4月9日の統一地方選の前半で行われた岐阜県議会議員選挙。26の選挙区のうち、無投票になった17選挙区を除く、9選挙区で投票が行われ、自民党は立候補した33人のうち32人が当選し、引き続き全体のおよそ7割の議席を維持しました。また、注目の多治見市選挙区では連合などから支援を受けた判治康信さんと、立憲民主党からくら替えし、自民党の推薦を受けた今井瑠々さんが初当選を果たしました。NHKが行った出口調査の結果なども交え、今回の結果の特徴、有権者の投票行動を読み解きます。
党派別では、46人の定員のうち、自民党が32人となりました。推薦した議員も含めると33人で引き続き、県議会のおよそ7割を占め、一強の体制を維持しました。一方、国民民主党は3人、公明党は2人、立憲民主党と共産党は1人ずつといずれも現職が議席を守りましたが、そもそも新人の候補者をほとんど擁立できず、存在感を示せませんでした。日本維新の会は2人の候補者を擁立しましたが、議席を得られませんでした。
女性の躍進が目立ちました。人数は選挙前の4人から6人に増え、県議会ではこれまでで最も多くなりました。一方で、当選回数の多いベテラン議員の勢いの衰えを感じる選挙でもありました。投票率や構図の違いなどもあるため、一概にはいえませんが、前回と今回のいずれも選挙戦となった選挙区のうち、当選6回以上の議員8人では、平均で4年前よりおよそ16%、得票を減らしています。
多治見市選挙区ではおととしの衆院選で立憲民主党から立候補して、落選し、今回は自民党の推薦を受けた今井さんの立候補で、16年ぶりの選挙戦となりました。連合などから支援を受けた判治さんと、自民党の公認で公明党から推薦を受けた友江さんを含め、3人による激しい選挙戦となりましたが、判治さんと、今井さんが当選し、友江さんはわずかに及びませんでした。
NHKの出口調査の結果です。まずは、各政党の支持者が誰に投票したかを見てみます。
今井さんは、自民党支持層のおよそ40%を固め、無党派層からも30%台後半と一定の支持を得ています。
次は、おととしの衆院選の投票先と今回の投票先です。
衆院選の投票先が今井さんの人は全体の34%でしたが、このうち、今回も今井さんに投票した人はおよそ4割でした。ただ、自民党の古屋衆議院議員に投票した人の3割から票を得るなど、自民党の推薦を得た影響か、新たに今井さんを支持した人もいたことが分かります。
また、政治家が所属政党を変えることについて尋ねたところ、「問題がある」が59%で、くら替えを否定的に見る人は半数以上いたものの、このうち、およそ20%が今井さんに投票していました。また「問題はない」が41%で、このうち50%台半ばが今井さんに投票していて、くら替えによる影響は限定的だったとみられます。
投票率は41.60%と過去最低だった前回よりもわずかに上がりました。多治見市をはじめ不破郡や本巣市などで激しい選挙戦となったほか、日本維新の会が県議選に初めて候補者を擁立した影響などが考えられますが、依然として低い状況が続いています。
コロナ後の地域経済の立て直しや子育て支援、物価高騰対策など県内でも課題が山積していて、議会がこうした課題にどう向き合っていくのか、注目しなければならないと思います。
また、統一地方選挙の後半では市町村長選挙などが予定されていて、県議選で注目された多治見市では市長選挙もあります。自民系と非自民系の新人2人が立候補を表明していて、県議選と同じく16年ぶりの選挙戦になる見通しです。今回の県議選の結果がどのような影響を与えるのか、引き続き取材したいと思います。
NHK岐阜放送局 記者
森本 賢史
神奈川県出身。2016年入局。金沢局を経て2020年から岐阜局勤務。県政取材を担当。
「ずっと『奇跡』って言うなよと思ってた。だけど、大人になって少し考えが変わったっていうか…」
寒風がほおを刺すことし2月上旬。岩手県釜石市の震災伝承施設を訪れた名古屋市の会社員、紺野堅太さん(25)は目の前の展示を見つめてつぶやいた。津波を逃れるため、当時中学1年生の自分たちが息を切らせて高台まで避難した道のりの記録だ。多くの命が助かり、災害時の危機管理のモデルケースともされた出来事から12年。ふるさとを離れ、東日本大震災の経験と教訓を伝える若者は、ずっと胸にしまっていた思いを語り始めた。
紺野さんは、岩手県大槌町の高校を卒業後、愛知県内に就職して8年目を迎えた2022年の秋。防災を専門とする大学教授に誘われ、南海トラフ地震で甚大な被害が想定される高知県で初めて当時の経験を語った。新型コロナウイルス流行の前から考えていた震災の「語り部」としてようやく一歩目を踏み出した。活動の源泉には親しい男性の存在があった。
(写真提供:浦山文男さん)
2011年3月11日、紺野さんは、釜石東中学校の教室で激しい揺れに襲われた。中学校は海岸からわずか200メートル。しかし日ごろから津波を想定した避難訓練や防災学習が行われていたため、頭にすぐ「津波」が思い浮かんだという。それでも当時は「校舎の1階がつかる程度だろうと、半分ヘラヘラしながら友達と避難路を走っていた」という。
当初、避難場所に指定されていた福祉施設に着くと、裏山で崖崩れが起きていると聞きつけた教師の指示で生徒たちはさらに数百メートル先の高台に避難した。紺野さんも足の不自由な小学生の女の子を背負って坂を駆け上がったという。この時、小さい子の手を取って走る中学生たちの姿にいざなわれるように避難したことで、難を逃れた住民も多かった。
高台に着き、避難してきた道を振り返ると、黒い波が建物を押し流す光景が広がっていた。ついさっきまでいた中学校が飲み込まれているのが見えた。
「もう死んだな」
ぼう然と立ちすくむ中、「逃げろ!」という教師の叫び声でわれに返り、無我夢中で走った。
そのときのことは自分の吐息の音と周りの悲鳴以外はほとんど記憶にない。
紺野さんの自宅は津波で流されたが、両親と高校生の兄の4人の家族は無事だった。釜石東中学校の生徒と、隣接する小学校の児童もほとんどが助かった。率先して避難する生徒たちに触発された住民も救われたことから、災害時の危機管理のモデルケースとして全国の注目を集めた。
紺野さんもその年の夏、東京で開かれた内閣府の講演会に招かれ、防災学習の大切さを訴えた。決して心にもないことを言ったわけではないが、棒読みになったという。死地から生還した英雄のように扱われることへの違和感が拭えなかった。
釜石市の追悼施設に並ぶ芳名板には、近所に住んでいた4歳上の男性の名前が刻まれている。幼い頃から家族ぐるみのつきあいで、庭でバーベキューを楽しんだり、一緒に海で遊んだりした。実の兄とけんかした時には家に上がり込み、テレビゲームをしながら慰めてもらった。
「本当に優しい人で。血はつながってないけど『もう1人のお兄ちゃん』だった」
今回の帰省に先立ち、紺野さんは男性の遺族に連絡した。語り部を始めたことを知らせ、「お兄ちゃん」の存在に触れることへの了承を得たかったからだ。肉親でない自分が男性の思い出を伝えていいのかという迷いもあった。
「自分の中で原動力になってるから伝えたい。でも嫌だったら自分の心の中に留める」
そうメッセージを送ると男性の妹から返信があった。「そうして忘れないでいてくれることがうれしい。頑張って」心のもやが晴れ、語り部をする意味が明確になった気がした。
紺野堅太さん
「親しい人を亡くし、ずっと『奇跡って呼ぶなよ、僕らの悲しみをわかってくれよ』と思っていたけど、大人になって少し考えが変わった。いまは奇跡か奇跡じゃないかより、同じような悲しい思いをしてほしくない。僕の話を聞いてくれる人を助けたいという一心で動いている」
直接被災した経験のない人に、より深く震災の教訓を伝えるにはどうすればいいのか。紺野さんは地元で活動する親しい人を訪ねた。
その1人が、釜石東中学校で2学年上の先輩、菊池のどかさん(27)。菊池さんは、約3年前、紺野さんから語り部への関心を打ち明けられた時のことを次のように振り返る。
菊池のどかさん
「若い世代の語り部は本業との両立が難しく、震災から10年までと決めていた人もいた。仲間が目に見えて減っていく中、今後どうすればよいのかすごく悩んでいた」
若い語り部の象徴的な存在として多くの報道に取り上げられ、自分ひとりの記憶がまるでそれがすべてかのように伝わることが心苦しかったという。菊池さんは「本当はそうではなく、多くの人がそれぞれの思いで震災に向き合っている。紺野君が自分の経験を語ってくれることがとてもうれしい」と歓迎した。そして「語り部は学者でもガイドでもないけど、これから災害に遭うかもしれない人にどう命を守るかを伝えられる人。悲しい経験をした自分たちだからこそ、その時にどう生きていくかを伝える人でもあるから、何より自分が人間らしくいるのが大事かな」とエールを送った。
「正直なところ、自分としてはもう忘れたいなという気持ちもあるんです」
紺野さんの父、忠利さん(59)は、震災直後、消防団の一員として救助活動する中で多くの遺体を目の当たりにした。入居した仮設住宅では、夜中の3時になると必ずと言っていいほど目覚め、最初に見つけたなきがらの顔が夢に出ることもあった。だから、息子から当時の経験を語り継ぎたいと聞いた時は「少し抵抗があった」という。しかし、県外に単身赴任して数年後、釜石に戻ってくると、津波に流された跡に家が建ち始めていた。徐々に再生する町並みに「またいつか同じようなことが起きるのではないか」と不安を抱いた。
父・忠利さん
「風化させてはいけない。真剣に防災を考えなければいけないのかなと。息子が釜石から離れた場所で自分の経験を伝えることで、人1人の命が助かるならやりたいようにやればいい。そう気持ちが変わってきました」
紺野さんが初めて耳にした父親の本音だった。
3月4日、三重県で開かれた震災学習会。夜勤を終えたその足でリモートでの講演に参加した紺野さんは冒頭、こう切り出した。
「私は東日本大震災で兄のように慕う近所の男性を亡くし、とても悲しく悔しい思いをしました」
そして、釜石を襲った津波が震災前に予測されていた浸水区域を大きく上回っていたことを強調し、警鐘を鳴らした。
「ハザードマップはあくまで予測なんです。想定を超える被害が起きることを念頭に、皆さんには防災活動に取り組んでほしいんです」
「自分のこととして捉えることができた」という参加者の感想に「伝えたいことが伝わった」と一瞬ほおが緩んだ。
紺野堅太さん
「今回の帰省で多くの人の期待を受け、背中を押してもらった。故郷で伝えることもできるけど、僕は全国各地を回って自分の経験を伝えたい。自然災害から命を守れることが当たり前になるよう、日本の常識を変えたい」
そう語ると紺野さんは表情を引き締めた。
NHK岐阜放送局 記者
豊田 将志
新聞社勤務を経て2015年入局。千葉局などを経て2022年夏から岐阜局。
岐阜県議会議員選挙が3月31日告示されました。県内26選挙区のうち、選挙戦になったのは9選挙区。残りの17選挙区は無投票となり、19人の当選が早々と決まりました。実は全国でも無投票が多いことで知られる岐阜県議選。なぜ無投票が多いのでしょうか?
岐阜県議選の選挙前の党派別の勢力は46人の定員のうち、自民党が33人、国民民主党が3人、公明党が2人、立憲民主党が1人、共産党が1人、無所属が6人です。それに対して、立候補したのは自民党が33人、国民民主党が3人、公明党が2人、立憲民主党が1人、共産党が3人、日本維新の会が2人、減税日本が1人、無所属が14人のあわせて59人です。このうち17選挙区で無投票となり、19人の当選が決まりました。当選したのは自民党が17人、国民民主党が1人、無所属が1人です。
無投票の場合、有権者に選択の機会がなくなるわけですから、民主主義にとって好ましいことではありません。
ただ今回も26選挙区のうち、17選挙区で無投票となり、その割合は65.4%。NHKのまとめでは、統一地方選挙で行われる道府県議選の中で最も高くなっています。
背景にあると指摘されているのが1人区の多さです。
岐阜県内では定員46人のうち17人が1人区で選出され、その割合は37%です。中部地方で次に高いのが愛知県の25%で、お隣の三重県では2%、1人区が1つしかありません。定員が複数であれば、立候補の可能性が出てくる人も、1人区で現職や有力候補がいれば、当選は難しくなり、立候補を控えようとする傾向があります。実際、定員の多い岐阜市や大垣市では、毎回、選挙戦になっていますが、1人区ほど無投票が多く、海津市や養老郡など5回以上連続で無投票が続いている選挙区もあります。
こちらは岐阜県議選の選挙区です。青い部分が1人区ですが、公職選挙法では、都道府県議会議員選挙の選挙区は「市」や「市と隣接する町村」などを基本にするとしています。議員定数をそうした選挙区の人口に比例して割り振った場合、定員が1人になる選挙区が多いというわけです。
1人区を減らす方法としては、議員定数を増やすことや、人口が少ない選挙区を統合する「合区」が挙げられます。
実は一昨年度、県議会で、今回の県議選の定数や選挙区の変更を検討する場が設けられました。
この中で「県政自民クラブ」は、岐阜県はすでに全国3位の削減率で議員定数を削減しており、議員定数を増やすことは「全国的な定数削減の流れに逆行し県民の理解を得られにくい」としました。また合区についても、「法律の規定によって強制的に行う必要性は生じていない」などとして、現行の制度を維持するよう提案しました。
国民民主党や立憲民主党などの議員で構成する「県民クラブ」は県政自民クラブの案に合流するとしました。ただし、次の選挙の際には第三者の意見を求めたいとしました。
「岐阜県議会公明党」は県政自民クラブの案に賛成しました。
「共産党」は、令和3年7月に全国都道府県議長会が「無投票当選者数の割合が増加しており、とりわけ1人区において顕著である」と指摘していることを踏まえ、「より多様な民意を反映するため1人区をなくすことが必要だ」と提案しました。
結果的に、改正のための条例案は提出されず、今回も同じ制度で選挙が行われることになりました。
野党関係者に取材しますと、「当選する可能性が半分程度はないと新人の立候補は難しい」と話していました。今回、自民党は無投票で17人が当選し、最大の議席を維持することがすでに決まりました。こうした中で、自民系の候補者がさらに議席を伸ばすのか、あるいはほかの各党が、議席を守るのか、県議選の結果が注目されます。
NHK岐阜放送局 記者
豊田 将志
新聞社勤務を経て2015年入局。千葉局などを経て2022年夏から岐阜局。