【性暴力を考えるvol.8】三浦瑠麗さんが語る“レイプドラッグ”の被害

【性暴力を考えるvol.8】三浦瑠麗さんが語る“レイプドラッグ”の被害

2019年7月9日
  • 性暴力

性的暴行に及ぶ目的で睡眠薬などが悪用される、レイプドラッグによる犯罪。今回、取材を通して分かったのは、安易に犯行が繰り返されている一方で、深刻な被害が生まれている実態でした。私たちはこうした卑劣な犯罪と、どう向き合えばよいのでしょうか。
今年5月に自らの性暴力被害を公表した国際政治学者の三浦瑠麗さんに、話を聞きました。

レイプドラッグによる犯罪は、いきなり相手に包丁を突きつけなくても事におよぶことができるという意味で、犯行におよぶ敷居を低くしていると思うんですね。それから被害者側が、何が起きたかを把握できていないという意味で、露見しにくくしている側面もあると思うんです。たいてい、そういう薬を盛るというのは、お酒が絡んでいて、飲食の席でこっそり投入されることが多いと思うので、そのお酒を飲んだという行為自体を自分のせいだったんじゃないかと思ってしまい、責任をなすりつけやすい。だから、犯罪が発覚しにくいというのはあると思うんですね。

発覚しづらいレイプドラッグによる犯行。警察庁の調査によると、事件化されたのは去年1年間で47件。表面化しているのは氷山の一角ともいわれています。こうした犯罪は、なぜ起きてしまうのでしょうか。

“レイプドラッグは日本の今の常識を利用している”


性的行為に関する同意原則は、日本にはまだまだ根付いていません。見れば分かるほど顔にアザあったりする場合でないと、性的同意がなかったことを証明できないので、女性に不利な現状があります。だからレイプドラッグというのは、日本の今の常識を利用しているというか、今の日本の常識があるからこそ蔓延する土壌があるんだと思いますね。
社会の側がどういうふうに(被害の事実を)見るかっていうと、そんなこと本当にあったのとか、殴られたわけじゃないんだから損害はなかったんじゃないかとか、たいした問題じゃないんじゃないかとか、落ち度があったんじゃないかとか、わざわざ(被害者を)否定してしまっている。そこに、性犯罪の闇を感じるんですよね。
高級時計を盗まれたというのはだれにでも想像がつくんですけど、性犯罪の場合は自分が当事者になった経験がないと、本当に分からないものなんですよ。それは家族だったり、友人だったり、あるいは夫であったとしても、どこか最後まで分からないことがあるっていうことなんですよね。たとえば、いじめを受けたことがある人は世の中にいっぱいいるわけで、いじめも性暴力と同じように侵襲性というか、身体や精神に対する暴力的な侵害がある。それで、いじめを受けたことある人が性暴力をその延長線上で捉えることは本来ならできるはずなんですけど、性(暴力)というのは別物で、暗くて、触れちゃいけない何かで、秘め事というか、当事者間の問題だよねっていう常識に、邪魔されてしまうんだと思うんですよね。


5月に自伝を出版し、その著書の中で自らの性暴力被害をつづった三浦さん。被害に遭ったのは14歳の時でした。中学校からの帰宅途中、バンに乗った男の集団に性的暴行を受けたといいます。

「あとはあまり覚えていない。覚えているのは痛みと、死ぬのだろうな、という非常にリアルな感覚だけだ。私の頸に手をかけたそのうちの一人ののっぺりとした眼つきが醜くて気持ち悪く、せめてもっと楽な死に方をさせてもらいたかった。少なくとも一人は知っている顔だったと思う。・・・(略)・・・殺風景な新幹線の高架下で、ほらよ、と放り出されて、私はバッグとスカーフを胸に抱えて家までよろよろと歩いた」

しかし、このとき三浦さんは、身近な存在である母親にその事実を伝えることができませんでした。その理由について、著書でこう語っています。

「なぜ母に正直に言わなかったのだろうか。ああ、台無しになってしまって!と言われるのではないかと怖かった。・・・(略)・・・服や髪を気にすることや、おそらく歩き方や身振り手振りさえ持ち出しあげつらい、私の責任にされるのではないか、そんな気がしたのだ」

被害者が声を上げにくいのは、やっぱり最初は周囲の無理解があります。知りもしないのに、すぐに解決策を押しつける人たちがいるんですね。よかれと思ってとか、あるいは、分からないことへのいらだちから、事実そのものをなかったことにしようとしたり、警察に行かない方がいいんじゃないかと言ってみたり、その人を傷物扱いしたりする。不条理を避けようとすると人間は、とかく目先の小さな解決策を探してしまったり、その不条理が起こらないように振る舞ったりしがちなんですね。

被害に遭ったのに、身近な人に理解してもらえない。そんなとき、どうしたらいいのか。
三浦さんは自分と同じような経験をした人たちに対して、伝えたいことがあるといいます。

“世の中のどこかに理解してくれる人はいる”


自分を受け入れてくれない家族に対しては、まずは恨んだら良いと思います。恨んだり悲しんだりする中で、でも、世の中のどこかに理解してくれる人はいるっていう希望は持っていてほしい。私自身は実在の人物ではなくて、数十年前に亡くなった女流作家のヴァージニア・ウルフだとか、そういう(性暴力被害の)経験をした作家の作品に救われた部分も大きいんですね。対話というのは必ずしも生身の人間である必要はないし、本を通じて救われる場合だって、私の場合あったわけですよね。なので、人々の無理解をまず恨んだ次には、怖かったんだ、ということが分かる過程が来ることを伝えたいんですよ。母親は怖かったんだと。あなたに寄り添えなかった友人や恋人は、怖かったんだ、ということが分かれば、自分に対する悪意だけではなくて、人間が一般的に抱く恐れとか、死にたくないとか、自分の大切な人の尊厳を奪われたくないっていう気持ちから、極端な反応をしてしまったんだなってことが分かると思うんですね。でも、被害に遭って、冷たい言葉や心ない言葉を浴びせられた直後にそのようなことを理解することは無理ですから、時を経て、様々な物の見方ができるようになるよと。あなたは被害を受けた側なんだから、自分を責めたりとか、くよくよしたりとか、母親に気を遣う必要はない、っていうのは一番必要なメッセージなんですよね。

「自分の積み上げてきたことを一瞬で全部崩されました。一人の人間としてそのときに見られていなかったんじゃないかなと思います」
これは、今回私たちが取材したレイプドラッグ被害者の方の言葉です。性暴力の被害者たちは、経験したことがない者には想像できないような傷を抱えて、今を生きています。被害に遭った人は、その事実とどう向き合い、その後の人生をどのように生きていったらよいのでしょうか。

“これからの人生はいかようにでも形作れる”


(性暴力が深刻なのは)人間のいちばん自我に関わるところでの、自己決定権の最たるものを害するからなんですね。性犯罪と、異質ないじめや拷問を比較したときに、レイプより拷問の方がひどいっていうのは言えないと思うんですね。どれも同じように、人間の生存したいという欲望に訴えて、生きていたいならば根源的な自己決定権を放棄しろというふうに迫る犯罪なので。性犯罪だけを特殊に扱ってしまうと、かえって、性被害にあった女性の価値を低く見るようなことにつながりかねない。だから拷問だと思ってくれればいい。いつかある日、いきなり皆さんがテロリスト扱いされて、特殊部隊に拉致されて、拷問されたとしたらしんどいだろうなって、その程度でいいんですよ。性っていうものが、その人に属する自己決定権の重要なひとつだってことを、忘れないでくれればいいっていうことですね。
自己決定権に関しては、たとえば自分の人生には人を愛する選択肢もあるし、自分を愛する選択肢もあるし、どんな職業につく選択肢もあるってことですよね。被害に遭ってすぐは、もう自分の人生は終わってしまったんじゃないかって思う人は結構多いと思うんですね。そう思ってしまった人に対しては、日々の決定を重ねていくことで、自分のこれからの人生をいかようにでも形作れるんだ、っていうことをお示ししたいんですよ。それは、すごくつまらないことも含めてなんですよ。今日どこかのカフェに行ってベーグル食べるだとか。そういうことでもいいんですね。一番つらい時期に、朝起きあがってベッドから出られなかったときに、じゃあ午後に掃除をしてみるかとか、そういう小さなことでもいいんですよ。そういうことが、自分が自己決定をするということなので。自分にできるペースで、自分の人生は自分にしか作れないんだってことを分かりつつ、日々を前に進めてほしいなって思います。

三浦瑠麗『孤独の意味も、女であることの味わいも』(新潮社)

“当事者として自分のストーリーを提供できたら良い”


自分自身が被害を乗り越えているとか、ロールモデルだとか、そういう気はさらさらなくてですね。ただ、いろんなことを経験してきたことは事実だから、客観的に学者として語るんじゃなくて、当事者として自分のストーリーを提供できたらいいなとは思ったんですよ。いままで、とても勇気のある告発が何件かありましたけども、なかなかみんなのものにならなかったんですよね。みんなのものになるためには、決定的なその人のストーリーである必要があるんですよ。私っていう個の、飾らずさらけ出した人生の総体である必要があったと思うんですよね。たとえば抽象的に性的被害を受けた人間の客観的な特徴とか症状を叙述しても、なんら共感は得られなかったと思うんですよ。それが、一人の人間として立ち現れたことによって、はじめて経験してない人も考えてくれたってことがあると思って。
本来の#MeTooって、そういう運動だったはずなんですよね、私という人生の中にはこんなことがありましたっていうことを、たとえばハリウッドの女優さんのように、みんなからすればそんなに幸せでなんの苦労もなかったんでしょっていうような人間が、実はあの人もそうだったんだっていう、そういう運動だったと思うんですよ。
もちろん、心ない声はありますよ。だけど圧倒的多数はいままで本を読もうとか、性的被害について大文字で考えようみたいなことをまるで思わなかった人たちが発してくれている、自分の人生に事寄せた共感なので、そこがすごくうれしいですよね。自分の人生に事寄せないと、本当の共感にはなりえないんですよね。それを通じて、私以外の過去を持ってる他の人たちに対して、彼らの社会へのまなざしがより暖かなものになっていたら、いいなと思いますね。


卑劣な加害行為から大切な人を守ることのできる社会にするため、私たちには何ができるのでしょうか。最後にお聞きしました。

“男女を超えて仲間である認識を育てることが大事”


人間の暴力性が消えない限り、性暴力はなくなりません。ただ、その代わり、そういう不幸に見舞われてしまった人間が、声をあげるとか、その人が完全に受容される社会であるとか、あるいは加害者が罰せられる社会であるとかは、つくることができると思うんですね。
たとえば性的なコンテンツを見たときに、それに実際に興奮してしまう、でもそのシチュエーションは無理やりだったっていうことはままあることなので。ただ、そのファンタジーと現実の犯罪って違うんですよね。だから、わたしがその犯罪になったものと、そうならないものを厳しく区別するのは、結局のところ、そういう行為に出たか出ないかの差でしかないってことなんですよ。それで、結局なにがそういう行為に駆り立てない要素として働くかというと、愛なんですよ。まず、男女を超えて仲間である認識を育てるって大事だと思うんですよ。男性と女性を分けて、別々の集団で、お互いの集団内での愛を育てると、たとえば男性の集団内での愛は育っても、女性に対して共感しなくなりますよね。同じ人間であるってことを示す機会は多くあった方が良いですよね。
人権意識っていうのはルールですよね。ルールを教えるっていうのはマストですよ。ルールに感情が伴うためには、共感を教えなきゃいけないし、愛されることの素晴らしさを教えなきゃいけないんですよね。それにこれは、実は、被害者にも効果があるんですよね。被害者も自分が愛される存在であることを通じて楽になったりもする。
その次にくることが、被害を打ち明けられた周りの人がどういうふうに行動するかってことで。共感ってすごく伝わりにくい言葉なので。一緒に苦しむしかないですよね。

(取材:「クローズアップ現代+」ディレクター 菊地啓)

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