クローズアップ現代

毎週月曜から木曜 総合 午後10:00

Menu
柳美里さんに聞く―
原発7キロの喫茶店
~福島・大熊町 流転と再会の10年~

柳美里さんに聞く―
原発7キロの喫茶店
~福島・大熊町 流転と再会の10年~

2021年3月3日

 この春、福島第一原発からわずか7キロの場所で1軒の喫茶店が再開します。10年前の原発事故で全町民が避難した大熊町にあった喫茶店「レインボー」、かつては商店の店主や農家、原発作業員など多くの人でにぎわっていました。マスター武内一司さんの人柄と、1杯のコーヒーが心のよりどころだった人々は、事故後ばらばらになり、当たり前の日常や人とのつながりを失いました。番組では、みなさんの10年間、そして喫茶レインボーでの再会の時を見つめました。
 そして、震災から10年を迎える福島について、福島県南相馬市小高区に移住された作家の柳美里さんにお話をお聞きしました。

他者との交流やつながりが断たれた“孤絶”

――原発事故でちりぢりになった大熊町の方たちが、10年経ってようやく懐かしい場所をひとつだけ取り戻すことができました
 人はみな、一人ずつ一つの魂を抱えています。原発事故による避難者、帰還者の中には、その魂が「孤絶」している方が大勢いらっしゃる。

――孤絶。孤立と孤絶というのは、大きな違いがあるのですか?
 人は、時には孤独を求めたりもしますよね。若者の場合は、両親からの保護や干渉の外に出たくて、孤独を求めて旅に出たり、独り暮らしをしたり、海外に留学したりする。孤独の場合は、戻る場所や、出迎える人が背後に控えています。でも、「孤絶」には、その場所やその人がいない。「孤絶」の絶は、絶縁の絶、絶望の絶です。人と人とのつながりが絶たれた状態、居場所から引き抜かれ状態が「孤絶」です。原発周辺の旧「警戒区域」には「孤絶」している方がたくさんいらっしゃる。「孤絶」に追い詰められた人の魂は、生きることに宙吊りにされてしまう。人の魂は、他者の魂との交流を絶たれると窒息してしまいます。
 ですから、武内一司さんが、原発事故によって全域が閉ざされ、住民がゼロになった大熊町で、かつての住民が魂の交流をしていたレインボーという喫茶店を再開するのは、小さな場所だけれども、大きな意味と価値があります。

柳美里さんが南相馬市に開いたブックカフェ「フルハウス」

600人の被災した人たちへの聞き取り そして南相馬市への移住

――柳さんは東日本大震災の原発事故の後、南相馬市の臨時災害FMに出演され、被災した600人の方々から、かつての暮らしや、原発事故で生じた苦しみや悲しみを聞いてこられました。その後、南相馬に移住され、今も被災地で生活を続け、3年前には自宅を改装され書店とカフェをオープンされています
 「フルハウス」は、南相馬市小高区にあるブックカフェで、東京電力福島第一原子力発電所から北へ16キロ地点の旧「警戒区域」にあります。
 2018年4月に本屋のみでオープンして、2020年3月からはカフェも併設してリニューアルオープンし、ランチもやっているんですが、近所の谷地魚店の谷地茂一さん(73歳)は、座る席も注文するものも、いつも決まっています。入ってすぐの席に入り口を背にして座って、シーフードドリアを注文するんですよ。常連客のみなさんとは、もはや気の置けない間柄なので、「ちょごっと、このコーヒーぬるぐねが? おもては-8℃で、ひゃっこぐ(※冷たく)なった体あっためてぇがら、唇かんかち(※火傷)するぐれぇ熱ぐしてくいろ」とか、「入れ歯合わねくてよっくど噛まんにがら、スパゲティの麺、やわらがぐ煮でくいろ」などと具体的なオーダーをしてくださり、そのオーダーに応えることに、スタッフ一同やり甲斐を感じています。
 小高では、帰還した3758人(1月31日現在)のうち約半数が65歳以上なので、高齢者が新型コロナウイルスの感染を警戒して、いわゆる不要不急の範疇に入る外出は極力控える傾向が強いんですけれども、なにしろ、ソーシャルディスタンスを取ろうにも、その相手がいない、というくらい原発事故によっていきなり過疎になってしまった地域ですからね。たった独りで帰還された高齢者にとっては、「今日は風強ぇな」 「今日はいい天気だ」「だいぶ、ぬぐぐなってきたな。さっき散歩さ行ったら、小高神社の梅、満開になってだぁ」という挨拶や、ちょっとした雑談をする場所というのは必要だと思います。喫茶店や本屋は長居できるので、他の常連客や、思いがけない人との出会いによって、話が弾んだりするという魂の交流ができる。わたしは、フルハウスは「魂の避難所」だと思っています。

ラジオで被災した人たちに話を聞く

――必要なものを買ったり用事を済ますところではなくて、ふらっと立ち寄るところにこそ、つながりが生まれる余地があるということなんですね?
 寄り道や無駄話によって心のゆとりが生まれる。日々せわしなく過ぎていく限りある人生における時間の糊代のりしろとも言えるかもしれません。

――柳さんは、原発事故で被害に遭った方たちと共に暮らそうと、何を理由に決心されて、今どんなことを感じていらっしゃるのでしょうか?
 わたしは臨時災害放送局で、「ふたりとひとり」というタイトルの番組(毎週金曜日午後8時から放送の30分番組)の聴き手を、2012年3月から、臨災局が閉局する2018年3月までの6年間務め、約600人の住民のお話を収録しました。「ふたりとひとり」というタイトルの通り、地元の方お二人とわたし一人でお話しするんですが、わたしは聴き手に徹していました。
 当時は、南相馬市内の至る所で除染をやっていましたし、農作物や魚介類からも放射性物質が検出されていましたからね。みなさん、暮らしについての不安を口にされていました。ここで暮らしていけるのか? 本当に暮らして大丈夫なのか? 除染が終わったら、原発事故以前の生活と生業を取り戻せるのか? 実家の家族、婚家の家族、夫と離れて知らない土地で子育てをするのは不安でたまらなく、帰りたいという気持ちが強いけれど、帰っていいのだろうか? そういう暮らしについての悩みを聴いていると、その人が流れ込んでくるような感じがする瞬間が訪れるんです。それは言葉になる以前の感情の振動みたいなもので、主に悲しみなんです。わたしは、悲しみの器のように聴いていた。わたしが当時暮らしていたのは、神奈川県鎌倉市で、暮らしという意味では、暮らしていいのかどうかという不安を感じないで済む安全圏ですよね。毎回「ふたりとひとり」で対面してお話を聴くうちに、自分が安全圏で暮らしているということが苦しくなっていった。みなさんの苦しみが暮らすということにあるならば、その苦しみを共にしなければ、暮らしを共にしなければ、聴き手を務めることは出来ないんじゃないかと思うようになっていったんです。
 2011年3月11日以降、「がんばろう!」とか「がんぱっぺ!」とか「寄り添う」とか、そういう励まし系の言葉が流行しましたが、わたしは励ます前にまず「共苦」なのではないかと感じたんです。苦しみを共にしたいと思い、当時暮らしていた神奈川県鎌倉市の自宅を売却し、福島県南相馬市に転居しました。

――苦しみを共にしたい
 まず、暮らしを共にしたい。暮らしの中に苦しみや悲しみがある。楽しみや喜びもある。とにかく、暮らすということから始めたい、と思ったんです。

――本当に大きな決断だと思います。どうしてそこまで思われたのですか?
 みなさん、そうおっしゃるんです。柳さん、大きな決断をしましたね、思い切りましたね、と。でも、わたしは、思いを切ったわけではなくて、思い付いたんです。思い付きで行動するというのは非難の対象になりがちですが、わたしにとっては、思いが付くというのはとても大きな出来事です。思いが付く先というのは、やはり思いです。わたしの思いと、誰かの思いが付いた。それは、一つの事件であり、奇跡とも言えるかもしれない出来事です。「ふたりとひとり」というラジオ番組でお話を聴くうちに、相双(相馬・双葉)地区で暮らす方々との縁が一つ一つ繋がっていった。その縁にたぐり寄せられるように移住をしたので、決断をした、というジャンプみたいな感じはなかった。段差がなかったんですね。人と場所と出来事に、少しずつ引っ張られていったから。
 先ほど、自分が悲しみの器となった気がする、と申し上げましたが、地元の方と共に悲しみの水路をつくりたいと思ったんです。悲しみは、自分独りで抱えていると、だんだんと水位が増して、いつか決壊し、自分自身を壊してしまう。わたしは人生の中で何度か、悲しみの決壊を経験したことがあります。悲しみは、少しずつ流していかないと危険なんです。悲しみを流すためには、悲しみの器となる他者が必要です。そして、その器から溢れ出る悲しみを流す水路が必要です。それが、わたしにとっては、ブックカフェ「フルハウス」であり、小説『JR上野駅公園口』であり、劇団「青春五月党」なんです。

震災前の喫茶レインボー

人のつながりやふらっと立ち寄れる場所が戻ってこその復興

――そうした柳さんから見て、原発事故によって福島の方々が失ったものは何だったとお考えになりますか?
 わたしは関東の都会で育ったので、近所づきあいのない環境というのが当たり前だったんですね。けれども、福島県の相双地区では、2011年3月11日以前は大家族で暮らしていた方が多い。2世帯、3世帯が同居する20人ぐらいの大家族の方もいらっしゃる。さらに、隣組も機能していて、隣組は緩やかな家族みたいな感じなんですね。たとえば、赤ちゃんをおんぶして近所を散歩していて、何軒先の誰それさんちの畑においしそうなにんじんがなってたから、今日はカレーにしようかぁとか、ほっき飯を炊いて家族で食べてる最中に、白いごはんも食べたくなったから、ちょっと隣の誰それさんちに行って、白いごはんもらってこようかぁとか、というような気兼ねの要らない共同体に、一つの家族が布団のようにくるまれていた。自他の境界が曖昧な濃密で親密な関わりです。その関わりに息苦しさをおぼえて、自由を求めて都会に出て行く若者もいることは確かですが、わたしにはそれが心地良くて、面白かったんです。
 南相馬に引っ越して間も無い時に、ご近所の方が玄関の扉をがらっと開けて、「麻婆豆腐つぐったから、あったけぇうちに食べてくいろ」って麻婆豆腐を小鍋ごと持ってきてくださった。麻婆豆腐だけじゃなくて、煮物とか漬物とか、御中元やお歳暮のお裾分けとか、いろいろです。

――そのつながりが失われてしまった。
 都会というのは、紙の上で計画を立てて、都市計画に基づいて街ができ、後から人がやってきますが、原発の周辺地域、福島県の浜通りというのは、人が集まってきて街ができて、人とのつながりによって街が広がっていった、という有機体のような街だったんです。そもそも何故ここにいるのかというと、人とのつながりがあるからです。地縁・血縁だけではなくて、ご近所付き合いや、友だちづきあいも盛んで、お祭りをみんなで協力して執り行うとか、田植えをするとか、全てのシーンに人とのつながりがあるという暮らしです。

――つながりがあるからそこに住んでいたということなんですね?
 つながりが、根っこだと思います。根っこを引き抜かれた痛みを感じていらっしゃる方が多い。


――根っこというものを引き抜かれた状態、そこが福島の方たちの苦しみの根源なのでしょうか?
 福島県外の人は「原発事故から10年が経ったのだから、いつまでも過ぎたことにくよくよしないで、そろそろ前を向いて生きた方がよいのではないか」「人生山あり谷あり。生きていれば、そのうちいいこともあるよ」というような励ましの言葉をかけがちだけれども、それは先回りした言葉だと思うんですね。
 人が、今ここに存在する、その「今」と「ここ」は、過去から切り離された点ではなく、「過去」から連なる長い長い線の上に在ります。
 大熊町でなし園を営んでいた関本信行さんのお宅も、4代100年続いたなし農家ですよね。今ここ、という現在は、自分の家族だけではなくて、祖父母や曽祖父母、会ったことのない先祖、膨大な死者と連なっているわけです。過去があって、現在があって、未来がある。相双地区の方は、概念的な時間としての過去ではなく、地層のように過去が堆積した土地で日々の暮らしを営み、その日々が未来を形作っていた。原発事故はその土地を取り返しがつかないほど大きく棄損きそんし、土地に根差した生業と日々の暮らしを根こそぎ奪い去ったわけです。過去に連なる線を切断した。その線は一本の直線ではありません。その土地で暮らしていた様々な他者の何色もの線を、縦に横に渡しながら美しい模様を編み出していた。それを、原発事故は、じょきじょき裁ち切ってしまったんです。編み直すことが不可能なほど細切れに。だから、帰還者や避難者のみなさんは、生きがいはありますか? 拠り所はありますか? という問いに対して口籠くちごもり、見つからない、考えないようにしている、というふうにおっしゃるんです。

――そうした中で、本当にようやくですけれども、1つの喫茶店という場所が新しく大熊町で再開されようとしていますが、喫茶店というのはどういう存在だと思われますか?
 わたしが暮らしている南相馬市小高区も、住民がいったんゼロになった旧「警戒区域」です。避難指示が解除されたのは、原発事故から5年が過ぎた2016年7月12日なんですが、少しずつではありますが、生活インフラは整えられてきています。幼稚園、学校、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、薬局、ホームセンターなどですね。でも、思い描いてみてください、ご自分が暮らしている街を。街は最低限必要なものだけで成り立っているわけではありませんよね。菓子屋、喫茶店、BAR、居酒屋、本屋、文房具屋、楽器屋、CDショップ、ブティック、レストラン、映画館、劇場、ライブハウスなど、ふらっと寄り道をしたり、暇つぶしをしたり、無駄遣いをしたりできる不要不急な場所ほど、人生に彩りを与え、豊かさを実感させてくれます。目的や必要があって行くのではなくて、嫌なことや悲しいことがあって心が揺らいだり落ち込んだりした時に、ふらっと立ち寄って気晴らしができる場所です。寄り道や暇つぶしをする場所がない街というのは、復興したとは言えないのではないでしょうか?

『JR上野駅公園口(英語版:Tokyo Ueno Station)』

高度成長期からの福島の受難を描いた『JR上野駅公園口』

――去年11月、柳さんが書かれた小説『JR上野駅公園口』が、アメリカで権威のある全米図書賞を受賞されました。この小説は、福島の沿岸部出身の男性が56年前の東京オリンピックの頃に東京に出稼ぎに来て、その後、上野公園のホームレスに転落していくという物語です。主人公が原発事故のずっと前から経済優先の戦後日本の高度成長という荒波に翻弄ほんろうされ、原発事故より前から翻弄と転落の人生が始まっていたと描いていますが、柳さんは福島の浜通りの人たちのこれまで置かれた状況を、どう捉えていらっしゃいますか?
 『JR上野駅公園口』は、福島の受難の物語です。小説で描いたのは、1964年に開催された東京オリンピックの裏側です。主人公の男性は、現在の南相馬市鹿島区八沢地区の貧しい農家で生まれ育ち、家族を養うために続けた出稼ぎ労働によって、郷里や家族から引き剥がされてしまいます。日本の高度経済成長期は、とにかく大量の労働力を必要としました。安くて、若くて、我慢強くて、使い捨てと交換がいくらでも可能な労働力として東北の若者が重宝された。常磐線や東北本線に乗って上京し、集団就職をした彼らは「金の卵」と呼ばれたわけですが、「金の卵」というのは、とても象徴的な言葉ですよね。金というのは、あくまでも雇用者の側から見て金だということです。雇用される側はというと、東北からの集団就職や出稼ぎの労働者の中には、卵からひよこにかえることができず、にわとりにもならず、日雇いの肉体労働者のまま年老いて働けなくなり、帰郷を果たせずホームレスになった方もいらっしゃる。『JR上野駅公園口』を読んでくださったたくさんの東北の方からお手紙をいただきました。中学校卒業後に、常磐線に乗って上京をして集団就職をした親友が行方不明になった。50年間音信不通で、数年前に突然、亡くなったという知らせが届いた。彼は上野公園でホームレスになっていた。息を引き取る直前に郷里の名前を言って、自分が死んだら知らせてほしい、と。やはり、帰りたかったんだな、と思いながら、『JR上野駅公園口』を読んだら、彼の顔が浮かんで涙が止まらなかった、という内容のお手紙もありました。日本は世界でも有数の経済的な豊かさを誇る国です。大量生産があり、大量消費があり、真ん中のその部分には常に光が当たっている。けれどもその両端にある、大量破壊と大量廃棄は域外へと隠され、華やかな都市部からは遠く離れた僻地へきちで行われている。その大量破壊と大量廃棄が域外から目の前へ突き付けられたのが、東京電力福島第一原子力発電所の事故です。原発周辺地域の映像や写真を見て、福島からの数多くの避難者の方々の声を聴いたわたしたちは、日本の経済発展によって生じたゆがみに気づいたはずです。
 けれども、原発事故から5年、10年と経過するうちに、関心が薄れて、福島には目が向けられなくなった。でも今、新型コロナウイルスのパンデミックで、日本中のあちこちで他者とのつながりを絶たれた人が「孤絶」に追いやられて、この社会のゆがみや不平等や不公平が顕在化している。今こそ、もう一度、福島に、原発周辺地域に目を向けていただきたい、と思っています。

――つながりがあってそこに住んできた一方、出稼ぎや原発事故でつながりを断たれて暮らすことを強いられてきた。すごく両極端と言いますか、そういったことを強いられている地域という気がしますが。
 つながりが引き抜かれても、なおつながりを求める気持ちが、みなさん強いんです。わたしが暮らしている南相馬市小高区は避難指示が解除されてもうじき5年になりますが、家屋解体が進んで、空き地が広がっている。空き地の向こう側から、単身で帰還された高齢者は、つながりを求めて手を差し伸ばしていらっしゃる。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックで、集うということと、訪れるということが難しくなっています。孤独死や自死に陥る方が増えるのではないかと心配しています。
 先月、2月13日の23時7分に、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が起きました。3月11日が近づき、ただでさえ精神的に不安定になる方が多いなか、今回の地震は、10年前に家族や親戚や友人や恋人や住居や店舗や田畑や生業や故郷を奪われた方々の心を直撃しました。そして、旧「警戒区域」に帰還しているみなさんは、東日本大震災と同規模の地震と津波に襲われたら、10年前の事故でメルトダウンして溶けて固まった「燃料デブリ」を冷却できない状況になり、再び避難区域に指定されるのではないかという不安を抱えています。なかには、今度は、どんな事態になっても避難しない、ここに居る、ここで死ぬ、とおっしゃる方もいます。それは、全てのつながりを切断された後に、かろうじて結ぶことができた細いつながりを断ち切られれば、もう生きてはいけないという思いからの言葉だと思います。

――柳さんは書くということで多くの人たちの悲しみや苦しみの器となって、それを作品という形で流すことができる
 『JR上野駅公園口』を読んでくださった地元の方はみなさん、「おらほの物語だ」とおっしゃってくださる。わたしは、自分が書いた小説が、誰かに、自分の物語だと思ってもらえないとしたら、書く意味がないと思っています。特に、『JR上野駅公園口』の場合は、福島のみならず、出稼ぎや集団就職の経験者が多い東北や新潟県と、現在も季節労働が多い沖縄県で圧倒的に読まれています。この物語が、届くべき人に届いているということが、わたしはうれしいです。

――それが柳さんの作家としての使命ということになるわけですね
 与えられた仕事、という意味では、使命ですね。責任を全うしたいと思います。

大熊町大川原地区

「10年の節目」という言葉の危うさ

――私たちマスコミは、すぐ「原発事故から10年」「10年の節目」というような区切りをつけたくなりがちですが、福島の人々にとってこの10年というのはどのようなものだったのでしょうか?
 時計の目盛りは等間隔で刻まれているし、カレンダーやスケジュール帳の枠組みも同じ大きさのマス目ですよね。けれども、2011年3月11日と、12日から相次いで起きた原発事故による避難の日々は、目盛りや枠組みが破壊された時間だったのではないでしょうか。10年が経った今でも、壊れた時間の中で、決して癒えない悲しみの中で立ち尽くしている方がたくさんいらっしゃる。私は10年という節目がことさらに強調されることによって、悲しみに耐えながら1日1日を精一杯生きていらっしゃる方が、生きることに区切りをつけてしまうのではないかと危惧しています。福島県は、被災三県の中で震災関連死が突出して多い。中には、自死を選ぶ方もいます。たった独りで、がらんとした街、がらんとした家に帰還して、後先のことを考えずになんとか1日1日を過ごしている方に、突然「10年の節目」を突き付けてしまうと、もうこの苦しみは限界だ、10年もよく耐えた、と思われてしまう方もいるのではないでしょうか。生き死にの瀬戸際である「孤絶」の中に置き去りにされている方がたくさんいらっしゃるんです。

福島とどう関わればいいのか悩む人へ 「他人事ではない」と思いを寄せる

――被災地から遠く離れたところに住んで、それでも被災地を気にかけている方も多いと思うのですけれども、そういった人たちはどうやって福島と関わっていけばよいのでしょうか?
 知る、ということだと思います。インターネット、SNSが普及している今の世の中、見ること、聞くことというのは遠く離れていてもできるんです。だけど、その場所に行かなければできないこともある。嗅ぐこと、触れること、味わうこと。現代社会では、五感の内の視覚と聴覚の2つが偏重されていますが、人との交流で大切なのは、近くに行かなければ出来ない嗅覚、触覚、味覚の3つなのではないでしょうか。
 わたしは、大熊町にレインボーがオープンしたら、コーヒーを飲みに行こうと思っています。本心を言えば、みなさんには、とにかく一度、常磐線に乗って浜通りに来てください。そして、浜通りの風を肌で感じてください。海の匂い、あちこちで咲いている梅の匂いを嗅いでください。浜通り各地には、それぞれ美味しいものがたくさんあるから、味わってください。レインボーでコーヒーを飲み、フルハウスでラザニアを食べてください、とお願いしたいところなんですが、新型コロナウイルスの感染がなかなか収束しない現状では、なかなかそのお願いを口にすることができません。去年の3月14日に常磐線が9年ぶりに全線開通した時が、他県のみなさんに「来てください」と言う絶好のタイミングだったんですが、その翌月に日本全国に緊急事態宣言が発出されてしまった。
 けれども、思うことと、想うことはできます。わたしは「他人事ではない」という言葉が好きなんですが、福島で起きている悲しいこと、苦しいことを他人事ではないと自分の身に引き受けることはできる。福島に思いを寄せていただきたい、と願っています。

――他人事ではないと思いを寄せる。そして、いつか時々は福島に行って、そこのおいしいものを食べたり、地元の方々と会話を交わす。そういうことでいいということなのですか?
 いきなり全体を知るということは難しいと思います。でも、まず、接点を持つ。接点を持ちさえすれば、そこから知ることができる可能性が広がっていきます。

福島県大熊町で再開した喫茶レインボー

会いたい人と会えないコロナ禍のいまだからこそ 他者の痛苦に痛苦でつながる

――10年がたってですね、コロナもありますし、こうやって3月11日が近づけば、福島のこと、津波の被災地のことも思いをはせる機会が多くなるのですけれども、どんどん日常から薄れていってしまうんじゃないか。心にとどめておくということは、簡単なようでなかなか難しいなというふうに思いますが、そこはどう向き合っていったらいいでしょうか?
 福島と遠く離れた地域にも日常がある。原発の周辺地域にも日常がある。わたしが暮らしている小高ですと、常磐線小高駅の海側は、津波で流された地域なんですね。わたしは車の免許を持っていないので、常磐線に乗って隣町の原町まで買い物に行くんですが、小高駅のプラットホームに立つと、津波の跡地が広がっているのが見える。小高には小高産業技術高校があり、約500人の生徒たちが毎日常磐線に乗って通学しています。彼らもまた、その風景の中で日常生活を営んでいる。3月11日は過ぎていない。3月11日は、日常の中に在るんです。
 この1年、新型コロナウイルスのパンデミックによって、日本全国の人々の日常がひび割れ、壊れてしまった。みなさん、会いたい人に会えない、やりたいことができないという経験をしている。そんな今だからこそ、原発事故によって、会いたい人に会えない、帰りたい場所に帰れなくなってしまった福島県の相双地区の人の痛苦に、痛苦によってつながることができるのではないでしょうか。

――これまで大切にしてきた日常、人とのつながりが、今、得られない状況なわけですけれども、同じような思いを福島の方たちが、10年間、味わってきたということでしょうか?
 日常というのは、決して特別な時間ではありません。日常を営む自宅というのは、特別な空間ではありません。けれども、人生の大半は、特別な時間ではない、ありふれた日常で成り立っているわけですよね。その日常の中で、美味しいコーヒーを飲める喫茶店や、良い本と出会える本屋や、お気に入りの散歩道を見つける。わたしはほぼ毎日、小高川沿いの桜並木を散歩しているんですけれども、みんな北へ帰っていったのに帰らなかった鴨の親子がいるなとか、今日の阿武隈山系は青く見えてきれいだな、青い山脈って言葉は比喩ではないんだなとか、見慣れた風景の中でも新しく発見することはあるんです。もうずいぶん桜のつぼみがふくらんできていますが、春が近づくと、一見枯れ木に見える桜の木の枝がなんとなく柔らかく見えるんですね。同じ道を歩いても、川や山や空や雲や木や草や花や鳥や虫の美しさに足を止められることがある。ありふれた時間の中に、キラッキラッときらめく瞬間みたいなものがあり、それを幸せと呼ぶのではないか、とわたしは思います。
 繰り返しになりますが、この1年間、わたしたちは、新型コロナウイルスのパンデミックによって、そういうささやかだけれども掛け替えのない幸せを味わうことができなくなった。人間は、傷む体を持ち、痛む心を持っています。だから、人間は他者の痛みをいたむことができるんです。


ひとりひとりの生き方が問われている 不公平や構造的なゆがみを編み直す契機に

 10年前、原発事故によって、日本社会のゆがみや不公平さはあぶり出されました。原発事故によって日本で暮らす一人ひとりの生き方が問われたと思うんです。けれども、その問いは、はぐらかされてしまった。原発事故というのは終わったわけではなくて、わたしたちはこれから40年、もしかしたら50年以上かかるかもしれない廃炉という現実と、日々直面しているわけですよね。
 テレビで街頭インタビューを行い、「あなたにとって幸福とは何ですか?」と問いかけたら、「お金があること」と答える人が多いのではないかと思うんです。経済の回復と、その後のさらなる経済成長を求める、と。確かに、お金は必要です。お金があれば、出来ることがたくさんある。でも、人にとって最も大事なものは、お金では買えないものです。命、愛情、友情、人とのつながり。
 そして、わたしは、やはり、不公平ではないというのが幸福の条件なのではないかと考えています。新型コロナウイルスよって剥き出しになった不公平、不平等、歪みを、そのままにして、再び経済最優先の道を突き進むのではなく、その不公平、不平等、ゆがみを解きほぐして編み直すチャンスなのではないかなと思うんです。

――原発事故によってあぶり出された不公平、不平等。新型コロナウイルスの感染拡大によってあぶり出された不公平、不平等。それをどう解きほぐし、編み直していけばいいのでしょうか?
 一つ一つの問題に丁寧に対処するしかないと思います。たとえば、緊急事態宣言による休業や時短営業の要請によって非正規雇用の人が数多く失職し、生活に困窮していらっしゃいますが、男女比でいうと、女性が多い。新型コロナウイルスのパンデミックが原因とみられる自殺者も、男性よりも女性が多い。この事実は、日本社会における男女の不平等をあぶり出していますよね。
 そして、わたしは、もう一度、東京電力福島第一原子力発電所の成り立ちを考えていただきたい、と思うんです。福島で発電した電気は東京の経済成長を支えていました。危険な原発を、東京から離れた、域外である福島に建設して、その恩恵を被っていたのは日本の中心部の首都圏であるわけです。

――これからも福島にずっと関わっていかれますか?
 わたしは表現者である前に生活者でありたい。東北で、福島県で、南相馬で、小高で、日常を1日1日ていねいに暮らしていきたい。原発事故で毀損きそんされてしまったのは日常なので、その日常を、わたしは、日々の暮らしの中で、地元の方々と関わる時間の中で取り戻していきたい。発信するのではなく、受信するということから物語を織り上げていきたいと思っています。

もっと読む