
震災後に頑張れたのは、弟がいたから|「あの日」の子どもたちへの10の質問
東日本大震災を経験し、大切なものを失った子どもたちに、いまだから語れる気持ちを尋ねる、「『あの日』の子どもたちへの10の質問」。
今回答えていただいたのは、宮城県東松島市出身の髙橋佑麻さん(22)。震災当時は11歳、小学5年生でした。
自宅に津波が押し寄せ、目の前で母と姉を流された髙橋さん。父や弟、祖母とそれからの日々を歩んできました。
今も東松島市で暮らしながら、社会人として働き始めた髙橋さんに、「10の質問」をしました。(2022年2月)


最近あったうれしかったこと…。えー、何だろうな。…あ、新しい職場の先輩たちとだんだん打ち解けるようになってきたのは、ちょっとうれしかったですね。


家族の思い出に触れたときが多いですかね。例えば昔行ったところを見かけて、「ああ、あのとき一緒に行ったな」とか、「昔はああいうぬいぐるみ持ってたな」とか、そういう場合に思い出すことが多いですね。


変わったこと…。うーん。まあ、“家族の中での立ち位置”みたいなものは変わった気がしますね。やっぱり、家族を失ってしまったことも関係して、少しでも支えられるように、みたいなふうには変わりましたかね。
変わってないこと…あ!弟との仲の良さは変わっていないですね。いや、むしろ、仲良くなった…あ、でもそれだったら変わったってことになるのかな…
震災で姉を亡くした髙橋さんは、のこされた4歳年下の弟にとって、頼れる兄でいたいという思いが強くなったと言います。この春、弟は高校を卒業して専門学校に進学し、一人暮らしを始めるそうで、その成長ぶりをうれしそうに語ってくれました。


声をかけられるとしたら。うーん…「何が何でも逃げるように」って言いたいところですけど。やっぱりあのときは、誰もがあんなふうに(津波が)来るとは思っていなかったので。たぶん言ってもちゃんと逃げるかっていうのは怪しいと思うので…。それを考えると、難しいかもしれないですけど、「あまりため込まないように」って声をかけますかね。「もっと頼ってもいいんだよ」っていうのは言いたいですね。


まあ長い…長かったという感じはするんですけども、でもやっぱり気付いたら10年たっているって思ったので、やっぱり短い…短かったなと感じますね。



場所の変わりはたぶんないと思いますね。弟がここを離れて1人でやっていくという感じなので、たぶんここには僕が残ることになるので。何をしているかというのは…10年後。でも10年後も友達と同じように騒いでいられたらなとは思いますね。


10年後の自分に質問。えー。質問か…。10年ってなると、考え方だったり、だいぶ変わると思うので。この10年でどういう変化があったのかみたいなのを聞きたいかなと思いますね。


会いたい人…。うーん。お母さんにも会えれば会いたいかなとは思いますけど。お姉ちゃんにも会いたいので、どっちもどっちって感じではあるんですけども。おばあちゃんは夢とかで、お姉ちゃんだったり、お母さんだったりに会うみたいなことは言っていたので。いいなって思いつつ。自分のところにはなかなか来てくれないみたいで…。


うーん、どんな存在…。ずっとそばにいるわけでもないし、時には一緒にいたくないなと思う場合もあったりして。でもやっぱり、きっと誰でも会いたいって思うものっていうのが家族ってことなんじゃないかなとは思いますね。


宝物…。弟ですね。たぶん震災後に頑張れたのは、弟がいたからっていうのが本当に大きいと思いますね。弟がいるから自分がしっかりしなきゃっていうのもありましたし。そうですね。これは断言できますね。弟が宝物です。
わたし × 中学時代の先生【前編】 - いま振り返る 「命について考える」作文 -
髙橋佑麻さんと恩師・制野俊弘先生の対話はこちら
わたし × 中学時代の先生【後編】 -身近な家族にこそ語れない思い-
髙橋佑麻さんと恩師・制野俊弘先生の対話はこちら
わたし × 祖母 × 中学時代の先生 - 語れなかった10年…祖母と孫 いま交わす言葉 -
髙橋佑麻さんと恩師・制野俊弘先生、祖母・功子さんとの対話はこちら