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Vol.30 国防婦人会 戦争にのめり込んだ 母親たちの素顔

今から70数年前、アメリカや中国などと戦争をしていた日本に「国防婦人会」という女性団体がありました。かっぽう着姿で日の丸の小旗を振って兵士を送り出し 地域の女性たちを戦争協力へと駆り立てる、映画やマンガによく登場する女性たちです。

会に所属していたのは主婦たちで、自分の子供を戦場に送り出し 戦死の知らせにも涙を見せなかったといいます。本当はどんな思いで活動に参加し、家族の死を心の底ではどのように受け止めていたのか―。そんな素朴な疑問から取材を始め8月14日にNHKスペシャル「銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ“普通の人々”~」を放送しました。

取材前、私たちが国防婦人会の女性たちに抱いていたイメージは 軍国主義を信奉する一部の“戦争おばちゃん集団”でした。しかし、その娘さんたちに話を聞く中で見えてきたのは、女性として母親として社会の中で葛藤を抱えながら生きた“普通の女性たち”の姿でした。

(NHKスペシャル「銃後の女性たち」取材班)

“出番のなかった”女性たちが 国防婦人会に感じた“やりがい”

(大阪で誕生した国防婦人会)

国防婦人会は日本が戦争の時代へと突入した満州事変の翌年、1932年に大阪で誕生しました。はじめは港から中国大陸へと向かう兵士たちを茶で接待するボランティアだったそうです。その後、戦争を経済的に支えるための国債購入や戦死した遺族の慰問など 地域社会から戦争を支えていく存在となっていきます。

母親が国防婦人会で活動していたという大阪在住の久保三也子さん(92歳)は大勢の人を前に壇上に立ち、いきいきと活動方針を説明する母親の姿が強く印象に残っていると言います。

(久保三也子さん<左>の証言をもとにイラスト化した 壇上で話す母・キクノさん<右>)
久保三也子さん

「母は第一線に立ってやってたよ。一生懸命になると思うよ それまで母親なんて出番がなかったんだもん。

投票権も何もないし、女は黙々と台所で働くのが女やと思って。 “ 生まれては親に従え、嫁しては夫に従え、老いては子に従え”でしょ。男性のほうが優位だった。そんな時代。」

当時小学生だった久保さんは公の場で意見を述べる母の姿を誇らしく感じたと言います。

その時代、女性は、教育の機会や相続の権利など あらゆる点で不平等な立場に置かれ、参政権も認められていませんでした。働くことができる職場は限られ、ほとんどの女性は結婚して夫の「家」に入って家事や育児をするしか選択肢がありませんでした。

国防婦人会の活動は 女性が社会に出て男性と同じように振る舞うことが許される数少ない機会となっていたのです。

社会で必要とされる喜びを感じた女性たち

今回の取材で 国防婦人会の活動を懐かしそうに振り返る女性の証言テープも見つかりました。そこからも当時の女性が抱えていた“生きづらさ”が活動の原動力になっていたことが見えてきました。

(片桐ヨシノさんと肉声が記録されていたテープ)

片桐ヨシノさんは当時30代で、夫の家で姑(しゅうとめ)と同居し2人の子供を育てていました。厳しい姑に「絶対服従」という窮屈な生活でした。しかし 国防婦人会の勧誘に来た女性が「お国のため」と姑を説得し、それ以来 堂々と家の外に出て活動することができたと言います。

片桐ヨシノさん

「大阪駅のホームでね、ベンチで夜を明かすことがあるんです。というのは夜、長い輸送列車とかが駅に入ってきて『大阪じゃ 大阪じゃ』って兵隊さんが降りてきてね。『兵隊さん、お水もお湯もありますから』言うて、たばこを持ってきてあげたりね。いろんなことしましたよ、実際。来る日も来る日もカラスの鳴かん日はあっても、片桐さんが来ない日はないというくらいに行ったもんです。心の底からの国防婦人会でしょうね。」

兵隊のお世話にまい進した喜びを話す片桐さんの声は 青春の1ページを語るかのような華やぎを帯びていました。

国防婦人会は こうした女性たちの前向きな思いをくみ取る形で拡大し、全国に広がっていきました。財政的に支援するなど その後ろ盾となり、監督下に置いたのが陸軍でした。大阪市史編纂(へんさん)所には当時 軍が国防婦人会の女性に送った表彰状が大量に保管されていました。

(軍から国防婦人会に送られた表彰状・大阪市史編纂所 所蔵)

国防婦人会の資料を分析した元大阪市史料調査会主任調査員の石原佳子さんは 陸軍が 全国の各地域で活動する女性たちから自発的な戦争協力を巧妙に引き出していったと指摘します。

研究者 石原佳子さん

「感謝状を贈られる経験というのは普通の女性にとっては(それまで)あんまりなかったことじゃないでしょうか。公的な表彰状をもらうということは、とても名誉だと思って『もっと頑張ろう』という気持ちにはなったんじゃないかなと思います。“命令”では地域の1人1人の女性の心は動かしにくいですから。」

国策に取り込まれていく女性たちの“やりがい”

しかし女性たちは歴史の大きなうねりの中に巻き込まれていくことになります。 国防婦人会を監督下に置いた軍のねらいは、たとえ夫や子どもが戦争の犠牲になったとしても反戦感情を抱かないように国防婦人会を通して女性たちを教育することにありました。

(国防婦人会の幹部と陸軍の幹部)

今回見つかった文書には、軍が求める女性像についてこう書いてあります。

『よき子を生んで之(これ)を忠良(ちゅうりょう)なる臣民に仕立て 喜んで国防上の御用に立てる 家族制度の本義に基く女子に与えられました護国の基礎的務めです』

(「大日本国防婦人会の指導と監督に就いて」より)

軍の思惑は、女性たちが国防婦人会に抱いていた 社会に出て働く喜びとは、全く異なるところにあったのです。女性たちの活動は、次第に息苦しいものになっていきました。

“産む性”として…戦争に息子を出したら一人前

日中戦争、太平洋戦争と戦線が拡大するに従って国防婦人会の会員は増え、やがて1000万人を擁する最大の女性団体となります。多くの兵士が必要となる中で、女性たちには男子を産み育て 兵士として国に捧げることが強く求められるようになりました。

(左:戦時中のポスター/阿智村 所蔵  右:国防婦人会の機関誌)

当時発行されていた国防婦人会の機関誌には、こう書かれています。

『国防婦人会の良き会員となって、その宣言にもある通り「日本古来の婦徳(ふとく)を養ひ 堅実善良な子女を育て、良く家を整へ而(しこう)して男子をして後顧の憂なからしめるようにする」ことが出来るならば、女子としても、小さな力を御国の為めに捧げ得たと云(い)へませう。
「夫にやさしい、良く子どもを可愛(かわい)がる、裁縫や料理が非常に上手だ、経済がなかなかうまい」と云(い)ふだけで、それで、現代の日本女子として十分といえませうか。』


(「三重国防婦人」より)

“産む性”としての役割が求められる中、地域社会で追い詰められていった女性がいました。三重県のある町で国防婦人会の役員をしていたという梅本多鶴子(たづこ)さん(87歳)の母親、シカノさんです。

(前列左から3番目:梅本さんの母・シカノさん)

地域では若い男性たちが次々と出征していき、女性たちは「戦地で命をかける夫や息子のために」と国防婦人会の活動にのめり込んでいきました。 一方、梅本さんの家には出征する男性がいませんでした。シカノさんは息子2人を幼くして病気で亡くし、高齢の夫も召集されませんでした。当時小学生だった梅本さんは母が婦人会の活動から戻って来た時にもらした言葉がいまも忘れられません。

梅本多鶴子さん

「母は『あんたのところは戦争も行っとらんのやから、まあ偉そうなこと言うたらあかんよ』というふうな口ぶりで言われたらしいです。『どこどこの息子さんはどこへ出征した』とか、『外地へ行った』とか。そういう話で持ちきりやから。戦争に行った家は、『うちは偉いもんや』という気持ちがありますね。子どもとか主人とか、命をささげに行っているから。行かない家は、それを言われると一番つらいですわね。」

母・シカノさんは、地域の行事や農作業などなんでも引き受けましたが、周囲から認めてもらうことはできなかったと言います。

梅本多鶴子さん

「女としてね。一人の親として戦争に一人でも出していたら一人前。だけど(子どもが)女の子で戦争に誰も出さなかったら半人前以下。

戦争ですよ、やっぱり。心の戦争やったと思います。」

家族を失った女性たちもまた、苦しい思いに押しつぶされそうになっていました。三重県に住む三好三重子さん(94歳)の母親は息子が戦死したときにも人前で涙を見せませんでした。

近所でも戦死の報が相次ぎ その死が「名誉」だとされる中、悲しみを見せることは国策に背くことだとみなされていたのです。三好さんは家の中で一人肩を震わせていた母の姿が目に焼き付いています。

三好三重子さん

「誰にも見られたくないから夜中、みんなが寝静まった頃に声を殺して涙をこぼす。(周囲に)涙を見せる女は、言うも悲しき情けない女ということになる。自分の胸の中に収めておくという、そういう戦時中の女性の思いやわね。」

息子を出征させた女性、させられなかった女性、どちらの姿も「女性とは母親とは、こうあるべきだ」という価値観から逃れることがいかに難しかったかを、物語ってるように思いました。

“変わった”“変わらなかった” 女性たちの歩んだ戦後

戦後、女性をとりまく環境はどのように変わり、また変わらなかったのでしょうか。

出征する男性がいないことで周囲から責められた梅本多鶴子さんの母親・シカノさんは戦後は一転、「あんたのところは勝ったな。子どもを失わずに済んだんやから」と言われたそうです。

シカノさんの娘 梅本多鶴子さん(87歳)

梅本さんは、女性に「あるべき姿」を押しつける社会のあり方は、戦後も変わっていないと感じています。梅本さん自身、結婚後に子どもができなかったことで周囲から心ない言葉を浴びせられることが幾度となくあったのです。

梅本多鶴子さん

「『あのお家な、いいんやけど子なしなんやわ』っていうことはよく聞きますね。そやから子どもがあって普通。私たちも どれだけ言われたかわかりませんよ。戦争やないですけど今の世も、子どもができて男の子でも女の子でも子どもができたら普通なんです。」

梅本さんは社会の価値観に合わせて自らを否定せず、自分の人生を生きようとしてきたと言います。夫や親戚との関係を大切に築く一方、銀行の仕事に誇りをもち正社員として65歳まで勤めあげました。自分自身が幸せだと思う生き方を大切にしてきたと語ってくれました。

私なりの考えをちゃんと持って生きたい

戦後、女性に認められた参政権の重みをかみしめながら生きた人もいました。

母親が国防婦人会で活動していた久保三也子さんは初めて選挙権を得た時、「この人だ」と思う政治家に一票を投じようと、空襲の焼け跡が残る大阪の街を走って投票所に向かったと言います。

初めて投票した時の喜びを語る久保三也子さん(92歳)

公務員として働いた久保さんは女性だけに求められていたお茶くみや掃除を拒否し、おかしいと思った事は新聞に投書して自らの考えを表明してきました。50年以上続けた投書は100件を超えると言います。そして今も選挙がある時には欠かさず投票所に足を運んでいます。

その原動力となってきたのが、戦時中 目の当たりにした、戦争に協力する道しか選べなかった母や女性たちの姿だったと言います。久保さんは戦時中よりも自由に情報に触れ、発言もできるようになった今だからこそ同じ過ちを繰り返したくないのだと力強く語りました。

久保三也子さん

「ただ漠然と生きるの嫌やもん。私は、私なりの考えをちゃんと心に持っていたいのよ。間違うてるかも分からへんけど。「私はこうや」って思うことをした。そやないと、戦時みたいにお偉いさんがわあーって言って、『はい』言うてやっとったら、どないなるか分からへん。世の中ちゃんと見ておかな あかんなと思って。」

“銃後の女性たち”を取材して

「社会に必要とされることに感じる喜び」「求められる女性像にとらわれた振る舞い」
国防婦人会の女性たちを戦争協力に強く突き動かしたのは、今の私たちにも身に覚えのある感情や社会や文化がつくり出した固定観念でした。

番組放送後に視聴者の皆さんからも「その時代に生きていたら自分も国防婦人会に入って一生懸命活動したと思う」「社会から求められる女性らしさは変わっていない」「善意が利用されるって今でもある」など、当時の女性たちの姿に今の社会や自分を重ねる声が多く寄せられました。

もちろん戦時中と今とでは女性をとりまく社会の状況も法的な権利も異なり、簡単に重ね合わせることはできません。しかし いつでもどのような時代でも私たちは間違った道を歩き始めてしまう危険性があることを常に意識し行動しなければならないと強く感じます。時代の空気や固定観念にとらわれず、おかしいと思ったことには立ち止まって考えること、そして一人一人の考えや生き方を尊重し認め合うことが、社会がよりよい方向へ進んでいくことにつながると思います。
これからも、歴史の荒波を生きてきた人々の声を取材していきたいと思います。

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