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「だから僕は1年で教師を辞めた」 23歳元教師が語る過重労働の実態

「学生のときの情熱が、うそだったかのように冷めてしまって、自分でも驚いています。それくらい、異常な環境でした」

この春、高校教師の仕事を辞めた23歳のAさん。新卒で教員になったもののわずか1年での退職。背景にあったのは勤務していた高校での「過重労働」だったと言います。

この1年、外部からの情報提供を受けるNHKの窓口には、過酷な長時間労働に悩む教員の声が数多く寄せられてきました。

Aさんも、NHKにメッセージを送ったひとり。夢と情熱を持って教壇に上がった青年が、長時間労働によって追い込まれ、退職を決意するまで。

「『教師のバトン』は、僕にとってダイナマイトでした」

(#学校教育を考える 取材班)

教員になって9か月で適応障害の診断

Aさんは、教員を辞める直接のきっかけとなった、病気の診断書を見せてくれました。

元教員・Aさん

「適応障害という病名です。ストレスが主な原因で、高度なうつ状態、自律神経の乱れによる不眠、頭痛…。そういう症状が出てしまう病気です。

仕事の量的負担、質的負担、身体的負担度が高いと判定が下されました。抱えきれない量の業務をなんとか自分が回さなくてはいけない。ほかの先生方も自分のことでいっぱいいっぱいでしたので、ほかの職場の人に頼るということもできず…。それが大きな原因かなと思います」

関東地方のある高校に勤務していたAさん。去年4月に新卒で教員になりましたが、12月に 医師から適応障害の診断を受け、休職。 この3月で退職を余儀なくされました。現在は教員ではない仕事に就くことを目指し、就職活動をしていると言います。

元教員・Aさん

「まさか自分が1年でこのような状態になるとは、本当に夢にも思っていませんでした。自分が情けないという気持ちもありますし、教員になるために頑張ってきた学生時代の努力はなんだったんだという、むなしい気持ちにもなりました」

国の最新の調査では精神疾患により休職した教員は年間5180人、このうち退職した教員は1020人に上っています。

慣れない「顧問」の業務で休めない

Aさんの働いていた高校での「定時」は午前8時半から午後5時15分。しかしその前後にも様々な業務があり、赴任当初から労働時間は長時間に及んでいたと言います。

当時のAさんの一般的な1日のスケジュールでは、朝7時半に出勤。日中は授業や事務作業に追われます。その後、午後4時から午後8時まで野球部の顧問。帰宅後に次の日の授業準備などを行っていました。なかでも特にAさんが負担に感じていたのが、野球部の顧問の業務でした。

Aさんの2021年の手帳 6月の休日は1日だけ

野球部は土日も練習試合などを行っていたため、1週間全く休みがないこともしばしば。Aさんがつけていたスケジュール帳では、5月から6月にかけて「45連勤」だったことが書かれています。

元教員・Aさん

「次に自分は一体いつ休めるんだという。いつ休めるのかわからないっていう状態が続いていて、もう、ちょっと心身が参ってしまいました。

去年の5月から6月が特に休みが取れなくて、大型連休中は休めたのが5月5日だけ。その日を最後に、次に休日を取れたのが6月20日でした。この日も悪天候で練習ができないから、たまたま休みになっただけで、もしこの日休めていなかったら、次に休めるのは7月18日でした」

教員になってわずか1か月あまり。この当時すでに、疲労がたまり「うつ状態」になっていたかもしれないと振り返ります。

想定していた勤務とのギャップ

Aさんは学生時代卓球部で、野球は未経験。ただ、教員になる以上、何かの部活動顧問になることは以前から想定していました。

しかし実際に働いてみると、実態は想定と大きなギャップがあったと言います。

元教員・Aさん

「土日に部活動は、どちらか1日で練習や試合をして、どちらか1日は休日になると思っていました。実際に県からも、『土日のどちらか一方は休日にしなければいけない』という通達が来ていて、私の勤めていた学校でも基本的にほとんどの運動部がそうしていると思うんです。ただ、なぜか野球だけは許される風潮がありました。なので土日も6時間から8時間練習や試合をしていたので休みがなかった。

平日も放課後に練習を見て、その後に校舎に戻って仕事を片付けてから帰る日々が続きました」

野球部にはもうひとり、先輩教員が「監督」として顧問についていました。その先輩教員は野球経験者で、Aさんにとっては指導教官。Aさんは「新人の立場で上司に意見を言ってはいけないのでは」と、違和感を口に出すことができませんでした。

過重労働で、本業がおろそかに

部活動に多くの時間をとられることで、授業の準備をする時間が取れなくなってしまったこともまた、Aさんを苦しめました。

元教員・Aさん

「野球部未経験の私にできることは限られていて、グラウンドの草むしりだったりボール拾いだったり、どうしても雑用しかない。大半の時間、やることがなくて、『時間がもったいない』と感じて苦痛でした。『この時間は本来、授業準備にあてるべきなのに』と、もどかしい思いをしながら拘束されていることが、すごくストレスで…。

自分も予習ができていない状態で授業をやらなくてはいけないこともありました。そうなると、どうしても授業の質が落ちてしまう。本当に生徒たちには申しわけない気持ちでした」

元教員・Aさん

「私は、教員の一番大切な責務は、生徒の安全と命を守ること。次に授業だと思います。でも、余計な事務作業や部活動などいろいろ仕事があり過ぎて、生徒一人一人と向き合える時間は想像以上に少ないというギャップを感じていました。生徒と向き合うより、事務作業している時間の方が長いんじゃないか?教員の一番大事な仕事ってなんだっけ?と、ちょっとわからなくなってしまいました」

SOSを言い出せない空気があった

部活動で休みがない。授業の準備も思うようにできない。Aさんの心身のバランスは徐々に崩れていきました。

元教員・Aさん

「ストレスを抱えているのは、自分に限らずほかの先生方もきっと同じこと。自分ばかりが弱音を吐くわけにはいかないと思っていました。ストレステストの診断結果も、周りには一切口にせずに黙っていました。自分で自分に大丈夫と言い聞かせて…」

教員をしていた頃のAさんの自宅

当時のAさんの自宅の写真を見せてもらうと、写っていたのは片づけられずものが散乱した部屋に、大量に積まれた「栄養ドリンク」の空き瓶。睡眠時間は何とか確保していましたが、心の疲労はどんどん蓄積していくばかりだったと言います。

そして、11月のある日曜日。体に異変が起きました。

元教員・Aさん

「いつもどおり部活動に行くつもりで起床したんですけれども、ちょっと体が動かない。拒否反応みたいに、今日は無理だ、本能的に今日は休まないといけないと悟って、その日初めて監督に『体調が悪いのでお休みします』と電話を入れました。

生徒が真面目に部活動を頑張っているのに、先生である自分が休んでいるわけにはいかない、という気持ちはあったんですけど、その気持ちがあっても体がついてこなくて、『これはまずいな。もう病院に行かないと』と思いました」

「本当に重症になる前にこの環境から抜け出さないとだめだ」

そう感じたAさんは心療内科を受診。12月に適応障害で治療が必要だと診断され、休職。そして、この春に退職しました。

教員の仕事に感じていた夢

Aさんは4月から、教員以外の仕事に就くことを目指して就職活動を始めました。わずか1年で仕事を辞めたことが、就活にマイナスに働くのではないかと不安も感じています。

教員を辞めたことを、今どう感じているか。そう聞くとAさんは、「後悔はない」としつつも、消えない悔しさやむなしさを抱え続けていると明かしました。

元教員・Aさん

「自分の学生時代の努力が、ほとんど水の泡になってしまったような感覚です。今実際に職を失っている状態で、自分は何のために、大学に進学させてもらったのか。親にも申しわけないです。それに、将来教師になるという自分のことを応援してくれていた人たちに対しても、期待を裏切ってしまった。

私が教員を目指してみようと思ったきっかけは、尊敬していた高校時代の恩師の先生の言葉でした。『大学に行って先生を目指す道もあるぞ』と面談で言ってもらって、自分もその先生のようになりたいなと思って。私は過去にいじめられていた経験があって、学習面でも落ちこぼれ。そんなダメダメだった自分でも、努力次第で自分の可能性はいくらでも伸びるということを、多くの生徒たちに伝えたいと思っていました。

でも今、教師の道に戻りたいかと言うと、戻りたくないのが率直な気持ちです」

Aさんのように、若い教員が辞めないために、教育現場はどうあるべきか。Aさんに聞くと、様々な問題点をあげてくれました。

適性を見据えた人事配置。

勤務時間の正確な管理と報告。

学校における部活動の位置づけ。

「自分と同じ思いをする人を出したくない」と、教員を辞めた立場で現場の実態をSNSで発信していきたいと考えています。

若い世代に“バトン”を渡すか

SNS上では、「#教師のバトン」というハッシュタグを付けた、教員たちの過酷な労働環境を訴える投稿が寄せられ続けています。元々は文部科学省が音頭を取り、「働き方改革による職場環境の改善」や「学校現場で進行中の様々な改革事例」を若い世代に伝えるために始めた取り組みでしたが、皮肉にも教員たちのSOSが集まる場所になっています。

Aさんも以前からこうした投稿を読み、教育現場が厳しい環境であると覚悟はしていました。しかし、想定以上の過酷な労働環境が、わずか1年でAさんの教員人生に区切りをつけさせたのです。

Aさんに尋ねました。先輩たちから受け取った「教師のバトン」は、どんなものでしたか?

元教員・Aさん

「こんな言い方をしていいのかわからないですけど、爆弾です。バトンというよりダイナマイトという感じ。軽い気持ちで『君も学校の先生を目指したらどうだ』とは、本当に言えない。おすすめできないバトンです。教育現場がこのままの状況ならば、できればつなぎたくない、というのが本音ですね」

担当 藤田Dの
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