするためには、何をすればいいのか。いっしょに考えていければと思います。






弘永優恵記者

NHK岐阜放送局 記者
弘永優恵
2021年入局
警察・司法担当 サクラの思い出は、兵庫県宝塚市で大学の友人たちと初めて夜桜を楽しんだことです
記者として、何度も花を咲かせたいです

2022年5月9日“ウッドショック” 木材の安定供給のために



面積のおよそ8割を森林が占める岐阜県で、木材が足りず住宅の建築が始められない状況になっています。いったい、何が起きているのでしょうか。




【“夢のマイホーム” が建たない!?】



郡上市の工事現場



郡上市の工事現場です。施主の羽田野秀樹さんは、ことし4月の完成を希望して初めての“夢のマイホーム” を建設しようとしていました。しかし、まだ影も形もありません。




施主の羽田野さん


「今、アパートで狭い暮らしをしているので、下の子が小学校に上がるタイミングで家を建てようと思っていましたが、完成予定が秋になってしまいました」




積み重ねらえた合板


工事が始まらなかった主な原因は、ベニヤ板を重ねた「合板」と言われる木材の不足。
建物の強度を増すために、床や天井に必要不可欠で、一般的な住宅では1棟あたり140枚程度使います。
いま、合板をはじめ、さまざまな木材で価格の高騰や品不足が起きていて、“オイルショック”になぞらえ “ウッドショック” と呼ばれています。




工務店の猪島さん


羽田野さんのマイホーム建設を請け負っている工務店の猪島正司さんは、こうした現場はいくつもあるといいます。

「32年間、この業界でやってきたが、木材がないのは初めてだ」





【なぜ木材が足りない?】



アメリカテネシー州での住宅着工の様子



“ウッドショック” の背景にあるのは新型コロナウイルス。在宅勤務の浸透などでアメリカでは去年から急激に住宅着工が増えるなど、世界的に木材需要が高まりました。
また、合板の主な産地である東南アジアなどでは、感染拡大にともなってロックダウンの措置が取られ、生産量も減りました。
こうした理由で、木材の6割を輸入に頼る日本で深刻な木材不足と価格高騰が起きているのです。





【価格高騰は木材以外にも】



石油由来の接着剤や塗料



価格が高騰しているのは木材だけではありません。
原油価格の高騰が追い打ちをかけ、石油由来の接着剤、塗料、断熱材なども値上がりしています。
こうした建材の高騰で、住宅の建築コストは全体で1割から2割ほど上がる可能性がありますが、猪島さんは、契約を結んだ後に仕入れ価格が上昇した分は工務店が負担することもあるといいます。




木が生い茂る山を見つめる猪島さん


「お客さんがマイホームのために精いっぱいお金をためて契約したのに、着工したあとに、『材料価格が上がったので、価格を上げる』とは言えません。こんなに近くに木はあるのに、なんで材料がないのかと強く思います。もどかしさを感じます」





【国産木材支える林業の課題】



木はあるのに木材がない。
創業104年の建材商社を経営している吉田芳治さんは、“ウッドショック” を招いた要因には、安価で供給が安定している輸入木材に頼ってきた歴史があると指摘します。




建材商社を経営する吉田さん


「今までも、輸入木材が供給不足で入ってこないと国産木材にシフトする流れがあった。そうすると国産木材の値段も上がってきて、国産木材の時代が来たと思う。しかし、また輸入木材が安定供給で入り出すと輸入木材の方が安いからいいということで、戻ってしまっていた」

日本の木材の自給率は、一時は20%程度まで落ち込みましたが、今は40%程度まで回復しました。しかし、安価な輸入木材に対抗して価格は低迷し、林業に関わる人たちの賃金低下を招き、担い手は減ってしまいました。





【県産木材の活用のために】



建材木材の活用のために立ち上げた団体のみなさん



吉田さんは3年前伐採から加工、利用まで多業者からなる団体を立ち上げました。
供給とのバランスを取りながら、県産木材の安定的な需要を掘り起こす狙いです。

「どれだけの木を供給して、どれくらい製材して、必ずそれを使いますよっていう契約みたいな感じです。半年とか3か月間とか価格も固定して生産・供給する」




学会での様子


木材や林業の研究者が集まる学会で、この動きを全国に広めようと訴え、“ウッドショック” を教訓に、日本の林業を活性化しようと取り組んでいます。

「これだけ長く大きな “ウッドショック” は、あまり経験したことないが、山の問題などがはっきり露呈した。この痛さがわかっているうちに、対策を考え、実行していかないといけない。我々の使命だと思う」

木材供給の安定のための業者間連携は動きだしたばかりです。
この取り組みの輪を広げて、森林豊かな岐阜県の “宝の山” を活用していけるのか、注目が集まります。






齋藤記者

NHK岐阜放送局 記者
齋藤恵実
2019年入局
警察・司法担当を経て県政担当。

2022年3月29日「ハロー!ネイバーズ」始めました




ハロー!ネイバーズ



NHK岐阜放送局は、この春、東海・北陸のNHKとともに、「ハロー!ネイバーズ」というプロジェクトを始めました。異なる国籍や民族などの人たちが互いの違いを認めあって対等な関係を築き地域社会でともに生きる「多文化共生」がテーマです。





数字54061



54061
この数字、なんだと思いますか?
これは2020年の国勢調査による岐阜県で暮らす、外国にルーツがあるお隣さん“ネイバーズ”の人数です。その5年前の国勢調査と比べ48.9%増えました。人口に占める割合は2.7%と、全国で5番目の高さです。

NHKのキャンペーン「ハロー!ネイバーズ」は “お隣さん=ネイバーズ” の素顔を知り、多様な社会の今を伝えていきたいと思っています。




「ハロー!ネイバーズ」の1回目のテーマは、「やさしい日本語」です。





【その日本語、 “やさしい”ですか?】



みなさんは、「やさしい日本語」をご存じですか?
日本語が苦手な人にも伝わるよう、簡単な表現などに言いかえた日本語のことです。1995年の阪神・淡路大震災で日本に住む外国人の多くに必要な情報や支援を届けられなかった反省から研究が始まりました。





【“共生のまち”美濃加茂市】




美濃加茂市の街並み



岐阜県東部に位置する美濃加茂市は、人口が約5万7000人。あちらこちらで外国語の看板を見ることができます。美濃加茂市の人口の約9%にあたる約5300人が外国籍の住民 “ネイバーズ” です。出身はフィリピン、ブラジル、ベトナム、中国などさまざまです。市は “共生のまち” を掲げ、取り組みを進めていますが、住民のみなさんは “共生” についてどう受け止めているのか、尋ねました。



日本人に聞く


日本人
「声をかければいいのですが、なかなか一歩前へ踏み出すのが難しいです。相手が日本語をカタコトでも話せれば、うまく会話に入っていけるかもしれませんが、チャンスがないですね」
「近くに住んでいる人とあいさつくらいはします。でも、自分が日本語でしゃべっちゃうと、外国の人には難しいかなと。せめて英語が話せたら、会話できるかなと思いますけれど」
外国籍の市民は、どう感じているのでしょうか。




外国籍の市民の方々


ベトナム人
「日本語は難しい。でも面白い。ふつうのことばは、ちょっと話せる。難しいことばは、ちょっと聞けない。だから大変です」
ブラジル人
「日本人と関わりを持つと自信がつくので、関わりはあった方がいいと思います」





【初の体験型研修会】



美濃加茂市が力を入れているのが「やさしい日本語」の普及です。ことし1月には、体験型の研修会を初めて開き、12人が参加しました。



研修会の様子
(美濃加茂市が開いた研修会)



研修の講師を務めた、岐阜大学地域協学センターの大宮康一准教授は、「やさしい日本語」のポイントについて次のように説明しました。



大宮准教授
(「やさしい日本語」に詳しい 岐阜大学地域協学センター 大宮康一准教授)



▼できるだけ短く
▼簡単な言葉を使う
▼具体的に言いかえ


例えば
▼氏名を記入する→名前を書く
▼両親→お父さん・お母さん
▼公共交通機関→バスや電車


研修では、次の行政文書を「やさしい日本語」にする実習が行われました。


実習用の文章
(研修会で示された例文)



みなさんは、この文章をどのように「やさしい日本語」に変換しますか?

大宮准教授が示した “やさしい日本語” はこちら。



「岐阜県から、岐阜県に住む人にお知らせです
コロナウイルスが心配で元気な人は、12月28日から、
0円でコロナウイルスを調べられます」



こんなに短いの?と思うかもしれませんが、大宮准教授は「誰が」「誰に対して」「いつから」「どのような行動を求めているか」と、ポイントを絞って伝えるべきだとしています。さらに、ていねいに正確に伝えようとすると、かえって難解な表現になってしまうおそれがあるとも指摘しました。





【警察にも「やさしい日本語」を】



この研修には2人の警察官も参加しました。

大石巡査
(研修に参加した 加茂警察署 大石武巡査(25) )



そのうちの1人が、加茂警察署の大石武巡査です。川辺町の交番に勤務していて、これまでも “ネイバーズ” から、道を尋ねられたり、落とし物の相談を受けたりしたといいます。

翻訳アプリが表示された公用携帯
(岐阜県警の公用携帯にインストールされている翻訳アプリ)



岐阜県警察本部は、およそ650人の警察官の公用携帯電話に翻訳アプリをインストールし、活用しています。大石巡査のスマートフォンにもアプリがインストールされていますが、操作に集中するあまり、コミュニケーションがスムーズにいかなかったケースがあったといいます。


大石武巡査
「最初のコミュニケーションの導入部分で、どのように話しかけたらいいのか難しい」





【“やさしく” は “むずかしい”】



研修では、実践型のロールプレイが取り入れられました。美濃加茂市の外国籍の職員が “日本語が苦手な外国人” 役を演じます。大石巡査は、落とし物を届けに来たという設定で「やさしい日本語」に向き合いました。


大石巡査 「どうされました?」
外国人役 「これ、あそこ」
大石巡査 「拾った?」
外国人役 「落ちていた」


滑り出しはスムーズです。ところが、落とした場所を教えてもらおうとしたところから思うようにいかなくなりました。


大石巡査 「近くになにかありましたか?」
外国人役 「えっと…学校」
大石巡査 「学校。なんっていう…学校の名前わかりますか?」
大石巡査 「わからないです」
外国人役 「学校以外に何かありました?」


さらに、持ち主が現れなかった場合の手続きについて伝えようとしました。


大石巡査 「財布をもらったりすることができる権利があります」
外国人役 「権利?」
大石巡査 「例えば、もし持ち主が見つかってお礼がしたい、そのお礼を受け取ることができるというルールがあります」


思わず、難しい言葉を使ってしまいました。



研修の様子



外国籍の市職員は、大石巡査に次のようにアドバイスしました。

「権利は、ルールや決まりに言い換えないとね」





【研修後も“やさしく”】



研修を終えた大石巡査は、交番でも“やさしく”できることがあると気づきました。
例えば、警察官の不在を知らせる表示です。



交番のお知らせ
(大石巡査が勤務する交番にある標示)



大石武巡査
「『ただいま』とか『ご用の方』といったていねいな言い回しはなくして、交番に警察官がいないことを示したいので『パトロールでいません』と単純な文章にした方が伝わりやすい」


大石巡査は、まずは身近なところから「やさしい日本語」を取り入れ、さらに同僚にも広めたいと考えています。


大石武巡査
「やさしい日本語がどんどん広まっていけば、外国人の方が安心して落ち着いて窓口に来て話ができる。私が率先して実施や共有をしていければ」





【「やさしい日本語」はみんなにやさしい】



「やさしい日本語」は相手に対する “やさしさ” が根幹です。ネイバーズにも “やさしさ” を向けることで、きっと頼もしい隣人になるのだと思います。


記者2年目の私がよく言われることばに「難しいニュースこそ、簡単なことばに」というフレーズがあります。しかし、より正確なことばを使う、あれもこれも伝えなきゃと意識するあまり、かえって難しくなる場合があります。「やさしい日本語」のねらいは、日本人と外国人のコミュニケーションのきっかけをつくることですが、“やさしい” 表現の方が伝わりやすいのは日本人も同じだと思います。4月からは記者3年目に入ります。記者としてはもちろん、1人の人間として「自分の伝えたいことは、この表現で伝わるのだろうか」と考え、 “やさしい” 伝え手になりたいと思います。






吉田紘生記者

NHK岐阜放送局 記者
吉田紘生
令和2年入局 岐阜局が初任地 
県警キャップ 入局して以来、事件や裁判の取材が主な担当です
取材で特に難しいと感じるのは、子どもたちへのインタビューです。「やさしい日本語」を実践すべく「どんなことを思いましたか?」などと尋ねますが、黙り込んでしまう子どもは少なくありません。