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2021年3月27日

わたし × 中学時代の先生【前編】 - いま振り返る 「命について考える」作文 -

小学5年生の時、東日本大震災で母と姉を亡くした髙橋佑麻さん。家族にも友達にも言えなかった当時の思いを初めて吐き出すことができたのは、「命について考える」という、中学時代の作文でした。
その授業を担当したのが、当時、保健体育の教員だった制野俊弘先生。髙橋さんは、自分の気持ちと向き合うきっかけを作ってくれた先生に、再び会いたいと思っていました。5年ぶりの再会となった2人。あのとき、どういう思いで作文を書いたのか…。つづった言葉の奥にあったものを、“恩師”と“生徒”がいま改めて振り返りました。

髙橋 佑麻さん(21)
宮城県東松島市で、小学5年生のときに被災。自宅に津波が押し寄せ、母と姉が目の前で流された。その時の思いを初めて打ち明けたのが、中学の作文の授業。 現在も東松島市で父と弟と暮らし、祖母が母親がわりとなって世話をしてくれている。

制野 俊弘さん(55)
元 宮城県東松島市 中学校教員(現 和光大学 現代人間学部人間科学科 准教授・副学長)
震災発生時、宮城県東松島市の中学校で保健体育の教員。 1100人以上の死者が出た東松島市では、多くの子どもが家族や大切な人を亡くした。 そんな子どもたちの心と向き合いたいと、震災発生の3年後「命について考える」作文の授業をおこなった。

この対話の内容
- "火葬するとき、家族の大切さが心に入ってきた"
- “命”について書けることがうれしかった
- 生きるので精いっぱいだった
- 気持ちを言葉にする意味

"火葬するとき、家族の大切さが心に入ってきた"
髙橋さんと制野先生が再会を果たしたのは、震災発生から丸10年が過ぎた、3月14日。
まず話題にのぼったのは、髙橋さんが中学1年生の時に書いた作文の、はっとするような一言でした。

髙橋 佑麻さん


制野先生:久しぶり。

髙橋:お久しぶりですね。5年ぶりぐらいですかね。

制野先生:丸くなったな、ずいぶん。

髙橋:いや、まあまあ。(笑)そうっすかね?あんまり変わってないと思うんですけどね。

制野先生:いやいやいや。どうなの?今、何やってんだ?

髙橋:今はフリーランスで、ネットで記事を書く仕事をしてますね。

制野先生:記事書いてんの?

髙橋:そうっすね。会社からこれ書いてくれって言われたのを書いている。 やっぱ書いたりとか、そういうのは好きなんで、そこら辺に行き着いた感じはしますね。

制野先生:書くの、そうだな。1年生の時の家庭科の授業って覚えてる?

髙橋:まあ、うっすらとは。

制野先生:何書いたか覚えてる?

髙橋:え?何書いたか?

制野先生:"家族"かなにかの(テーマの)単元があって、そこで作文書いたんだよ。そんで、担当の先生だと思うけど、「制野先生、佑麻こんなこと書いてきたんだけど…」って言って作文を受け取ったの。それが最初の佑麻の書いたやつとの出会い。ちょっと気になる表現があったの。覚えてないでしょ?

髙橋:覚えてないですね。

制野先生:お母さんが目の前で流された、って。遺体が見つかるまで泣けなかった、と。で、遺体が見つかって火葬するときに思いっきり泣きました、って。で、その時にね、家族って大切なんだみたいな気持ちが自分の心の中に入ってきましたって書いてあるの。
これがね、先生すごいショッキングで…。中1の作文なんだよ。普通はさ、普通の小学生とか、中学1年生だったらさ、「自分は悲しく思いました」って書くでしょ。「家族は大切なんだっていう思いが(心の中に)入ってきました」って書いたわけよ。これって普通ない感覚じゃん?

髙橋:確かにそうですね。

制野先生:だから佑麻って、面白い子だなって思ったのが中1の最初なの。


“命”について書けることがうれしかった
制野先生は震災発生から3年後、「命について考える」作文の授業を一年をかけておこないました。
気持ちを抱え込みながら必死に生きる子どもたちには、心の内を分かち合うことが必要だと考えたといいます。当時中学3年生だった髙橋さんが、その時、言葉にした思いとは…。

制野 俊弘さん


制野先生:ずっと佑麻に聞きたかったことがあってさ、この1回目の作文の出だし覚えてる?

髙橋:出だし?"命について考えられることをうれしく思います"みたいなことを書いた…。

制野先生:そうそう、そこなのよ。それを聞こう聞こうと思ってずっと聞けなかったね。あの表現ってなんだった?

髙橋:多分、自分の中で、家族が死んだっていうことを、死んでしまって悲しいっていう状態のまま終わらさないで違うことに生かせるみたいなのが、あの時はうれしいなっていうか、いいなって思ったんじゃないですかね。

制野先生:何か表現はしたかった?

髙橋:そうですね。

制野先生:こっちは、すごく神経使ったわけよ。他にもいたんだな、何人か(親を亡くした子が)。これ書かせていいのかなって。こんなこと(震災体験)、聞いていいのかなっていうのはあったんです。でもそれまで何もしなかったから、学校が。例えば佑麻の気持ちを聞くなんちゅうこともなかったでしょ。

髙橋:そうですね。

髙橋さんが「命について考える」作文の授業で書いた文章
記事の最後に、ご本人の許可を得て作文を掲載しています。


制野先生:でもいざ聞くとなったら聞いていいのかなと思ったら、あの表現が作文で出てきたから。なんで、ああいう表現になったの?やっぱり、ずっと考えていた?あれ書くまで(震災発生から)3年ぐらいあるけど。

髙橋:自分の気持ちがもううまく整理できないまま、でも誰かに言いたくても言えなくてみたいな感じで、ずっと思っていて、そこでやっと吐き出せる場みたいなのがもらえたので、多分そこで、その場がもらえたことにうれしかったんじゃないかなって思います。

制野先生:たまっていたものを吐き出すっていう感じ?先生ね、「やっぱ語りたいやついっぱいいるんだな」って思った反面、「泣きながら書いた」って言っていたじゃん。

髙橋:そうですね。

制野先生:そこは先生も苦しかった。こうなるかなって思いながらさ、書かせたから。で、「書かなくてもいいよ」とも言ったんだよな。「書けない時は書かなくてもいいよ」とも言ったんだけど、佑麻は「泣きながら書いた」と。だけど、「書けることをうれしく思う」って書いたでしょ?だから複雑だなと思って、それいつか聞きたかったの。あれが初めてしゃべった場か、誰かに。

髙橋:ちゃんと話したのは、あれが最初ですね。

制野先生:じゃあ丸3年くらい経ってんだ。悶々(もんもん)としてた?

髙橋:そうですね。悶々という感じは、あの時は本当に生活するので精いっぱいみたいな感じだったので、そんな悩んだりみたいな感じではなかったですけど、でもどこかで引っかかっているみたいなところはありましたね。

制野先生:そうだったんだ。


生きるので精いっぱいだった
髙橋 佑麻さん


制野先生:今考えてみれば、佑麻もそうだけどさ、震災後の3年くらいっていうのは本当に生きるので精いっぱいだったよね。

髙橋:そうですね。本当にそれだけを考えてって感じでしたね。

制野先生:思い出せる?最初の1年とか2年って。

髙橋:いや、あまり思い出せないですね。もう必死だったってことぐらいしかわかんないし。

制野先生:そうだよね。もう今思い出せないもん。だってもう無我夢中で。過酷な記憶だけがこびりついてるな。そういう感じしない?

髙橋:そうですね。確かにきつかったですね。

制野先生:今、思えばそうだな。(給食センターが震災で被害を受けたため)給食にさ、ご飯と牛乳だけ出た日があったんだよ。おかずなしの。

髙橋:ありました、ありました。小学6年の時にもう・・・全然なくてみたいな。 本当に最低限だけみたいなの。もうびっくりしましたね。

制野先生:驚くよな。あれ本当に。そうだ。あれで子供たちに部活やらせんのかって議論になったんだ、1回。ご飯と牛乳食わせて放課後6時 7時まで部活やれってのは。こんな思春期の成長盛りの子供に、こんなのでいいのかっちゅうのはあったな。

髙橋:そうですよね、全然足りないですもんね。

制野先生:そういうのは覚えてんの。つらいのとかさ、しんどかったのとかさ。…よく生きたな。でも、つらいっていう、言葉で言えないな。乗り切るしかないっていうだけだもんな。

髙橋:そうですね。もうそこに選択肢とかはないですもんね。

気持ちを言葉にする意味
制野 俊弘さん


制野先生:高校とかっていうのは。そういうこと(震災のこと)を語る場ってあったの?

髙橋:いや、高校とかはもうないですね。

制野先生:全然?

髙橋:全然ないですね。多分何かしらあったら、僕も語ってたりはしたと思うんですけど、もう全然なかったですね。

制野先生:なら、じゃあまたモヤモヤが始まるんじゃないの?

髙橋:でも、言うほどそこまでモヤモヤはなかったですかね、高校とかでは。

制野先生:アウェーみたいな感じしない?敵地に乗り込んでいったみたいな。 高校全体でも、そういう“しゃべり場”みたいなのはないの?

髙橋:ないですね。防災とかはやりましたけど、訓練みたいな。

制野先生:近くにいたんじゃない?同じような境遇っちゅうか、同じような立場の子って。

髙橋:いや、聞かなかったですね。もう本当に一緒の高校に行った●●(※同級生の個人名)とかぐらいですかね。でもそれ以外は多分、そういう経験してないんじゃないですかね。

制野先生:いや、経験してるんじゃないか?

髙橋:してますかね?

制野先生:多分してるって。してるけど、やっぱ(話す)場がないんじゃない?書くのもなかった?

髙橋:書くのもなかったですね。

制野先生:じゃあやっぱり、自分の中で消化して。

髙橋:そうですね。

制野先生:あの作文って書かせてよかったのかどうかっての迷ったんだよ、先生も実は。わかんないからさ、一人ひとりの気持ちってさ。みんな一様に書かせたでしょ?だから今でも迷いはある。

髙橋:結局その作文書かせようってなったのは、どんな理由だったんですかね?

制野先生:あの時ね、先生たち、佑麻たちの前に1個上の(学年の)子たちを、震災で中1で受け持ったでしょ?で、あん時にさ、80人か90人くらいいたんだけど、親亡くした子どもってさ、1人だけだったわけ。で、震災のことについてちゃんと勉強しなきゃなとは、みんなで言っていたのに、結局は避難訓練だとか津波対策だとか、そういうのだけやって卒業させたわけ。で、その時に、卒業させる時に反省会をやったの、先生たちで。この3年間、津波の体験ってみんなどんなことをしたか全く誰もお互いにわからないで来ているよねっていう話になって。で、もしかすると抱えてる子供いるんじゃないのみたいな話になって。たまたま先生が、佑麻たちの代を持ったから、「あれ(作文)をみんなでやりましょう」っていうふうになって。

髙橋 佑麻さん


制野先生:書かせて整理をしていって。今、震災後10年でしょ。で、どういう整理の付け方してんのかなっていうのは、すごくよくわかる。当時の(作文を)読むと、「ああ、迷ってるな」とか「悩んでるな」とかっていうのが、すごくよく分かるんだけど、でも書かないと悩みすら整理できないっていうかさ、迷ってることすら整理できないなって思ったんだよね。
言葉にできない部分があるんだっていうことをみんなが理解するっていうことが、すごく大事だな。言葉にできないんだけど、なんとかいろんな形にして伝えていかなきゃいけないなってね。
最初に書いた「命とは何か」の作文でさ、(佑麻は)"命とは強くて弱い、美しいもの"って書いてあるのね。それは覚えてる?

髙橋:はい。

制野先生:で、最後に書いた作文では、"強くて弱くて美しい輝き"って書いてあるの。"もの"から、"輝き"に変わったの。

髙橋:意識してなかったですね。

制野先生:佑麻の書く文章ってやっぱり独特だよね。

髙橋:そうなんですかね。

制野先生:独特だと思うよ、先生は。どうなの?自分では。書くことは嫌いではない?

髙橋:嫌いじゃないですね。本、読んだりはしますね。高校とかでも暇なときはずっと読んでた気がします。なんなら中学校の時とかも、授業中ちょっと気になった小説、(机の)下で読んでて怒られたりとかしましたもん。

制野先生:じゃあ読みまくって、あと書きまくって小説家になっちゃえばいいじゃん。

髙橋:でもそうですね、文章にしてやっぱ伝えるっていうのは自分で何か、いいなって思ってはいるんで。だからやっぱ、そこら辺の路線に行きたいかなって感じは、うっすらとはしてるんですよね。

制野先生:先生も書くのは好きだけどさ、追求してみたら?

対話は後編へ続きます
後編の内容は…
・いちばん近くて親しい家族だからこそ語れない
・三人兄弟の真ん中だった自分が、震災で姉を失って…
・震災後、母親がわりになってくれた祖母

髙橋さんに許可をいただき、「命について考える」作文の最初の授業で書いた作文を掲載させていただきます。

「命」とは何か(その1)~私の震災体験~    髙橋 佑麻

僕は震災前も震災後もずっと命のことを考えてきました。命について書けることを少しだけうれしく思います。
震災前は命について考えるといっても、好きな虫がすぐに死ぬのはなぜだろう?そんなきっかけでした。そんなことから考え続けていて、もっと深く考えることになりました。あの日の震災で。
地震がきたとき、僕は小学校で委員会活動をしてました。下の階では弟が待っててくれてました。地震がおきた直後はあまりおぼえていません。弟の心配でいっぱいでした。体育館にひなんして弟と会った時、弟が泣きだしてしまって、それに安心したのか僕も泣いてしまいました。でも、まだ家族と家が心配でした。「早く家に帰りたい 家に帰れば地震なんかいつもみたいにおさまる」そう思ってました。
家に帰る時、ラジオで津波けいほうが聞こえてきました。家に帰り、みんなの顔を見て安心したけど、けいほうはなったままでした。「まずいのでは?」と思いみんなに「ひなんしようよ」と言ったら、親に「大丈夫、こない、こない」と言われました。今思うとここで下がらずもっと言えばよかったなあと思います。津波がくるのは一瞬でした。
「地面が割れてる!」そんな話をしながらふと外を見てたら、左の家のすぐ左の道路に黒い水が流れてました。「えっ?」僕がかたまってると、目の前の草原と右の道路から同じような黒い水が流れてました。水が家におしよせ、みずが上にあがっていき、自分に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせてたその時「パリン!」居間の大きいまどがわれ、いっきに水が入ってきました。水がまだまだ流れてくる中、お父さんと弟がいないことに気づきます。でもそんなこと考えてるひまはない。お母さんが水でういたたんすにじゃまされていて、それをお姉ちゃんが助けていました。僕はそれをただ見ているだけでした。「足が動かない」そんな表現をよく聞きますよね?それが本当だと始(※原文ママ)めて知りました。
家族が逃げおくれているのに何もできなかったのが今になってもこうかいしてます。水が引いてきてすぐに家族の2人がいないのに気づきました。呼んでもへんじがない、それでも大丈夫だと信じました。
家族で集まって助けを待つときも二人が心配で非常食なんてのどを通りませんでした。家からはなれる時に、本もったいないなあとかどうでもいいことばかり考えてました。現実から目をそむけたかったんだと思います。
何か月かたち、家族の遺体を見た時、信じたくありませんでした。でも、なぜか涙はでませんでした。信じることができないまま時はまた過ぎ、二人の遺体を火そうするときに泣きました、思いっきり泣きました。でなきゃいけない会にもでず、ずっと、ずっと泣いてました。泣きやみそうになると、次の思い出を(次のページへ)

全然泣きやめませんでした。その会が終わるころに泣きやみました。二人の分もがんばろう そう決めて、もう泣かないようにしたけど、少し思いだすたびに泣いてしまいます。
二人はいつでも、今でも見守ってくれてると思います。火そうの時、言えなかったけど今までありがとう。お母さんの優しさはいつでも、どんなときでも、元気にしてくれる魔法みたいでした。
お姉ちゃんのしっかりさは、どんなことも安心して任せられる、助けてくれる、お姉ちゃんなのに、お兄ちゃんのような、それ以上のような存在でした。
おばあちゃんは、おはかまいりしてないと忘れられてしまうというけど僕は絶対にそんなことはないと思います。おはか参りは時間が無いだけで、行きたいと思っているし、行けなくても、見守ってくれていると常に思っているので忘れません。震災の話が長くなりましたが、僕は命については、先生が言うとおり答えなんてないと思います。よく聞く言葉だけど「失って初めて気づくもの」でもあるし、「強くて弱い美しいもの」とも思うし、そのまま「生命を現すもの」だとも思います。でも僕は答えをだせてません、だせるわけがありません、でもそれでいいと思っています。
僕たちはまだまだ「命」とつきあっていきます。なのでずっと考えていきたいです。

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