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“夢が粉々になっても、心は折れない” 【ウクライナの若きピアニスト・マクシムさん】

「バックパックに詰めたのは、何枚かのTシャツとコートだけ。楽譜は全部家に置いてきた」

世界的なピアニストを目指す19歳のマクシム・アルテメンコさんは、家族を激戦地に残して1人音楽院に避難してきました。練習をしていても、心に浮かぶのは攻撃にさらされる家族のこと。過酷な現実に心が折れてしまわないように、わき上がる怒り、悲しみ、孤独を一心不乱にピアノにぶつけています。その響きは、葛藤を抱える仲間たちを勇気づけています。
(政経・国際番組ディレクター 重田 竣平)

"学生は祖国の未来だ" 戦禍の若者を受け入れる名門音楽院

私たちが向かったのは、中世の町並みが残る旧市街が世界遺産にも登録されている、西部の主要都市リビウです。
比較的情勢は安定しているものの、今もロシアによる爆撃への懸念が続いています。

<約200年の歴史を誇るリビウ国立音楽院 800人が学ぶ>

街の中心部にあり、800人が学んでいるのがリビウ国立音楽院です。
音楽院の礎を築いたのは、フランツ・クサーヴァー・モーツァルト。かのモーツァルトの息子です。
歴史は約200年にも及び、爆撃によって貴重な楽譜が焼失しないよう、スキャンして画像で保存する作業が急ピッチで進められていました。

<中には18世紀にかかれた楽譜も>

軍事侵攻が始まって以来、音楽院では音楽を学ぶ機会を失った学生たちを各地から受け入れてきました。
ミサイル攻撃を受ける首都キーウや激しい戦闘が行われたハルキウなどから避難してきた学生100人以上に、住まいや食事などを無償で提供しています。
イゴール・ピラチュク院長は「学生たちは祖国の未来だ」と語り、音楽を学ぶ学生を守ることは、ウクライナ人としての自らの“義務”だと感じているといいます。

"音楽をやっていていいのか" 若き指揮者の葛藤

しかし、祖国が侵攻を受ける現実を前に、音楽に没頭できずに苦しむ学生もいます。
指揮者を目指すアルテム・アレクシイェブさん(21)は、東部のハルキウから避難してきました。
アルテムさんが避難した直後に自宅のすぐそばが爆撃され、まさに間一髪の脱出でした。
その後母と妹は隣国のポーランドへ出国しましたが、男性の出国は制限されているため、アルテムさんはリビウに残らざるをえませんでした。

アルテム・アレクシイェブさん

「戦争が始まって3日目にふるさとを離れることになりました。当時は絶えず砲撃の音が聞こえていて、幼い姪(めい)はひどく怖がっていたのです。かつて経験したことのない事態でした。ポーランドに渡った家族はポーランド語が話せませんし、60歳の母は体が悪くて働くこともできません」

<2年前 ハルキウで指揮をするアルテムさん>

アルテムさんは海外の大学にも留学して指揮を学ぶなど、世界で活躍する指揮者を目指して音楽の道を追究してきました。
しかし今、戦闘で市民が犠牲になっていく現実を前に練習に身が入らず、かつて心から楽しんでいたはずの音楽は“過酷な現実から逃避するためのもの”にさえなっていると語ります。

アルテムさん

「音楽に集中するのはとても難しいです。ニュースが気になって、常にポケットの中のスマートフォンを探ってしまいます。音楽は、現実世界を遮断してくれるものです。ピアノを弾いたりすることで、余計なことを考えないようにしています」

粉々になった夢 ピアノで奏でたのは“孤独”

そんなアルテムさんと、つらい気持ちを共有する幼なじみがいました。
同じリビウ国立音楽院の学生寮で暮らす、ピアノ専攻のマクシム・アルテメンコさん(19)です。
マクシムさんは家族をハルキウに残し、1人リビウに避難してきました。
マクシムさんの夢は、若手ピアニストの登竜門「チャイコフスキー国際コンクール」での優勝でしたが、開催地はロシアのモスクワ。
もう参加することはできないと諦めていました。

<マクシムさん(左)とアルテムさん>
マクシム・アルテメンコさん

「楽譜は全部家に置いてきました。バックパックに詰めたのは何枚かのTシャツと、コートだけです。今は心を無にしようとしても、ハルキウに残る家族たちを思わずにはいられません。僕らの街が今壊されているのと同じように、僕の夢も粉々になってしまったのです」

それでも、マクシムさんのピアノに対する情熱は消えていませんでした。
胸にわき上がる悲しみ、怒り、絶望。
弾き始めたのが、フランツ・リスト作曲の「雪あらし」(超絶技巧練習曲・第12番)でした。
かつて何度も練習してきた曲でしたが、細かく揺れ動く切ない調べを弾くうちに、まったく違う感情が呼び起こされてきたといいます。

マクシムさん

「楽譜がないので、記憶の中からこの曲を引っ張り出しました。演奏してみたら、軍事侵攻の前とは全く違う意味に聞こえたんです。この曲の中に見出したのは “孤独”でした。この曲は、僕にとって史上最高の曲になりました」

曲に秘められた悲しみや怒り、深い孤独が、戦時下の自分の思いとシンクロする。
そう感じるようになったマクシムさんは、次第にこの曲に没頭するようになっていたのです。

ピアノに込めた戦禍の思い 悩める心も勇気づけた

5月10日、ハルキウから避難した学生たちが“ウクライナの平和に祈りを捧げる”ささやかなコンサートを開きました。
マクシムさんは、そのコンサートの終盤に登場。披露したのは「雪あらし」です。
憂いを帯びた繊細なイントロから、旋律は次第に激しさを増していきます。
息つく間もないトレモロの響きが、まるで吹雪のように、小さな会場を飲み込んでいきました。

マクシムさんの渾身の演奏は、音楽との向き合い方に悩む幼なじみのアルテムさんの心も強く揺さぶっていました。

アルテムさん

「コンサートにかけるマクシムの姿を見て、僕ももっと練習したいと心に火がつきました。マクシムは自分が表現すべきものを理解していて、曲の持つ意味を正確に感じ取っていました。僕ももっと心を開いて、世界中の人たちとつながり、困難な状況でも人々に幸せを与えられるような音楽家になりたいです」

編集後記 "いつか傷ついた心を癒やす音楽を" 

ロシアによる軍事侵攻によって、ウクライナの国土は荒廃し、多くの人命が犠牲になっています。
ただそれだけでなく、ウクライナの文化や、担い手たる若者たちの夢さえも影響を受けているということに改めて気付かされました。
ユネスコによると、5月末までの3か月間で、宗教施設や博物館、劇場など合わせて139の文化施設が被害にあったということです。
それでも若い音楽家たちは苦しい現実や記憶と必死で向き合い、自らの音楽へと昇華させようと苦闘していました。
彼らに"この戦争の体験を糧にして頑張れ"と決して軽々しく言うことはできませんが、アルテムさんやマクシムさんの奏でる音楽が、いつか傷ついた人々の心に寄り添うものになってほしいと願っています。

「国際報道2022」6月3日放送より

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