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わたし×中学時代の先生

宮城県内のカフェに集まったのは、東日本大震災で親を亡くした20代の2人と、彼らが中学生だったときの恩師。大学を卒業し教員になった2人が「同じ道の先輩である先生に会ってみたい」と考えていたとき、先生が「教え子たちがいまどのように過ごしているか、話をしたい」と声をかけたことで、久しぶりの再会となりました。

(仙台放送局 ディレクター 岡部綾子)

小林 雅彦さん(仮名)
震災当時は、宮城県内の中学校で保健体育の教員。子どもたちと卒業を祝う会をしていたときに被災し、教え子3人を亡くした。震災後、子どもたちに作文を書いてもらうことで「命について考える」授業を行ってきた。
高橋 康太さん(仮名・24)
中学2年生のときに被災。津波で父を亡くし、自宅は流された。震災直後は両親の実家に身を寄せたが、いまは母と2人で暮らしている。大学卒業後、宮城県内の小学校で教員として働いている。
渡辺 あかりさん(仮名・23)
中学1年生のときに被災。津波で母を亡くし、自宅は流された。震災後は避難所から仮設住宅に移り、高校卒業まで家族とそこで暮らした。去年春、大学を卒業して、宮城県内の小学校で教員として働き始めた。

3年ぶりの再会 かつての先生は教員としての“先輩”に

左:高橋康太さん 中:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生

3年ぶりの再会となった3人。大学卒業後、高橋さんと渡辺さんが選んだ仕事は小学校の教員でした。高橋さんは教員2年目、渡辺さんは去年春になったばかりです。3人の会話は、近況報告から始まりました

高橋:すみません、遅くなりました!

小林先生:いやいや、いまちょうどあかりの話聞いてて。

高橋:道が混んでて。今日、あれですよね、マラソン大会?

小林先生:初任研修の1年目と2年目か。この2人が教員になるっていうの、康太は何となく聞いてたけど、あかりが教員ってのは…

渡辺:なんでですか!?

高橋:イメージはなかったけど、確かに。

小林先生:イメージなかったよね。

渡辺:自分でも思ってますよ。なんでやってんだろう、こんなやつが、みたいな。

小林先生:教員の世界ってぶっちゃけさ、めっちゃ毎日楽しいとかっていう感じじゃないじゃん。地道に授業やっていくでしょ?それと、あかりの性格考えた時にさ…。

渡辺:ねえ、やめてください。お前はできないだろってやめてください!(笑)

小林先生:違う違う!子どもと遊ぶとか、楽しい会をやるっていうイメージはある。

渡辺:まじでもう続けられないって思ってます。いまだに。多分10年もやらない。

小林先生:10年やらない?

渡辺:むしろ5年も…。4月とか1週目で「私辞めるわ」とか「来月には辞めようかな」と思って。毎日、1週間で仕事辞めた教員とかめっちゃ調べてました。そんな人いるのかなって検索して。康太くんにめっちゃ愚痴りました、先月くらいに。

高橋:1回僕に電話きました。

渡辺:就職して、1回も連絡してなくて。先月、「ちょっと電話していいですか」っていって電話して。担当が小学2年生で一緒なんですね。もういろいろ、バーッて言って、やばいねみたいな話をしてました。

「あのとき、本当にやばかったと思う」

同じ中学校の1年生と2年生だった時に被災した2人。渡辺さんは避難所で3か月間過ごし、その後仮設住宅に移りましたが、そこでの生活は高校を卒業するまで続きました。当時の、家族とのギスギスした状況を振り返りながら、思っていたことを語り出しました。

高橋:10年前。もう10年がたちますね。

渡辺:やばい。そんな前なんだ。いやだな。

高橋:信じられないですね。

渡辺:長いなあ。いや、そうでもないか、早いか。

高橋:早いよ。

渡辺:逆ですね、もうそんな経ってましたか。

小林先生:震災後って勉強するのやっぱり大変だったんだ。みんな仮設住宅に入っていたりするから。

渡辺:確かに。懐かしい。

小林先生:あの時さ、仮設だっけ?

渡辺:仮設の前、学校再開したすぐは避難所だったんですね。
言いましたっけ?私1年生の時、めちゃめちゃ優秀だったんですよ。まあ、聞いてください。

高橋:武勇伝。

渡辺:そう、武勇伝。めちゃめちゃ優秀だったんですね。だからすごい褒められるし、「よし頑張ろう」と思って毎日自主勉強とかめちゃめちゃ頑張ってたんですね。
避難所でも、消灯されている中、みかんの段ボールの上で勉強してたんです。でも1か月ぐらいでぽきって折れて、「もう無理」って思って。朝も早いし、部活もあるし、疲れてるしってなって、そこから面白いぐらいに成績も...。みんな引っ越して、震災後に1学年1クラスになったから、1クラスに39人いたんですよ。で、経験したことないんだけど、この狭さみたいになっちゃって。

左:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生

渡辺:私、一番後ろの席だったんですね。そんな環境で授業受けたことないから、困難になって。しかも私、文房具全然持ってなくて。親にも言えなくて。友達がボールペンをくれたりしました。「これ、あげる」みたいな。シャープペンぐらいは持ってましたけど。

小林先生:え、そうだったの?

渡辺:もらっても、結局折れていたりとか、使えないじゃんこれみたいなのばっかり。

小林先生:そうだったの。

渡辺:マジで、本当に私ヤバかったと思う、あの時。

小林先生:あそこ3か月って結構きついな。

渡辺:でも、だんだん慣れてくるんですよ、人間って。最初の方はマジでもう全然寝れないし。いろんな人いるから、暴れまわってる人もいるし。それで、警察来たりしたし、人も多かったから。ですけど、だんだん、プライベート空間なんてないもんだと思って過ごしてて。仮設住宅の方が私はきつかったかも。もう本当にヤバかったです。5人家族で3部屋しかなくて。一つはリビング・茶の間で、一つは祖父で、寝る部屋が一つしかないんですよ。だから、リビングで机を避けてそこに兄が一人で寝て、もう1部屋に父と、私と弟が二段ベッドで寝る。マジで最悪でした。だから絶賛反抗期で高校時代は荒れまくり。

高橋:兄弟いたらそうなるよ。

渡辺:理不尽なことにめちゃめちゃ怒って、壁にバンってめちゃめちゃやってました。

小林先生:荒れてたっていうのはお父さんに反抗してたの?

渡辺:めちゃめちゃ反抗してました。結局、家族に女子1人だし、わがまま放題みたいな感じだし。

小林先生:お父さん、そんな素振り見せなかったけどな。

渡辺:でも、大学行って離れたら私がめちゃめちゃ丸くなって。帰って実家で皿洗いしたぐらいで「雪降るぞ」みたいな。いや皿洗いぐらいするけど、みたいな(笑)

小林先生:いま考えれば、よくやったよな、1年な。考えられない。

渡辺:考えられない。確かにね。

小林先生:よく勉強できたな。

高橋:全然ダメですよ。

渡辺:マジで出来てなかったですよ。

「震災のことを伝えるの、難しいよね」

被災地で教壇に立つ教員たちが最近直面しているのは「防災教育」。震災当時、小中学生だった2人のような教員が、震災後に産まれた世代にどう記憶を伝えていくかが重要だと小林先生は考えています。日々、子どもたちと向き合う高橋さんと渡辺さんは…

高橋:自分の学校では6年生が地域の防災マップとかを作る学習はしているんですけれども、なかなか。他の学年でっていうのはないです。あと、防災のリュックの中身どんなもの入れてるかなっていう授業を一緒にやるのはありますね。

小林先生:2人とも内陸の小学校なので、多分直接被害とかって…

渡辺:ないと思う。

高橋:沿岸に住んでた方も多分いらっしゃると思うので、津波を経験されてるお家の人もいると思うんですけど。震災の時はほとんどの方が内陸にいたっていう人もいたし、いま受け持っている子たちは震災の後に生まれたので。

小林先生:伝えるの難しいでしょ?

高橋:分かんないですもんね。「何だろう」みたいな感じだし。多分、去年5年生だった子たちでさえ、そんなにピンと来るものじゃないので。

小林先生:そりゃ、そうだよな。だって、生まれるか生まれないかくらいの。

高橋:そうですね。ちっこい子らなんで。

小林先生:でも、やっぱり伝えなきゃいけないからさ。

渡辺:私、普通に子どもたちに言いました。地震があった時に、へらへら笑うんですよね。「本当に自分の命なんだから、先生がいるって限らないし。自分の命は自分で守ってもらわないと」っていう話をして。「実際に、みんなは分からないかもしれないけど、あの震災の時だってそうやって大丈夫って思ってて、それで亡くなってる人もいる。実際、先生の友達だって亡くなってるよ」って言ったら、それで「え…」みたいになって。 そこから地震とか防災の時はわりと真剣に聞くようになって。生々しいんですかね。2年生には打撃がちょっと強かったかなとか思いながらも、でもそうやって考えてくれるなら私は良いのかなと思って。どうなんだろう、難しいですけどね。

小林先生:前もそうだったけど避難訓練とか、やっぱり真剣にやんないやつっていたんだよ、ずっと。ずっといたけど、経験すると、やっぱりこれは真面目にやんなきゃいけないって、思うんだよな。

渡辺:思いますよね。

小林先生:経験してないと一瞬力抜くよ、どうしても。そこで何を語るかだよ。何を語って、何を伝えるかっていうかさ。は、すごく大事だと思う。だって、本当に語れる最後の世代に近いんだよ。当時小5くらいまでの子が何とか語り部とかもやってる。だけど、小3とかさ、当時小1とか小2の子ってね、語り部はもうできないんだよ。微かな記憶しかないから。だからそうなると、語り部のできる層が結構限られてくる。

高橋:個人的に震災を語るのも大事だと思うんですけど、例えば近年は台風とかも被害は多いわけで。例えば沿岸とかでは震災の話を語って、津波から身を守るとかはすごい重要になると思うんですけど、いま自分がいる学校だったら、津波よりは別の防災の方がより大事になってくるっていう所もあるので。震災を語るのも大切だと思うんですけど、やっぱり身を守るためにできること何なんだろうねっていうのはその地域柄でちょっと変わってくるのかなって思うんですよね。小林先生がおっしゃることも分かりつつ、でも、その所々でやることはちょっと変わってくるんじゃないのかなって思う。

小林先生:そうだね。一番はやっぱり、どっちにしても実感を持たせるか持たせないかっていうのがポイントでさ。頭の中だけで考えてるとなかなか伝わらないんだよね。あと、もう人の移動がいま激しいからさ、内陸に住んでた人が海側に行くとか、海側の人が内陸に行くとかいうのはもうどこに行ったってあり得ることで、そうすると、上からの災害も考えないといけないし、海からの災害も考えなきゃいけないし。

「親の話がタブーにされているのが、違うなって」

小林先生:職場にいない?もう全然震災のことを分かんない人とか。

渡辺:私の場合は防災の話になって色々話しているうちに結局親の話になって、「こうなんです」みたいな話をしたら、そこからもうタブーみたいになっちゃって。だから私は嫌なんですね、そういうのをしゃべるのが。もちろん、話した方がこれからに繋がるなってもちろん分かるんですけど。結局「ごめんね、この話触れちゃって」みたいな、そのタブー視感がすんごい嫌で。別に私悪いことしてないし、なのにそういう感じで来られると、こっちもやっぱり話しにくいし、でも自分からは切っても切り離せない話だから言ってるのに、隠すのも違うかなと思って私は結構言っちゃう人なんですね。ちょっと親もいなくてみたいなことも全然言っちゃうんですけど。でも周りからしたら、「そうなんだ。ごめんね」みたいな。何に対してのそれは「ごめんね」なんだろうと、すごい思っちゃう。

小林先生:触れちゃいけないみたいに気を使っちゃうんだな。

渡辺:確かに、私もそっちの立場だったらそう言っちゃうし、「やばい、やっちゃった」みたいになるとは思うんですけど、当事者になった時に、何かそれ違うなとか、逆に、話したくなくなっちゃうってなるから、私は全然そういう語り部とかもやらなかったし。

小林先生:気使うのは使うけどさ、もうちょっと共感するとか、なんて言うんだろうな、そのこと自体をみんなで受け止めるっていう雰囲気にならないと語れないよな。結構受け取る方の問題大きいと思うんだよな。
そんなにいろいろな所でどんどん語れとかじゃなくて、受け取る方として、タブー視するみたいな姿勢だとさ、何の教訓化もされないでさ、隠されていっちゃうんだよね。むしろやっぱり語れる範囲内で語ってもらって、こっちも聞ける範囲内で聞くっていう姿勢でないと。真剣に聞き取る人がいて、そこにちゃんと届ける機会があってっていうのをちゃんとみんなで保証し合わないと、どんどん隠れていっちゃう。

渡辺:そうですね。あとは、話すと自分もしんどい。私はわりと話す方ですけど。結局なんだかんだで、だんだん「自分の首絞めてるな」みたいに思ったんですよね。「疲れるな」みたいな。

小林先生:やっぱり語るのは疲れる?

渡辺:私、泣いちゃうんですよ。やっぱり。どうしても。学校でもそれで何回も泣いてるし。もう全然話すのはそんなあれなんですけど、やっぱり思っちゃうんだろうな、みたいな。なんだかんだで負担っていうか。

小林先生:10年経ったって変わんねえよな。

渡辺:何にも変わらないです。そんなんで。

左:小林雅彦先生 右:高橋康太さん

小林先生:康太もあんまり語んないか?

高橋:んーなんだろう。別に話したくないわけではないけど、あんまり普段考えないっていうか、話そうって思わないし。でも別に話したくないわけではないですけど。話してって言われたら別に話せるし。震災の経験はあって、地震とか津波とかには確かに敏感な所はあると思うし、同じような経験してる人がいたら、そうだよねって思う部分ももちろんあるんですけど。普段から震災のことを見つめてるわけじゃないから。いまはまた別のことの方が考えてる時間が多いから。
上手く言えないですけど、いざ「震災の話をしてください」って言われれば、もちろんみんなの前でするとは思うんですけど、その必要性がないって言ったら変ですけど、そういう場所に自分がいるので。あまり震災を語るっていうことがいま頭の中にあるかって言われたら特にないかなっていう感じですね。震災で父親を亡くして、当初は悲しいなとか、そういう気持ちはもちろんあるんですけど、いまじゃあそんなマイナスな気持ちで生きてるかって言ったらそういうわけじゃないので。むしろ仕事辛いとかはあるけど、楽しい事もあるので。そっちの先のことっていうほうが考えていると。

小林先生:結構もう前向いてる感じはする?自分のなかで。

高橋:そうですね。亡くなったお子さんのこととか、家族のことをずっと考えてる方も多くいらっしゃると思うんですけど。僕は、そもそも早い段階であまりそこは考えてないっていうか。多分、うちの人がそうだからかもしれないですけど、それはそれ、でも自分は自分だからみたいな感じなんじゃないかなって。だから、まだ立ち直れていない方とか、もしかしたらいるかもしれないですけど、そういう人の気持ちはなかなか僕はちょっと分からないかな。逆にそういう人の話は聞きたいかもしれないなって思いますけど。

小林先生:なるほどね。

高橋:変な言い方すると心が冷たくなってる状態がそんなない、あったかい状態が続いてるから、震災について突き詰めて嫌な気持ちになるっていうのが、振り返った時にないのかもしれない。
なんかもう、震災ってすごかったじゃないですか。自分以外にも誰かを亡くしている人っていっぱいいるから。自分しか親がいなくなった人がいなかったとかだったら嫌だと思うんですけど、もう亡くなってる人が何万人もいるわけじゃないですか。だからしょうがないっていう、言い方はよくないですけど、そういう気持ちもあるから切り替えてるんじゃないかなって感じですね。
震災って辛いじゃないですか。でももっと乗り越えなきゃいけないことってあるじゃないですか、人生の中で。大学受験だ、教員採用試験に受かんなきゃ、明日の授業頑張んなきゃとか、そういうほうが多いので、目先に逆に目標があるからそうなのかもしれないですけど。なので、いざ震災のことを伝えるっていう感情はいま、ないですね。もっと伝えなきゃいけないこととかは他にあるんじゃないかなって思います。だから小林先生とは少し考え方はもしかしたら違うのかなって思うし、考え方違うけど、じゃあ小林先生が考えてることが変なのかっていったら、全然違う、変じゃないし。それはもちろん大切なことだと思うので、それはそれで必要だなと思うんですけど、自分はその場所には、もしかしたらいないのかもしれないなっていう感じですね。

小林先生:前向きに進んで、“乗り越えた”みたいな形で前に向かっている人たちはたくさんいると思う。その中の何割かの人たちは日常の中でフラッシュバックを繰り返しているっていう人もいてさ。その人たちはとりあえずきちんとケアしなきゃいけないっていうのもあるし。あとは、たまたま教員だからそう思うのかもしれないけど、あと10年後20年後ってなった時に、多分語りがまた変わってくるというか。いまはもう目の前のことで目いっぱいだからそれでいいと思うんだけど、これが20年30年経ったときに、自分が次の世代に何かを伝えなきゃならないってなった時に、また別の語り部が出てくるのかなと思う。 その時に、多分いまみたいな生活って多分できないから、もう年取ってきちゃって。そうなると、次の若い先生たちに何か伝えなきゃいけないとかさ、これだけは言い残しておかなきゃないとかっていうのが多分出てくるかなって思う。

高橋:僕は震災の後に、いままで生活した場所とは異なりますけど、ある意味、震災前と変わらない暮らしまではいかないですけど、当たり前の生活に早めに戻れたというか、仮設とかにいたわけじゃないし、避難所に生活してたわけじゃないし、それは母が多分なるべくそういう部分で苦労かけたくないとか、受験もあるだろうしと考えてくれたのがあって。早めにここに戻れたっていうところもあるのかなって。
小林先生たちが部活とかで「マイナスを少しでも払拭」っていうのもあるし、みんなで学校行けてるとかもあるし、いままで順調にきてたのもあるのかもしれないです。
けれど、震災の後からいまにかけてそんなにマイナスな出来事とか、そういうのはあんまりないんじゃないのかな、って思えてるんですかね。

小林先生:かなりいろんなもの積み重ねたよな。考えてみりゃさ。それこそ、普通は受験とかも障害に見えちゃうけど、でもそれすらも前向きに捉えないと乗り越えられなかった。

「お母さんがなんでそう言ったのか、そこは宿題だね」

左:渡辺あかりさん 右:小林雅彦先生

まだそんなに前を向くことができていないと切り出した、渡辺さん。母が震災前に渡辺さんに言ったひと言が心に引っかかっているといいます。

渡辺:私はそんなに前を向けてないと思って、いま聞いてて。その切り替えがすごいなって。「あっ、私ってずっと足踏みしてる人だな」って思いました。
結局、教員になったのも母から言われてたから。「教員になったら?」みたいな感じで多分、彼女的にはさらっと言ったのかもしれないけど。だから父も「えっ、そんなこと言ってた?」みたいな感じなんですけど、でも私の中で結構それが残ってたから。

小林先生:そうなんだ。

渡辺:結局そうなって、その呪縛からずっと抜け出せずに、こうなるのかなみたいな感じでやっちゃってて。なんだろう、自分の意志とはやっぱり違うから、結局高校も母が言ってたところに入ったし。将来の道っていうのもそうやって言われてたことだから、それこそいままで自分で選択をしたことが全然なくて、だからすごい苦しくて、私は。
かといって、それしかしたことがないから自分でどうしていいかがすごい分からなくて、ってなった時に、まあもちろん楽しいこともあるし、そこがすごく私は全然違うと思って。

小林先生:そうすると、お母さんがさ、あかりの中の何をこう見抜いてたかだよな。

渡辺:ノリじゃないですか。分かんない。ママちょっと適当な人だから。

小林先生:分かんないけどね。多分何かはあった。だってそんな何もなくてそういうこと言わないから、親は。

渡辺:なんとなくじゃないのかな。・・・わかんない。

小林先生:そこは宿題だね。

渡辺:はい。でも見いだせない気がする。

小林先生:それは宿題だと思うよ。でも大事だと思う。それは自分の意志じゃないとは言うけど、やっぱりどこか自分で決めたところもあるわけだから。それと、お母さんが出した宿題と合わせた時に、自分ってこういうところがいいのかなって。

渡辺:えー、でも全然それも考えられなくて、だから周りの先生にも、なんかお前もっと自己肯定感高めろとか言われるんですね。いやいや、普段そんな感じなのに逆に自己肯定感高まると思います?みたいな。で、ずっとそんな感じだから他の先生とかに会っても、「えっ、自己評価ちょっと低すぎませんか?」とか言われるんですね。でもそんな感じで、自虐でいつも生きてきたから、なんか全然いいところなんて見つからないし、みたいな。

小林先生:ま、その先生の評価よりやっぱり子どもの評価を見た方がいいよ、ちゃんと。

渡辺:いや、でもどう思ってるんだろう。子どもたち。

高橋:毎日遊んだ方がいいよ。

渡辺:もうほんと初任研修との兼ね合いが無理すぎて、全然遊べなかったんですけど、最近鉄棒とかもね、体育が始まったので。ちょっと子どもたちと一緒にやって。

小林先生:やっぱ10年とか20年たって会ったときに、初めて、あ、こういうことだったのかなって。それも本当に、かすかな答えしか返ってこないから。そういう仕事だからね。物を作るのと全然違うから。それを信じるしかないよ。
足踏みしてるっていうのは、悪い意味じゃないんだもんな。悪い意味じゃないかもしれない。止まってるっていう意味じゃないもんな。足踏みしてると。そこに帰ってるって。常にそこに帰ってるっていうふうに思えば。

渡辺:なのかな。

小林先生:分かんないよ。康太だって、こう言いつつ足踏みしてるのかも分かんない。いま必死でさ、生きてるんだから。

高橋:必死だから。

渡辺:必死だから。

高橋:早く土日来ないかなって。

渡辺:いやめっちゃ分かります。

高橋:毎日、毎日、土日来ないかな、早く。

渡辺:早く終わんないかな。

小林先生:分かる、その気持ち。日曜日の夜ってへこむよな。

高橋:最悪です。

渡辺:やばい、マジ、メンタルやばい。

高橋:最初やっぱり「サザエさん」見てたんですけど、マジでおなか痛くなるから、もうやめました。何もテレビ、絶対つけないです。

渡辺:それ大正解ですね。

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