
戦後75年 戦争を語り継ぐ 吉永小百合の思い
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戦争の体験を朗読で語り継ぐ活動を長年にわたり続けてきた、映画俳優の吉永小百合さん。終戦から75年の今年、新たな試みに挑んでいます。映画監督の山田洋次さんや音楽家の坂本龍一さんをはじめとするトップクリエイターたちとともに「次世代に戦争を伝える」NHK番組の企画に携わっているのです。
(8月24日(月)総合 午後10時放送 「戦後75年特集 戦争童画集」)
7月29日(水)のクローズアップ現代+「戦後75年 吉永小百合 戦争を語り継ぐ」では、この番組企画の舞台裏を通し、戦争体験を若い世代にどう伝えていくかを考えていきます。
吉永小百合さんはインタビューで、戦争を語り継ぐ活動への強い思いを話してくれました。1時間にわたる吉永さんのお話の一部始終を掲載します!
朗読活動を支えてきた強い思い
(話 吉永小百合さん)
全国各地で朗読の活動を始めてから30年以上がたちました。朗読するのは、戦争や原爆の詩、それから沖縄の詩、それから福島で、原発でつらい思いをしていた人の詩などが中心です。短い言葉の間にたくさんの言いたいこと、エッセンスが詰まっています。その後、朗読のCDも作るようになり、広島、長崎、いろんなところの何千もの詩を読んでいくうちに、自分が知らないような世界をたくさん知ることができ、とても勉強になっています。
活動の原点は、最初に詩を読んだときに、その言葉の重さに感動して、ああ、これは伝えていかなければいけないと思ったことでしたが、続けているうちに、朗読することは自分自身の財産にもなるんだと思うようになりました。
どうやったら自分の言葉で、自分の朗読で、人の心に伝えていけるのか。朗読は何回もやるほど慣れてきていいかげんになりがちなので、1つ1つの言葉を大事にして、平易な言葉で伝えていく、エキセントリックにならずに伝えていくというやり方を自分の中で続けていきたい。そうすることが自分の財産になるのではないかと思っています。
テレビでよその国の戦争が簡単に映し出されるようになり、戦争は「人と人が殺し合うことだ」と感じられない、現実味のないものになってしまっているのが怖いと感じています。やはり昔のことを知って、そしてまたいろんな本を子どもたちが読んで、その中で自分で感じてもらえたらと思う。そういうことを朗読活動を通じて私はやりたいし、いろんな形で語り続けなければいけないと思っています。
朗読したあとに、たとえば一緒に歌を歌った子どもたちが寄せ書きをくれることがあるんですね。それぞれの感想を語ってくれて、そういうときにはもう、とてもとてもうれしいですし、ああ、ちょっと伝わったかしら、と思います。あと、本当にずいぶん昔のことですが、岐阜県の小さな山の分校から、ぜひ来てくださいと呼ばれたことがありました、そこで学んだ少女が大人になって、学校の先生になって、そこで子どもたちにまた戦争のことを読み聞かせして教えているというお手紙を後日いただいて、それもとてもうれしいことでした。
朗読の中では必ず、子どもたちが作った詩も読んでいます。実際に原爆に遭った子どもの詩もあるし、あるいは沖縄の子どもが何十年もたって、お父さんやお母さんから聞いたことを詩にしたものなど、いろいろな形があるんですけれども、子どもたちの作品は大人が作ったものとまた全然違う、核心を突いているところがあるんですよね。「原子爆弾が落ちると昼が夜になって人はお化けになる」という、すごく短い詩もありました。
ただ、戦争や平和に関することを、いかに気負わないで、子どもたちの心に残していくかっていうのは、年々難しくなるし、子どもと私の年がどんどん離れていきますからね。私自身の体力とか気力とかが衰えていくことをやっぱり心配しますね。朗読するっていうのは結構パワーが要ることなんですね。気持ちをしっかり込めて子どもたちに伝えるっていう形をいつまで取れるかっていうのはちょっと分からないですけどね。でも、それは努力してやっていかなきゃいけないことです。自分がきちんと朗読活動を続けていくんだという気概を持って、かといって気張りすぎず、やっていきたいと思います。
朗読活動の原点とは
私の朗読活動の原点には、子どもの頃の体験があります。『二十四の瞳』という木下惠介監督の映画を見て、それが自分の「バイブル」になったんですね。映画に対する憧憬もそのとき生まれたし、戦争の悲惨さとか、大石先生のご主人も子どもも戦争で亡くなる、そういう悲惨さも自然な形で自分の中に入ってきた。中学生のときは『ビルマの竪琴』という市川崑監督の映画も見ました。
映画界に入ってからも、ずいぶん戦争をテーマにした作品に出演しました。特に原爆に関しては、『愛と死の記録』という作品を21歳のときにやって、初めて広島で撮影しました。まだそのときは戦後21年で、原爆スラムというのもあったし、病気で苦しんでいる方たちも原爆病院にいらした時代です。その後、『夢千代日記』という作品では、NHKで3年にわたって放送されたドラマなんですけれども、胎内被曝の女性を演じました。そういう中で被爆者の団体の方たちから詩をいただいて、これ読んでくださいというつながりだったんですね。近年では『母と暮せば』という作品で長崎に行って、二宮和也さんと親子で原爆の話をやりました。
これらの作品の中でいろいろ学ぶことがあって、やっぱりこれは伝えていかなきゃいけないことなんじゃないかなって、映画俳優として、というよりは1人の人間として、思うようになったんですね。これが朗読の活動につながっています。
戦争体験と平和への思い
父は戦争に行きました。病気をして、船から下ろされて帰ってきたんですよね。でもその後にその船の方たちは亡くなっているから、もし父が病気にならなかったら私は生まれなかった。それはすごく大きなことですし、その時代に誕生した自分ということを考えると、とても不思議な感じがします。
一番大変だったのは母だと思います。私がうまれたのは1945年の3月13日ですが、3日前の3月10日に、深川で本当に大きな空襲があって、もしかしたら私は防空壕の中で生まれていたかもしれなかったそうです。また成長するにも食べる物がなくて、母は私を背負って小田急線の沿線の農家に行って、この子のために牛乳を売ってくださいと言って頼んで分けてもらった。もし子どもが一緒じゃなければもらえなかったんじゃないかなと母は後に言ってましたけれども、そういう厳しい体験をして育ててくれたんですね。
幼い頃は、防空壕もまだ残っていて、そこでままごとをしたり、食べ物も全然なくて、家の近くの中学校の庭にカボチャを植えさせてもらって、毎日カボチャを食べてた、ということも覚えています。父や母の苦労した話を、そんなにたくさん聞いたわけじゃないけれども、今も自分の中にいっぱい抱えてるということはありますね。女性にとって、何歳とか何年生まれっていうのはあまり言いたくないことですが、やはりその年(終戦の年)に生まれたというのは、私にとってとても大きいかもしれないですね。
戦後75年 沖縄に寄り添う
2年前、沖縄に初めて観光で行きました。そのときにいろいろな沖縄の姿を見て、今までと違う印象を持ちました。それまでは沖縄というと「遊びに行ってはいけない場所だ」と思い込んでいたんです。20代のときに『あゝひめゆりの塔』という作品に携わって、ひめゆり部隊の少女を演じました。その時は、もう自分でパニックになるぐらいに懸命に演じたのですけれど、一方で本当のひめゆりの方たち、沖縄の学生さんたちはもっともっと違う感覚で戦場にいたんだということを、演じたあとで聞かされて、すごく悲しかったし、自分は間違った演じ方をしたんだということをずっと悔いていたんです。
でも、15年前に映画のプロモーションで沖縄に行って、この話を沖縄の人にしたら、そんなことないですよ、来てくれること、足を運んでくれることがとってもうれしいんですよと言われました。それで初めてこの間、4泊5日の旅に出たんです。もちろんひめゆりの平和祈念資料館にも行きましたし、平和の礎とか、辺野古、普天間も行きました。美ら海の水族館、城(ぐすく)、焼ける前の首里城もたっぷりと見て来たんですね。沖縄の人たちのことをよりいっそう自分で考えるようになって、そのときに、私たちはもっと沖縄に寄り添わなきゃいけないんじゃないかなということを感じました。
沖縄には15年前、朗読で行ったこともありました。野坂昭如さんの『戦争童話集』の中の1つを朗読したんですね。それ以来、もっと沖縄の人たちと一緒に何かできることがないかしらと思っていました。すると、坂本龍一さんが「もし小百合さんが沖縄へ行くんだったら、もう何をおいても参加しますよ」って言ってくださったんですね。こんなうれしいことはないと思って一生懸命会場を当たったら、今年の1月5日が空いていた。もう本当、お正月で大変なときなんだけれども、チャリティーコンサートを開催しました。坂本さんも都合付けてくれて共演でき、沖縄の子どもたちや古謝(美佐子)さんという沖縄の歌姫ともご一緒できました。
そのときも感じたのですが、やはり75年という年月がたって、みんな沖縄のことを考えてないということを最近特に思うんですよね。特に基地問題では、70%以上も沖縄に米軍専用の基地があって、また辺野古で地場が軟弱と言われていて、もっともっと工事に時間やお金も掛かるのに、そこに無理に造らなきゃいけないという言い方がされているし、普天間の基地の本当に信じられないような危険な状況もあります。そういうことに対して私たちも沖縄に寄り添ってますよという思いを、そのコンサートを通して伝えたいと思いました。
いまこそ平和を語り継ぐ
今年は戦後75年です。やはり75年というのは大変な年月ですよね。だから、みんな忘れかかっている。あの戦争があったことも子どもたちは知らない。そういう中で、特に沖縄が一番被害があったし、実際に島民の方たちが戦士として駆り出されて、島民の4分の1の方たちが亡くなるという信じられないような犠牲がありました。そういうことを私たちが忘れないで、沖縄に寄り添って、沖縄がより良くなることを願って行動したいと思う。だから今年は絶対にそういうことを自分の口からも発言したいし、メッセージを送りたいと思っているんです。
特に今年は新型コロナウイルスの問題があり、原爆資料館や、いろんな形のモニュメントや、戦争に関する記念館に訪れる余裕もなくなっている。子どもたちも学校さえ休校になってしまったりして、先生に教わることもできないし、自分たちもどうしていいか分からないような部分がある。それをとても危惧しています。「戦後」というのがずっと続いてほしいと思うし、そのためにはみんな、そういう戦争があって、たくさんの方が亡くなって、今があるんだって。だから絶対戦争をするのはやめようね、というのを大人も子どももしっかり持っていなければいけないと思います。
子どもたちにとってやっぱり今回のコロナの問題っていうのはとても大きいし、信じられないようなことがいっぱい起きていますよね。だからそういう中で、75年前にあったことも、家族でみんなで話せる、逆に機会はあるんじゃないかなと思うんですね。
戦争体験者の高齢化が進んで、子どもたちにとっても戦争は縁遠いものとなってきています。ただ、そんな時代だからこそ、大人の私たちが子どもたちに対して積極的にアプローチしなければいけないと思うんですよね。平和って、私も最初は「願えば平和は来るものだ」と思ってたんですけど、やっぱりつくらなきゃ。みんなでつくらなきゃいけないことだし、なんらかの形で子どもたちと同じ場所に行って、こういうことがあったんですよっていう話をして、みんなで考えようといった活動をしていきたいと思います。
7月29日(水)午後10時放送のクローズアップ現代+「戦後75年 吉永小百合 戦争を語り継ぐ」では、吉永小百合さんが取り組んでいる「次世代に戦争を語り継ぐ」試みや、その背景にある思いをお伝えします。ぜひご覧ください。