医療と介護を考える

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誰もが当事者になりうる「病気」や「介護」の問題。みんなで支えあって、一人一人が自分らしく生きるにはどうしたらいいのか、これからの社会に必要なことを考えていきます。


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「ヤングケアラー」をどう支える?
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2021年6月25日

がん治療研究は『希望の種』 若手研究者を支援する新プロジェクトとは

2人に1人ががんになると言われる時代。その一方でがん治療の研究をになう若手研究者の多くが『資金不足』に直面し、思うように研究が続けられない状況にあります。

そうした中、一般の人から寄付を募り研究者を支援しようという動きが始まっています。今年NPO法人「deleteC」を通じて研究資金を受け取ったのが、がんの新しい治療薬の開発研究をしている大槻雄士さん(35)です。これまで“注目される機会がほとんどなかった”という大槻さんですが、支援を受ける際に言われた「研究は希望の種」という言葉に、「景色が180度変わった」と話します。

がん治療の研究者と、その研究を必要としている人をつなぐことで、多くの希望が生まれるのではないか―― 新たな可能性を感じさせる動きを取材しました。

(社会番組部ディレクター 藤松翔太郎)

「ただ続けるだけでも難しい」若手研究者がおかれた状況
慶應義塾大学の先端医科学研究所に所属する大槻さんの研究テーマは、「再発しないがん治療」。酸化ストレスと呼ばれる細胞を老化させる作用を利用し、体に負担をかけずにがん細胞を死滅させる治療法の開発を続けてきました。

この研究は、手術に成功したあとも、再発や転移に苦しむがんの患者を減らす可能性があるとして、大槻さんは去年、日本癌学会で若手研究者に贈られる「ヤングサイエンティストアワード」を受賞しました。

大槻さんの研究には、新型コロナウイルスの治療薬開発でも注目を集めている「ドラッグリポジショニング」という手法が用いられています。これは私たちが普段病院に行って、保険で処方してもらえるような飲み薬や塗り薬のように、すでに治療に使われている薬などを改めて調べ直して、別の病気にも応用できる効能がないかを探す手法です。

国がすでに承認した薬から新しい効能が見つかれば、ヒトでの安全性を確認する手間が大きく減り、有効性を確認する臨床試験にスムーズに進めるため、一から行われる新薬開発よりも格段に早く患者の治療につなげることができます。

ところが大槻さんに話を聞くと、この研究方法は、ただ続けていくだけでもとても大変なのだそうです。


研究室での大槻さん(画像提供:NPO法人「deleteC」)



大槻さんの研究では、ある効能を探すために 4千以上の薬をひとつひとつ細かく分析します。それぞれについて薬の量を調整したり使い方を変えたりと、最低10回以上、条件を変えて確かめます。いわば「手当たり次第、調べ尽くす」のです。

そのため、見つかれば革新的な治療につながる可能性がある一方で、その効能がいつどんな形で見つかるかは誰にも分からず、常に先が見えない状況の中で、地道な作業を続けていかなければならないのです。

そしてそれに加え、さらに大きな悩みがつきまといます。

大槻雄士さん
「ただでさえ研究の地道な作業が結構しんどいのに、それに加えて、僕らがいつも抱えている一番悩みの種は、研究費をどうもらうかなんです。研究費がなくなったら、そもそも研究なんてできなくなってしまいますので」

研究を続けるハードルは “資金集めの壁”
日本でがん治療の研究資金を集める主な方法は二つに限られます。 一つは、国の機関からの研究費を勝ち取ること。もう一つは、財団や製薬会社などからの資金援助を受けることですが、いずれも高いハードルがあると大槻さんは言います。

大槻雄士さん
「国の競争的資金は、研究で積み上げた成果を元に、実現する可能性も厳正に審査されてお金が出ます。日本では、始まったばかりの研究や将来的に可能性があっても目に見えた成果がすぐには示せない研究は、どこからも資金を獲得することができないということがよくあるため、続けていくだけでも難しいんです」


企業からの資金援助についても、たとえば過去に開発され、すでに製薬会社の特許が切れた薬から新しい効能が見つかった場合、製薬会社は販売しても利益が見込めないことが多く、資金援助をしてもらうことが難しいと言います。

実は大槻さんはもともと、呼吸器外科の医師として肺がんの患者などの治療にあたっていました。「手術だけでは治せないがんがある」と感じて研究者の道に進み、5年間、既存薬の新しい効能を探し続けてきました。

地道に研究を続けた結果、去年、かつて狭心症の治療に使われていた飲み薬「オキシフェドリン」に、がん細胞を死滅させる効果が期待できることを発見したのです。

いまはまだ動物に投与して効果が確かめられた段階で、 人への治療に応用した場合、有効性を確認できない可能性もあります。実用化をめざすには、きちんとした臨床試験を経て有効性を確認することが不可欠です。

しかし臨床試験を行うためには、ヒトに薬を投与する前に、第三者機関による、安全性や有効性の調査(非臨床試験)を受けなければなりません。この費用は、それまでの研究費とは別に、数千万円がかかることも珍しくないといいます。その上、通常の研究に加え膨大なデータの整理や事務手続きなどにかかる人件費などが必要となります。大槻さんの研究では、その資金の工面が大きな障壁となっているのです。

年々減る若手研究者 課題は不安定な雇用環境
研究費だけではありません。若手研究者の雇用環境が不安定なことも大きな問題となっています。

大槻さんが所属している日本癌学会に加盟する40歳未満の研究者の数は2016年に3953人だったのに対し、今年は3074人。新しくがんの研究者を目指そうとする人が、年々少なくなっていると言います。なぜこのような状況になっていると考えているか、聞いてみました。



大槻雄士さん
「いまは研究だけで食べていける人って本当に少ないんです。40歳手前になっても終身雇用の職を得られていない研究者がけっこういます。僕の大学との契約も、毎年更新です。だから契約の間にそれなりの成果を残せないと契約が打ち切りになる可能性が常につきまといます。正規雇用で安定して研究を続けることはとても難しいので、今コロナもあって不況なので、有期雇用を長く続けることは若い人たちはあまり望まないですよね」


一般の人から200万円の研究資金 新たな応援の形
研究費の確保に悩みながら 研究を進めていた大槻さんですが、今年1月、その背中を大きく後押ししてくれるできごとがありました。 “がんを治せる病気にすること”を目標に掲げるNPO法人「deleteC」から、200万円の寄付金が提供されることになったのです。

「deleteC」は全国の医師や看護師、研究者を対象に「将来がんの治療研究を飛躍させる可能性があるもの」を公募しています。厳正な審査の結果、大槻さんの「再発しないがん治療」が“今年最も応援したい研究”に選ばれ、一般の人から集まった寄付が研究資金として提供されたのです。

大槻雄士さん
「ちょっとビビりましたね。これまでの日本にはない応援の形ですよね。財団や国に研究費を申請して、コンペをして勝ち取るのとはまた違って、一般の人からの応援という形なので、すごく夢は広がりました。これまでには思いつきもしなかった、一般の方々からの寄付がもらえるというのは、本当に励まされることなんですよね」


1月30日、大槻さんはかつてないほどの緊張した表情で、パソコンの前に座っていました。「deleteC」が主催したオンラインイベントに出演するためです。イベントには、歌手のAIさんや元サッカー日本代表監督の岡田武史さんなど、がん治療の研究を支援している著名人も参加しましたが、この日は大槻さんが主役です。

イベントでは、がんの治療研究に携わる人びとを応援するために作られた、AIさんの新曲「HOPE」のミュージックビデオが披露されましたが、その中では大槻さんが研究に込めてきた想いが、印象的な映像で紹介されていました。

「HOPE」のMVに登場した大槻さん(画像:NPO法人「deleteC」)

新薬の開発には膨大な時間がかかる。
狭心症の薬にがん治療の効果を発見した。
やっと手にした、希望の種。
一刻も早く患者の治療につなげたい。

慶應義塾大学医学部
先端医科学研究所 遺伝子制御研究部門
大槻雄士


大槻雄士さん
「僕も初めてあの場でミュージックビデオを見たんですけど、本当に驚きました。一番印象的だったのは、うちの奥さんの反応です。そんなことやってたの?みたいな感じで、ちょっと引いていました。普段目立つようなことが全くないのでびっくりしていたのだと思います。でもあれを見て、初めて研究の話を家族にしたり、外来にきた患者さんからも「すごいですね、頑張ってください」って応援されたり、ものすごい反響でした」


一般の人にも研究を分かりやすく届けるには
このイベントではもう1つ、大槻さんの研究を一般の人にもわかりやすく伝えるための動画も紹介されました。がんの治療研究は専門用語が多く、予備知識がないと研究に興味を持つこと自体、ハードルが高いため、寄付をするきっかけが作りづらいと言われています。

大槻さんはこれまで「説明しても難しくて分からないだろう」と、家族にも自分の研究について話したことがありませんでした。今回動画をつくるにあたって、どうすればわかりやすく伝えることができるのか、NPOのメンバーと何度も話し合いました。

たとえば、大槻さんの研究を語る上で欠かせない「酸化ストレス」について。細胞を老化させる作用のことで、大槻さんにとっては毎日何気なく使っている言葉です。しかし他のメンバーから「そのままではわからない」と指摘され、大いに悩みました。

色々説明をする中で、大槻さんが「肌のシワやシミも酸化ストレスが原因」という言葉を口にすると、「あーなるほど、シミの話が、がんで出てくると思わなかった」と、一気に身近に感じてもらえたといいます。

大槻雄士さん
「アメリカの研究者が、自身の研究をプレゼンする時ってとてもわかりやすいです。たとえ話とユーモアを交えて話すのは、寄付を受ける経験が多い分だけ、一般の人に伝える機会が多いからだと思います。これは、日本の研究者もすごく見習わなきゃいけない。deleteCの皆さんが合い言葉として、「明るく、軽く、柔らかく」と話されていますが、まさにがんのことも、研究のことも、自分が思っている以上に、明るくして、軽くして、柔らかく話せるようにしていきたいと感じています」


「がん治療研究は希望の種」多くの若手に応援を届ける
これまでにない経験に大きな充実感を得た大槻さんですが、その一方で複雑な思いも抱えていました。多くの若手研究者が資金面や待遇で苦しい思いをしている中、「支援を受けるのが自分だけでいいはずがない」と感じていたからです。

寄付金を受け取った後、大槻さんは「もっと多くの若手研究者に、一般の人の応援を届ける仕組みを作りたい」と、自ら動くことにしました。

大槻さんの心の中には一生忘れられない言葉があります。
それは「deleteC」のメンバーから伝えられた「がんの治療研究は希望の種」という言葉です。

「deleteC」の発起人で「がんを治せる病気にする日を一日も早くたぐり寄せたい」と取り組んでいた中島ナオさんが、今年4月、乳がんのため38歳で亡くなりました。大槻さんは、がん治療の研究に期待し続けてくれたナオさんの気持ちに、必ず報いなければいけないと、思いを強くしたと言います。

5月、大槻さんは「#がん研究の種を育てよう」というクラウドファンディングを始めました。一般の人からの寄付をもとに、有望な若手研究者を日本癌学会で表彰するというものです。


左:大槻さん クラウドファンディングを呼びかけるHPより




大槻さんが目を付けたのは学会での「ポスター発表」です。年に一度行われる学術総会などでは、多くの若手が、自分の研究成果を1000字程度にまとめたポスターを会場に展示して発表しています。興味を持ってくれる人がいれば、その場で説明することもありますが、実際には展示したものの、それほど注目されないケースも少なくないと言います。

大槻さんはこの状況を変えたいと、一般の人にポスター発表の内容に投票してもらい、多くの票を集めた研究を表彰する企画を立ち上げました。研究者の間だけでなく、社会全体に若手研究者の成果を知ってもらいたいと考えたのです。80年の歴史がある日本癌学会で、初めての試みです。

6月末までにこのプロジェクトへの支援者を募り、9月30日から行われる日本癌学会学術総会で、およそ60人の若手研究者を表彰する予定です 。

大槻雄士さん
「研究の一つ一つは全部、将来、新しい治療につながるかもしれない研究の種です。これをきっかけに若手研究者を応援してくださる人が増えることももちろん目指したいですが、同時に応援を受ける研究者も一般の人たちに自分の研究をわかりやすく伝えることの重要性に気づいてもらうきっかけにもなったらうれしいと思っています」


人生を通じて「2人に1人ががんになる」と言われる時代に、将来の治療法を生み出す研究をみんなで応援していこうという活動が、広がろうとしています 。

「#がん研究の種を育てよう」プロジェクト
大槻さんが立ち上げたクラウドファンディングの詳細はこちら(※NHKのサイトを離れます)
https://readyfor.jp/projects/japanese_cancer_association_80th
2021年5月14日

歌手AIさん『がん治療研究を応援』 きっかけは「deleteC」中島ナオさんとの出会い

「Story」「ハピネス」など多くのヒット曲で知られる歌手のAIさんは、去年から、がんの治療研究を応援するNPO活動に協力しています。きっかけとなったのはNHKの番組を通じて、ある女性と出会ったことでした。NPO法人「deleteC」の発起人で、自らもがん治療を続けていた中島ナオさんです。ナオさんとの交流を通じて、AIさんは“埋もれていた”楽曲『HOPE』を完成させました。
今年4月20日、中島ナオさんは38歳で亡くなりました。AIさんは、ナオさんの意思を受け継ぎ、これからもがんの治療研究を応援し続けたいと話します。その胸の内を聞きました。

(社会番組部ディレクター 藤松翔太郎)


<関連番組>
ひとモノガタリ選「がんを治せる病気にしたい~デリートC ある女性の挑戦~」

5月15日(土)NHK総合 午前0:55~(14日深夜)
放送後1週間は『NHKプラス』で見逃し配信しています


(左・中島ナオさん 右・AIさん 写真提供:NPO法人deleteC )

AIさんと『deleteC』中島ナオさんの出会い
AIさんが中島ナオさんと初めて会ったのは去年3月、中島ナオさんを取材したドキュメンタリー番組「ひとモノガタリ」でナレーションを担当した時のことです。AIさんに「少しの時間でも、直接感謝を伝えたい」とナオさんが収録現場を訪れ、収録後に15分ほど話をしました。

中島ナオさんは31歳の時に乳がんが発覚。その後転移が見つかり、ステージ4と診断されました。それでも「がんになってからも感じることができる希望を生み出したい」とNPO法人「deleteC」の立ち上げに奔走してきました。


(ラグビー選手と募金活動を行う中島ナオさん)


「deleteC」は『みんなの力でがんを治せる病気にする』ための仕組み作りを行う団体です。

がんの治療研究こそ希望の種であると位置づけ、「がん=Cancer」の頭文字Cを商品名や企業ロゴから消したオリジナル商品を販売し、収益の一部を治療研究に寄付するなど、普段がんと接することが少ない人でも気軽に参加できる「新しいがん治療研究の応援の形」を生み出し続けています。


(Cが消えたオリジナル商品例)


ナオさんと最初に出会ったときの印象を、AIさんは次のように語ります。

AIさん
「ナオさんと初めて会ったとき、すごい元気で、ずっと笑顔ですごいと思ったんですよね。私もよく「元気ですね」って言われるけど、ナオさんは本当にすごい。 そのときにデリートCで何を目指しているのかを直接ナオさんから聞いて、シンプルにやるべきことだと思ったんです。やらない理由がないし、いいものはいいって。 その出会いがきっかけでコラボしていこうということになって、私が曲を書いて、デリートCのみなさんと一緒にミュージックビデオを作ろうということになりました 」

「早くがんを治せる病気にしたい」 AIさんも感じていた共通の想い
AIさんにとってドキュメンタリー番組のナレーションは、この「ひとモノガタリ」が初めての挑戦でした。慣れない仕事でしたがオファーを引き受けました。そしてナオさんとの出会いをきっかけに、放送後も「deleteC」の活動に協力し、がん治療研究の応援に参加するようになりました。

なぜここまで積極的に関わることを決めたのか? 話を聞くと、実はAIさんには、これまで明かしてこなかったある経験がありました。


(インタビューに答えるAIさん)


AIさん
「自分の同い年の親友ががんで亡くなったんです。『ほんとに亡くなるんだな』っていうのが分かったというか、もちろん親戚とかには、がんで亡くなっている人とかもいますけど、だいたい高齢になってからだったので、早くして亡くなるというイメージはなかったんです。

若い人でも乳がんになることがあるっていうのは知っていたので、自分も検査とかいつもやってるんですけど、すごく親しくて、元気なときにいつも一緒に過ごしてた人が結構短い期間で亡くなると、まだ一緒にやれていないことばかりが、あれもこれもと、頭に浮かんできてしまうんです。

そうなるとショックがすごく大きいから、仕事が手につかなかったり、ご飯が食べられなくなったりするので、早くみんなにがんのことを知らせたいなって思うようになっていました。

そんなときに、たまたま私のマネージャーが「deleteC」の話があるけどって言ってくれたんです。親しい人をがんで失う経験をするのは本当に嫌だし、みんなにも経験してほしくないと思っていたので、「deleteC」の活動を知り、早くがんを治せる病気にしないといけないという気持ちになって、協力したいと思うようになりました」

埋もれていた楽曲「HOPE」 今だからこそ伝えたいメッセージ
今年1月にリリースされたAIさんの新曲「HOPE」。『あきらめずに前を向こう』というメッセージが込められたこの曲は、ナオさんとともに「deleteC」とのコラボレーション企画を進める中でできたものです。しかしAIさんによるとこの曲は、数年前に1番の歌詞を書いたまま、いわば“埋もれた楽曲”だったそうです。

『HOPE』 歌詞(1番)
大事な人を亡くした(Keep your hope alive )
お金もない 家もない もう何もない(Keep your hope alive)
勝手に決められた私の未来(Keep your hope alive )
砂嵐に埋められてく頭の中(Keep your hope alive)
きっとその先は何かが違う 必ず変わる 何かが変わる if u don't give up
この先を生きれば諦めなければ あなたも知らないその先へ

When you're feeling low keep your head up high And keep the hope alive
We're saying no, tell the pain goodbye And keep the hope alive Keep the hope alive

AIさん
「『HOPE』はね、やばいよ。すごく想いが詰まった楽曲です。 最初、一番の歌詞を書いたのは、妊婦の時でした。妊婦って喜びに包まれてるって思われるかもしれないけどそれだけじゃなくて、すごいたくさんの不安があるんです。妊婦だけじゃなくて、生きているとみんないろんな問題があって、借金がある人もいるし、ドラッグから抜け出せない人もいれば、病気で苦しんでいる人もいる。そういう人たちに向けた気持ち全部をぎゅっと凝縮させたのが『HOPE』の1番でした。

『HOPE』がなくなると、「もう死んでもいいや」みたいな気持ちになってしまう。だから、それを阻止する曲にしたくて、“死んでほしくない、生きていてほしい”と伝えたくて、作っていました」

最初の歌詞を書いた後、AIさん自身の出産や子育て、さらに新型コロナウイルスの感染拡大などが続き、この曲を世に出すことはできずにいました。

そんな中で中島ナオさんと出会い、がんの治療を続けていることを一切感じさせないほど、目標に向かって奔走するその姿に、強い影響を受けたと言います。そしてこれをきっかけに、AIさんは『HOPE』の2番の歌詞を書き上げました。

ナオさんや「deleteC」の活動から感じたこと、そしてコロナ禍で多くの人に伝えたいメッセージが詰まっていると言います。

『HOPE』 歌詞(2番)
触れたい触れられない 逢いたいのに会えない (Keep your hope alive )
責められる毎日 どうして? 誰か 助けて  (Keep your hope alive)
信じてたものが全てが崩れていった、、(Keep your hope alive)
人が嫌い 自分が嫌いなんで生まれてきたんだろう? (Keep your hope alive)
きっとその先は何かが違う 必ず変わる 何かが変わる if u don't give up
この先を生きれば諦めなければ あなたも知らないその先へ
When you're feeling low keep your head up high
And keep the hope alive
We're saying no, tell the pain goodbye
And keep the hope alive
顔上げよう 今だけでも
Just keep the hope alive
いい日にしよう 明日へと
Let's keep the hope alive

When you're feeling low keep your head up high
And keep the hope alive
We're saying no, tell the pain goodbye
And keep the hope alive
Just keep the hope alive


(AIさんとナオさん ミュージックビデオ撮影の控え室にて)


ナオさんが見守る前で『HOPE』を熱唱
そして今年1月に行われた『HOPE』のミュージックビデオの撮影現場には、ナオさんの姿が。いつもと変わらない笑顔で、AIさんの歌を見守っていました。


(『HOPE』ミュージックビデオ撮影の様子)


AIさん
「ナオさんが目の前にいて、彼女に歌う感じでした。あの日を思い出すと、涙が出てきてしまう。この前のライブもやばかったんです。2番を歌うときに、ナオさんのあのにこやかな感じの顔を思い出すでしょう。優しい感じのね。

ビデオ撮影の現場でも、ずっと二人でしゃべってて、『疲れたらやめてくださいよ』って言ってたんだけど、『もう全然大丈夫』って、変わらない笑顔で話されていました。いま思うと大丈夫じゃないのにそうしてたのかなとか思って、本当にすごい人だったんだなと思っています。

飲みに行ったりごはんを食べに行ったりはできなかったけど、関わった全ての瞬間で素敵な人だったし、LINEとかでも私の友達の話も聞いてくれたり、絵本を娘達にくれたりとかとにかく優しいですよね。いつも人のために頑張ってるなっていう感じで、なので、あのビデオ撮影の日は、今も忘れられないです」

音楽を通して「がんを治せる未来」を作っていきたい
その後行われた「deleteC」のオンラインイベントで、AIさんは『HOPE』をライブで披露。さらに、この曲とdeleteCが支援した4人の医療者や研究者の映像を合わせて作られたミュージックビデオも完成し、映像を見た人が、ネットでがん治療研究者に寄付ができるコラボ企画も立ち上げました。

このイベントに向けてAIさんが寄せたメッセージです。
音楽を通して「がんを治せる未来」を作っていきたい。もちろん”がん”だけじゃなく今はコロナだってある、全ての人達の苦しみをとってあげることができたら、、今も時間がない人達がたくさんいる。どうにかできるかもしれない、そんな希望を持っていて欲しい、持っていたいって思いながらHOPEって曲もできました。みんなで力を合わせたら少しでも多くの人たちを、誰かを喜ばせられるかもしれない。苦しみを消してあげられるかもしれない。Let’s delete all the sickness,and Let’s delete the C together!!!! 】
※AI+deleteC コラボ企画「いいねの募金」(NHKのサイトを離れます)
https://donation.yahoo.co.jp/detail/5304001

『がんを治せる病気にしたい』
このイベントから3ヶ月ほど経った今年4月20日。
AIさんの活動に大きな影響を与えた中島ナオさんが、亡くなりました。
乳がんの治療を続けて7年。38歳でした。

「心の中のナオさんとこれから一緒にやっていきたいことはありますか?」
私がこう問いかけると、AIさんは次のように答えてくれました。

AIさん
「ナオさんと初めて会った日に、デリートCのシールをもらったんです。今も私の携帯電話に、たくさん張っています。私は亡くなった人ってすごいパワーを持つと思っていて、ちょっとサボろうとしても、見られているようで、『もう分かったよ、やるよ』みたいな背中を押される感じがするんです。

ナオさんも、どこからか見ていると勝手に思っているので、『あんたちょっと手伝うって言ったくせに、ちゃんと手伝ってよ』って笑いながら言われ続ける気がするので、もう忘れたくても忘れられないし、結局思い浮かべちゃうんだろうなと思うので、それに身を任せてやるだけですかね。

だから彼女が思っていた『がんを治せる病気にしたい』という目標が達成できれば一番いいですね」


(AIさんのスマホ ナオさんにもらったdeleteCのシールが貼ってある)



中島ナオさんを取材したドキュメンタリー番組
ひとモノガタリ選「がんを治せる病気にしたい~デリートC ある女性の挑戦~」
5月15日(土)NHK総合 午前0:55~(14日深夜)
放送後1週間は『NHKプラス』で見逃し配信しています


クロ現+
2021年5月13日

ヤングケアラー どう支える?

家族の世話や介護を担う「ヤングケアラー」。4月に国が初めて実態調査の結果を発表し、中学生の約17人に1人、高校生の約24人に1人が何らかのケアを担っていることが分かりました。過酷なケアによって学業や就職活動にも支障が出るなど、その深刻な実態が明らかになっています。これまでにお伝えしてきた当事者たちの声や、支援情報についてまとめました。


<関連番組>2021年5月13日(木)放送
クローズアップ現代プラス「ヤングケアラー いま大人がすべきこと」


ヤングケアラーとは?
こちらの動画では、「ヤングケアラー」の例を紹介しています。家族の抱える病気や症状によって、その子どもが担っている役割は千差万別です。あなたの周りにも、このどれかに当てはまり、学校生活などに影響が出ている子どもがいるかもしれません。


ヤングケアラーに関する記事
▼ヤングケアラー 当事者たちの声
・私は夢をあきらめた・・・ 外国籍ヤングケアラーの実態
・「弟がいたから今の私がある」 ケアの経験を生かして
・“半径1メートル”で生きた10年 きょうだいと親のケアを担って
・「私がお母さんを守らなきゃ」親のケアで心に傷を抱えて
・男の子は9歳から介護を始めた ~「幼き介護」の現実~
・夢 諦める若者も「ヤングケアラー」
・知ってほしい「ヤングケアラー」のこと
・若くして介護を経験したキンタロー。さん ヤングケアラーへのメッセージ
・『ヤングケアラー』から届いた切実な声
・学校生活や将来の選択に影響も…「ヤングケアラー」をどう支える?
▼ヤングケアラーに関する調査
・高校生の25人に1人が『ヤングケアラー』 初調査で見えた実態
▼ヤングケアラーをどう支える?
・京都「ふうせんの会」 元ヤングケアラー”10年介護”の先に
・都会の“雪山”に生きて ヤングケアラーの子どもを支える

▼ヤングケアラーの相談・支援に関する情報
2021年5月時点で、ヤングケアラーの専門窓口を設置している自治体は数えるほどしかありません。厚生労働省のサイトでは、子どもや保護者などが相談できる窓口など、ヤングケアラーの概括的な支援情報についてまとめています。

▼厚生労働省「ヤングケアラーについて」(※NHKサイトを離れます)
https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer.html

ヤングケアラーの集いの場に参加したい
いま全国でヤングケアラーの当事者が集う会が立ち上がり始めています。オンラインでの参加を受け付けている団体もありますので、お住まいの地域で運営されている集いの場をご確認ください。

▼番組で紹介した「ふうせんの会」について
2ヶ月に1度程度、ヤングケアラーの経験者が悩みなどを話す会を開催しています。
ふうせんの会 (※NHKサイトを離れます)
ホームページ:https://peraichi.com/landing_pages/view/balloonyc/
問い合わせ:balloon.ys2020@gmail.com (ふうせんの会事務局)
Twitter:@yc_balloon

NHKでは今後もヤングケアラーについての取材を継続していく予定です。番組や記事に対する意見、あなたの体験談、取材してほしい内容などを下の「コメントする」からお寄せください。
みなさんの声を取材に生かし、「ヤングケアラー」を取り巻く状況の改善につなげていきたいと思っています。ぜひご協力をお願いいたします。

クロ現+
2021年5月10日

私は夢をあきらめた・・・ 外国籍ヤングケアラーの日常

家族の世話や介護をになう「ヤングケアラー」。その「ケア」には、日本語が苦手な家族のための「通訳」も含まれているのをご存じでしょうか。

先月、国が発表したヤングケアラーの全国調査によると、「父母のケアをしている」と答えた人の約12人に1人が、日本語などの通訳を担っている実態が明らかになっています。

大阪府に住むフィリピン出身のリンさん(20)は、日本語を上手く話せない母親と兄弟のために、通訳やアルバイトに追われてきました。その結果、通っていた外国語専門学校を中退せざるを得なくなり、英語の先生になる夢を諦めました。「悔しいですが、家族が大切なのでしかた無いです」―――外国から来た人と「ともに暮らす」ことがますます求められる中、外国籍のヤングケアラーをどうサポートすべきなのでしょうか。  

(大阪拠点放送局ディレクター 二村晃弘)


兄から「お姉ちゃん」と呼ばれて
4月、リンさんは兄のマイケルさん(22)の仕事探しの手伝いをするため、大阪外国人雇用サービスセンターを訪れていました。兄のマイケルさんは、2年前に来日したばかりで、まだ日本語をうまく話すことが出来ません。乗り換え案内や標識を参考にして町の中心部に出かけることも簡単ではなく、よく迷子になることがあると言います。


専用端末で仕事を探すリンさん(奥)と兄・マイケルさん(手前)


2人は専用端末で清掃業、機械のメンテナンス、ウィスキーの配送など、さまざまな希望職をピックアップし、カウンターに向かいました。しかし、担当者から「日本語の指示を聞き取ることは出来ますか?」と聞かれ、「兄は日本語が出来ません」とリンさんが答えると、マイケルさんが希望していた職業はみるみるうちに、はじかれていってしまいました。

担当者の質問は、続きます。「日本での職業経験はありますか?」「英語は話せますか?」「週に何日くらい働けますか?」リンさんはそのすべてに兄に代わって答えます。最終的に英語だけで業務を行うことができるアルバイトを紹介してもらうことができました。自動車の部品販売会社での仕事です。

翌日にマイケルさんの面接の約束を取り付けてもらい、リンさんはようやくほっとした表情を見せました。気づけばセンターに来てから、2時間が経過していました。

リンさん
「通訳は時間がかかるけど、お兄ちゃんが仕事、見つかるのがうれしいなと思う。お兄ちゃんは、私と一緒に日本語をしゃべろうとしたいけど、難しいから、私が助ける。家族より私のほうが日本語がわかるから、みんながやりたいことが出来たら、うれしいです。私のことより、家族のことが最初にしているから」

「面接が決まって、よかったですね」と兄のマイケルさんに声をかけると、マイケルさんは恥ずかしそうに「妹なのに、お姉ちゃんみたいです」と答えてくれました。


担当者への相談を終えた2人


家族が一緒に暮らすために
日本ケアラー連盟によると、「日本語が第一言語でない家族や障害のある家族のために通訳を行っている」場合もケアとして定義されると言います。

しかし、ひと口に「通訳」と言ってもその内容はさまざまです。近所づきあいの通訳から、行政手続きや不動産契約といった専門的な内容を含む話の通訳まで、多岐にわたります。また、外国籍のヤングケアラーの場合、家族だけでなく親戚の通訳を行うことも少なくありません。


来日した頃のリンさん


リンさんが来日したのは7年前の2014年。日本人の男性と再婚して日本に移住した母親の後を追って、日本へとやってきました。地域の中学校に1年生として通いはじめましたが、初めは日本語を全く理解することが出来ませんでした。

市役所から紹介された地元の国際交流センターの助けを借り、日本語の猛勉強を重ねた末、17歳の時に日本語能力試験のN1(最も難しいレベル)を取得することが出来ました。

リンさん
「『本当に私が受かったの?』と思って、うれしかった。日本語はとても難しいので、お母さんも喜んでくれました。初めは、日本の学校に行く自信なかったけど、学校に行く自信がつきました。」

当時リンさんは、母親とその再婚相手と3人で暮らしていましたが、2歳上の兄と2歳年下の弟はまだフィリピンの親戚の家で暮らしていました。

「兄弟と共に暮らしたい」―――
リンさんと母親は、義父に懇願します。しかし、さらに2人の兄弟を養えるほど収入が十分でなかった義父は「自分は扶養することが出来ない」と返すのみでした。

「金銭面、言語面など、生活の面倒まで見られるなら呼び寄せてもいいよ」
お母さんとリンさんはその条件を受け入れ、3年前に兄と弟を日本へと呼び寄せました。
そしてそれと同時に、リンさんが担う家族へのケアは増えていくことになりました。

病院、就職活動、保護者面談、すべて自分が通訳
まず、病院の診察に訪れるお母さんの付き添い。お母さんは持病があり、定期的な通院を行っていました。しかし、日本語が堪能ではなく、医師の話すことばも分からないため、リンさんが毎回付き添う必要がありました。

リンさんも、専門的な用語を完璧に理解できる訳ではありません。自分のことを信頼しきって話し続ける医者のことばを訳し続けるうち、リンさんは「不正確な情報を伝えているのではないか」と、常に不安を抱えなければなりませんでした。

リンさん
「私は日本語をしゃべれるけど、病院の先生が、すごく詳しく説明したら、そんな、難しい日本語まで、わかると言えないので、通訳してくれる人が、もっといてほしい。
先生が病気の説明をしたら、私がわかると思っているけど、間違えている気持ちがたまにあるので、こんな病気と説明したけど、間違えているかもしれないから不安なんです」

遅れて来日した兄弟への通訳も大きな問題でした。よかれと思って自分の勤めていたアルバイト先を兄弟に紹介したところ、来日したばかりの兄弟は上司の指示を理解することが出来ず、職場で不評を買ってしまいます。

リンさんは兄弟をサポートしようと必死に通訳を行いましたが、やがて自身の業務にも支障が出るようになりました。バイト先での評判は戻らず、最終的には3人とも同じ時期にバイトを辞めざるを得ませんでした。

また、日中働きに出ている母親の代わりに、弟の世話も担いました。とりわけ負担だったのは、保護者面談でした。リンさんが高校3年生の時、弟のケンさんは高校1年生。リンさんは、母親の代わりに学校の保護者面談に参加し、ケンさんの進路について先生と相談をしなければならなかったと言います。

リンさん
「お母さんが仕事で忙しくて、行くのができないから私が行っているだけです。でも、先生も、当たり前の感じ。『いいお姉ちゃんだね』と言われるけど、普通。当たり前の感じです」

家計のためにバイトを掛け持ち

高校時代のリンさん


家計を支えるためのアルバイトの負担も増えていきました。母親は工場に勤務していましたが、時給は1000円弱。兄弟の来日で大幅に増した支出に比べると稼ぎは十分とは言えず、リンさんも複数のバイトをせざるを得ませんでした。

リンさんが「一番しんどかった」と振り返るのは、高校3年生から専門学校1年生の時です。当時の1日のスケジュールを振り返ってもらいました。
高校3年時(当時19歳)のリンさんの1日

5:00  起床 学校の準備や宿題に加え、家族の朝食準備
6:00  兄弟を起こし朝食を食べさせる
6:30  隣市内の学校へと出発
8:00  学校へ到着
8:30  授業開始
15:00  下校
16:00  ファストフード店でバイト
21:00  勤務終了
21:30  コンビニエンスストアでバイト
24:30  勤務終了 自宅へ
25:00  帰宅
26:00  就寝

1年下の学年に編入していた経緯もあり、高校3年生時にはすでに18歳を超えていたリンさんは深夜にもアルバイトを行いました。平日はファストフード店とコンビニエンスストアの掛け持ち勤務、そして週末に時間があるときは地元の個人塾で英語を教え、月に10万から12万ほどの収入を家計の足しにしたと言います。

過重なスケジュールから睡眠時間も十分に取れず、授業中に意識が朦朧とすることもありました。

登下校の際、学校用のリュックのほかに、バイトの制服や、英語の教材をいれたかばんを両手いっぱいに抱えて歩き、友達から「どこに行くの?」と目を丸くされたこともありました。

リンさん
「自分の時間がないのが、しんどい。でも、家族を助けないと、みんなしんどくなる。だから、家族を助けてから、自分の時間。(負担感については)あまり考えていないのでわからないですけど、毎日やっていることはほぼ一緒。だから、慣れている」

この春、リンさんは夢をあきらめた
リンさんには、夢がありました。それは、日本で英語の先生になること。そのために、高校を卒業した後、英語を学ぶことの出来る外国語専門学校に通っていました。

地元の国際交流センターに相談し、就学支援団体から月14万6千円の奨学金を借り受けました。しかしその奨学金も、家族の食費や弟の学費へと消えていきました。

ことし2月、リンさんは通っている専門学校に退学届を出しました。2年生に進級する際に必要だった50万円の学費を払うことが出来なくなってしまったのです。弟や兄もリンさんの進学をサポートするため必死にバイトを探しましたが、日本語を話せないことがネックとなり、仕事を見つけることはできませんでした。

「あと1年で、卒業できていたのに」―――

リンさんは、今も悔しい気持ちを忘れることが出来ません。

リンさん
「私が全部、お金出す、できないから、辞めるしかない。英検の1級を持っていたけど、もっと英語、詳しく勉強したかったけれど、しかたない。私が家族のことを選んだときに、私は、両方ともやればできると思っていたから選びましたけど、退学したときに、夢は諦めた気持ち、あったけど、私より、私が、私の力がいる人がいるから、助ける」

リンさんは、4月から自動車の部品工場で仕事を始めています。学校に通えなくなったため、自分が働きに出ることで家族を経済的に支えたいと考えているからです。しかし、取材の最後に彼女がポツリと漏らした言葉を、忘れることが出来ません。

リンさん
「あの、たまに、フィリピンのことを思い出します。Facebookで友達が集まっている写真を見ると、『ああ、フィリピンに帰りたいな』『友達に会いたいな』と思うことがあります。日本を離れて、フィリピンに戻りたい、と思うときがあります」

外国籍のヤングケアラー どう支える?

家族のケア、主に通訳を担うことで自分の時間を奪われてしまう外国籍ヤングケアラーたちと、私たちはどう向き合うべきなのでしょうか。

ヤングケアラー研究が専門の大阪歯科大学の濱島淑惠教授は、「病院の診察や行政手続きなど、高い正確さが求められる場での通訳は、重大な事故につながる危険性もあり、責任の重みや緊張感は子どもにとって大きな負担になる」とした上で、次のように話しました。


濱島淑惠教授


大阪歯科大学・濱島淑惠教授
「外国からきた子どもたちや彼らの親への支援が十分ではなかったり、生活が非常に苦しかったりすると、やはり負担のしわ寄せが子どもたちにいき、子どもたちがケアを担うことに繋がります。

彼らは社会の一員として経済活動にも参加し支えているわけで、やはり社会が子どもを取り巻く環境も含めてサポートしていく必要があると思います。

外国籍の方への支援はまだ民間レベルが多い状況です。安定的な生活をサポートする制度はまだ非常に乏しく、社会としても『支えなければ』という意識はやはり低いように思います。

意識なきところに、制度は成り立ちません。外国人労働者数が年々増加していく中で、まずは彼らの存在を意識し、どう支えていけるかと私たちが考えていくことが重要だと思います」


外国籍のヤングケアラーたちは、生まれたときから日本に住んでいるケースもあれば、生後何年かたって来日するケースもあり、家庭環境や生育の状況はさまざまです。また「家族を支えるのは家族であるべき」とされる国や文化圏も多く、多文化共生の視点からも、「家族の助けになりたい」という子どもの気持ちを一律に否定することは出来ません。

一方で、やはり外国籍の子どもたちは、多言語や多文化への深い理解から、日本社会に多くのものをもたらしてくれる可能性を持っています。

ケアによって時間と労力が「奪われてしまう」と彼らが感じるのであれば、それを少しでも支え、和らげることで、自分たちの文化的背景や個性を生かしながら社会の中でより活躍できるのではないでしょうか。そして、今後様々なレベルで多様化を進める私たちの社会に、より豊かさを還元してくれるのではないでしょうか。

クロ現+
2021年4月23日

「弟がいたから今の私がある」 ケアの経験を生かして

ヤングケアラーの取材を続ける私たちに、ある女性が言いました。
「"ヤングケアラー"ってマイナスな側面ばかりじゃないと思うんです」。


そう話すのは、知的障害のある弟のケアを10年以上担ってきた清﨑鈴乃さん・21歳です。来年の春から福祉系NPOに就職予定の清﨑さんは、大学で臨床心理を学ぶ傍ら、ヤングケアラーが集える場を運営しています。在学中に取得した福祉関係の資格は、ホームヘルパーやガイドヘルパーなど4つ。「弟がいてくれたからこそ今の私があるんです」―――
ケアの経験を生かしながら活躍する彼女に、話を聞きました。   

(大阪拠点放送局ディレクター 二村晃弘)

「大丈夫、怖くないよ」弟の”情緒的ケア”
4月のある晴れた日曜、清﨑さんは弟とともに、大阪城公園を散歩していました。
弟の名前は陽斗(はると)君。3月に特別支援学校を卒業したばかりで、この春から作業所で働いています。

歩き始めて5分、陽斗君が突如足を止め、耳を塞ぎつぶきました。「赤ちゃん、CRY。怖いです」。周囲に耳を澄ますと、おぎゃあおぎゃあ、と遠くの方で幼児の泣き声が聞こえてきました。陽斗君は、泣き声におびえていたのです。清﨑さんは「大丈夫、大丈夫。怖くないよ」と陽斗君を優しく手でさすりながら、なだめます。


(左:おびえる陽斗君 右:清﨑鈴乃さん)


清﨑鈴乃さん
「家の中でも、テレビで赤ちゃんの泣き声が聞こえたり、CMでそういう演出があったりするだけでも、彼にとってはパニックになるポイントで。なだめたり、話を聞き続けたりみたいなことをずっとやっていますね」


(陽斗君)



これまで清﨑さんは、主に陽斗君の「情緒的ケア」を担ってきました。陽斗君がパニックになったり怒ったりしたときに、気持ちが落ち着くようなだめるなど、感情面のサポートを行ってきたのです。

相手の気分の浮き沈みに合わせ、根気よく寄り添い続けなければならない「情緒的ケア」は、大きな負担を伴います。とりわけ陽斗君は意思疎通を言葉で行うことが難しいため、より長時間のケアを必要としてきました。例えばこの日、陽斗君は「スポーツ飲料のようなさっぱりした飲み物が欲しい」と思っていましたが、清﨑さんに伝えることはできず、ようやくお金をもらうことで、自分で買うことが出来ました。

言葉によるコミュニケーションが取れない中、清﨑さんはこれまで、単語や身振り手振りで表現しようとする陽斗君を理解しようと努めてきたのです。

清﨑鈴乃さん
「いつ終わるかわからない戦いというか、こっちも言われ続けると、だんだん追い詰められてくるというか、私も私で、どうしたらいいかわからんし、私も私で追い詰められるし、パニックになるし・・・みたいな感じで、お互い気持ちの大変さがあるかなというのは思いますね」

小3から始めたケア

(子どもの頃の清﨑さん・陽斗君)



清﨑さんがケアを始めたのは、小学校3年生の時。3歳下の陽斗君が小学校に入学したのをきっかけに、登下校の付き添いを始めたことが始まりでした。やがて、一緒に手をつないで学校に行ったり、休み時間に支援学級での様子を見に行ったり、放課後、家族が帰ってくるまでに一緒にいてあげたり・・・と「お手伝い」として始まっていった陽斗君へのサポートを、当たり前のこととして受け入れていったと言います。

中学へと進学すると、ケアの負担は増していきました。まず、陽斗君の入浴介助。母子家庭だったため、母の帰りが遅くなるときは清﨑さんが陽斗君ともう1人の妹のために晩ご飯を作ることもありました。

陽斗君が成長し体が大きくなるにつれ、大変さを増していくケア。自分はこれから弟にどう向き合うべきなのだろうか――清﨑さんは相反する2つの感情の中で悩みを深めてきたと言います。

1つ目は「友達など周りの人にケアのことを重く伝えたくない」という思い。

清﨑鈴乃さん
「もちろん友達と一緒に遊べないとか、何かを制限されてしまうつらさはあったんですけど、やっぱり重く伝えちゃうと、初めて障害のある人と接する方たちに対しては、障害者のイメージがすごい重いものになっちゃうので、そうなってほしくはないなと」

そして2つ目は「それでも、ケアによって追いつめられてしまう日もある」という思い。

清﨑鈴乃さん
「家の中にいると、常に弟のことを気にしていけないので気が休まる時間がなくて。例えば、弟の気持ちが高ぶってしまったときに、これがずっと続くと思うと『これからどうやって向き合っていこう』と悩んだりとか…。そんな時、家の中が張り詰めるような感じがつらかったです」

「ケアラーとしての私も私!」
ケアへの向き合い方を悩んできた清﨑さん。しかし清﨑さんには、家族という強力な味方がいました。清﨑さんは、お母さんと陽斗君、そして妹との4人家族。中でもお母さんは常に「好きなことをやったらいい」と言い続けてくれました。中学、高校へと進学する中でも、お母さんや妹と陽斗君のケアを分担することで、毎日練習がある部活にも参加できたのです。

清﨑鈴乃さん
「私の場合は、本当に家族が献身的に私のサポートもしてくれて。本当に好きなことをやったらいいよとずっと言い続けてくれていたので。ケアを一人で抱え込んだり、ケアがあるから何かに挑めなかったり、ということはなかったんです。本当にありがたかったなと思います」

また、周りの友達や学校の先生も良き相談相手となってくれました。例えば、清﨑さんが陽斗君のケアで胸がいっぱいになってしまった時、周囲の人たちはアドバイスするのではなく、ただただ話を聞いてくれたのだと言います。そんなとき、清﨑さんはため込んでいた悩みを吐き出すことが出来ました。

清﨑鈴乃さん
「『そんなことがあったんやね』とか。『泣いてもええんやで』とか。やっぱりため込んで、ため込んでたものが爆発したときに、受け止めて、話を聞いてくれたことが本当にうれしかったんですね。本当に周りの人には恵まれてきたと思います」

福祉の道へと進路を決定したのは、高校3年生の時。受験勉強も始まって将来と真剣に向き合うようになり、これまで行ってきたケアの経験を生かせる学部や職業に進むことを決意したのです。その決意は、家族や周囲の友達や先生たちとの関係性の中で、「ケアラーとしての私も私なんだ」と、自分の経験を肯定することができたからこそなしえたものでした。

清﨑鈴乃さん
「『サッカーが好きなあなたもあなた』だし、『弟をケアしているあなたもあなた』だしと、周りに「私」という人間をいろんな面を含めて知ろうとしてくれる人たちがいたことが大きかったです。自分はヤングケアラーとして得たものも多いと思っていて。例えば『私は障害のある方がいないご家庭の方では経験できないような経験を私はしている』、『誰かのために何かするという経験を幼いころからできるって、めったにない経験だったな』って。家族や友達、先生との関係性の中で、自分の経験をポジティブに捉えたり、プラスな面に目を向けられたりするようになっていったのかなと思います」

多様なヤングケアラーたちの姿

(「かるがも」の集まりを開催)



いま、清﨑さんは大学で発達障害や特別支援について学習する傍ら、学外でもさまざまな活動を行っています。その一つが、自身が主催している「かるがも」。「かるがも」は、清﨑さんが同じく障害のある兄弟姉妹を持つ同世代の若者たちが気軽に集まれる場所を目指して作った会です。取り組みの根底には「弟がくれた自分の強みを生かしたい」という思いがありました。

清﨑鈴乃さん
「私のなかでは弟はすごく特別な存在かなと思っていて、やっぱり彼がいたからこそ、私は障害福祉に関心が向いたわけですし、やっぱり彼がいなかったら、今の私も、今の私の人生もなかったと思うので。本当に私しか歩めない人生を生かしていきたいなと考えて、まずは自分と同世代で似た境遇を持つ人たちが気軽に集まれる場所を作れたらいいなと」



大学生・大学院生が6人参加したこの日の主なテーマは「進路とケア」。大学卒業後、自分たちのやりたいことと、兄弟のケアとの間で、どう進路を決定していくべきか議論が交わされました。会の中盤、就職活動を行っているという参加者が「自分の進路選択は、ケアしている兄弟の存在に影響されているんじゃないかと悩んでいる」と吐露したときに、清﨑さんが背中を押すように答えていた言葉が印象的でした。

清﨑鈴乃さん
「自分たちは障害のある兄弟に影響されてるし、逆に障害のある兄弟もきっと自分たちから影響されているんやろうなって思います。普通の兄弟もそうだと思うんですけど。でも、全てのものって何かの関係性の上に成り立っているから、自分の意見がその関係性の上で成り立っているんだったら、きっと本心と言ってあげていいんじゃないかな」

ケアにまつわる話から日常の話まで、様々なことについて気軽に話すことが出来る「かるがも」は、いま関西圏外からも参加者が絶えないと言います。この日参加者は、時に笑い、時に真剣な表情で、2時間にわたって語り合いました。 ヤングケアラーたちが気軽に集まり、そして願わくは互いの長所を引き出せるような場所を作りたい――清﨑さんは、これからもこうした活動を続けていきたいと考えています。

清﨑鈴乃さん
「もちろんヤングケアラーはマイナスな面もあって、それは無視できないことだと思います。でも逆に人によっては得たものもある人もいると思うので、それを引き出してあげることは、自分がしてきたことは正しかったんだと、自分の肯定にもつながると思いますし、そういったことも発信できていったらいいなと思います」


(清﨑鈴乃さん)



会の後、清﨑さんにこんな質問をしてみました。「いま、国の調査も行われ、ヤングケアラーの負担や将来への影響などが注目されていますが、率直にどう思いますか?」。すると清﨑さんは、こう答えてくれました。

清﨑鈴乃さん
「『そんなしんどい面ばかり切り取らなくても…』とは思います。ヤングケアラーといっても、兄弟のケアをしている人もいれば、親御さんのケアをしている人もいたり、おじいちゃんおばあちゃんのケアをしている人もいたり…といろんなケアラーがいますし、逆にヤングケアラーではあるけど、別に今しんどい思いはしていない人もなかにはいるわけで。いろんなケアラーがいろんなことを感じながら、いろんなケアをしているので、ある側面で語れるものではないですし、もう少しその裏にある多様性にもフォーカスを当てて伝えてほしいし、私自身もヤングケアラーのいろんな面を発信していけたら、と思っています」


「ケアは大変だ」という話を聞く機会が多かったこれまでの取材。しかし今回の取材では、清﨑さんが自身のケア経験をポジティブに捉え、それを生かそうと活動している姿が、とても印象的でした。当たり前のことかもしれませんが、ヤングケアラーの在り方も多様でケアの経験をどう受け取るかは人それぞれなのだと、教えてもらったような気がしました。

また、「家族とケアを分担できたり、ケアの悩みを周りの人と共有できたりしたことが『ケア経験を生かしたい』と思えるようになったきっかけだ」と話していたことも、大きな意味を持つように思いました。その言葉は、「ヤングケアラーと同じ社会に生きるものとして、私たちが何をできるか」という問いに対しての、大きなヒントとなる気がするからです。

誰しもにケアする・される機会が訪れ得るこの社会で、負担や辛さを一人きりで抱え込むのはきっと苦しいものです。他人の痛みを少しでも分かち合えるような、理解したいと歩み寄れるような、そんな社会の一員になりたいと、思いを強めた取材でした。

クロ現+
2021年4月16日

京都「ふうせんの会」 元ヤングケアラー”10年介護”の先に

「現役のヤングケアラーであっても、元のヤングケアラーであっても、居場所であったり、社会との接点であったりを作る場所が必要だと思います」

京都市内の喫茶店で出会ったその男性は、静かにそう語りました。朝田健太さん、34才。2019年の暮れ、ヤングケアラーたちが集う場として「ふうせんの会」を立ち上げました。きっちりとアイロンがかけられたシャツ、物静かで、実直な眼差し、清潔感の溢れるそのたたずまいからは、若き日にケアラーとして苦しんでいたことを想像することもできません。10年に及ぶ壮絶な介護経験を糧に支援団体を立ち上げた朝田さん、今はまだ小さくとも、その視線はヤングケアラー同士がつながり支え合う、そんな未来を見据えていました。
「静かなる挑戦者」の思いに耳を傾けました。

(大阪拠点放送局 ディレクター 田中雄一)

突如始まった祖父の介護
朝田さんが祖父の異変に気付いたのは、大学4年生、22才の時でした。

「助けてくれ!」、夜中に祖父の叫び声を聞き、部屋に向かった朝田さんに、祖父は「(家の中に)熊がいる」と言い放ったと言います。認知症を患う祖父の幻覚… それがその後10年に及ぶ介護の始まりでした。

朝田さんは幼い頃に交通事故で父親を亡くし、祖父と同居を始めました。祖父の認知症が発覚した後、母親と共に介護を担ってきましたが、次第にその負担は朝田さんに重くのしかかるようになりました。

朝田さんはディサービスへの送り迎えはもちろん、毎日のように深夜に外出しようとする祖父を引き留めてきました。祖父のケアのために朝田さん自身の生活も昼夜逆転するようになっていきます。

朝田健太さん
「夜中に祖父が玄関から外に出ようとするので、『時間がまだ早いから寝ていたらいい』ということを言ったりとか、『自分の家がどこかわからない』と言うので『ここが自分の家なんだ』ということを話したり。一番大変なときは、ひと晩に3回、4回、そういうことがほぼ毎日のように起こっていましたので、かなり心身ともに疲労はしていました。常に疲れが取れなかったり、自分自身の生活を前に進めるような意欲がなくなったりとか、そんな感じです」

研究の夢を断念
祖父の介護が始まった頃、朝田さんは大学4年生、卒業後は大学院への進学を決めていました。明治大正期の歴史史料に興味を持ち、その分野で研究を深めていきたいと考えていました。

しかし、祖父の介護に追われる日々の中では、勉学ははかどりませんでした。夜間の祖父のケアで消耗し、歴史学の難しい資料を読みこなす時間も気力も持てませんでした。大学院でのゼミの発表も滞りがちになり、周囲から信頼を得られなくなっていきました。

朝田健太さん
「大学院は毎週のように発表があるんですけども、その発表準備がなかなか介護でできなくて、代わってもらったりとかいろいろ調整はするんですけども、そのうち『またか』『いい加減にしろ』ということになってしまって。『研究は研究』『家のことは家のこと』というところで、そういう話を言われましたね。『大変やけど頑張れ』とか、『君がやらなくてもいいんじゃないか』ということを言われてしまいまして、そう言われてしまうと、『そうですよね』くらいしか言えなくなってくるので。周りに相談できる環境ではなかったなと思っています」

(学生時代は誰にも語れず孤独だった)


結局、朝田さんは3年で大学院の退学を余儀なくされました。その後は自宅にこもりがちになり、ひとり黙々と祖父の介護を担い続けたのです。

たまに同級生たちと顔を合わせても、介護の日々の中で共通の話題を見いだせません。孤立を深め、社会との接点を見出せなくなっていきました。

朝田健太さん
「同窓会とかに行っても、『結婚した』とか『仕事で昇進した』とか『どこかに旅行に行った』とか、そんな話が出てきますので、じゃあ振り返って自分は何をしていたんだろうと思うと、介護しかしていないなと。なかなかポジティブな話が見つけられないので、どんどんしんどくなっていくような印象がありました。予定表が真っ白になっていくのも辛かったですね。そういう予定表を見ていると、自分と社会との接点が少なくなっていると感じて、悲しいなと思っていました。なんで自分だけこんなことになっているんだろうとか、いつまでこの状態が続くのかなと」
空白の履歴書 自分の居場所はどこに?
大学院退学から1年後、朝田さんは祖父の介護を続けながら、行政が企画した若者の雇用促進事業に応募するなど、就職活動を開始しました。しかし、履歴書に書けることがほとんどないことに気付きます。朝田さん自身も祖父の介護は“家のお手伝い”程度に考え、その経験を社会でどう生かせば良いのか分かりませんでした。

その後、朝田さんはスーパーの店員などの仕事を転々とします。介護の経験を生かし、社会福祉士としての道を歩み始めたのは、ようやく4年前、年齢は30才を超えていました。

朝田健太さん
「自分なりのこのキャリアというのを見つけるのに、かなり回り道をしたような印象はあります。祖父の介護の経験を、社会に生かして生活していきたいなとは思っていたんですけども、どうすればその道にたどり着けるかというのはわからないことがありまして、自分なりにかなり回り道をしたなと思っています」

風船のように それぞれの色で…

(ふうせんの会 オンライン集会の様子)


朝田さんが若いケアラーのための会を立ち上げようと考え始めたのは、京都市内の男性介護者の会に参加するようになったことがきっかけです。朝田さんは介護の悩みや不安を互いに語り合う場に出会えたことで、ようやく自分の居場所を見つけられたようにも感じていました。

ただ、参加者の多くは60代、70代の年配の男性たち。メンバーの中でも、明らかに若い朝田さんは介護の勉強をしている学生と間違われることもあったと言います。

朝田さんは時が経つにつれて、次第に世代間のギャップも感じ始め、若いケアラー特有の悩みを語り合う場も必要だと感じるようになっていきます。

朝田健太さん
「男性介護者の会では『年金をどう使う』とか『早期退職制度が』という話が出てきますが、自分は今から社会人としてなんとかキャリアを作っていかないと、という時期でもありました。そういう若者特有の悩みには、なかなかマッチしないところがあったのかなと思っています。そういう意味では、若い人の悩みに答えられるような場が必要かなと思いましたし、もっと若い方だけが集まれる場が各地に増えたらいいなと考えました」


(オンライン集会で悩みを語り合う)


若いケアラー同士がつながり、悩みを語り合う場を作りたい—。

朝田さんは同じ境遇にあった仲間と共に一昨年の暮れ、「ふうせんの会」を立ち上げました。会の名称はLINEでやりとりする中で「適当に決まった」と言いますが、朝田さんはそこに特別な思いを寄せています。

会には朝田さんのように認知症の祖父の介護を担った人もいれば、精神疾患を患う母に寄り添い続ける人、障害のある弟のケアを担い続けた人もいます。同じヤングケアラーでもそれぞれに特色があり、それぞれに異なる悩みや苦しみを抱えていました。それはまるで色とりどりの「ふうせん」のようだと朝田さんは考えています。

その「ふうせん」がひとつにまとまれば空も飛べるかもしれない。たとえ、まとまらなくとも、それぞれが自由にはばたいてほしい。そのための足場に「ふうせんの会」がなってほしいと朝田さんは願っています。

朝田健太さん
「やっぱりほっとできる場所でもあってほしいですし、自分の考えを整理できる場でもあってほしいなと思います。介護者は自分だけではないんだというふうに気づいていただけるような場にもなると思いますし、ほかの人であればどのように自分の人生を立て直していったのかなとか、こうすれば介護と自分の生活がうまく回るんだというアイデアやヒントを得られる場がもっとあったらいいのかなと。同じ介護者の立場で問題というか、悩みを共有して、考えを整理できて、一歩でも前に進めるような機会になっていけばいいかなと思っています」

今、1人また1人と、若いケアラーが「ふうせんの会」に集い始めています。二ヶ月に一度の小さな集まりですが、悩みを互いに語り合い、時には笑い声もあがる温かな会です。朝田さんが仲間と共に生み出したケアラー同士の繋がりが、その未来の風景を、静かに、そして着実に変えていくように思えます。


ふうせんの会
ホームページ:https://peraichi.com/landing_pages/view/balloonyc/
問い合わせ:balloon.ys2020@gmail.com (ふうせんの会事務局)
Twitter:@yc_balloon
クロ現+
2021年4月12日

都会の“雪山”に生きて

「介護も育児も“家族の責任”という風潮ですよね。それがもう小さな子どもにまで染み通っている。だからヤングケアラーは『自分が辛い』と言わないし、言っちゃ駄目だと思っている」

取材中もいつも笑顔を絶やすことのないその女性が語気を強めてこう語りました。兵庫県尼崎市のスクールソーシャルワーカー、黒光さおりさんです。現在市内5つの小中学校を受け持ち、ヤングケアラーの支援に力を注いでいます。本来であれば大人が担うような重いケアを引き受ける子どもたちもいますが、過酷な環境の中でも自ら声を上げることは少なく、その存在は社会に埋もれたままです。家族が社会から孤立して”都会の雪山”のような状態になり、外からはまったく様子がわからないケースもあります。

実は黒光さん自身も、幼い頃から母親のケアを担ってきました。1人でも多くの子どもたちとつながり力になりたいと、悩み葛藤しながら前を向いて歩み続ける、黒光さんの日々を見つめました。

(大阪拠点放送局 ディレクター 田中雄一)


子どもたちの些細なサインも見逃さない

(校内の掲示物をチェックする黒光さん)


黒光さんの取材が始まったのは今年2月のことでした。カメラを構え、校内の見回りに同行すると、黒光さんは次々と“何か”を発見していきます。「お、ちょっと待てよ、これなんや」。足を止めたのは、校内の掲示板の前。張り出された子どもたちの作文のひとつが気になったようです。

「なんか、キーってなってるでしょ?心の中もワー、キーってなってるのかなって」。そう言われて、じっくり見ると、たしかに文字が荒れ、乱雑に書き殴られたように見えます。子どもたちの持ち物、上靴、服装など、黒光さんは子どもたちの些細な変化に気を配り、その“サイン”に気付こうとしています。

不登校やいじめなど、家庭環境に様々な課題を抱える子どもたちに対応するスクールソーシャルワーカー(以下、SSW)。教員と違い、複数校を掛け持つSSWは学校ではいわば“異質”な存在です。そうした中でも黒光さんは、「最近どうよ」「元気?」と子どもたちに気さくに声をかけ信頼関係を築いてきました。


(子どもたちとトランプで遊び心をほぐす)


黒光さんがいつも持ち歩いている「7つ道具」を見せてくれました。喋る犬の人形、猿の積み木、折り紙、本、トランプ、UNO、百人一首。子どもたちの気を引くということではなく、一緒に遊びながら心をほぐし、話を聞いていくのだといいます。

遊びの中で子どもがぽろりと漏らす本音を決して見逃さない。黒光さんは自らSOSを発信することのない子どもたちと関係を築きながら、ヤングケアラーの早期発見に努めてきました。

黒光さおりさん
「ヤングケアラーを一番早く発見したり、一番近くで支援できるのは学校なんですね。なので、学校で早く見つけてサポートしていかなければいけないのですが、ヤングケアラーの子どもはしっかり元気に明るく振る舞う子が多いんですね。外からは、それが分からないから、不登校、対人トラブルなど違う形で、問題が上がってくるヤングケアラーもいます。

本当はヤングケアラーとしてのしんどさが根本にあって、不登校が出てきたり、対人トラブルが起きているのですが、なかなか学校では気がつきにくい。そこを、SSWが早く見つけて、担任の先生に『この子のしんどさは表面に見えているやつではなくて本当はおうちで担っているその役割なんですよ』と気付いてもらうのが、大事な仕事かなと思っています」
関係機関へ猛プッシュ
ヤングケアラーの存在に気付いた後、どう支援につなげるのかにも黒光さんは力を注いでいます。黒光さんは大学卒業後、社会福祉士の資格を取り、生活保護のソーシャルワーカーとして15年近く働いてきました。その経験を生かしながら、子どもたちの負担を軽減するための取り組みを続けています。

現行の法制度の中では、ヤングケアラーそのものを支援する公的なメニューは存在しません。そのため子どもたちへの支援は、あくまで「側面支援」にとどまります。例えば、祖父母の介護を行う子どもには介護保険制度のメニューを充実させることで、結果的に子どもの負担を軽減します。また病気や障害のある親を持つ子どもには、親に生活支援を行うことで間接的に子どもの負荷を減らしていきます。


(生活保護申請の窓口を訪ねる)


黒光さんは連日文書を提出するなど、関係機関を動かそうと努力を続けています。今年3月には、尼崎市の保健福祉センターを直接訪問、ある女生徒の母親を生活保護へとつなげました。母親は体調を崩し生活に困窮、別れた夫からDVを受けるなど、精神的にも疲弊し、家事を子どもに頼るようになっていたといいます。

女生徒は幼い弟の世話も母親に代わって担い、学校も休みがちになっていました。黒光さんは母親を生活保護につなげ、生活を安定させることで、子どもの負担を減らそうと考えていました。

黒光さおりさん
「例えば高齢のおばあちゃんの介護を子どもが担っている場合は、その子が進路や将来に向けてちゃんと取り組めたり、部活や友達関係も楽しめるという環境に持って行くことが大事だなと思っているので、高齢者福祉のケアマネジャーさんと連携して、少しでもケアをその子にとって楽な形に持っていくということを考えたりします。

お母さんが精神疾患を患っているパターンもよくあるんですけど、お母さんを支援団体につないで、デイケアにつなぐことで日中の負担を減らしたり、訪問看護に来てお母さんの話を聞いてもらうことで、その子のケアの時間を減らすことができるとか、そういう形で様々な関係機関と連携してケアをみんなで負担していこうとしています」
立ちはだかる家庭介入の壁
しかし、実際に支援に結びつくケースは多くはありません。黒光さんは学校関係者に加え、子ども家庭センター(児童相談所)や、市の担当部署も巻き込み、頻繁にカンファレンスを行っていますが、大きな課題もあります。それは“家庭にどう介入するか”です。


(カンファレンスの様子)


黒光さんが今気にかけているのが、ある小学校高学年の女の子のケースです。ケアの負担が重く、学校にもほとんど来れなくなっていました。

母親は仕事をしていますが、体力的にも精神的にも追い込まれ、家事のほとんどをその女の子が担うようになっていました。まだ幼い弟の世話も女の子が行っており、その負担は日に日に大きくなっていると、この日、黒光さんは警鐘をならしました。黒光さんは地域のイベントにその子を度々誘い出していて、早くからその変化に気付いていました。

黒光さおりさん(カンファレンスにて)
「実は家事の量が半端なく増えています。この前、一緒に楽しく遊ぶ地域の催しに連れて行ったときも、楽しいのに時計をずっと気にしていて、『なんでそんな気にしているの?』というと、『家に帰ってご飯つくらなあかん』と。

どうしても『ご飯ご飯』と思って帰らなければいけないというのは、家の負担はすごい大きいのかなと思いました。このままだったら、家事をしなければいけないから家にいる、家にいるから家事をしなければいけないという悪いループに入ってしまいます。彼女が進路のことや、社会参加のことを考えられなくなるのかなと思って気にしています」

明らかなネグレクトや虐待の兆候はなく、子ども家庭センターが即座に介入できるケースではありません。また、母親と学校との関係も思わしくないため、今後の対応は、担当者同士で認識を共有し、引き続き注視していくことにとどまりました。


(児童の自宅を訪問)


黒光さんは女の子を少しでも外に連れ出そうと、カンファレンスの後、自宅を訪問しました。しかし、児童は顔を出したものの、話ができたのはわずか数十秒、家の中の様子を伺うこともできませんでした。黒光さんは家族との信頼関係を築くために、一軒一軒に手紙を書き続けていますが、家の事情を知られることをヤングケアラー自身が嫌うケースも多く、支援につなげるのは容易ではありません。

黒光さおりさん
「おうちへの介入は本当に難しいです。困っている状況を人に知られるのは誰にとってもつらいものなので、すごくデリケートな部分だと思います。ヤングケアラーである子ども自身も、家族が大切で大好きだと思っているので、自分が家族のために苦しんでいるということを見せたくないんですね。

なので、たとえこっちが何かできることはないかなと思っていても、“困り感”を簡単には出してくれないというところはあるなと思います。それはご家族も同じです。特にお母さんは自分にできないということを恥ずかしいと思っていらっしゃるので、なかなか支援につなげるのが難しい」
たとえ成功しても…
うまく支援に繋がったケースでも、本当にそれで良かったのか、黒光さんは葛藤を抱えていました。病気の母親に代わり、幼い兄弟のケアを担っていたある児童のケースです。まだ小学高学年の児童には、兄弟の世話は明らかに手に余り、食事も充分に取れない厳しい環境で暮らしていました。

黒光さんは長い時間をかけて、何度も家庭訪問を続け、関係を築いてきます。時には兄弟の生活サポートを直接担うなど距離を縮めていきました。ただ、本人はようやく学校の始業式には顔を出したものの、それ以降は、不登校が続いていました。

黒光さんは子どもたちの置かれた家庭の状況を学校関係者と集約しました。それを受け、市の担当課は子ども家庭センターに介入を要請、兄弟は児童福祉施設で一時保護されることになりました。

兄弟のケアから解放され、本人の負担はたしかに劇的に改善しました。しかし、その一方で、兄弟と引き離されたことにショックを受け、心に深い傷を負いました。今も心のどこかで憎しみを抱え、大人への強い不信感を抱いているといいます。また、これまで家庭で担ってきた兄弟の世話という役割を失ったことで、“ケアロス”、喪失感も抱えるようになりました。

今もその子は学校に来られないまま、目的を失ったかのような暮らしを続けています。黒光さんとの関係も一時は途絶え、連絡がつかないこともありました。


(悩みながら1つ1つのケースに向き合う)


黒光さおりさん
「引き離すのはすごくつらいですね。ほんまにつらいです。兄弟がいなくなったときのケアの穴がぽこんと開いちゃったんですよね。大人たちはこれで楽になっただろうという判断をするんですけど、その子にとっては穴が開いたまんま、たぶんそこから血が噴き出ているみたいな感じの状態で、楽になったという感じじゃないんですよね。

ケアをなくすとか、ケアをうんと減らすとかではなくて、その子が自分らしくいられる程度に、うまくケアを調節するという視点がめちゃくちゃ大事やと思います」
自身もヤングケアラー
取材を続けること2か月、黒光さんは私たちに自身の体験を打ち明けてくれました。黒光さんもまた過酷なケアの経験を持つヤングケアラーでした。

それは黒光さんが小学高学年の頃でした。「今で言う鬱病のようなものだった」と黒光さんは振り返りますが、母親の精神状態が急に不安定になりました。調子が悪い時は、母親は1日中寝込み、まだ小学生の黒光さんに「死にたい、死にたい」と言い続けました。黒光さんは「死なんといて、死なんといて」と2時間でも3時間でも母親をなだめ続けました。それは、まだ幼かった黒光さんにとって、あまりにも重い打撃でした。

黒光さおりさん
「あれは不思議な感覚で、なぜか、自分も消えてしまいたいとか死んでしまいたいという気持ちになってしまうんですね。カプセルの中にはまったみたいで、自分の考え方とか自分の生き方が見えなくなります。『自分も消えてしまいたい』『死にたい』とすごく思っていましたね。だから、話を聞いた後はすごくふらっふらになる。話を2~3時間聞いただけやのに、ふらふらしながら街を歩いていたなという記憶があります」

中学生になると、家事の負担も黒光さんにのしかかってきました。今から20年以上前、長時間労働がまだまだ当たり前の社会の中で、父親は仕事に手一杯、帰りも遅かったと言います。誰にも助けを求められない中、夕飯や学校のお弁当の準備など、ほぼ全てを黒光さんが担うようになっていきます。

黒光さおりさん
「それはまあ、つらかったです。料理の仕方もあんまり…卵焼きとかチャーハンとかそんなんは分かっていましたけど、晩ご飯とかお弁当となると、すごく私にはハードルが高くて。ほんとに中学のお弁当は悩みの種だったです。料理はなんとかして詰め終わっても、台所がぐちゃぐちゃになっていて、収拾がつかないという感じで。買い物する、作る、片付けるというのだけで、たぶん、最初のうちは2~3時間かかっとったかなと思います」

遊ぶ時間もないまま、同級生との人間関係も築けず、学校ではいじめにあいました。『良い子であろう』と先生に近づく黒光さんの存在はクラスで白い目にさらされました。

中学3年になると、ようやく信頼できる担任に出会い、黒光さんはその胸の内を少しずつ吐露できるようになりました。今も大切に残している学校の生活ノートには「今日も昨日と同じくしんどいよー」「朝から晩まで家事だよーん」と当時の心境が綴られています。

先生からは赤いペン字で「大変だな」「頑張れ」と一言だけ。ただ、家庭の事情に深入りしない、その温かい配慮が黒光さんには逆に嬉しかったと言います。

黒光さおりさん
「逆に、あまり突っ込まれたら、たぶん、私は引っ込んでいたと思うんです。もし先生が『ちょっと待って、それって問題じゃないの?』みたいになったときには、『いえいえ、もうけっこうです』となっていたと思うので、これでちょうどよかった、そのころの私には。ただ、ここで本音を出せるということは、たぶん信じられないくらい大きな力になっていたと思います」

人生との転機となったのは、その頃、学校の図書室で出会った一冊の本でした。『社会福祉主事になるには』と題されたその本に黒光さんは衝撃を受けます。

黒光さおりさん
「何かなと思って手にとって、ぱらぱらと読んだ瞬間に、『うわあ、これ私の仕事や』と思いました。家庭訪問して、困っている人の話を直接聞いて、プランを練っていくという仕事の様子が書かれていたんですけど、『もう私はこれしかない』と、めっちゃ思ったんです。家でずっとしてきたことでもあるし。もう絶対、この仕事は私の仕事やねんと思ったんです」


(黒光さんが中学時代に書いたノート)



当時の生活ノートには「私は将来社会福祉主事になります」「だから一生懸命勉強するんです」とその決意が書かれていました。優等生と思われるとクラスでいじめの対象になると考え、一時は学業を放棄していた黒光さんですが、その時から、一心不乱に勉強に励むようになりました。高校卒業後は大学へ進学、社会福祉士の資格を取りました。
子どもにも母親にも寄り添いたい
大学卒業後、黒光さんは神戸市に就職し、生活保護の現場で15年間働きました。困難を抱える受給者から怒鳴られたり、激しく詰め寄られるなど、様々な苦難もありましたが、それでも、誰かのために役立つその仕事は「楽しかった」と言います。働きながら結婚もし、3人の男の子にも恵まれました。

その一方で、いつかかなえたいこともありました。それは厳しい環境にいる子どもを助けたいという思いでした。そして、子どもだけでなく、「苦しんでいるお母さんをサポートしたい」と強く願っていました。


(校内を見回る黒光さん)


生活保護の仕事を辞め、保育園で保育士として働いた後、4年前から黒光さんは兵庫県の自治体でスクールソーシャルワーカー(SSW)として働き始めました。自らの苦しかった経験を胸に、黒光さんがいつも母親たちに語りかけていることがあります。

黒光さおりさん
「本当にお母さんの気持ちを分かっているわけじゃないけど、『ほんとに分かりたいと思っているんです』ということだけは、いつもお伝えしています。私の経験は1個しかないですから、私には分からないことが山ほどあって、『何も分かってあげられへんな』とはいつも思います。それがちょっと苦しいなと。でも、『分かりたい』という気持ちだけは伝え続けています」
都会の“雪山”で生きる
取材の度に、黒光さんが口にするのが「家族の孤立」です。黒光さんは数年前に出会ったある家族のことを私たちに打ち明けてくれました。それは母親と子ども2人の3人家族、集合住宅に暮らしながら、社会とも近隣ともつながりが完全に途絶えた中で生きていたと言います。

電気も通っていないその部屋に黒光さんは半年間、何度も何度も通い、家族とつながろうとしてきました。通い続けると、少しずつ少しずつ扉が開いていきます。ドアの隙間から最初は小さな指が見え、やがて子どもが顔を見せるようになりました。そして、次は母親が顔を出すようになります。

半年後、ようやく玄関に入ると、そこはゴミで覆われた世界でした。子どもたちの遊び道具もゴミでした。飲み物さえなく、子どもたちは黒光さんの水筒のお茶を一気に飲み干しました。母親も孤独、子どもも孤独でした。黒光さんはその孤絶した世界を「雪山にとざされた空間」と表現しました。

黒光さおりさん
「普通の、いっぱい人が住んでいる集合住宅の一室やから、山奥でもなんでもないんですけど、そこに入ったら、とんでもない雪山の中に入ったみたいな、孤独感がすごくあります。そこだけが雪山に閉ざされたみたいな空間になっていて。ほんとに、お母さんも子どもも完全に独りぼっちという感じ。ほんとに言い尽くせない、居るだけで涙が出そうなぐらいつらい場所でした」


(子ども食堂で活動する黒光さん)


黒光さんが「必ず伝えて欲しい」と私たちに言い続けていることがあります。それは「いずれ誰もがケアを受け、ケアを担う」ということです。

「ケアを受けること」「ケアをすること」、それは「決して恥ずかしがったり、隠したりすることではない」と黒光さんは言います。「ケアに関わる人」と「そうでない人」、私たちの社会は知らず知らずのうちに線引きし、誰かを孤独へと追い込んできたのかもしれません。黒光さんはこう強調します。

「ケアは本当はみんなで考え、みんなで担うものだと思っています」

ヤングケアラーの問題があぶり出す私たちの社会のひずみ。その課題は大きく、もちろん黒光さんひとりで担いきれるものではありません。ただ、分断と孤立が進むこの社会の中で、子どもや家族に寄り添い、伴走しようとひたむきに努力するその姿に、ささやかな希望の光を見たようにも感じます。

私は前回、精神疾患が疑われる母親をケアしてきた琴愛さんの記事を書き、そのまとめに「社会が今一度立ち止まり、そのあり方を考えるときが来ている」と結びました。いま、この黒光さんの記事を終えるにあたり、同じ結論へとたどり着こうとしています。私たちの社会は他者に寛容であるでしょうか。人と人との違いを、病や苦しみを認め合える社会でしょうか。メディアで働く者として、自戒を込めながら、この問題を考え続けていきたいと思います。
2021年4月2日

“半径1メートル” で生きた10年

「毎日、自分が生きるのと周りを生かすのとで精一杯でした」

12歳の弟をあやしながら、絵本の唄を情緒豊かに口ずさむ女性。その手慣れた様子は、長い年月にわたってケアを行ってきた事実を、何よりも雄弁に語っているようでした。女性の名前は、上野千草さん (29)。高校生の頃から10年以上、ダウン症の弟やうつ病を患う母親のケアを続け、大学卒業後はバーや居酒屋など、家族のケアが終わった夜間に働ける職を転々としてきました。

昨年ようやく母の健康状態が回復し、ケアの負担を分担し始めたことで初めて手にした「自分の時間」。充実感をもつ一方で、これまで家族にささげてきた膨大な時間に時折「ふと思いがこみ上げてくる」と、複雑な胸の内を私たちに語ってくれました

(大阪拠点放送局ディレクター 二村晃弘)

「母親のような17歳」と言われて

(左が千草さん 右がげんき君)


千草さんが家族のケアを始めたのは、高校2年生の時です。うつ病の症状に苦しむ母親に代わり、同じ年に生まれたダウン症の弟・げんき君の育児やデイサービスの送り迎えを手伝い始めたことがきっかけでした。

未成年の出産をテーマにするテレビドラマ『14歳の母』が流行していた当時、げんき君のケアをする様子を見て、友達からからかい混じりに『あんたもドラマの子みたいな感じになったん?』と声をかけられたこともあったと言います。

周りが親子に見間違えるほど、千草さんが行っていたケアは大変なものでした。まず母親の着替えや荷物を準備し、合併症を患っていたげんき君の手術・診察に同伴。病院は遠く、往復で2時間以上かかりました。その傍ら、当時未就学児だったもう1人の弟の育児を担う必要もありました。身体は疲れ果てていきましたが、当時はまだ高校生。学校に通い、授業を受けなければなりません。

厳しい日々が続く中、父親からは一切サポートを得ることができませんでした。父はげんき君の育児をすることもなく、精神的に不安定な母親に代わって家事を担うこともなかったと言います。千草さんは、「この子(げんき君)にとって父親はいないものだ」「私が家族を支えないといけない」という思いを強めていきました。

高校3年生になると、ケアに加え大学受験が千草さんの上にのしかかりました。周りが受験勉強に専念していく中、千草さんは幼いげんき君から目を離すことは出来ず、日々ケアに時間を取られながら、受験準備をしなければならなくなったのです。

千草さん
「受験勉強をやっていたときは、弟をこうやって膝の上に抱えながら、一問一答や教科書を勉強してましたね。片手がふさがっていて書くのは厳しいので、基本的には見て覚えることしかできない。1時間もすると腕がだいぶ疲れてくるので、今度は反対の手で抱きかかえて、みたいな。これの繰り返しでしたね」


(幼いげんき君を膝の上に抱えながら受験勉強を行った)


たらい回しにされたSOS
ハンデを背負いながらも受験勉強に打ち込み、大学へと進学した千草さん。しかしその一方、ケアも苛烈さを増していきました。大学2年生になると母・敏子さんがうつ病と診断され状態が悪化。感情の起伏が激しくなり頻繁に過呼吸を起こすようになります。

敏子さんは料理や洗濯など一切の家事を担えなくなり、代わりに千草さんが負担することになったのです。千草さんは卒業に必要な最小限の単位のみを受講し、残りの時間は全て家族のケアにあてるという生活に切り替えざるを得ませんでした。

千草さん
「朝起きたらきょうだいを着替えさせ朝ご飯を食べさせる。自転車で弟を送り、自分は1つか2つの授業を受けたらすぐに帰る。帰ったら母の体調を確認し母をなだめる。その後、食材を買いに行き、夜ごはんの支度をしながらその途中で弟を迎えに行く。弟を迎えに行ってからが一番忙しかったです。家族にご飯を食べさせ、弟にお風呂に入れて、寝かせて…という毎日ですよね」


(左が母・敏子さん 右が千草さん)


病状が進み、母・敏子さんは自殺願望を抱くようになります。千草さんはそんな母への「情緒的サポート」も続けてきました。当時、敏子さんは感情の起伏が激しく、気分が高揚した時には包丁を振り回すこともありました。茶碗を割りその破片で自分を傷つけようとする。「こんなん生きとってもしゃあない」「おる意味がない」と電車に飛び込もうとする。そんな突発的な行動を何とかなだめながら弟のサポートもしなければと、千草さんは努力を続けてきました。しかしそのストレスからか、やがて千草さん自身もめまいや耳鳴りに悩まされるようになり、薬の服用が欠かせなくなっていきました。

家族ケアの負担がピークに達する中、周りとのギャップに苦しみ、大学の中でも孤立感を深めていったと言います。

千草さん
「その時期は他人を羨むことがいっぱいありましたね。特に大学生なのでにぎやかな感じとかもあるじゃないですか。部活とかサークルで集まっている人らを目にするたびに、なんで他人は今日もこんなに幸せそうなんだろう?と思ったりとか。友達とかは一切居なかったです。毎日自分が生きるのと、周りを生かすのとで精一杯で。1週間先のこともわからへんのに、1年、2年、3年、10年あとのことは一切考えていなかったです。とにかく今を越えれば、今を越えればというのがずっとでした。」

過酷な状況の中、千草さんは市の生活支援課やこども家庭センターなどに相談したこともありました。しかし繰り返されるのは「でも、お父さんがいらっしゃるんですよね?」という言葉。「父親はサポートしてくれないんです」と返しても、一向に理解はしてもらえず最後には決まって別の部署へと回されてしまう・・・そんなやりとりばかりが繰り返されたと言います。

ある日、千草さんは父親に不満を爆発させました。「何で私ばっかり手伝わなあかんねん」。しかしどれだけ口論を交わしても、父親が動いてくれることはなかったと言います。私が支えるしかないんだ――誰からのサポートも期待できないという思いは、確信へと変わっていきました。

「半径1メートル」を守り続けた10年

(卒業式の写真 左が千草さん)


大学入学当初、千草さんはマスコミュニケーション論を専攻し、出版社への就職希望を持っていました。しかしケアに追われ就職活動さえもままなりませんでした。もし自分が就職したら誰が弟をサポートする?離れているときに母親に何かあったら?そんな問いばかり頭をよぎり、定時の仕事に就く未来を考えられなかったのです。千草さんにとっては、どうしたら家族を守る事ができるか、そのことだけが気がかりでした。

千草さん
「当時はもう自分の『半径1メートル』にしか興味がなくて。就職するというのは本当に頭になくて、自分の人生についてはその当時本当に考えなかったです。親がしない、できないのであれば、大人になっている自分が、とにかく下の子に『普通の生活』を送らせてあげないといけない」

大学卒業後、千草さんはバーや居酒屋など、夜の時間帯でも働ける仕事を転々とすることで日々をしのいでいきます。日中に家族のサポートをした後での夜の仕事は体力的にかなりの負担でしたが、家族をおいて昼に働くことは考えられませんでした。仕事よりも何よりも家族が大事。そんな千草さんを見て周りの人たちは声をかけたと言います。「なぜそんなに自分を犠牲にするの?」「自分の人生を考えたら?」「主体性がないんじゃないの?」…

しかし千草さんにとって家族のケアを行うことは「当たり前」でした。自分の家族として生まれてきてくれた弟のことを思うと、自分を生んでくれた母親のことを思うと、家族を差し置いて自分を優先することなど、夢にも思わなかったのです。

千草さん
「周りから見たら強制的にやらされていることだと見えるかもしれないですけど、当人の事情はそうじゃない場合もあるんですよね。私はそうだったんですよ。自分が守りたいと思った。向き合わないことで後悔するくらいなら、自分を多少犠牲にしてでも思うようにやったほうがいいなと思った」

周りにどう思われたっていい――「半径1メートル」の世界を守り続ける日々が1年、また1年と続き、やがて10年という歳月が過ぎていきました。

長年のケアを経て いま思うこと
千草さんが“自分の人生”を歩み始めたのは1年前のことです。症状が改善した母・敏子さんが家事を分担できるようになり、ケアの負担が軽減されました。千草さんは今、知人の紹介で正社員として昼の時間帯の仕事に就き、アルコールの除菌剤を製造するメーカー会社で製造業務を行っています。手に職をつけようと、今年の冬にはフォークリフトの免許を取得。将来、工場で行える仕事の幅を増やしたいと考えています。これまで持つことのできなかった「自分の時間」を持てていることに充実感を感じています。

千草さん
「これまでの人生は悪かったとも良かったとも思わないです。でも自分の人生を取り戻し始めているという感じがあるかもしれないです。『まともに生きているな、自分』とちょくちょく思います。今までの仕事が全部まともじゃないとは言わないですよ。けど、定時の仕事で働く9時6時で働く仕事ができたらいいなと思っていたんですよね。だいぶ私が思う『普通』に近づいているんじゃないかなという気はします」

周りから何を言われようとも、家族を守り抜きたいとケアに奔走してきた10年間。千草さんは、過酷な状況からも逃げ出さず、常に家族を優先して生きてきました。ケアにささげてきたその時間を、良かったとも悪かったとも評価することなく、あるがままに受け入れ、前を向いて生きてきたのです。

取材中、ずっと聞いてみたかった質問がありました。「家族じゃなく、もし自分に時間を使うことが出来たら、何をしたかったですか?」。私たちの問いかけに千草さんは沈黙しました。考えこむ千草さん、1分、2分と時間が過ぎていきます。そして、絞り出すかのように、こう答えました。

千草さん
「弟がいてくれて幸せだと思うこともたくさんありましたよ。でも、今でもふとしたタイミングで、大学生とか学生さんとかを見るたびに、『ああいう未来があったらよかったな』とか、『私の過去はこうじゃなかったな』とか思って、ボーッとするときがあります。自分はもう一生結婚も何もせずに生きていくものだと思っていました。10年後も、20年後も、私が扶養するのは弟だけなんだと。もし自分自身に時間を使えるのであれば、私はやっぱり、母親になりたいですね。自分の子どもを産んで育てる準備をしたかったな、と思います」

家族をケアする経験、さらに言えば「家族のために生きること」は決して悪いことではありません。しかし、きょうこの瞬間も誰にも助けを求めることなく自分の時間をケアに捧げ、家族のために生き、一日一日をしのぐヤングケアラーたちがいるとすれば、やはり社会は彼らの声に耳を澄ませ、支援の手を差し伸べるべきではないか――取材を通して、そんなことを考えました。

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クロ現+
2021年3月26日

「私がお母さんを守らなきゃ」

ある女性が大学時代に心情をつづった数冊のノート。その1ページに、母親への祈りにも似た、こんな詩が綴られていました。

「お母さん」
お母さんが笑ってくれるといい
お母さんが外に出れたらいい
お母さんが生きててくれたらいい
お母さんが「生きて良かった」って思ってくれたらいい
お母さんに「幸せ」って感じてもらえたらいい
お母さんに人の温かさを感じてくれたらいい
そうだったらいい
そうだったらいい

作者は関西在住の24才の女性、琴愛さん(仮名)。幼い頃から精神疾患が疑われる母親のケアを続けてきた「ヤングケアラー」です。精神状態が不安定な母は「死にたい、死にたい」と繰り返し、時には琴愛さんに感情の矛先を向けることもありました。琴愛さんは「逃げ出したい」という思いと、「お母さんも頑張っているんだ」「私がお母さんを守らなきゃ」という思いの狭間で苦しみながらケアを続けてきました。その結果として負った深い心の傷は今も癒えることはありません。同じような境遇の子どもたちの力になりたいと胸の内を語ってくれた琴愛さん、その半生の物語をたどります。

(大阪拠点放送局ディレクター 田中雄一)


幼い頃に担った過酷なケア
「いつからケアを担ってきたんですか?」。私たちの問いに、「うーん、いつからですかねー?」と琴愛さんは首をかしげ、笑顔を見せました。琴愛さんはぱっと見は、明るく陽気な、ごく“普通”の20代の女性です。しかし、取材を始めるとすぐに、私たちはその“異変”に気付かされました。同席をお願いした支援者の女性Aさんとの距離が近い。私たち取材班の前にもかかわらず、まるで幼い子どもが母親に甘えるように、琴愛さんはAさんに抱きつき、離れようとはしませんでした。


(左:琴愛さん  右:支援者のAさん)



琴愛さんが物心ついた頃から、母の様子に変化が現れていたといいます。誰かに狙われているという妄想や、他人への強い不信感。窓を開け突如大声で叫ぶなど、近隣とのトラブルも頻繁に引き起こしてきました。医療につながることができず、診断こそついていませんが、精神疾患の可能性が強く疑われています。

長期の出張など父親は家に不在がち。病気のためか、父と母の関係は悪化し、母のケアの負担は一人娘の琴愛さんが担ってきました。琴愛さんは、小学生になると、自宅に引きこもりがちな母に代わって、買い物などを手伝うようになります。スーパーでお弁当やお総菜などを買っていましたが、小学生にしては明らかに多い買い物の量。同級生の家族に出くわすと、「あれ、お母さんは?」と聞かれ、肩身の狭い思いをしてきました。「(お母さんは)仕事で忙しいから」と取り繕いつつも、母が責められているようで苦しかったと言います。

ただ、家の中で母親と過ごす時間はさらに過酷なものでした。母親は毎日のように「死にたい、死にたい」と繰り返し、琴愛さんはそんな母に長時間寄り添い、「ママが大好きだよ」「いつもありがとう」となだめてきたのです。

琴愛さん
「母から、毎日のようにヒステリックに怒られたり、人格否定をされたりすることも多かったです。学校に行く前に母から、「もう死ぬから、さようなら」と言われ、不安で不安で、日常生活に支障をきたしていたように思います。救急車の音が聞こえるたびに、母ではないかとすごく怖くて、気が気ではありませんでした。授業を受けている時も、友達と笑いあって話をしている時も、常に家の問題が頭から離れませんでした」



心に寄り添いサポートすることも「ケア」
家族の介護や看護をしている人の支援を行っている「日本ケアラー連盟」によると、病気や障害のある家族の身体的なケアを行うことだけが「ケア」ではありません。琴愛さんのように、精神疾患やアルコール依存症の家族に寄り添い、サポートすることもまた「情緒的ケア」と呼ばれ、大切な「ケア」のひとつとされています。専門家や大人でさえも抱えきれないような、そんな重い「ケア」を幼い頃から琴愛さんは1人で担い続けてきました。

琴愛さん
「押し入れに隠れたり、暑い中布団にくるまったまま動かなかったり、とにかく母を刺激しないように、いつもビクビクしながら過ごしていました。何か話しかけられても、自分の本当の気持ちではなく、母が求めている答えは何なのか、一生懸命考えて答えていました。求めている答えが分からない時はパニックになってしまい、返事が遅いことで怒られて、さらにパニックになってしまっていました。自分の気持ちを考えて答える習慣がなかったので、今でも自分の感情や意見を聞かれると困ってしまって、なかなか答えられないことがあります」

「私が悪い子だからこうなるんだ、私が悪い子だからお母さんは死にたいと思うんだ」。次第に自分を責めるようになった琴愛さんは、必死で良い子を演じようとしてきました。母に褒められたいと、学校の勉強も必死で頑張りますが、それでも、母が満足することはありませんでした。苦しさから逃れるために、琴愛さんは自分の心に蓋をするようになっていきます。

琴愛さん
「『こんなにも苦しいのは感情をもってしまうせいだ。感情をもつのがいけないんだ。もう何も感じないようにしよう。死んだと思って感情を殺して生きよう』と強く決意したことをはっきりと覚えています。自分の身体と外界との間に膜があるような感覚だったり、自分と他者の違いがよく分からなくなって、自分を第三者の視点で見ている感覚になって、自分が自分であるという意識が希薄になってしまうことがあります」


心身に変調が 追い込まれた日々

(高校時代 右が琴愛さん)


しかし、琴愛さんの心は日に日に追い込まれていきます。高校生活が始まると、琴愛さんは心身のバランスを崩すようになりました。頭痛や吐き気、背中の痛みが頻繁に襲ってきます。学校に行っても保健室にいることが多くなりました。家で母と2人でいることが限界を迎えると、「プチ家出」をし、ビルの屋上で野宿しました。雪が吹きすさぶ中で、寒さに凍えながら、1人勉強をしていたといいます。

成績もよく、クラスでは努めて明るく振る舞っていた琴愛さんですが、それでも、その様子に気付き、心配して声をかけてくれる先生はいました。しかし、琴愛さんは「大丈夫です」と答え、自分からSOSを出すことはしませんでした。家の事情がばれてしまうことへの不安、そして「大好きな母を守れるのは自分しかいない」という思いからだったと言います。どんなに母にひどいことをされても、琴愛さんにとって「お母さんはお母さん」だったのです。

琴愛さん
「当時は弱みを見せることが何よりも怖くて、人に相談するという発想は全くなく、『大丈夫です』とひたすら答えていました。家の事情がバレてしまったらどうなるのかと不安でした。親を守りたい気持ちもあったと思います。私が人に言ったことが知られたら、母がどんな仕打ちを受けるのか、また、母が責められてしまうのかと考え、相談することが、家庭の事情を知られてしまうことが、怖くてたまりませんでした。当時は唯一のお母さんで、私にとっては大事な存在だったかなと思います」


高校時代に撮影した一枚の写真を琴愛さんが見せてくれました。高校3年生の誕生日、クラスメイトと2人、満面の笑顔でピースする琴愛さんの姿がありました。しかし、その笑顔の裏で琴愛さんは誰にも打ち明けられない深い孤独を抱えていました。

琴愛さん
「表面的にはついていっていたんですけど、気持ち的にずっと母のことが離れなくて。どんだけ学校で楽しそうに笑っていても、やっぱりずっと暗い絶望感みたいなものはあったかなと思います」

ノートに書き連ねた「死」の文字
琴愛さんの人生の大きな転機となったのは、今も関係が続く大学の支援者との出会いでした。母の病状を少しでも理解し、助けてあげたいとの思いから、琴愛さんは大学で精神保健福祉の道を選びます。なんとか母を医療につなげようと大学で知り合った保健師を家に招いたこともありましたが、母が受け入れることはありませんでした。


(琴愛さんのノートに書かれた文字)



琴愛さんが大学生の頃に書いたノートには「死」という文字がびっしりと書き連ねられています。母だけなく、琴愛さん自身の精神状態も安定せず、時には睡眠薬などを大量に服用することもありました。そして、ある日、琴愛さんは半ば意識を失った状態で、大学の保健室にたどり着いたのです。

泥酔したかのように真っ直ぐに歩くことができず、意識も朦朧とした状態の琴愛さん。その日の夕方、偶然対応にあたったのが保健室で勤務していたAさんでした。Aさんは急ぎ診察を受けさせた後、意識の混濁する琴愛さんをタクシーで自宅まで送り届けたのです。

琴愛さんはその日以来、毎日のように保健室を訪れるようになります。今では「もらい事故」と笑って話せる2人ですが、琴愛さんとAさんの日々は壮絶なものでした。

琴愛さんはAさんに「幼稚園児」のように甘えるようになります。Aさんが忙しく、琴愛さんをかまえないと機嫌を損ね、感情を爆発させました。オーバードーズ(薬の過剰摂取)も繰り返し、時にはAさんに「死にたい」「死にたい」と訴え続けることもありました。

"もう1人の母”と取り戻した時間
そんな琴愛さんに、Aさんは時間をかけて、時には喧嘩をしながらも、自分の気持ちや感情を真っ直ぐに伝えていきました。「死にたい」と繰り返す時は、「それはあなたがお母さんにやられたことを私にしているのよ、私も辛いのよ」と返しました。琴愛さんが「苦しい、辛い」と言うと、「辛いのは自分だけではないんだよ」と語りかけました。

Aさんは看護師の資格を持ちますが、外科の現場での経験が長く、精神保健福祉は専門外です。それでも、琴愛さんと同じ年頃の娘を持つ1人の母として、1人の人間として、琴愛さんに向き合い続けました。喧嘩をしつつ、ぶつかり合いつつ、それでも琴愛さんはAさんら支援者と出会ったことで、少しずつ自分の感情に気づき、コントロールできるようになっていきました。それは、琴愛さんにとって、もう1人の“母”に出会い、失われた幼少期の時間を取り戻すプロセスでもありました。

琴愛さん
「これまで不安な気持ちから、元気な姿でしか人と関われなかったです。でも、どんな姿を見せても変わらず居てくれる存在と出会い、助けを求めたら応えてもらえるという成功体験を積むことができて、ありのままの自分を見せることができるようになりました。辛いと感じてしまう自分のことも、許せるようになりました。長い時間をかけて、私がそこまで苦しむ必要なんてないこと、私のせいじゃないこと、自分を大切に、自分の人生を生きていいことなどを繰り返し教えてくれました」


Aさんら支援者の後押しで、大学4年の夏、琴愛さんはようやく母と離れることを決意します。Aさんによると、琴愛さんは最後まで「私がいなくて、お母さんは1人で暮らしていけるだろうか」と悩んでいたといいます。Aさんは琴愛さんが安心して暮らせるよう、アパートの物件探しにも同行し、サポートしました。

琴愛さんが今も大切にしている「宝物」があります。大学卒業時にAさんら支援者が琴愛さんに送った寄せ書きです。そこにはAさんのこんな言葉が書かれていました。

「健康第一、体も心も、食べるものから作られるから、しっかり食べてエネルギー切れにならないこと。本当によく頑張りました。えらかったね」

信頼できる大人との初めての出会い。それは琴愛さんにとって、自らの人生を歩み始める、大切なきっかけとなりました。


(Aさんたち支援者から送られた寄せ書き)



当たり前の家庭を
大学卒業後、社会人として働き始めた琴愛さんですが、今も多くの困難を抱えながら日々を生きています。1年前にPTSDと診断され、カウンセリングを定期的に受けながら暮らしています。対人関係にも不安を抱き、仕事も休職と復職を繰り返す状況が続いています。

それでも、一歩ずつ一歩ずつ、琴愛さんは前に向かって歩もうとしています。自分と同じ、精神疾患の親を持つ子どもの集まりに参加、勇気を持って苦しかった日々のことを語り始めているのです。自分の経験を伝えることで、同じ境遇にある多くの子どもたちの支えになってほしいと考えているからです。

琴愛さん
「母には昔から、人間を信じるなと言われてきましたが、私は今、多くの方の優しさに支えられて生きています。自分と同じ、精神疾患のある親をもつ子どもの立場の方ともつながり、苦しい思いをしていたのは自分だけじゃないことに気づくことが出来ました。まだまだ辛くなってしまうこともたくさんあるし、きっとこれからもそう簡単には解決しない問題だと思います。でも、私は今まで生きてきた中で、今が一番幸せだと感じています。不安もたくさんありますが、きっとこれからも支えてくれる人がいると、また、自分に明るい未来を切り開く力があると信じて、生きていこうと思います」




私たちは取材の最後に、琴愛さんとともに公園を訪れました。夕暮れ時、沢山の子どもたちが歓声をあげながら遊んでいます。琴愛さんは、金網越しに見える家族の様子をじっと見つめ、こう本音を漏らしました。
琴愛さん
「公園で遊んでいるって幸せな家族像みたいな感じしませんか。ファミレスとかで、家族で話してたり笑いあってたりするのを見ると、いいなって思ってなんか心がズキズキします。そういうのしたかったなって思います」


ヤングケアラーとその家族にどう向き合う?
琴愛さんのような存在に私たちの社会はどう気づき、支援の手を差しのべていけば良いのでしょうか。長年、精神疾患の親を持つ子どものサポートを続けてきた大阪大学の蔭山正子准教授は、私たちの問いに直接には応えず、こう切り返しました。

大阪大学 蔭山正子准教授
「精神疾患を持つ方に私たちの社会は向き合ってきたでしょうか?その苦しみを理解しようとしてきたでしょうか?人々の偏見や無理解がその人を、そしてその家族を私たちの社会から孤立させてきたのです。ヤングケアラーの問題は、社会が今、そのつけに向き合うときでもあることを示しています」


若者の未来を守り支えるためにも、1日も早いヤングケアラーへの支援が求められることは言うまでもありません。ただ、その一方で、私たちの社会が、今一度立ち止まり、そのあり方を考える時が来ているようにも思えます。他者に寛容であること、病や苦しみを認め合える社会であることを、ヤングケアラーたちの声なき声が訴えているかのようにも思います。


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クロ現+
2021年2月11日

知ってほしい「ヤングケアラー」のこと

「自分の進路より家族が優先―」
脳性まひの母親を介護している高校1年生の言葉です。
家族の介護、ケア、身の回りの世話を担っている18歳未満の子どもたちは、「ヤングケアラー」と呼ばれています。介護や家事に追われ、勉強や友だちづきあいする余裕がない子どもも少なくありません。悩みを抱えていても相談できる相手がおらず、ひとりで抱え込んでいるケースも。

2月11日(木)放送の「おはよう日本」では、ヤングケアラーの当事者や経験者に集まってもらいオンライン座談会を行いました。父親を介護していた経験のある、お笑い芸人のキンタロー。さんも参加してくれました。家族のこと、進路のこと、将来のことなど、3時間かけて語り合いました。
(ヤングケアラー取材班)

ヤングケアラーの高校生が心に抱えるモヤモヤ

座談会は、親の介護やケアをしている2人の高校生・優輝くんと凛さんが悩みを打ち明け、それに対してヤングケアラーの先輩たちが経験を元にアドバイスをする、という形で進みました。

(母親の車いすを押す優輝くん)

優輝くん・仮名(高校1年生)
▶脳性まひの母親の介護
▶ヘルパーは週に数日、それ以外の介護と家事を担う
▶母親と弟(小4)の3人暮らし
▶介護と家事に追われ、部活や勉強がままならない状態
▶成績は上位 先生からは「大学に行ける」と言われている

 凛さん・仮名(高校2年生)
▶精神疾患を抱える母親の世話
▶多いときで週6回の家事
▶母親と2人暮らし
▶母に付き添い学校も休みがちに
▶本や音楽が好きで大学で芸術を学ぶのが夢


優輝くん
「もちろん家のことはやらないといけないんですけど、それに時間を全部使っていると 自分の時間がまったくなくなって疲れちゃうんですよね。
もちろん友達とも遊びたいし、自分のやりたいこともあるし、だけど家のことはやらないとダメだし、みたいな感じで。まず何をしなければならないのか悩んだりもしますね」

凛さん
「心の不調を抱える母親のケアをしています。聞いてみたいのは、『未来を描いていいのかどうか』ということと、ケアをする上での家族への葛藤などについて。気持ちの共有ができたらなと」

 進行:渡辺健太アナウンサー
「ヤングケアラーの当事者でもあったキンタロー。さん、どうお考えですか?」


キンタロー。さん(お笑い芸人)
▶精神疾患を抱える父親を介護していた経験を持つ

キンタロー。さん
「高校生だと家に帰っても学業だけじゃなくて、家のことを全部やらなきゃいけない。時間が絶対足りないと思うんですよね。家のことやってるだけで1日過ぎてしまう。
自分の将来や進路を決めなきゃいけない。考える時間も必要だと思うんですけど、ゆっくり自分と対話して、何になりたいか考える暇もないんじゃないかなって思う。
周りの友だちは学校の勉強に専念できるし、家に帰ったら親が全部やってくれてるって考えると、すごい心の葛藤があるというか」

(左・凛さん 母親と)

凛さん
「母は気分が落ち込んでいるときは布団から出なくて、ちょっと起きたと思ったら、また布団に戻るみたいな感じです。仕事はしていて、毎朝行きたくないと言いながら出かけています。障害年金などの支援を受けた方がいいと私は提案しているんですが、母自身が病気だという認識がなく『私はそんなんじゃない』と言っているので、経済的な支援が受けられないんです」

キンタロー。さん
「わかります。本人は精神疾患を認めたがらないし、『まさか自分が』っていう思いがあるんですよね。『人を病人扱いするな』みたいなところがありますよね。
やっぱり育ててもらった親だし、大変なときは『わたし人生を捧げなきゃいけない』とか考えるんですけど、毎日父親と一緒に暮らしていると、距離が近すぎて、ちょっとしたことで傷つくこともあります。『何でそんなことするんだろう』と思って言い返すんですけど、お父さんはお父さんで苦しんでるし、もう悪循環。負のループに陥ってしまいました」

「誰にも話せない」 自分で抱えるゆえに生まれる孤独感
(左から・凛さん 田中さん 白井さん 宮﨑さん)

高校生の優輝くんと凛さんが語った悩み。大人の介護者であれば、行政やNPOなどが当事者同士の集いを主催するなど、同じ境遇の人たちが互いに悩みを打ち明ける場が増えてきています。しかしヤングケアラーについては、行政もようやく実態を把握しようと動き始めた段階です。座談会に参加した経験者はみな『周囲に理解してくれる人がいなかった』と口をそろえます。

田中雄介さん・仮名(35)
▶脳性まひの父親と、ポリオを患う母親の介護をした経験を持つ
▶いまはリハビリ施設で働く

田中さん
「人から見えないものを抱え込みがちになると思うんですよね。僕は周りに同じ境遇の人がいないっていうのが一番きつかった」

白井俊行さん(37)
▶知的障害とてんかんがある兄と高校卒業まで同居
▶兄のケアにあたっていた母親が精神疾患を発症
▶いまは、エンジニアとして働く

白井さん
「仮に同じ境遇の人が周りにいたとしても、そういうことは話さないので分かりません。周囲からは隠れているんです。だから『病気の母親のためにごはん作ってさ、面倒くさいんだよね』みたいな愚痴を言うことはできず、結構しんどい。理解してくれないことも多くて、兄弟に障害があるというと『じゃあ助けてあげなくちゃね』とかすぐ言われてしまうことがあって」

ヤングケアラーの高校生たち 「進路」の悩みに直面
(左・母親 右・凛さん)

凛さん
「本音を言うと大学に行きたいなって思っているんですけど、やっぱり経済的に難しいのと、母が入院することになったらどうなるんだろう、と。母の調子によって生活の度合いが変わってくるので、近い未来への不安がすごく大きいです」

(優輝くん)

優輝くん
「自分の進路を優先するか、それはほどほどにして家のことを優先するかで、悩んだりします。今はお母さんと弟と3人暮らしなんですが、自分が進路を優先して家を出たら、弟とお母さんの2人になるじゃないですか。そうなると、家のことができるのが弟だけになっちゃう。弟には『同じ経験をしてほしくない』って思うので、自分の進路を優先してもいいのかって」

進路に関する2人の悩みに対して、ヤングケアラーの先輩たちはー

宮﨑成悟さん(31)
▶16歳から難病の母親を介護 
▶いまは、家族の介護をしている20〜30代対象の転職⽀援サービスを運営

宮﨑さん
「高校卒業後、いったんは大学に行くのをあきらめて、家で家事をしていました。その経験を生かして『調理師になろう』と思い、専門学校に行こうとしたんですよね。でも親戚と相談したら『自分のやりたいことをやった方がいいんじゃないか』って言われて、再び大学進学を志しました。
介護と自分の人生をてんびんにかけると思いますが、てんびんの間にはいくつもお皿があって、そのなかで選択をしていくということが大事だと思うんですよね。介護に偏るてんびんなのか、もしくは自分の人生に偏るてんびんなのか、選択肢は2つだけではなくて、介護と両立できる一番いい選択肢を見つけていくのがいいと思うんですよね」

田中さん
「僕も就職するときにひとり暮らしをするかどうかで悩みました。姉から『あなたはまだ若いんだから、社会の厳しさを味わって自分をしっかり見つけていきなさい』と言われ、外に出ることにしました。家族が共依存になるとみんながダメになってしまいます。みんなで自立するという意味で、親兄弟であっても線を引かなきゃいけないなって、いまは感じてます」


白井さん
「僕は、精神疾患になった母親は介護しなかったんですが、それは自分の選択で後悔はありません。自分の人生を捨てるか、親の介護を取るかみたいな心境になってしまったら、もう1回よく考えてみたほうがいいんですよね。
『そういう選択肢もあるんだよ』というのを知ってほしいなって思います。まずはケアや介護のことは一回忘れて、自分の好きなことを大切にして、それをやり続けるにはどうしたらいいかっていう思考で、いろいろ考えてほしいです」


宮﨑さん
「自分だけで考えていると『家族のためを思って』という風になりがちなので、色々な人に相談して、新しい視点というのをどんどん入れてもらいたいなって思います」


田中さん
「過去の自分にも言いたかったんですけれども、まずは本当に自分がやりたい事をやった方がいいです、絶対に。家のことがすごく大変なのはわかるんですが、なるべく自分を大切にすることを学んでいった方がいいと思います。自分が幸せにならないと家族も幸せには絶対なれないので」


ヤングケアラーの中には、育ててくれた「親や家族」だから、「きょうだい」だから、「自分が介護やケアをするのが当然」と思い込んでしまうケースが少なくありません。友達や学校の先生、行政の窓口にもどう相談すればいいかわからない、という悩みを抱えがちです。先輩たちは「自分だけで悩みやつらさを抱え込んでしまう前に、同じ境遇の人たちとつながることができるコミュニティなどを見つけて気持ちを打ち明けてほしい」とアドバイスします。

そしてキンタロー。さんはー
キンタロー。さん
「どっちに進んでもやっぱり葛藤が存在するので、どっちが正解かわかりづらいところがあるんですけど、結果、自分が選んだ道が正解なんじゃないかなって思いますね。迷いは常に出てきます、だけどそう思います、わたしは」


「自分」が幸せになることが家族の幸せにつながる


優輝くん
「いままでは、自分の進路より家族が優先っていう考えがあったので、『自分が幸せにならないと家族が幸せにならない』と聞いて、『ああ確かにな』と思いました。家族を幸せにするためには、自分が幸せにならないといけないなって」




凛さん
「介護も大事にしていいし自分の人生も大事にしていいし、その中で考えていけばいいよという話しだったんですけど自分の夢があったらそっちに進んでもいいんだという、何か肯定された気持ちになりました。すごくほっとしたというか、温かい気持ちになりました」


今回の座談会に参加してくれたヤングケアラーのみなさん、ご協力本当にありがとうございました。取材班では、みなさんと悩みを共有し、課題解決につなげるための取材を続けていきたいと思います。



<あわせて読みたい>
・若くして介護を経験したキンタロー。さん ヤングケアラーへのメッセージ
・『ヤングケアラー』から届いた切実な声
・高校生の25人に1人が『ヤングケアラー』 初調査で見えた実態
・学校生活や将来の選択に影響も…「ヤングケアラー」をどう支える?


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クロ現+
2021年2月10日

若くして介護を経験したキンタロー。さん ヤングケアラーへのメッセージ

お笑い芸人として活躍するキンタロー。さんは、実はかつて「ヤングケアラー」の当事者でした。小学生の頃に父親が精神疾患を発症し、さらに母親が亡くなった20代の頃には仕事をしながらの介護も経験するなど、右も左も分からない中で、ひとりで悩みを抱え込んでしまったこともありました。
今回「おはよう日本」(2月11日放送)の企画で「ヤングケアラー」の座談会に参加し、経験者だからこそ理解し合える悩みや葛藤について、語ってくれました。

(ヤングケアラー取材班)


父親のそばを離れていいのか 葛藤した10代


父・武士さん(仮名)に、双極性障害(※うつ状態と躁《そう》状態という、正反対の状態が繰り返す病気)の症状が現れるようになったのは、キンタロー。さんが小学校高学年の頃でした。自営業を営む武士さんは元々繊細な性格でしたが、経営者としてのプレッシャーから、事業がうまくいかなくなるたびにうつ状態になっていました。

その一方で躁状態のときは、突拍子もない行動に家族が振り回されることもありました。ある日突然、家族に相談もなく近隣の土地やホテルの一室を購入したこともあったといいます。

キンタロー。さん
「私はお金がもったいないと思ったし、家族みんなで反対したんです。買っちゃだめ、絶対やめてって、手紙まで書いて懇願したんですよ。それなのにホテルを買っちゃったりして、すごいショックでした」

高校生の頃、武士さんの反対を押し切り、半年間カナダへ留学に行きました。武士さんの病状が悪化してしまい、キンタロー。さんは自分の行動が原因だったのではないかと悩み続けました。
その後、県外の大学を受験しようと考えたときも、キンタロー。さんは、病気の父親を残して家を離れることへの後ろめたさを感じていました。

キンタロー。さん
「私の場合は独り立ちしたい思いが強かった。お父さんが双極性障害でうつ病になりやすいというのはわかっていて、私がお父さんのもとから離れたら病気が余計に悪化する可能性もあったけど、反発して大阪の大学に行っちゃったんです。そういう行動に走った自分にとても罪悪感を持っていますね、ずっと。」

仕事と介護の両立 自分で抱え込むように
キンタロー。さんは大学卒業後、不動産会社の事務の仕事を始めました。
その後、母親が亡くなったことをきっかけに、武士さんのうつ病の症状が再発。足腰も弱くなってきたため、日中仕事をしている間はデイサービスに預けるようになりました。しかしキンタロー。さんの心配はつきませんでした。

キンタロー。さん
「介護センターから電話かかってきて、『取っ組み合いの喧嘩をしている。そういう行動を取る方は受け入れられない』と言われて、引き受けてもらえなくなったことがありました。他にも私の部屋に入って、書類をバーッと見て、職場の電話番号を見つけて電話かけてきたこともあった。やっと見つけた仕事だったので、親が意味不明な電話を職場にかけてきて、クビを切られるんじゃないかとすごく不安になりました。『何だこいつ』って思われるんじゃないかって。お父さんには申し訳ないんですけど、そういう気持ちが出てきちゃったんです」

キンタロー。さんは当時を振り返り、誰に相談していいのかわからず、ひとりで抱え込んでしまい、つらかったと話します。

キンタロー。さん
「行政などの支援窓口に相談に行った時に、介護に関してのマニュアルがギチギチに決まっていて、それに当てはまらないとサービスが受けられないということを経験したんです。『父は健康に見えるかもしれないけど、徘徊をして危ないんです』と説明しても、『こういう規定の中に入らないので、介護サービスが受けられないんです』って。『えっ、じゃあ本当に誰も助けてくれないんだ』っていう恐怖を感じたこともあって…。どんどん先が見えなくなってきて『わたしはこの先どうしたらいいんだろう』っていうところまで思い悩みました。でも、周りの同世代の子たちはそんな悩みとは無縁で、幸せそうに見えて余計焦るし、取り残された気分になっていました」

「家族の介護」優先か「自分の将来」優先か 人生の選択をどうする?


その後、キンタロー。さんは芸能界にデビュー。ケアワーカーのアドバイスもあり、在宅介護をやめて武士さんは介護施設に入所することになりました。ようやく「自分の人生を大切にしてもいい」という気持ちにたどり着いたといいます。

今回、親の介護を担う「ヤングケアラー」たちの座談会に参加してくれたキンタロー。さん。は、家族の介護と進路の選択の間で悩む高校生たちの話を聞き、自分も同じような経験をしてきたと、語りかけました。

(左から2番目 優輝くん 左から3番目 凛さん)

優輝くん(高校3年・脳性まひの母親を介護)
「もし自分の進路を優先して家を出たら、弟とお母さんの2人暮らしになるので、弟が大人になるまでは、自分は家を出ちゃだめなのかなって思いました」

凛さん(高校2年・精神疾患を抱える母親を介護)
「私のお母さんは、気分が落ち込んでいるときは、ほんとに布団から出られません。進路の悩みもあるんですが、未来を描いていいのかどうか悩んでいます」

渡辺健太アナウンサー
「キンタロー。さんは、自分の可能性に自分で枠をはめてしまったことはありますか?」

キンタロー。さん
「自分は幸せになっちゃいけない人間なんだって、当時は思っていました。『わたしは自分の人生を諦めて父に捧げているんだ』って恩着せがましくなって。自分がやらなきゃいけないことを放っぽり出して世話しているのに、『ありがとう』も言ってもらえないと『もう何だよ』という気持ちになる。お父さんの方も『そんな顔で世話されても』となってしまう。全員が幸せじゃない状態が続いた時期もありました。どちらに進んでも葛藤があるので、どれが正解かわかりづらいんですけど、結果的に自分が選んだ道が正解なんだと思っています。常に」

ヤングケアラーが頼れる場所が増えてほしい



キンタロー。さんの父、武士さんは6年前に亡くなりました。
自分自身の経験から、ヤングケアラーの子どもたちが孤立しないよう、社会で支える場が増えてほしいと考えています。

キンタロー。さん
「ヤングケアラーという言葉自体がまだ浸透してないように、それを経験する人もまだ多くない。『ヤングケアラーです』って言っても理解してもらえないと、やっぱり取り残された気分になってしまう。ネット上などでもっと頼れる場所がたくさん増えてほしいですね。
わたし自身、どうしたらいいのって悩んでいたときに『大変でしたね、大丈夫ですか』って声かけてくれたり、手を差し伸べてくれた人の存在は今でも覚えてるし、その時の気持ちもずっと覚えています。本当に苦しかったら自分一人で考え込まずに、ネットなどを使って、もっと相談できる人を広げていってほしいなって思います。そういう相談できる場がもっと増えることを期待しています」


<キンタロー。さんと当事者の座談会>
2月11日(木)7:30~「おはよう日本」で放送
  https://www.nhk.jp/p/ohayou/ts/QLP4RZ8ZY3/

<あわせて読みたい>
・『ヤングケアラー』から届いた切実な声
・知ってほしい「ヤングケアラー」のこと
・高校生の25人に1人が『ヤングケアラー』 初調査で見えた実態
・学校生活や将来の選択に影響も…「ヤングケアラー」をどう支える?


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クロ現+
2021年2月10日

『ヤングケアラー』から届いた切実な声

先日『ヤングケアラー』についてのご意見や体験談を募集したところ、70件以上の声が寄せられました。ご協力いただき誠にありがとうございました。「悩みをひとりで抱え込み孤独だった」という方や、「子ども時代に介護をした影響が大人になっても続いている」という方など、実際にヤングケアラーを経験した方々から切実な声が数多く届きました。
実態をつかむのが難しいとされるヤングケアラー。アンケートから見えてきた当事者の実情とその胸の内をご紹介します。
(ヤングケアラー取材班)

生活の中心は「家族」 介護・世話に追われる毎日


精神疾患の母親と5歳の弟と同居しています。母親が精神的に不安定になると、料理も洗濯もできなくなるので、カップ麺をコンビニで買ってきて弟と食べたり、フードバンクでレトルトの食材をもらってしのいでいます。
(10代 女性)

学校から家に帰ると、統合失調症の母親が包丁を持って私に向けてきて、そのときにはどうすればいいのかわかりませんでした。母のふるまいを誰に相談すればいいかもわかりませんでした。
(10代 女性)

アンケートの中でも多かったのは30歳以上の女性からの声でした。

介護や世話をしていた相手を聞いたところ「親」と答えた方が最多でした。

親が精神的な病気を抱えていてその介護や世話に追われたり、きょうだいの面倒を見ていたという方も数多くいました。



介護・世話の内容について多かったのが
  • 「料理や洗濯などの家事」
  • 「声がけや見守りなどのきづかい」
  • 「ほかのきょうだいの世話」

  • 介護の頻度を訪ねたところ「毎日」と答えた人が6割以上にのぼりました。

    介護や世話などが生活の中心となり「自分に使える時間やお金がない」という声も聞かれました。

    治療費や薬代がかさんで生活費が足りませんでした。長時間のアルバイトはできないのでどうにもならない時は援助交際で稼いでいました。 親が精神的につらそうな時は夜中でも起きて話し相手をしていたので、学校の授業中はほとんど寝ていました。
    (女性 20代)

    親に精神疾患があり、幼稚園時代から兄弟たちのオムツ替えなど世話をし、ストレスで暴れている親から兄弟を守りました。親が家出を繰り返し、親戚に連絡したり近所を探し回ったりしました。
    (女性 30代)

    中学2年の時に母が脳硬塞で倒れてしまい、一人っ子の私が背負うことになりました。同居していた祖母も高校1年の時に亡くなり、生計を立てられなくなりました。 高校を中退して、アルバイト生活になりました。
    (女性 40代以上)

    精神が不安定な母を一人にできず、高校時代はほとんど友達と遊びに行けませんでした。 大学時代は友達が遊びや旅行に誘ってくれても、断ってばかりで、バイトにも行けませんでした。
    (女性 30代)

    アルコール依存の母親の安否を常に気遣いながらの生活でした。母親は家の中でも転んで骨折を繰り返していました。家はごみ屋敷状態で、自分がゴミ出しや、簡単なごはんをつくっていました。
    (女性 30代)

    母が統合失調症で、家事に加え、母の服薬管理と見守り、親族に対する病気の説明や説得、小学生だった妹と弟のケアをしていました。15歳にしてたくさんの役割を背負っていました。
    (女性 30代)

    闘病中の母とそれを看病する高齢の父との中で暮らしていました。闘病中の母の看護を父と交代に行い、中学に毎日通うことがなかなかできませんでした。出席日数的にも経済的にも進学をあきらめました。
    (女性 40代以上)

    ライブに行くのが趣味ですが、行けないことも多くストレスが溜まります。 友人と食事へ行く時も、いつ父から電話がかかってくるかひやひやしながらなので楽しめません。人生の全てが終わった感じ。 これ以上、きついことって人生であるのかと。 人生への影響どころか親の介護をするために生まれてきたのかと、生きてる意味すらわからなくなります。
    (女性 20代)

    ヤングケアラー その後も続く影響
    ヤングケアラーの経験が「その後の自分に影響をおよぼしている」という方も数多くいました。子どものころ誰にも頼れなかったり、家族のことを人に話せなかったなどの経験から、大人になっても「自分に自信が持てない」といった声も聞かれました。

    『自分は幸せになってはいけないのだ』とずっと本気で思い込んでいました。家族の世話をまぬがれるのは自分の体調や精神状態がよくないときだったので、少しでも家族から解放されるように、無意識のうちに自分を追い込んでいくようになりました。仕事にのめりこんでほとんど睡眠時間をとらないとか、母親に抵抗したいのに自分もアルコールに溺れるようになったり。自暴自棄で自分を大切にしない日々が続きました。
    (30代 女性)

    自尊心が育っていないため、人からほんの少しのマイナス評価があったと知ると、自分の存在はまったく意味がないと感じ、すぐに死にたくなってしまいます。 こんなふうにして人生を全うできるのか、不安です。
    (母が精神的な病を抱えていた 30代 女性)

    母のメンタルケアを担い、妹たちの世話を担い、私だけが重篤な精神障害になりました。そのために働くこともできなくなりました。
    (40代以上 女性)

    自分で頑張るしかない状況だったので、人を頼る、信じることがなかなかできなくなりました。
    (40代以上 女性)

    ヤングケアラーの経験をしている人とつながることができない孤独感、普通の社会では理解してくれる人がいない孤独感、そんな家庭環境で育ったがゆえに何も希望を持てません。また、何かを頑張っても何も幸せとは思えないし、喜びも得られません。普通ではないという劣等感や、母親や父親の愛情を得られたという経験がないことから、ぽっかりと空いた穴みたいなものがほかでは埋まらない空虚感などが一生続いています。
    (20代 男性)

    家族が楽しいところとか安心するところではなく、頑張らなくてはいけないところという感覚や意識があります。現在家庭があってもほかの人の思う家庭とは違うのだろうな、と比較してしまい、そんな時にどうしてもつらい気持ちになってしまいます。
    (40代以上 女性)


    アンケートに答えて下さったみなさん、あらためてご協力に感謝いたします。
    本当にありがとうございました。

    みなさんからの貴重な声は2月11日放送「おはよう日本」でもご紹介させていただきます。
    番組ではヤングケアラーの当事者や経験者の方々による『オンライン座談会』も行います。ぜひご覧いただき、感想をお寄せ下さい。

    ヤングケアラーに関するご意見や当事者の方の経験や悩みなど、みなさんからの声を引き続きお待ちしています。コチラから☟☟


    <あわせて読みたい>
    ・若くして介護を経験したキンタロー。さん ヤングケアラーへのメッセージ
    ・知ってほしい「ヤングケアラー」のこと
    ・高校生の25人に1人が『ヤングケアラー』 初調査で見えた実態
    ・学校生活や将来の選択に影響も…「ヤングケアラー」をどう支える?


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    クロ現+
    2020年12月21日

    高校生の25人に1人が『ヤングケアラー』 初調査で見えた実態

    家族に代わって家事や介護などを担う18歳未満の子どもたち、「ヤングケアラー」
    これまでもその存在は認識されていたものの、家庭の中の状況が把握しにくい上、子どもたち自身も声を上げづらいことなどから、正確な実態をつかめずにいました。
    ところがことし、埼玉県が全国に先駆けて調査を行ったところ、高校生の「25人に1人」の割合で「ヤングケアラー」が存在していることが判明しました。
    調査からは「孤独を感じる」「勉強時間が十分に取れない」など、子どもたちの生活に影響が出ている実態も浮かび上がってきました。

    (ヤングケアラー取材班)

    データから見る『ヤングケアラーの実態』
    調査は埼玉県内の高校に通うすべての高校2年生およそ5万5千人を対象に行われ、その結果25人に1人にあたる1969人が「ヤングケアラー」に該当することがわかりました。
    介護をしている相手をみると、「祖父母・曽祖父母」が36.9%と最も高く、次いで母親が24%、兄弟姉妹・義兄弟姉妹が22.5%という結果になりました。




    ケアの内容をみると、食事の用意や洗濯・掃除などの「家事」が58%と最も多く、そばにいて話しかけたり見守る、外に連れ出したりするなどの「感情面のケア」が41%、買い物などの「家庭管理」が32.4%となっています。




    「ケアは毎日」が最多
    さらにケアをしている頻度について聞いたところ「毎日」が35.3%と最も多くなりました。




    またケアを始めた時期については「中学生の時」が34.9%と最も多く、次いで「小学生4~6年生ごろ」が20.1%となりました。4割近くの子どもが、小学校を卒業するまでにケアを始めていることがわかりました。



    「お母さんに元気になってほしい」
    高校2年生の凛さん(仮名)は精神疾患を抱える母親と暮らしています。「お母さんに元気になってほしい」との一心で、小学5年生から多い時で週6日、1日3時間家事を担ってきました。
    しかし母親の症状は一向に良くならず、学校で授業を受けていても、母親のことが心配で集中できなくなってしまいました。徐々に学校にも通えなくなったといいます。

    凛さんのふだんの様子を撮影させて頂き、動画にまとめました。
    (11月24日放送「おはよう日本」より)
    「孤独を感じる…」 学校生活に影響も
    今回の埼玉県の調査からは、家族の介護などを担う子どもたちが、自分の体調や学習に影響が出ている実態も明らかになりました。
    生活への影響を複数回答で尋ねたところ「孤独を感じる」が19.1%、「ストレスを感じる」が17.4%、「勉強時間が十分に取れない」が10.2%となっています。


    「ヤングケアラー」への支援策を検討
    こうした調査結果を受けて埼玉県では、子どもたちへの支援策の検討を始めています。12月23日には福祉関係の専門家などとの会議が開かれました。県の担当者は「子どもたちが相談できる場の整備や、現状への理解を深めるため教職員などに研修を行うことなどを検討している」と説明しています。
    令和3年度の予算案に必要な経費を盛り込み、4月から支援を始めたいとしています。

    あなたの周りにこうしたヤングケアラーはいませんか?
    「誰にも話せずつらい思いをしている」など、体験をこちらにお寄せください。
    クロ現+
    2020年12月18日

    学校生活や将来の選択に影響も…「ヤングケアラー」をどう支える?

    NHKでは、18歳未満で家族の介護や世話を抱えている「ヤングケアラー」の現状を取材しています。あなたの悩みや体験を聞かせてもらえませんか?

    ※下の画像をクリックすると、アンケートフォームにとびます。

    「毎日部活に参加したかったけど、おじいちゃんの介護があるからできなかった」
    「精神的に不安定なお母さんが心配で、授業にも集中できない」
    「県外の大学に進学したかったけど、家族の介護があるから諦めた」

    これらは「ヤングケアラー」と呼ばれる子どもたちの声です。

    今年11月に埼玉県が公表した、全国で初めてとなる大規模な実態調査によると、高校生の「25人に1人」が「ヤングケアラー」とされています。しかし家族の介護や世話が当たり前だと思っている子どもは、「ヤングケアラー」だと自分からは打ち明けないことも多いといわれ、その実態はつかみ切れていません。

    また「ヤングケアラー」と一口に言っても、家族の抱える病気や症状によって、その子どもが担っている役割は千差万別です。「自分がやっていることもヤングケアラーに当てはまるの?」と感じる人も多いと思います。

    こちらの動画では「ヤングケアラー」の例を紹介しています。もちろん子どもが家事や家族の世話を行うこと自体は悪いことではありません。しかしそれによって学校生活や進路の選択に影響が出ているケースがあるのです。

    私たちは、状況によってさまざまな悩みを抱える「ヤングケアラー」の現状を取材し、その実態を明らかにしたいと考えています。さらに学校や介護従事者、行政、子どもを支援する団体など、子どもたちと身近な立場の大人への取材も通して、「ヤングケアラー」という社会課題にどう向き合えばいいのか、考えるきっかけを作っていきます。

    今後このサイトやNHKの番組で議論を深めていくため、みなさんの体験や感じていることを募集しています。いま18歳未満で、家族の世話や介護を抱えているあなたや、かつて「ヤングケアラー」の状況にあったあなたの体験をお寄せください

    みなさんの声を通して「ヤングケアラー」を取り巻く状況の改善につながるよう、事例や取り組みをお伝えしていきます。
    クロ現+
    2020年12月17日
    このお題はクローズアップ現代+で番組になりました

    【脳科学者・恩蔵絢子さんに聞く】家族が認知症に 性格や記憶力の変化にどう向き合う?

    先日番組あてに『認知症の祖母を持つ方』からメッセージが届きました。
    「認知症の症状によって祖母の性格や記憶力が変化し、戸惑っている」という内容でした。

    「私のことを思い出せなくなったり、周辺症状の幻覚があるようで、認知症であることは理解しているのですが、心が追いついていません。祖母とどう接すればよかったのか考えてしまいます。」

    大切な家族が認知症と診断され、症状が進行していったら、どんな気持ちで接すればいいのか。今回話を伺ったのは脳科学者の恩蔵絢子さんです。実は恩蔵さんも、5年前に母親が認知症になり、一緒に暮らしながらそばで見守ってきました。

    「記憶を失っても、母は母らしくいられるのか」
    脳科学者として、娘として、日々の暮らしの中で恩蔵さんが“発見”したことをもとに、アドバイスを伺いました。

    (「クローズアップ現代プラス」ディレクター 加藤弘斗)

    恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)さん 脳科学者
    金城学院大/早稲田大/日本女子大 非常勤講師 著書に『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)
    (※恩蔵さんがスタジオ出演した12月17日放送の「クローズアップ現代+」はこちら
    記憶を失っていっても “母らしさ”はなくならない
    ―― お母様が認知症と診断された時、恩蔵さんはどんな気持ちでしたか。

    恩蔵さん
    母は5年前、65歳でアルツハイマー型認知症と診断されました。自分自身、やっぱり「なってほしくないもの」と思っていましたし、「母が母でなくなってしまうかもしれない」と感じました。悲惨な未来を思い描くこともあったけど、突然何もかもができなくなるわけではなくて、認知機能はゆっくり落ちていくのであって、時間はあるということにも気づきました。

    それから、研究者として「記憶を失っていっても、母は母らしくいられるのか」という疑問を意識的に持って接すると、いろんな発見があったんです。
    ――脳科学の視点から認知症をみるというのはとても興味深いと思いましたが、どんなことに気がつきましたか。

    恩蔵さん
    記憶を補えば、できることは増えるということです。母はアルツハイマー型認知症で、まず記憶を司る海馬という場所に萎縮が起きました。海馬が萎縮すると、現在のことが脳に定着しにくく、記憶が整理しにくいので、うまく判断ができなくなるということが出てきます。

    母はとても料理が好きだった人なのですが、認知症になり、料理をしなくなりました。味噌汁一つとっても、料理はいろんな工程を経て完成されるものですから、何を作ろうとしていたのか、どこまでやったのか、など記憶を維持できないと難しくなるのです。でも、私がそういう記憶の代わりとして、母に今何をやっているか声をかければ料理が続けられるのではないかと考えたんです。
    記憶を司る海馬が萎縮するとエピソードが覚えられなくなる


    ―― そのように考えられたのは、どうしてだったのでしょうか。

    恩蔵さん
    海馬を含む内側側頭葉を手術で切除して、新しい記憶が覚えられなくなった人のある実験があります。二重線で書かれた星と星の間を逸脱せずになぞるという課題に取り組むのですが、その人は毎回「その課題をやった」ということを忘れてしまいました。

    海馬を切除したことで、意識的にエピソードとして記憶しておくことができなくなったのです。だけど、実験を重ねると、精度よく星を書けるようになったことがわかっています。繰り返しやることで体で覚えていくという、アルツハイマー型認知症で海馬に問題があっても、こうした“身体的記憶”は比較的失われにくいのです。

    母も料理に関して、包丁を使って皮をむいたり、切ったりする身体的能力は、残っているはずでした。だから、「私が隣で、今何を作っているか、次は何をすればいいのか料理の道順だけを伝えてあげればいい」と考えたんです。実際に、私も一緒に台所に立てば、母は料理をしてくれることが増えました。

    いまは症状がだんだん進行しているので、難しい部分も増えてきましたが、簡単なことでもお願いするととても嬉しそうな顔をするときがあります。


    ―― 一緒にやれば、できることを増やせるというのは救いになる話ですね。他にも、お母様と向き合う中で考えたことはありますか。

    恩蔵さん
    例えば、認知症と診断されたばかりの頃の話ですが、母が友人とコンサートに行って帰ってきて感想を聞くと「全然よくなかったわ」と答える。でも2時間後にもう一度聞くと、「ソプラノがよかったわ」なんて言うんです。

    矛盾したことを言っていると思って戸惑うかもしれませんが、もしかしたら「全然よくなかったわ」という印象は、帰ってきたばかりのときに聞いたので、帰りの電車で友人とコミュニケーションがうまくとれなかったり、何か友人の前で失敗してしまったりして、その感覚が強かったのかもしれない。コンサートに行くことには、往復の時間も含めて何時間もの時間がかかるわけで、その中では、母も色んなことを感じているのだと思います。

    うまくいかない時間帯もあったかもしれないけれども、素晴らしい音楽を聴いたということもちゃんと感じている。認知症でない人であれば、「どうだった?」と聞かれたら「良かったよ」とかで終わってしまうかもしれませんが認知症の人は感じたいろんなことを伝えてくれているんだと思います。
    「こんなことはできないはず」と能力を決めつけない
    ―― お母様が認知症と診断されて5年。症状が進行してきて不安な部分もあるかと思いますが、接する中で大切にしていることを教えて下さい。

    恩蔵さん
    できることがあることに目を向けることと、“母らしさ”は失われていないと信じることかなと思います。

    母は新しいことがほとんど覚えられなくなり、最近、デイサービスに行くようになりました。どういう状況か知りたくて、職員の人にどんな様子か聞いたところ「友達がたくさんできて、いつも誰かとお話していますよ」と言ってくれたんです。それを聞いたときに、私はとても感動して涙が出ました。「人の顔が覚えられるのかな」 と心配していたんですが、母が認知症になっても新しい友達を作れたことがとても嬉しく、素晴らしいことだと思ったんです。「こんなことはできないはずだ」と人の能力を決めつけてはいけないのですね。

    こんなこともありました。私が仕事で落ち込んで、帰ってきたときに思わず母に抱きつくことがあったんですが、母は「誰かに嫌なこと言われたの?」「あやちゃんに嫌なこという人がいるの?」と声をかけてくれました。これは小さい頃に私に何かがあるとかけてくれた言葉で、そういう母らしさは今も変わっていないんです。

    だから、「記憶を失っても母は母らしくいられるのか」という問いに対して、5年経っても母は私の母だと言えると思います。

    ――番組に「祖母が私のことを思い出せなくなったり、幻覚があるようで、認知症であることは理解しているけれど、心が追いつかない」という声が寄せられました。
    恩蔵さんだったら、この方にどんな言葉をかけますか。


    恩蔵さん
    今まで通りにコミュニケーションをとれなくなって、そのことにどうしても傷ついてしまうのは、仕方がないことだと思います。

    母が診断されたばかりのころ、私も戸惑って毎晩泣いていました。今でも母の気持ちを尊重できる時期とできなくなる時期があります。

    できない時期は、少し離れる時間を取るようにしています。余裕が少しできたときに、おばあさまがどんな感情を持っているかに注目してみてください。
    おばあさまが何を大事に思っていらっしゃるか、意外なことがみえてくるかもしれません。

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    クロ現+
    2020年12月17日
    このお題はクローズアップ現代+で番組になりました

    認知症の当事者や家族に悩みを相談したい方へ

    12月17日(木)放送のクローズアップ現代プラス「認知症の私が認知症の相談にのってみたら…」では認知症の当事者同士が体験を語り合あったり相談にのることで、お互いを支え合う取り組みについてご紹介しました。
    もしあなたや周りの人が認知症と診断され「当事者の人に悩みを打ち明けたい」と思った場合、相談できる窓口をご紹介します。
    Q 自分の住む地域でも、当事者の人に相談することはできる?
    認知症の当事者同士が支え合う取り組みは、“ピアサポート”と呼ばれています。国は全都道府県での実施を目標に掲げていますが、実施状況は各都道府県で異なります。 お住まいの地域で“ピアサポート”が行われているかどうかは、各都道府県の高齢者福祉担当課(名称は自治体によって異なります)に問い合わせてみてください。

    Q どこに行けば、他の認知症の人やご家族と知り合える?
    全国の自治体に「認知症カフェ」がおよそ8000カ所設置されています。認知症の人やその家族、地域住民、介護や福祉の専門家など誰でも気軽に訪れることができます。いつ、どこで開催されているかなど、詳しくは各市町村の高齢者福祉担当課地域包括支援センターに問い合わせください。
    ▶全国の地域包括支援センターの一覧 (※NHKサイトを離れます)
    ▶認知症カフェの情報や各地の事例

    Q 認知症に関する電話相談も
    (厚生労働省のホームページより)※NHKサイトを離れます
    認知症に関する電話相談(公益社団法人 認知症の人と家族の会)
     電話番号 0120-294-456(フリーダイヤル)
       ※携帯電話・スマートフォンからは050-5358-6578
     受付時間:午前10時~午後3時(月~金 ※祝日除く)
     このほか、全国の支部でも電話相談を受け付けています

    若年性認知症専用コールセンター(認知症介護研究・研修大府センター)
     電話番号:0800-100-2707(フリーダイヤル)
     受付時間:午前10時~午後3時(月~土 ※年末年始、祝日除く)
     ※65才未満の認知症の人やご家族の相談に応じています

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    クロ現+
    2020年11月27日

    【家族が認知症と診断されたら】当事者に聞く 接し方のポイントは?

    もし自分の家族や親しい人が「認知症」と診断され、本人が強いショックや不安を抱えていたら、周りの人はどのように向き合ったらいいのでしょうか。先日、認知症の当事者や家族同士が支え合う「ピアサポート」の取り組みを動画で紹介したところ、「家族はどう接したらいいのか聞いてみたい」という声を頂きました。
    そこで今回は、認知症の当事者である渡邊康平さんと妻の昌子さんに、ご自身の経験や普段感じていることをもとに、「家族の接し方について」のアドバイスを伺いました。

    (「クローズアップ現代プラス」ディレクター 加藤弘斗・武井美貴絵)


    5年前に認知症と診断される。香川県内の病院で行われているピアサポートに相談員として参加、これまで約70人の当事者の相談にのってきた。 国が認知症の普及啓発を行うために選んだ「希望大使」としても活動。

    康平さんの妻として、ピアサポートにも参加。家族の目線から同じ立場の人たちの話を聞き、当事者への接し方などのアドバイスをしている。
    ※渡邊さんの経験やピアサポートの活動については、こちらの記事もご覧ください。
    ①本人のプライド・尊厳・繊細な気持ちを大切に
    加藤ディレクター
    康平さんが診断を受けたあと、周囲の何気ない一言に敏感になった時期もあったそうですが、いま振り返ると当時どのような心境でしたか?

    康平さん
    認知症と病院で診断されて3か月ぐらいは、ほとんど言葉も出なくて、食事もあまり食べられなくなって、どんどん痩せていきました。自分の心や頭にゆとりがなくて何か針が刺さったような感覚もあり、 周りの人たちの言葉や動作にカチンとくることもありました。
    昌子さん
    お父さん(康平さん)は、診断後の一番どん底の時は覚えてないんだそうです。ある意味ガードしていたのかもしれません。私は本人の本当のつらさの10分の1も100分の1も分かっていないだろうけど、自分にできる限りのことは一生懸命しようと考えました。
    認知症と診断された人はちょっとしたことで傷つきやすい。ご家族の中には、本人に対して「何しているの?こんなことできないの?分からないの?忘れた?」ということを本人におっしゃる方もいます。当事者が自分でも分かっていることを、もう1度グサグサって言われるのは、すごく堪えるだろうし、何も出来なくなってしまうと思います。
    だからとにかく本人のことを大事にするよう心がけて接したら診断後の落ち込みからもずっと早く立ち直れるのかなと思います。
    ②本人のメッセージを表情や態度から読み取る
    加藤ディレクター
    当事者の中には、その時々の自分の気持ちや、してほしいこと/ほしくないことをなかなか言葉で伝えられない方もいます。渡邊さんの場合はいかがでしたか?

    昌子さん
    診断を受けて数か月は、お父さんも言葉が少なくなっていたので、わたしもアンテナをしっかり張って様子を見ていました。そして本人からのメッセージ、表情、態度、行動、仕草などをできるだけキャッチして対応するように心掛けていました。「いまは関わって欲しくない」「言葉かけて欲しくない」という瞬間は、見たら分かるんです。その様子を見ながら、気持ちに寄り添うようにしました。
    あとはその時々の距離感を大切に、横で見ていて「今はものすごく悩んでいる」と分かったら、言葉をかけずちょっと離れて見守っていました。
    言葉には出なくても、本人は体や表情でいっぱい出しているんですよ。だからそれをキャッチして、できるだけ本人の気持ちを大切にするようにしました。例えば、食事の準備ができて声をかけるときも、斜め前から同じ目線で「ご飯できたよ、どうする?」とまず聞いて、本人がいらないと言ったら「分かった、もうちょっとしたらね」と答えるなど、本人の意思を尊重するようにしていました。

    渡邊康平さんと妻の昌子さん
    ③「よくなったね」など 何気ないひと言に注意
    加藤ディレクター
    渡邊さんのご経験から、周りの人が当事者に声をかける際、気をつけた方がいいことはありますか?

    康平さん
    認知症の当事者は、見た目は明るく振る舞っていても心のどこかで認知症が進行することへの不安を持っています。認知症にも色々な種類があり、いまのところ完治するような薬はありません。「この病気は治ります」と医者から言われる人はいないと思います。僕も毎月診察してもらっているけど、先生に「もう1度、脳の動き方を調べよう 」と言われ、その結果「ちょっと薬が増える」と言われたこともあります。「しょうがないな」と思うんだけど、そのときはやっぱり”ずしん”ときた。
    昌子さん
    いまの話ですが、診察後にピアサポートを行うカフェに行き、スタッフと明るく接していたけど、家に帰ってから私には複雑な気持ちを打ち明けてくれました。わたしはそういうときは見守るようにしています。特に言葉には気をつけて、「そやなあ」って共感したり、無理に気持ちを引っ張り上げるようなことはしない。本人の言葉をそのまま受け止める感じです。
    康平さん
    気持ちを引っ張り上げるような言葉や「元気出せ」というようなことを言われると、当事者は心が痛むんです。当事者は頭の中では「これで症状がよくなってくる」ということがないのは知っているから。
    昌子さん
    気持ちにできるだけ寄り添うようにして、無理に大丈夫よとも言わないし「うんうん」という感じで話を聞く。嘘はつけないって言い方はおかしいけど「治るよ」とはもちろん言えないしね。
    康平さん
    例えば僕が外に出かけている様子を見た人は、「認知症が改善した」と感じる場合もあるんです。僕自身は「明るくできるようになった」と思っているんだけど、周りの人からは「認知症がよくなったな」って言われる。そういう時は「いやいや」って言いながらニコッとしているけど、「だいぶよくなったな」って言われたら、嫌なんや。
    よくなってはないんだけど、自分は一生懸命「認知症でもできることはやっていこう」というふうに考えている。認知症当事者のほとんどが「認知症を治していこう」ではなく「自分たちの生き方で明るくしていこう」と考えていると思います。だから「だいぶよくなったな」よりも「元気になったな」って言われるのが一番いいんじゃないでしょうか。
    昌子さん
    言っている側は悪気はないけど「もう治ったみたいだ」って言われる。私の場合はそれを受け止めて「そうだけどね、お父さんはこんなことは忘れるし、できることだったら指示してやってもらっているんだよ」と、ある意味正確に言うわけです。本人にしたら「認知症は治るわけない」というのはわかってるんです。それでも、生き生きと元気に好きなこと楽しんでいるんです。

    新聞を読むときには、昌子さんに手伝ってもらう
    ④家事の協力を頼んで感謝の言葉を心から伝える
    加藤ディレクター
    取材中も、昌子さんが康平さんに対して「ありがとう」と言っている姿が印象的でした。そのような言葉を伝えることは意識していますか?

    昌子さん
    いまは一方的じゃなくてお互いが支え合い。洗濯はほとんどお父さんがやって、干してたたんでくれます。ありがたいし本当に助かる。 朝食の準備でも「お母さんなんかある?」と起きてきて、私が「お父さん卵をお願い」と言うと取ってきてくれたり、自然に助け合いやな。
    診断のあと心が落ち着いて、お父さんらしさを取り戻してきたら、本当に昔のいいところが出てくるんです。お父さんの性格やいい判断をするところは、完全に復帰しているんですよ。物忘れはするけど、人間的なこととか考え方はしっかりしていてブレてない。だからわたしは「渡邊家の大黒柱」として頼ってるんですよね。いつもお父さんがみなさんに一生懸命話しているように「認知症になって本当にもうおしまいじゃないよ、その人らしさを取り戻して、元気に生き生きとあとの人生を送れるんよ」って、そういうことだと思います。
    お父さんも、認知症になった方が、落ち込んだところからトンネルから抜け出して、元気に自分を取り戻してくれたらいいなと思って、ピアサポートの活動をしているんだと思います。

    洗濯はほとんど康平さんが担当

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    ★番組では、認知症の当事者やご家族に聞いてみたいことを募集しています。いま不安なことや生活で困っていることなどをお寄せください。↓↓
    クロ現+
    2020年11月10日

    「自分の生きづらさは障害?」気づかれない発達障害・知的障害  相談窓口は

    障害に気づかず、周りからも気づかれず、多くの人が生きづらさの理由もわからないまま苦しんでいることが、新型コロナウイルスの影響で浮き彫りになってきました。
    「もしかして、自分も…?」と思った方は、若い方でも、大人でも、相談できる窓口があります。 最初の相談窓口として主に利用できるのは、「発達障害者支援センター」「精神保健福祉センター」「市町村保健センター」
    この3つの中で、お近くのセンターにお問い合わせ下さい。










    クロ現+
    2020年11月6日

    認知症ピアサポート 当事者同士で支え合う

    5年後には65歳以上の5人にひとり、700万人を超える人が認知症になると言われる時代。認知症と診断された後の人生をどう歩むのかが、とても重要になっています。そうした中で広まってきたのが“ピアサポート”です。認知症になった本人が他の認知症の人の話を聞き、お互いの体験を共有することで支え合う取り組みです。
    認知症ピアサポートの相談員をつとめているひとりが渡邊康平さん(78)です。5年前に認知症と診断されました。渡邊さん自身は認知症をどのように受け入れ、どんな思いで認知症の人々と向き合っているのか聞きました。

    (「クローズアップ現代プラス」ディレクター 加藤弘斗)

    同じ認知症の当事者だからこそ かけられる言葉がある
    香川県三豊市にある西香川病院で毎週金曜日に行われている認知症ピアサポート。午前10時過ぎ、職員の宿舎として使われていた部屋に、認知症と診断された当事者や家族が続々と集まってきます。西香川病院では、診断後、不安を抱えている人や、自分の悩みについて多くを語れない人たちを医師が見極め、渡邊さんに紹介しています。

    (認知症と診断された本人や家族と話す渡邊さん)

    これまで渡邊さんが相談にのった認知症の当事者は70人。繰り返し訪れる人もいます。最初の相談の時、渡邊さんはまず自身の体験から話し始めます。

    「地域の集まりで『認知症になったら、もうどうにもならんのう』と言われて、大きなショックを受けたことがあった。自分が言葉を話せない時期がしばらく続いた。実は今こうして元気で話せるのに、数年かかった」

    「認知症」という診断に大きなショックを受け、抱えきれない不安に直面している人に対して「同じ経験をしているのは決して一人ではない」ことをわかってもらいたいからです。

    当事者同士が体験を語り合い、相談にのることで支え合う、認知症のピアサポート。政府が去年まとめた認知症施策の計画「認知症施策推進大綱」で、全都道府県での実施が目標に掲げられている取り組みです。

    (三豊・観音寺市医師会 三豊市立西香川病院 大塚智丈院長)

    3年前、非常勤相談員として渡邊さんを雇い入れた西香川病院の大塚院長。医師が言いづらくても、認知症の本人であるからこそ伝えられる言葉があると感じています。

    「“早期診断・早期絶望”と言われる状態から、前を向いて生きられるようになってほしい。だけど、認知症になっていない自分が、『こういうふうに考えたらどうか』ということを軽々しく言えない時がある。同じ立場の人がいたら、わかってもらえるかもしれないと思うことができるし、不安や悩みを軽減できる可能性がある。実際に診察では『何も困っていない。全然問題ない』と言っていた人が、ピアサポートの場に行って渡邊さんの話を聞き、涙を流されたケースがあると聞いています」

    「認知症の本人だからこそ、かけられる言葉があるのではないか」。渡邊さんはこんなことを伝えています。

    「もし交通事故で体のどこかの部分を失ったら、返ってこないでしょう?私は認知症もそんなものだと思っているんです。しょうがない。戻ってこない。でも、認知症になってもできることがあると思っている。できることやっていかずに人生終わったら、もったいないやんか」
    診断後のショックで体重が23キロ減
    (診断を受けて渡邊さんが手帳に書き込んだ文字)

    「できることはある」と当事者たちに声をかけ続けてきた渡邊さん。しかし、自分自身が診断を受けた後、希望を持って生きられるようになるには長い時間がかかりました。日本電信電話公社(現NTT)に就職し、長年通信関係の機械の設営や修理などを担ってきました。49歳で退職後は、地域の民主商工会で商店などの労務や経営の相談に乗ってきました。違和感を覚えたのは6年ほど前。パソコンでの作業に支障が出始め、書類のミスを立て続けに起こすようになりました。病院で検査を受けた結果、診断は「脳血管性認知症」。渡邊さんは、その結果をすぐに認めることはできなかったといいます。

    「まさか自分がなるはずがないと思って、いくつかの病院をまわったが結果はどこも一緒だった。認知症への知識がほとんどなくて、人間ではないような感じになってしまうのではないか、認知症は怖い、人生が終わってしまうというイメージを私自身も持っていた。知識がないから、逃げていくしかなかった」

    診断後は人目を避けるようになり、家に閉じこもるようになりました。食事ものどを通らず体重は23キロも減少。周囲の人からの何気ない一言にも敏感になり「わしゃ、もういらん人間じゃ」そんな言葉を漏らすようになっていきました。

    “本人の意思が大事” 支えてくれた妻の存在


    絶望していた渡邊さんを支えたのが妻・昌子さん(77)でした。連れ添って50年、2人の子供に恵まれて夫婦で穏やかな老後を送っていた中での告知でした。

    「どんなに本人が辛い思いをしているかが伝わってきて、どうにかして守らないといけないと思いました。診断された後はどんどん痩せていって、お風呂へ行くのを見てもしわだらけで、本当にかわいそうなぐらいになった。自分に何ができるか必死で考えました」

    日々落ち込む渡邊さんに対し、あえて「元気を出して」という言葉はかけなかった昌子さん。渡邊さんの意思を尊重し、そっと見守りながら過ごしてきました。

    「食事の準備ができて声かけをする時は同じ目線で『ご飯、できたよ。どうする?』という感じで接した。いらないと言ったら『わかった。じゃあ後でね』という具合に本人の意思を尊重するということを心がけた。あとは、相手のできることを全部奪ってしまわずに、できることはいっぱいしてもらったらいいと思います」

    少しずつ元気を取り戻してきた渡邊さんを見て、昌子さんは近くの公園へ散歩に誘い出し、外出できる距離を伸ばしていきました。昌子さんは今、西香川病院で相談員としても活動し、“家族の視点”からアドバイスも行っています。

    「一番はやっぱり、その人を大事な人だと思って接する言葉と接し方。家族の接し方で本人が変わる。本人が元気になったら、家族も元気になれると思います」

    (洗濯は今も渡邊さんの役割)
    認知症と診断されても できることは残っている
    (希望大使任命イベント ことし1月)

    ことし渡邊さんは、認知症の普及啓発を行うために国が選んだ「希望大使」にも選ばれました。ピアサポートを行いながら地域の学校で講演活動をするなど、認知症を正しく理解してもらうため、精力的に活動を続けています。
    暇を見つけると出かけているのが碁会所。認知症と診断されてから2年ほど行くことができずにいましたが、再び通うようになり以前の実力を取り戻すことができたといいます。

    「脳のなかに残らないものは増えていくかもわからんけど、残っているものもある。僕でいうとずっと読んできた新聞や本は読めなくなった。でも、碁は打てる。できないことばかり見るのではなく、自分にできることで、人生を作り直していけばいい」

    認知症の当事者のなかには、診断された後、情報もなく悪いイメージが先行し「何もできなくなるのでは」と強い不安を持つ人もいます。渡邊さんは「できることを諦めない姿」を伝えることで、希望を持った人生を歩めるよう背中を押してきました。

    (碁会所の大会では入賞することもある)
    ピアサポートは自分の“生きがい”
    診断から5年。渡邊さん自身も症状の進行と向き合いながら、ピアサポートを続けています。近頃はもの忘れが激しくなり薬の量も次第に増えてきました。それでも、認知症と診断された人が顔を上げ、その人らしい人生を歩み直す姿を見ると、自分も救われた気分になるといいます。

    「当事者が元気になってくれるというのは僕の生きがいです。その人の人生が変わると周りの家族の人生もまた変わってくる。『認知症になったらもうどうにもならん』そんな考えが、僕が生きている間に変わっていったらこれ以上の喜びはないですね」

    取材の最中、少しくらいもの忘れがあっても、常に笑顔で笑い飛ばしていた渡邊さん。自分らしい人生を生きるために、一日でも長く相談員を続けたいと願っています。

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    番組では、ピアサポート相談員の渡邊さんと妻の昌子さんに聞きたいことを募集しています。いま不安なことや生活で困っていることなどをお寄せください。↓↓
    クロ現+
    2020年5月18日

    【厚労省とLINE調査】「社会の痛み」ビッグデータの警鐘

    今月11日に厚生労働省からLINEを使った第4回の全国一斉アンケート調査の結果が公表されました。これまでの調査では主に発熱者の割合や職種別の感染リスクなど健康ビッグデータによる実態把握を行ってきましたが、今回主眼が置かれたのは緊急事態宣言によって生じた「社会の痛み」。感染第1波を乗り越えるためにひとりひとりが努力した自粛生活が若者の精神的な苦しみにも及んでいることが浮かび上がってきました。

    事業規模を問わず収入・雇用不安があらわに
    (文・慶應義塾大学 宮田裕章教授)
    今回のLINE調査においてもおよそ1800万人と非常に多くの方々から有効回答を頂きました。調査回収率が前回(およそ2500万人)から落ちた理由としては、関心と反応率が少し下がったことと、質問項目を多くしたことが起因しています。ただ、それでも今回質問しなければならなかったのは、緊急事態宣言の中で、人々がどの様な痛みを感じ、どのような格差が生まれているのかを明らかにする必要があったからです。ご協力頂いた方々に改めて御礼申し上げます。

    ロックダウンや行動制限の方法、経済的な保障については、各国状況が異なっています。新型コロナウイルスとの対峙の中で生じた痛みや格差については、日本は日本の現状のデータに基づいて考えていく必要があります。



    まず第一に強調すべきことは、いくつかの業種については、業種の規模を問わず非常に大きな影響を受けていることです。“収入・雇用に不安を感じている”と答えた人は、タクシードライバーで82%、理容・美容・エステで73%、宿泊業・レジャー関連で71%、飲食業で66.2%と大多数となっています。これらの業種については、5000人以上の雇用を抱える大企業から中小企業関係なく、一律に大きな被害の影響を受けていることがこの結果から伺えます。
    また業種の中でも今後の見通しが異なることにも注意が必要です。緊急事態宣言が解除された後、以前と同様とはいかないまでも、一定の制限で働くことができる職業と、客入りが根本的に変わる職業があります。例えば観光などは、国内客はもとより、インバウンドが回復する見込みも不明です。
    それ以外の業種において、“収入や雇用に不安を感じている”という項目に最も大きな影響を及ぼしていたのは事業規模でした。既に政府も様々なアプローチでサポートを始めていますが、小規模企業の不安の割合は、大企業と比べるとどのカテゴリにおいても2倍〜3倍となっており、この点も迅速かつ効果的な支援が必要であるといえます。

    心の痛みが特に広がる若者たち


    こうした雇用、収入の先行きの厳しさは精神面にも影響を及ぼしています。“毎日のように憂うつであった”、“楽しめていたことが楽しめなくなっている”という抑うつ傾向を示していた人達は、先ほど挙げた特に影響が大きい業種においてはいずれも10%前後と、高い割合を示していました。これらの業種で働く人達を、どの様に支えるかは社会にとっても喫緊の課題であると言えます。
    そして最も強い抑うつ傾向を示していたのは、学生達でした。“毎日のように憂うつであった”が14.4%、“楽しめていたことが楽しめなくなっている”が13.0%と全カテゴリでトップです。若年者については新型コロナウイルスにかかっていたとしても比較的軽症であるということで、“いうことを聞かず勝手に出歩く”という文脈で加害者的に扱われることもありました。しかしながらクラスター班の分析でも、繁華街の出入りで最も人の出入りが減少してたのは10~20代でした。もちろん全員ではないですが、日本の多くの若者達は適切に自粛をしていたといえます。
    では彼らは何故苦しんでいるのか?1つはアルバイトが出来なくなり学費が払えない、生計を立てられない学生が一定数いることが背景にあるでしょう。もう1つは、リーマンショックを超える不況の中で、職を得ることが出来ないという不安を抱えていることも想定されます。いずれにしても、コロナ禍の中で最も辛さを感じている立場の1つが学生達でもあり、彼らの未来を守るための対策もまた不可欠であるということです。
    3月から長く続いた自粛は、日本の多くの人々に影響を与えました。これから各々の経済活動や社会活動を取り戻していくことも非常に重要です。一方で、こうした状況下で辛い思いをしている人達をどのようにサポートして、一緒に立ち上がるかが、その国の未来の姿を決めるのだと思います。

    痛みの先にある「新しい日常」とは


    専門会議や政府から示された「新たな日常」という言葉があります。予防行動など短期的な感染リスク回避のために手洗いや社会的距離を日常に取り入れることがメッセージされていましたが、もっと根本的な意味で新しい変革が必要です。私が以前から提示していたニューノーマル(新しい日常)には別の意味を込めています。
    もともとニューノーマルという言葉は、リーマンショック後に起きた変化に対して、非日常が新しい常態になるという文脈で使われた概念です。当時、日本語としては「新たな常態」、「新常態」と訳されていました。今回あえて「新しい日常」という言葉を使った背景には、今回の変化はリーマンショック時とは根本的に違う部分があるからです。
    まず第1にその変化は、目先のコロナ対応のために、短期的なリスク管理のみを指すのではない、ということです。例えば、感染症対策のために、仕方なく授業を遠隔にするという視点ではありません。これまで制限があったオンライン授業が広がることでどの様な変化を起こすことが出来るのか?例えば詰め込み型の授業はオンラインで効率的なカリキュラムで行い、それ以外の時間はひとりひとりにあった「学習体験」「得意なことを伸ばす」「生きる力を養う」といった実践型の授業を行う。教員不足が深刻ですが、オンラインを導入することでそれぞれの教室で同じ内容の授業を繰り返す手間を省けるため、より効率的な働き方ができるかもしれません。すでに先進的な学校では試みが始まっていますが、コロナによって生まれた環境の変化をポジティブに捉え、広く普及していくことができるチャンスを迎えているのではないでしょうか。
    そしてもう1点重要なことは“「新しい日常」が何を意味するのかは、1人ひとり違うこと”です。これまでの日常は、社会が求めるスタンダードや平均に合わせて、生活を行うことでした。新しい社会への移行の中では、集団平均ではなく、個別化が重要になります。非日常が日常化した世界を私たちは迎えています。何が正解なのか、その答えを見つけることは決して簡単なことではありませんし、正解は人によって異なるのだと思います。しかし社会に生まれる痛みを常に捉えながら手をさしのべ、誰かに押しつけるのではなくみんなで協力をしながらこの新しい日常を作りだしていければと思います。「新しい日常」というのは激動する社会の中で1人ひとりが見いだして、支え合い、響き合って生まれるものであってほしいと考えています。

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    クロ現+
    2020年5月1日

    【自治体とLINE調査】データから読み解く「見えない感染」のリスク

    全国に8300万人のユーザーを持つ通信大手のLINEを活用した新型コロナ対策を行う慶應義塾大学の宮田教授。国や地方自治体と協力しながら集まったビッグデータの分析に取り組んでいます。4月24日には神奈川県から最新報告が行われました。緊急事態宣言からまもなく1か月を迎える今、宮田教授は予断を許さない状況が続いていると話しました。
    LINEを使った新型コロナ対策パーソナルサポート
    (慶應義塾大学 宮田裕章教授)
    新型コロナウイルスと向き合っている全ての関係者の皆様、感染のリスクと向き合いながら現場に立ち続けている皆様に深く感謝申し上げます。多くの人たちの命を守り、社会システムが機能するためには「医療崩壊」を防ぐことは最も重要です。一方で今、医療現場だけではなく日本全体に潜むリスクや対策についても考えなくてはいけません。

    私は3月からLINEに協力をいただき、2つの取り組みを行っています。ひとつは厚生労働省による全国一斉の健康アンケート調査です。現在も継続した調査を行っており、新たな分析結果を皆様にお伝えできるようにしたいと思います。もうひとつは全国25(4月29日時点)の自治体による「新型コロナ対策パーソナルサポート」です。利用者に定期的に健康状態の聞き取りを行い、ひとりひとりの症状にあったケアや予防法、最新情報などを随時提供する伴走型のサポートです。ここで集まったビッグデータについても分析を行い、地域ごとのさらに詳しい実態を把握して対策にもつなげている次第です。

    家庭内での発熱者数の増加
    今回、LINEのビッグデータから主に2つの結果が見えてきました。



    まず上記のグラフが示しているのは「身近な人の中で新型コロナウイルスの陽性と診断された人がいるか?」という質問に対する回答別の発熱割合です。特に同居する家族で陽性者がいる人の発熱リスクが4月以降大きく上昇をし続けていることがわかりました。外出自粛が強く打ち出されたことにより、家庭内での接触の機会が増えていることが要因だと考えられます。こうした傾向は東京都など他の自治体でもPCR検査による陽性者のうち、家庭内で感染した人が増えています。一方でLINEの地域別の分析では、4月以降は発熱者の分布はエリア内に集積する地域が多く、他のエリア外に大きく拡散はしていません。自粛の1つの効果だともいえますが家庭内の感染拡大は注意が必要です。

    軽症者の隔離とサポートが重要
    中国の武漢でも封鎖の初期では家庭内感染が増加しました。このグラフは武漢における感染の推移と対策です。(引用元 米国医師会雑誌ネットワーク論文『Association of Public Health Interventions With the Epidemiology of the COVID-19 Outbreak in Wuhan, China』)(※NHKサイトを離れます)(P.3 図1 The Epidemic Curve, Key Events and Features, and Public Health Interventions Across the 5 Periods During the COVID-19 Outbreak in Wuhan, China より)



    感染者が増え始めた1月23日から強力なロックダウンと共に家庭内検疫を行っています。その間、新規感染者数は横ばいになっていますが、感染拡大からはすぐにピークアウトできませんでした。軽症者の自宅待機は、家庭内感染だけでなく、症状悪化に対する対応の遅れ、買い出しなどの対人接触が避けられないなどのリスクをコントロールすることが簡単ではありません。さまざまな要因が背景にあるので一概にはいえませんが、武漢においては重症者だけでなく、軽症者も含めた隔離政策に切り替えた後に減少に転じています。また韓国の場合も隔離施設における対策を徹底した後にピークアウトに成功しました。日本では、医療崩壊をさせないために、重症者に病床を空けるという点に注意が向けられていましたが、自宅待機の軽症者が死亡するケースなどが出てきており、病院外における軽症者の隔離とサポート体制を一層進めることが必要です。

    さらに今後はPCR陽性者だけでなく、発熱症状などの関連症状がある人々についても対策を行うことは重要です。1か月前のLINE調査でも、発熱症状があっても休むことができる人は半数しかいませんでした。発熱などの症状を持つ人がすぐに社会的距離をとって療養できるようにサポートすることは、全ての働く場、暮らしの場において考慮すべき事項です。

    “見えない感染”とどう向き合うか


    図は「身近な人の中に陽性者がいる人」と「身近な人の中に陽性者がいない人」の発熱割合です。4月の頭までは、陽性者との接触経験を自覚している人の発熱割合が高かったのですが、4月中旬からは身に覚えのない人の発熱も増え、今はほとんど変わらなくなっています。東京都の保健所に関わる方々からの聞き取りを行ったところ、感染経路が不明な場合“話したくない”というケースよりも”全く身に覚えがない”というケースが増えているという話でした。

    こうした見えない感染について考慮すべき分析があります。慶應義塾大学病院が無症状の入院患者に対して行ったPCR検査の結果です。67人中4人、およそ6%の患者さんが無症状でも新型コロナウイルスに罹患していました。入院患者という偏った母集団であり、またサンプルサイズも少ないことから6%という割合を日本の現状として考えることは限界がありますが、これまで見えていなかった実態があり、さらなる警戒が必要です。

    またロックダウンが続くニューヨーク州では一般住民3000人に対して抗体検査が行われました。その結果、既に14%の人々が抗体を持っている可能性があることを示しました。調査方法や抗体検査の精度に不明瞭な点があり、現時点でこの報告のみを事実として考えるのは早計ですが、これまで積極的に検査を行っていたニューヨークであっても実測の10倍以上の感染率です。ここから警戒しなければいけないのは“想定以上の感染力”と“医療システムを破壊する重症者・死亡者数”です。考えられている以上に無症候状態のまま感染が広がっている可能性が高く、なによりニューヨーク州はアメリカ最大の感染震源地としてすでに1万5000人以上が亡くなっています。もし14%の人々に免疫があったとしてもそれがどの程度の期間持続するかは不透明ですし、持続したとしても集団免疫にはまだ遠く、第2波、第3波でパンデミックが発生すれば依然相当数の死者が発生します。「感染者に対して新型コロナウイルス致死率は想定以上に低いのでは?」という楽観的な見方のみで安心するべきではありません。

    こうした状況を踏まえて日本の現状はどうなのか。現時点では十分なデータはありません。今後国内でも進む抗体検査など多角的なアプローチで状況を把握することが必要です。

    社会的距離をとり続け、さらなるエビデンスを積み上げる


    では今、私たちはどのように行動すれば良いのでしょうか。ある臨床現場では、i.プライベートであっても食事は1人でとる、ii.休憩中は人の方を向かずに壁を向く、iii.周囲の人も自分も新型コロナウイルスに感染しているという前提で常に生活する、という厳戒態勢で行動を行っています。ここまで気をつけても感染を防ぐことは簡単ではありませんが、患者さんの為にも様々な現場で日々対策が講じられています。感染リスクが高まる中でも働かなくてはならない、臨床現場を初めとする多くの方々の取り組みに敬意を感じていますし、継続的なサポートが必要です。

    私を含む臨床現場以外の人々ができることは、やはり社会的距離をとり、今はできるかぎり家にいることです。感染経路が見えない間は、様々な行動制限の中で感染を抑え込むしかないのです。もし感染者数が減少傾向になったとしても社会的距離は継続し続けることが大切です。そうした中で世界は行動制限のトライアンドエラーを繰り返し、新型コロナウイルスに対するエビデンスを積み上げています。このようなデータに基づいて、各分野で行うべきリスク管理、可能な社会活動、そしてその先にある新しい日常(New Normal)をみんなで考えていくことが大切なのです。

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    クロ現+
    2020年4月20日

    【厚労省とLINE調査】ビッグデータで感染拡大を防ぐ


    厚生労働省と通信アプリ大手のLINEが協力して行っている新型コロナウイルス対策のための全国調査。先月31日から今月1日にかけて行われた第一回の調査では4日以上の発熱が続いていると答えた人が全体の0.11%、全国でおよそ2万7000人に上ると10日に発表されました。この調査のビッグデータの分析を指揮しているのが、慶應義塾大学・宮田裕章教授です。
    宮田教授にこの調査から分かったこと、この調査の意義について聞きました。


    “かつてない大規模健康アンケートから命を守る対策につなげる”
    (話:慶應義塾大学・宮田裕章教授)
    これまで日本の感染拡大防止の要となっていたのはクラスター対策でしたが、中心となるのは陽性になった方のデータです。しかし現在は感染経路が追えなくなっている患者さんが非常に増えています。陽性と判断できた方だけでなく、その“外側の世界”で何が起こっているかを把握し、対策を打っていく必要があったので厚労省、LINEと一緒に企画させていただきました。
    LINEは8300万人のユーザーがいて、かなり幅広い年齢層の方が参加しているので、こういった方に今の健康状態をうかがうことで、日本が今、抱えるリスクを把握できます。こうした大規模な健康アンケートは前代未聞ですがLINEに無償で協力していただき、かつ、データに関しても厚労省が許可した使い方以外に使わないという協定を結んでいただいたかたちで、社会に貢献するための取り組みとなっています。

    今までは、自粛を行うとどういう効果があるのか、われわれ1人1人はどうすればいいのかに関してのデータが、十分にはありませんでした。そこでLINEユーザーに協力いただき、ビッグデータを得られれば、それぞれの立場がどういう行動をしていけば1人1人の身を守れるか、あるいは大切な周りの方を守れるか、社会全体として、どうやって立ちあがればいいかが見えてきます。 これからも、新たな分析が走っていくので、日本が多くの人の命を守りながら立ちあがることができるような結果を関係者と連携しながら分析していくことができればと考えています。

    “分析のポイントは働き方、生活環境などで分けた6つのグループ”
    今回は、それぞれの働き方、過ごし方で、新型コロナウイルスに対する感染リスクが、どれくらい違うかを分析しました。



    大まかに6つのグループに分けました。例えば飲食業の人たち。客は食べるときにマスクを外します。その状況の中、近距離でサーブをしなければいけません。あるいは外回りの営業の人たちも、外回りの一環で、外でご飯を食べたり、ミーティングをしたりとリスクをコントロールしづらいグループになります。一方で、教職員や学生などは、もともとは3密のような環境ですが、現在、休校措置がとられ、リスクはコントロールできています。あるいは専業主ふの方は家にいるという行動が比較的とりやすいです。このように仕事の一環のなかで、どうしてもマスクを外して近い距離で人と接しなければいけない職業だったり、人と接することはある程度あっても、マスクなど、環境を整えるようなことができているような職種であったり、あるいは人混みを避けて社会的距離をとれる職業など、働き方をもとに、6つのグループに分けました。

    “データが示す 職種・生活環境による発熱リスクの大差”

    ・サービス業や営業職の人たちを守らないと今後の日本が危うい
    グループ1は他のグループに比べると、発熱者の割合が2倍近く多いです。各都道府県のエリア別で見ても、彼らはエリアのリスクが上がると、一番、新型コロナウイルスに対する影響を受けやすくなります。そういう意味で、非常にリスクの高い過ごし方、働き方をしてしまっているので、非常に注意が必要だと思います。
    彼らが悪いわけではないんです。この感染症の特徴が、より人と接触して防御行動がとりづらい働き方、過ごし方の人たちを直撃したということなんです。今までの台風、地震の際の自粛とは、ちょっと違います。遊びに行かないという自粛の方法とは違い、仕事を一生懸命やっているはずなのですが、それが今回のウイルスに関しては逆効果のようになってしまっているということがある。Yahoo!のデータから見ても、休日は下がっていますが、4月に入ってからの、平日の減少具合は30%にとどまっています。こうした中で8割の接触減に届くかどうかというところが、こういったボトルネックになっているところをコントロールしていかないと、おそらく日本は、感染症を抑えることができない。働き方であったり、あるいはリスクを回避できるサポートが、早急に必要なのです。

    飲食は、日本の宝です。今、世界の人たちが、なぜ日本に観光に来るかというと、多くの理由が、世界一の食文化です。こういった飲食業は、絶対に守らなければなりません。ただ、このまま1か月、なんとなく営業を続けてしまうと、感染拡大する可能性がある。そうするとこれから営業できなくなるし、日本全体も倒れてしまいます。
    そうならないように、しっかり補償手当を政策で付けたうえで、どうすればここから先、長く続くウイルスとの戦いのなかで、彼らが社会的活動を続けることができるのか。 3密を避けた工夫をした営業のしかただったり、あるいはテイクアウト、デリバリーを支援する動きだったり、いろいろなアプローチがあると思いますので、飲食だけではもちろんないのですが、日本の宝である対人サービス、接客業、飲食をしっかり守りながら次の立ち上がり方を考える時期かなと思います。

    ・「家にいること」「不要不急の外出を避けること」が感染拡大防止につながる
    また、重要なのが、自粛の条件下で、3密回避や社会的距離をとることができていたグループの方、これは専業主ふの方(グループ5)や、テレワークをちゃんと導入できていた事務職も、こういったグループに入ると思いますが、この人たちはエリアのリスクが高くなっても、発熱者の割合は、ほとんど変わらないことです。
    防御行動がとりづらい働き方、過ごし方は、もうエリアのリスクとともに、どんどん上がって、こういった人たちが、また感染を広げる温床になってしまいますが、家にいることができているグループは、そのリスクを上げないですし、おのおのが家にいることによって、このウイルスの封じ込めにもつながるので、まさにこの過ごし方が、緊急事態宣言下で、すごく重要になってきます。今一番重要なのは、まずは家にいることです。緊急事態宣言が発令された地域に関しては、特に不要不急の外出を避け、家で過ごす。これが今の日本においても、非常に有効であるということをデータが示しています。

    ・働かざるを得ない職業・職種をどう守るか対策を
    一方でもう1つ大事なのは、グループ2やグループ3ですが、グループ2は医療職、介護職、対人接触だったり、3密になりがちな部分はありますが、マスクをしたり、専門的知識を持っているので、防御行動がとれます。そういう意味では営業職(グループ1)に比べて、割合も少なくなっています。あるいは小売りや運送業の人(グループ3)も、同じように工夫が比較的しやすいということで、エリアリスクの影響が主です。
    重要なのはこれから日本がどういうかたちで感染が広がるかわからないのですが、どのような場合であっても、医療職、介護職であったり、あるいは生活必需品を扱う小売りの方、運送業の方は活動していただかなければならないということです。

    こういった方を守るための対策、マスクや防護服を優先的に供給することだったり、あるいは3密を避けられるように、例えばレジ前に密集しないように、距離をとって並ぶとか、あるいは対面で受け取らずに、いわゆる玄関前に置くとか、こういった工夫をする。制度的な支援、そういった手当をつけていくこと。こういうリスク回避を行うことができるようなサポートだったり、対策を打っていく必要があります。勿論これ以外の職種においても、共通することになります。

    “改めて3密回避・社会的距離を考えて生活を”
    今回の調査から3密や社会的距離をとっている方のデータからも明らかなように、今の日本の状況下、特に緊急事態宣言を出されているエリア、それ以外のエリアでも、家にいることが本当に大事で、かつ、不要不急の外出を避けること本当に重要なこと。感染リスクを、1人1人下げて、ほかの人に感染を広げないという意味でも、もっとも重要であるということが、あらためてこのデータで確認できました。
    外で働かなければいけない人たちも対策を取ったり、サポートを提供することによってリスクを下げることはできます。企業側が、営業のしかたを工夫するとか、テイクアウト、デリバリー、席の配置を工夫しながら、営業をする。緊急事態宣言下の日本では、現時点では家にいるという選択肢をとることが重要です。ただそうした制限が明けた先に、今まで通り働くこと、過ごすことはできません。感染症を広げない行動をとりながら、どの様に働くか、過ごすかということを全ての人々が考える必要があります。今は、次にどう立ちあがるかを考えて過ごす大事な時期なのです。

    “ウイルスとの戦いは長期化 さらに多角的なデータが必要”
    人々がどう行動したかのデータは、いろいろな分野のデータから日単位でわかるようになっているので、われわれが今、行っている自粛だったり、あるいはこれから休業する職種も増えますが、それがどういう効果があるか、あるいは、今の日本はどういうリスクにさらされているかを踏まえたうえで、みんなで、働き方、過ごし方を考えていくことができるのかなと思います。
    まだ一つのデータだけですが、多角的なデータをそろえながらわれわれの暮らし方、過ごし方、働き方を考えていかなければ、この感染症に対しては、戦っていくことはできないです。今回の1か月で終わることは、まずないです。長い期間の戦いであって、どのようにしていけばいいかをわれわれのもっている情報データを使って、一緒に考えていくことが不可欠になると思います。あらゆるデータを多角的に使って、どういうかたちで社会が向かい合っていくか、こういった時代が来ているのかなと思います。

    “ものすごく大きな危機感。ただ、できることはしたい”
    日本は災害に見舞われてきたということなので、災害に対する自粛は慣れていますが、感染症に対する行動制限に関しては、経験があまりないんです。
    休日は出かけないけれども、平日の人との接触、仕事を一生懸命やっているんだから、いいんじゃないかという意識が今、まだどこかに多くの人たちはあると思います。あるいは、そうじゃないと、働けないということだったりすると思います。
    ここを工夫しながら、重要なのは休業手当をしっかりつけて、そのなかで、どう立ちあがっていくかを考えていくことが必要なのかなと、個人としては思います。
    3密を避ける社会的距離をとる、これが、各々の自覚のなかで求められていますが、これが社会全体としてできているかどうかということに関してはデータを採らなければ確認できません。モデルの予測をもとに行動し、その結果を確認して進む必要があります。データに基づいた実証により、できている部分はいい、そうじゃない部分は修正しながら、できる限り最善の方向に向けていきたいです。それはもちろん、個人の努力ではできない部分があります。そういったところは組織的な対応や、政策的な対応が必要になります。一方、個人でできる部分は、効果を確認し、維持します。感染を広げない状況を継続するためには何をすればいいか、こういったことを考えるためには、今、世界で、現実で、何が起こっているかのデータがないと進んでいけないわけです。

    これは海外も同じことで、あれだけ多くの被害者を出していたイタリアが、少し緩んだ瞬間に、また死亡者が増えてしまいました。フランスも、あれほど強力にロックダウンになっていますが、一部では効果が限定的でした。高齢者施設で感染が拡大していることがあります。

    私自身も大きな危機感を持っています。正直、対策が間に合うかどうかということも、難しいですが、ただ、できることはしたい。どこかに、穴の空いた状態で締めても効果はないので、できる限り、穴をふさぎながら感染症を抑えるしかないです。
    実態が把握できないと、どこかからか新たな感染拡大が起こってしまう。これが、このウイルスの特徴です。今回はLINEという一つの側面のデータしかないですが、さまざまな角度で現実を見ながら、何をすべきかを考えていく必要があると思います。

    “ご協力いただいた方々に深く感謝します”
    今回の調査は国勢調査に次ぐ、非常に歴史的な規模のデータになりました。こうしたデータを1人1人からいただくことによって、海外では、また見えていない、感染症の患者さんの外側の世界を見ながら対策を打つことができます。これが、本当に効果があるものになるかどうかは、これからの政策の打ち方や、皆さんの行動にかかっていくと思いますが、よりよい方向に進むための手がかりを、みんなのデータの力で得ることができるのは間違いないです。カバー率が少ないと偏りの影響も多く受けます。もちろん、多くても受けるのですが、ただ、多くの人たちから協力を得たことによって、より確実に見える部分もあり、皆さんのご協力に深く感謝したいと感じています。

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    クロ現+
    2020年2月25日

    【動画】若い世代のがん患者が悩む治療と生殖医療の問題

    ↑↑上の画像をクリックすると動画が始まります↑↑

    15歳から39歳のAYA世代でがんと診断される人は毎年2万人以上。
    直面するのは治療の副作用による不妊のリスクです。
    「自分の命」と「将来子どもを授かる可能性」、どちらを優先するか。
    あなたならどうやって判断しますか?ご意見、ご感想をお寄せください。


    様々な選択のヒントとなる情報はこちら↓
    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4381/
    クロ現+
    2020年2月7日

    【がんを乗り越え、命を授かる】

    2月5日(水)に放送した「クローズアップ現代+ がんを乗り越え、命を授かる ~若い世代のがんと生殖医療最前線~」にご出演いただいたタレント・矢方美紀さんは25歳で乳がんの告知を受け、がんの治療と“不妊のリスク”の問題に直面しました

    番組のダイジェストはこちらです。
    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4381/

    矢方美紀さんは、今もがんの再発を抑える治療を続けています。矢方さんの治療の日々や等身大の日常を「自撮り動画」で綴ったダイアリーはこちらです。


    番組の感想や矢方さんへの応援メッセージをコメント欄にお寄せ下さい!
    クロ現+
    2020年2月5日

    「がんを乗り越え、命を授かる」 もっと詳しく知りたい人に

    2月5日、若い世代のがんがテーマの「クローズアップ現代+ がんを乗り越え、命を授かる」を放送しました。「みんなでプラス」にこれまでお寄せ頂いたみなさまの声も一部紹介しました。ありがとうございました。がんと生殖医療、特別養子縁組制度などについて、窓口などの情報をまとめました。ぜひ参考になさってください。

    《がんと生殖医療》について:詳しく知りたい方は
    ★国立がん研究センター がん情報サービス「妊よう性 はじめに」
      https://ganjoho.jp/public/dia_tre/diagnosis/fertility/fertility_01.html
     (※NHKサイトを離れます)

    《地域の医療ネットワーク》について:調べたい方は
    各地域のがん・生殖医療ネットワークについて見ることができます
    ★日本がん・生殖医療学会「地域医療連携の紹介」
      http://www.j-sfp.org/cooperation/index.html
     (※NHKサイトを離れます)

    《特別養子縁組》について:詳しく知りたい方は
    ★日本財団「ハッピーゆりかごプロジェクト」
     https://happy-yurikago.net/
     (※NHKサイトを離れます)

    ★NHK厚生文化事業団・福祉ビデオ「新しい絆の作り方 特別養子縁組・里親入門」
     DVD教材を無料で貸し出しています(送料のみご負担)。
     https://www.npwo.or.jp/video/13172
     (※NHKサイトを離れます)

    《AYA世代のがん》について:関連する記事一覧
    ★NHKハートネット「#AYA世代のがん」
      https://www.nhk.or.jp/heart-net/tag/89/

    《番組に寄せられた声》はこちら↓↓
    ★AYA世代のがん 命と向き合う
      https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0009/topic004.html


    クロ現+
    2019年12月20日

    【身体拘束は減らせない?】⑦「徹底討論!身体拘束」放送後のさまざまな声

    クローズアップ現代+「徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”」放送を受け、視聴者から200通近いご意見をいただきました。ここにその一部を紹介します。

    ★“「急性期」の身体拘束は分けて考えるべき”という声
    医療現場の中でも“「急性期」の現場では身体拘束を減らすことが難しい”“回復期などの現場とは議論を分けてほしい”といった現場の声が多く寄せられました。






    ★身体拘束された経験者からの意見
    一方、身体拘束を経験したという、本人や家族からの声も多くありました。拘束されている時のつらい思いがつづられています。



    ★身体拘束がなくならないのは「医療をとりまく構造の問題」という声も
    「身体拘束をなくせないのは、現場で働く人たちの問題ではなく、今の医療をとりまく構造の問題だ」と指摘する多くの声が寄せられました。






    ぜひ自分たちも身体拘束を減らす取り組みをしたい、という若い看護師も、病院全体の意識改革の重要性を訴えています。



    ★大切なのは「コミュニケーション」
    一方、身体拘束ゼロを実現した現場で働く方たちは、患者や家族とのコミュニケーションの重要性を訴えています。






    ★過剰医療の問題にも目を向けてとの指摘も
    看護学生を養成している大学教員は、「身体拘束」の背後にある高齢者医療の問題について、番組で取り上げてほしいと要望がありました。




    9月に「身体拘束」をクローズアップ現代+で取り上げてから、いただいた声は500通近くにのぼります。番組への叱咤激励や、医療をとりまくさまざまな問題への建設的提言。熱のこもった声のすべてを参考にさせていただいています。今後も「身体拘束」について継続して取材を進めます。この問題について トピックにご意見をお寄せください。
    クロ現+
    2019年12月6日

    【身体拘束は減らせない?】⑥急性期病院で身体拘束の削減に挑む ~調布東山病院の取り組み(後編)~

    10月16日に放送した「徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”」。放送後、番組にお寄せいただいた意見の中で目立ったのが、急性期病院で身体拘束を削減することの難しさを訴えるものでした。前編に引き続き、一般急性期病院で身体拘束の削減に取り組む、調布東山病院の医療者に話を聞きました。看護部長の福地洋子さんが、身体拘束削減の取り組みを教えてくれました。



    ★身体拘束の削減には何が必要か
    患者さんの人権を考え、「不必要な身体拘束は行わない」「拘束を当たり前と思わない」と考えています。救命のため、一時的措置として必要な時はあると思いますが、拘束が安全であると思う固定観念にとらわれないで、患者さんへの十分なサポート体制が必要であると思います。

    患者個々のおかれた情報を共有し、日々どう向き合うか、最善の方法を多職種チームが一丸となって考えていく必要があると思います。患者に寄り添うことで、「なぜベッドから降りようとしているのか。なぜチューブを抜こうとしているのか」患者のニーズを把握し、看護師の気づきができ、点滴の管などの自己抜去防止の工夫、環境整備、安眠促進の工夫をすることで、ベッドサイドケアの充実に繋がり、QOL(生活の質)を維持し、安心した療養環境が送れます。上手くいった場合は、看護師のやりがいにも繋がります。

    ★認知症に対応するためのさまざまな取り組み
    2013年にBPSD(行動心理症状=暴言・暴行などの認知症の症状)で、私達の技術では手に負えない2事例を経験し、病棟看護師に疲弊感があり、看護師のモチベーションが低下したことがあります。認知高齢者の入院要請があると、病棟責任者は、「個室とかスタッフステーション近くの病室でなければ受け入れられない等」こと細かい点について要求していました。

    その後も、高齢者の緊急入院が増え続け、看護師がやりがいを持って働くためには何ができるかを考え続けていました。1~2名参加の研修では全体になかなか浸透しません。高齢者・認知症患者ケアに不安なく対応できる看護の必要性を感じ、以下の取り組みを始めました。

    ①認知症ワーキング(勉強会)、「患者さんも職員もより良い日々を送るために」 と言うテーマで、2013年から各病棟6名ずつ参加して月1回認知症勉強会を始めました。事例検討を中心に個人・チームで考え病棟で実践し、次回勉強会で評価する方法でした。回数を重ねる度、患者さんの立場に立った発言が増え、安心して療養できる環境の工夫作りが始まりました。

    ②ユマニチュード導入、哲学の基礎、4つの柱、5つのステップの技術を学びケアを実践し、効果も見られ、患者さんも人間らしさを取り戻し、せん妄予防(せん妄を起こしても軽度)に繋がっています。

    ③医療安全の勉強会では、身体拘束のあり方、拘束の3原則を考える機会になりました。 SMT(セーフティマネージメントチーム)が2014年9月に立ち上がり 点滴の自己抜去時のインシデントレポートは中止になり、点滴での拘束は激減しました。
    一方、ベッドを柵で覆う四点柵は時々あり、四点柵をしていた患者さんより、「私はサルではない・・・」と言われ、大きなショックを受けました。

    ④当直管理者による適正抑制か評価を2018年8月から開始し、必ず勤務帯で患者さんのラウ ンドをしています。

    ⑤認知症サポートチーム(DST)による活動として、カンファレンス・ラウンドを2018年9月から患者情報・治療方針を共有し、身体拘束患者の見直しを行っています。


    複合的な取り組みを継続的に行うことで、スタッフの意識も変わり、身体拘束は、かなり減ります。

    職員の入れかわりもありますので、今後も、組織全体で考え続けることが重要です。 理事長・院長・看護部長の方針、組織としての統一は絶対に必要と思います。当院は、理事長の理解、バックアップがあり、色々なことが進められました。

    ★患者家族との良好な関わりも大切
    入院すると、病院任せで面会に来ない家族もおりますが、反面、骨折や頭部外傷等のアクシデントが起こると、「看護師は何をみていたのか?」とクレームが寄せられることがあります。しかし、普段から、患者・家族と関わりを持ち、情報共有し、信頼関係を築いておくことが大切と思います。アクシデント発生時に説明に立ち会いますが、日頃からの関わりが良いと家族も納得します。

    理想と現実のギャップは大きく、一筋縄ではいかないのが現状ですが、組織的に多職種の協力の下で、患者・職員にとっても、安全で安心な医療が提供できるよう取り組んでいきたいし、身体拘束をしない時のリスクを認める社会になることを望みます。国民、社会の意識を変える啓蒙活動がもっと必要と思います。

    急性期病院で不要な身体拘束は減らせるのか?あなたのご意見をこのトピックにお寄せください。
    クロ現+
    2019年12月6日

    【身体拘束は減らせない?】⑤急性期病院で身体拘束の削減に挑む ~調布東山病院の取り組み(前編)~

    10月16日に放送した「徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”」。放送後、番組にお寄せいただいた意見の中で目立ったのが、急性期病院で身体拘束を削減することの難しさを訴えるものでした。そこで、前回の放送にご協力いただいた、調布東山病院の理事長であり医師の小川聡子さんに改めて話を聞きました。調布東山病院は、緊急に治療が必要な患者に対し、二次救急受入れ(2008件/年100床換算)、入院や手術・検査などを行う、一般急性期病院です



    ★「身体拘束」は明らかな人権侵害
    「身体拘束」についてですが、私の経験をお話します。
    私は、訪問診療も行っています。ある高齢患者さまに、人工呼吸(非侵襲的陽圧換気)を在宅で実施する必要がでてきました。まずまず上手く導入できたのですが、導入翌週の訪問診療でみたのは、ご家族が、装着器を外さないように、患者様の腕をベットに拘束していた姿です。

    命に関わるときに、それを改善するために行う治療を施すとき、人は誰でも自然に、「外さないように」「危ないから立たないように」何らかの手立て、「身体拘束」や「危ないから動かないで」ということを行うものです。それは、医療者だけではなく、ご家族もです。

    そのときに、「身体拘束」は「人権侵害である」という教育がされているかいなかで、次の行動が変わってくると思います。

    教育が、自分の行動を踏みとどまらせ、代替え案を考えるようになり、“なぜ患者様がそうするのか?”をアセスメントし、“ではこうしてみよう”という行動変容に向かわせると思います。現場ではこのような場に遭遇することが多くなってきており、教育が必要であるにもかかわらず、医療界では、未だにこの教育が遅れており、また教育機関である大病院が高齢者医療のフィールドから遠く、正しい教育を行うことができていないことが問題の本質にあると思います。

    ★急性期こそ高齢者医療・認知症対応の実力が必要
    きっかけは7年前にさかのぼります。急性期として救急の受け入れを断らない役割を果たそうとすればするほど、夜間の病棟の看護師さんがケアで悲鳴を上げている。ある患者様は、せん妄が悪化して、個室に畳を敷いての対応になりました。「帰りたい。帰りたい。」見かねたご家族が家に連れて帰られたとたん、その患者様はもとの普通の人間らしい生活に戻られた。一体、私たちは何をしているのだろう。大変衝撃的な出来事でした。それから、認知症に対応できるための技術を探し、私たちはユマニチュードに出会いました。

    認知症の患者様を診る(看る)には、医療とケアの両輪で診て(看て)いかないと上手くいかないということを学びました。医療(治療)については、私自身、せん妄の研究者である国立がん研究センター東病院の小川朝生医師の講習会に何度も参加し、また認知症サポート医の研修に参加しました。

    認知症とせん妄の違い(過去の小川朝生医師による記事はこちら)。便秘や脱水がせん妄を誘発する、世の中でたくさん処方されている胃薬がせん妄を起こすことがある、などなど知らないということが、如何に患者様に不利益を与えていて、患者さまを看ているスタッフや、ご家族に余計な負担を与えているかということを知りました。また、認知症と一言で言っても、その原因疾患は多岐にわたり、それぞれ特徴的な症状、予後をたどります。医師も、もっと認知症やせん妄について、深く知り、治療ケアに積極的に参画する必要があると思います。

    当時、急性期では、高齢者認知症の入院受け入れを断ることが多く見受けられました。さすがに、今このようなことを言う急性期はなくなったと思います。

    急性期とは、「患者の病態が不安定な状態から、治療によりある程度安定した状態にいたるまで」と定義されています(中医協DPC分科会・厚労省)。手術を多くやる病院だけが急性期ではありません。一般的にイメージされやすい急性期病院を、大病院に求められる「臓器別の専門診療体制を整備」したものだとしたら、私たちが自分たちの役割であると考えている急性期病院の役割は、「地域で安心して暮らしていくためのバックボーンである救急医療と、介護と一体となった虚弱高齢者に対する包括的サービスを提供する」ことです。これから、日本で一層必要になってくる急性期病院は、後者だと思います。その理由は、今後日本がたどる人口構造にあります。

    統計的に、今後85歳以上の後期高齢者の絶対数は日本中どこでも増えていきます。85歳以上の高齢者が増えると、疾病による救急搬送が増えることがわかっています。急性期病院が高齢の患者様を受け入れ、その方の人生の一コマに関わりながら治療する場面は、今後ますます増えていくのです。高齢者医療についての理解が深いとはいえない急性期に携わる我々は、そこを避けて通るわけにはいきません。

    85歳以上の高齢者では、認知症を併発していることは少なくありません。さらに、具合が悪くなり緊急入院になった場合、環境の変化・病状が悪いことで、せん妄や認知症の増悪を認めることは、けして特別な事ではないのです。だから、私たち急性期で仕事をする専門家は、腹をくくって、高齢の方をを診る(看る)実力をつけていくしかないのです。

    私たちはこの7年間の取り組みで、自分たちのコミュニケーションの取り方、正しいアセスメント、投薬のしかたで、高齢者の尊厳は取り戻せ、動かない、しゃべらない、わけのわからない人から、きちんと目を見てコミュニケーションがとれ、動くことができる一人の人間に変わっていくことを知りました。知った以上は、理由はなんであれ、自分たちの現状を変えていかないといけないと思っています。高齢認知症の患者を診る(看る)実力をつけて、最後まで尊厳ある生命を全うすることに、医療の技術で支えることが私たちの使命だと思っています。

    ★身体拘束を削減するために
    身体拘束は人権侵害だとして、ではどうしたら、認知症の暴力的な患者様とコミュニケーションをとるか。ここからが、難しい道のりになります。私たちは、7年前に「ユマニチュード」に出会って、これを学んでいます。実際の効果を実感しています。
    しかし、ただ学ぶだけではだめで、患者に関わる全ての人が、認知症の方のことを理解して正しく対応しないと、患者は混乱しケアがうまく行きません。組織への浸透が本当に難しいと感じています。

    また、急性期では、コミュニケーション技法(ケア)だけでは、上手くいかないと思います。それは、命に関わるために実施しないとならない「治療」があるからです。そこで、厚労省が掲げたガイドラインが重要になってきます。

    〇「人権」を侵してまで拘束することのメリットを良く考える。

    〇拘束を行う場合、「緊急やむを得ない場合」であるかどうか、複数の人間で評価を行い、その「切迫性」「非代償性」「一時性」のいずれにおいても合致する理由がある場合に、「一時的」に拘束を行う。


    急性期の拘束と、慢性期・亜急性期や介護施設での拘束は切り分けて考える必要があると思います。

    ★「急性期で身体拘束ゼロ」の困難と手ごたえ
    私たちの病院では、看護部が2013年に、まず抑制(=身体拘束)は原則「0」を掲げてくれました。具体的取り組みとして、

    〇医療安全管理委委員会の下部組織(看護部だけではなく多職種で構成)が中心となり、「抑制(身体拘束)に関する当院での手順」を作成。抑制の必要性の判定、ご家族への説明・同意書、抑制後のことなどを明文化。
    ⇒「抑制する」ということを医師・看護師に「意識」してもらい、簡単に抑制できないようにした。

    〇必ず複数の医療者で必要性を検討することを加えた。<抑制アセスメントセット>(添付参照)を作成し、具体的にカルテに記載することで、「なぜ抑制する必要があるのか」について、その都度真剣に考えるような仕組みにした。

    〇医療安全レポートの点滴自己抜針については、安全レポートを作成しなくてよいと、組織として方針を決定した。これにより、「抜針されるとレポートを書かなければならない」
    ⇒「抜針されないように抑制」という思考パターンにならないようにした。

    〇認知症ワーキンググループ、認知症ケアチームの見回り、ユマニチュードの学習を継続して行っている。

    〇医師に、むやみな点滴をしないように働きかける。例えば、「その点滴夜に必要ですか?日勤帯に全部入れてしまうことはできませんか」と相談する。

    〇薬剤師と医師で、多剤服用の問題を議論し、それで認知症を悪化させていないか検証するようになってきた。

    〇病棟の看護師だけが対応するのではなく、看護管理当直の役割りを再定義、看護補助の夜間人員を増やす方針決定、医療技術部中心に病棟夜勤対応(これは専門職としてではなくケア応援(トイレの移動など)として)を実現に向けて検討開始。


    どれも、まだまだ「取り組んでいる」にすぎず、「できている」には程遠い状況です。しかし、7年前の「何で自分たちがそれをやらなければならないのか」という組織から、高齢者認知症対応ができるようになり、患者様の尊厳を守りながら急性期医療ができる組織になることを、みんなで心に誓って、日々格闘する組織になることはできました。それは、認知症の患者様から、「ありがとう」と言っていただくことが増え、確かな心と心の響き合いを実感でるようになってきたからです。

    ★身体拘束削減へ トップの果たす役割
    現場だけが頑張ってもだめですトップマネジメント診療部のコミットメントも必要です。一方で、経営層が「身体拘束」はいけない、何とかしなければと思っている病院も私は沢山知っています。彼らは、「忙しい」「人がいない」「急性期なのに」と現場から言われ、前に進めずにもがいています。
    行政政策・制度については、社会保障費が破たんしていて難しいかじ取りをされていることは承知の上で、急性期病院、特に高齢者を診ている地域密着急性期病院に対しての評価、インセンティブが十分ではないと思っています。
    ただ、人が多ければ拘束が無くなるかというと、そうではないと思っておりますので、我々も努力を続けます。
    国民の意識も「高福祉高医療・低負担」を享受できる時代は終わり、一人一人が負担を許容し、その上で最期まで尊厳をもって生きるために、どれぐらいの負担をするということに、変わっていく必要があるのではないかと思います。「病院に入れておけば安心」は根拠のないものです。自分が、あの非日常の生活に長期間いることを想像してみてください。毎日毎日「白い天井しか見えない」、その環境に大切な家族を置くことの本当の意味を考えてほしいと思います。

    ★身体拘束削減 家族にも理解を
    転倒・転落については、急性期も回復期・慢性期・施設も関係なく、すべての機関において課題があると思います。それは「国民(ご家族)の理解」という部分です。
    家で看ていても(1人の患者に1-3人の家族)転倒をする可能性があるにもかかわらず、「入院中に転倒なんて」と言われることは少なくはありません(入院環境は、夜間は40名弱を3名の看護師で休憩を入れながら看る。床は感染症対策などで硬い)。いったん事が起きて、残念ながら骨折、頭部外傷などを併発された場合(時に亡くなることもあります)、「いったい何を看ていたのか」と我々医療者が強く非難されることがあります。
    大事なご家族が、転倒されて生命に危険が及んだとしたら、つらいことではあります。しかしながら、それで「病院やスタッフを責める」ということは、お互いにとって良いことではないと思います。

    高齢社会において、人間の尊厳を守っていくとはどういうことなのか、ということが「身体拘束」を考えるうえで、迷ったときに常に戻る大事な「問い」ではないかと思います。

    急性期病院で不要な身体拘束は減らせるのか?あなたのご意見をこのトピックにお寄せください。
    クロ現+
    2019年12月6日

    【身体拘束は減らせない?】④急性期病院で身体拘束の削減に挑む ~金沢大学附属病院の取り組み~

    10月16日に放送した「徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”」。放送後、番組にお寄せいただいた意見の中で目立ったのが、急性期病院で身体拘束を削減することの難しさを訴えるものでした。そこで、前回の放送にご協力いただいた、金沢大学附属病院副看護部長・中西悦子さんに改めて話を聞きました。金沢大学附属病院は、一般の医療機関では対応困難な急性期の重症患者も、24時間体制で受け入れています。患者の尊厳を大切にした看護を推進し、身体抑制の減少に取り組んでいます。

    (※金沢大学附属病院では、「身体拘束」を「身体抑制」と呼ぶようにしています)



    ★倫理的視点を強化する人材育成
    看護部理念の下、患者への優しさ、思いやりのある看護を実践するため、倫理の質向上を目指してきました。2008年に倫理委員会が発足し、看護師が悩んだ場面を把握し対応への進め方を模索しました。倫理カンファレンスについては、2009年に研修として公開倫理カンファレンスを行い、各部署が体験。その後もファシリテーターの育成により、各部署で倫理的ジレンマやケアについて多職種で活発な意見交換ができるようになりました。また、各部署が看護の困難事例を語り合う場、看護の取り組みを共有する場として事例検討会を毎月開催しています。そのほか全体研修として、認知症高齢者看護、抑制の有害性、意思決定支援の研修会を開催しました。2016年度は、認知症メディカルスタッフeラーニングとユマニチュードDVD視聴を看護師全員が行い、その後も新規採用者が学習しています。また、せん妄予防ケアをせん妄スクリーニングから抽出した患者から、全ての入院患者に実施する仕組みに変更しました。

    ★組織をあげて取り組んだ「抑制」の問題
    このように看護師の倫理的感性を高めていく中で、看護の優しさや思いやりになじまない身体抑制の問題を何とかしたいと、2014年度および2015年度に抑制を含めた看護部目標を掲げました。

    年3回の面接では、看護部長・副看護部長と、各部署の看護師長・副看護師長が意見交換を行い、10月と年度末に活動報告会を開催し、看護を語り合い各部署の取り組みに活かしました。

    2015年10月に、臨床倫理に関する院内体制が再整備されることとなり、臨床倫理コンサルティングチームが設置され、副看護部長がチームの専従として配置となりました。副看護部長が院内を回り、職員の話を聞き、現場の困りごとには相談に乗り、カンファレンスに参加し助言するなど、現場のチームと共に考え、倫理的問題への支援を開始しました。


    ★看護の変化と手ごたえ
    急性期医療を受ける患者には、治療上複数の重要なチューブが挿入されており、当院の場合はチューブ類の自己抜去防止が身体抑制の主な理由でした。看護師は「抑制はしたくない。でも、患者の安全のためせざるを得ない」とジレンマを抱いていました。「ガイドラインに従って検討した結果であり、やむを得ない」「抑制をこれ以上減らすことは危険」と考えていました。

    医療現場では、チューブを抜くかもしれないという医療者の不安から、予測で抑制を実施することが多くありました。そこで倫理カンファレンスでは、抑制をするか抑制をしないかの検討ではなく、患者の身になって考える、抑制以外の方法がないかを検討する、チューブ自己抜去時の対応をあらかじめ考えることを重点に置き、患者にとって何が最善なのかを話し合える場になるよう支援しました。「こんな方法はどうだろう」とチームで十分意見交換し、ケアをチームで合意し進めていくことを大切にしました。万が一、チューブの自己抜去が発生した場合や、やむを得ず抑制した事例については、個人ではなくチーム全体で看護の振り返りを行い、次のケアにつなげました。

    看護師たちは、患者の行動の理由を知るために、傍らにいる時間を増やすようになり、患者の肌に触れる、声を聴く、観察する、優しい声掛け、現状の説明、「患者を否定しない・制止しないケア」など安心感を促すケアを実践しました。また、家族から入院前の生活を知り、日常性を整えるケアも取り入れていきました。そして、患者がチューブに触ろうとする理由をアセスメントし、痛み、かゆみ、不快など苦痛を予測した先回りのケアを実践しました。これら看護の取り組みが進むにつれ、「抑制しないことで患者が眠れるようになった」「興奮が和らいだ」「笑顔になった」と嬉しい体験が増加。穏やかな患者を目の当たりにしたことは看護の手ごたえとなりました。また、看護研究や経験から「抑制しない方がせん妄状態からの回復が早い」ことを知り、チームの協力体制が強化され、患者の傍らで看守るケアへと、チャレンジが広がっていきました。その結果、一般病棟、精神病棟では2015年度に、ICUでは2016年度に抑制人数を減らすことができました。

    ★インシデントは増えなかった
    以前は、抑制したことでかえって患者から眼が離れ、抑制していたにも関わらずチューブの自己抜去が発生することがありました。チューブ類の自己抜去状況を分析すると、抑制の有無に関係なく発生し、抑制減少後も件数に変化は見られませんでした。

    インシデントレベルでは、抑制しないことで、チューブ類自己抜去による重篤なインシデントが増加するのではという不安がありましたが、高度障害レベル3b以上は増加しませんでした。

    ★これからもチャレンジは続く
    抑制に頼らない看護にチャレンジしてきた中で、専門職チームがケアについて語り合い、患者にとっての最善を追及してきました。患者の自由度を拡げ、回復を促進するケアの引き出しを増やしてきた結果が身体抑制減少につながったと考えます。今後も一事例ずつ大切に、チームで患者の尊厳を大切にした医療、看護を目指していきたいと思います。

    急性期病院で不要な身体拘束は減らせるのか?あなたのご意見をこのトピックにお寄せください。
    クロ現+
    2019年11月15日

    AYA世代のがん 命と向き合う

    【若いがん患者が直面する悩みを聞かせてください】
    15歳から39歳までのAYA(アヤ)世代。年間およそ2万人ががんに罹患します。抗がん剤や放射線などの治療によって、男女問わず「妊よう性(妊娠する力・妊娠させる力)」が低下する場合があり、「“自分の命”と“未来の命”のどちらを優先させるか」など難しい選択を迫られることがあるといいます。このテーマについて、あなたの声を聞かせてください。



    ↓解説記事はこちら↓
    【がん治療と妊よう性について】
    https://www.nhk.or.jp/nagoya/nyugan/diary/gendai/article.html

    ↓スペシャル動画はこちら↓


    ★「公開できないメッセージ」をお送りいただく場合は下記リンクまで
    https://www.nhk.or.jp/gendai/request/ayasedainogan.html
    クロ現+
    2019年11月15日

    【身体拘束は減らせない?】③「認知症」と違う「せん妄」とは?

    入院をきっかけに突然会話のつじつまが合わなくなった、急に家族のことが分からなくなったなどの状況に出会ったことはありませんか?それは意識障害の一つの「せん妄(もう)」と呼ばれる症状なのかもしれません。
    「せん妄」は身体拘束を減らすことが難しい原因の一つに挙げられますが、最近は「予防」によってせん妄の発生率を下げられることがわかってきています。せん妄はどうすれば予防できるのか、そして家族はどう対処するといいのか。国立がん研究センター東病院の小川朝生医師に聞きました。



    ★見抜くのが難しい「せん妄」
    せん妄は急性期の医療現場ではしばしばみられます。一見認知症の症状のようにみえ、落ち着かない・指示が入らないということで転倒予防のために身体拘束をなされがちな症状ですが、実は脱水や感染などの身体的な問題により生じている意識障害です。
    せん妄は、「脱水、感染・炎症、痛み、貧血、薬物など、体に何らかの負担がかかったときに、脳の機能に乱れが生じて起こる状態」です。急性期の病棟では、内科・外科を問わず約2割程度の患者に出現しますが、そのうちの8割が見落とされているといわれています。

    ★せん妄を見抜くポイントは
    せん妄は、ぼんやりしている、昼夜の区別がなくなる、家と病院を間違えるなど、時間や場所の感覚が鈍くなるといった症状があります。あわせて、突然症状が出現する、昼間はなんともないのに夕方から夜間になると症状が強くなるなど、一日の中で変動があるのがポイントです。認知症は、一日を通して症状の変化が少ないのに対して、夕方から夜になって様子が変わる場合は、せん妄を疑う重要なポイントです。

    せん妄の主な症状
    ・意識がくもってぼんやりしている
    ・もうろうとして話のつじつまが合わない
    ・朝と夜を間違える、病院と家を間違える
    ・家族のことが急に分からなくなる
    ・治療をしていることを忘れてしまう。点滴などのチューブ類を抜いてしまう
    ・怒りっぽくなり、興奮する
    ・見えないものを見えると言ったり(幻視)、ありえないことを言う(妄想)
    ・夜眠らない、逆に昼間はずっと寝てしまう
    ・症状は夕方から目立ち始めることが多く、夜になると激しくなる(帰る帰ると興奮するなど)

    ★高齢者、認知症の人に併発しやすい
    せん妄は、意識障害ですので、全身の状態が悪く、身体の余力が乏しい場合に出現しやすい特徴があります。急性期医療では、高齢者、脳梗塞などの既往のある方、認知症のある方、などでよくみられます。

    ★せん妄には身体的な治療が必要
    せん妄は、身体的な原因で生じている意識障害ですので、その原因を取り除く治療が必要ですし、治療をすることでそもそも身体拘束を必要とする状態を生じさせないようにすることができます。
    急性期医療の場面では、高齢者がせん妄を生じた場合の多くは、脱水や感染・炎症、薬剤が関連しています。それらの要因を除去することが重要です。たとえば、脱水でしたら、水分の補充や点滴、感染でしたら原因を見つけて抗生物質などの治療をします。原因が睡眠導入薬や抗不安薬などの薬剤の場合には、その薬剤を中止することにより改善させることができます。
    逆に、せん妄に対して、身体的な要因を取り除く治療なしに、コミュニケーションや接し方で改善させることは困難です。そのことが知られておらず、拘束されたり、接し方を変えるだけで対応しようとして、せん妄が放置されていることが急性期病院の問題です。
    また手術などの外科治療の場面では、強い痛みがせん妄を悪化させていることが多くあります。そのため鎮痛薬を適切に使用し、痛みを軽減することが大切です。その他に、便秘を予防する、睡眠リズムを整えるために日中起きている時間を作る、積極的にリハビリを行うなどのケアを行っていきます。これらの看護の対応は、せん妄の予防にも役立ちます。

    ★家族は落ち着いて対処を
    また、患者さんがせん妄になった状態をみると、ご家族も動揺し、無理に動きを制したり、話していることを修正させようとするすることがあります。しかし、これは患者さんをかえって不安にさせ、せん妄を悪化させてしまう危険があります。ご家族には、患者さんがつじつまの合わない話をしても無理に訂正せず、いつも通り落ち着いた言葉をかけていただくことをお願いしています。

    せん妄は適切な治療をすることで、改善することができます。患者さんの様子がいつもと違うと感じたら、まずは身体的な問題がないかを見直すことは重要です。

    身体拘束の問題を中心に、今後も高齢者医療のあり方について取材を続けていきます。この問題について疑問や専門家に聞いてほしいことなど このトピックにお寄せください。
    クロ現+
    2019年10月25日

    【身体拘束は減らせない?】②削減にどう取り組んできたか 3つの病院のケースより

    10月16日に放送した「徹底討論! それでも必要?一般病院の“身体拘束”」には、身体拘束の削減に取り組んできた病院の医師・看護師が出演しました。

    ▼病床数およそ100床のケアミックス病院(一般病棟+回復期リハビリテーション病棟)
    ▼病床数およそ80の急性期病院
    ▼病床数800を超える、急性期中心の病院

    いずれの病院も、削減を目指す道のりは平坦ではなかったといいます。どうやって削減を目指したのか、番組でお伝えしきれなかった発言をここに掲載します。

    ↓記事はこちら↓
    【未公開トーク】身体拘束削減への取り組み それぞれの苦悩
    https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/176/index.html

    ↓↓10月16日に放送した内容はこちら↓↓
    【2019年10月16日放送 認知症でしばられる!?~急増・病院での身体拘束~】
    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4342/

    クロ現+
    2019年10月11日

    【身体拘束は減らせない?】① 医療の担い手は“孤立”している!?

    9月11日放送のクローズアップ現代+「身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”」には、医療関係者をはじめ、患者の家族や拘束を受けたことがあるという人などから、合計250通を超える投稿をいただきました。ありがとうございます。投稿の多くは、身体拘束せざるを得ない医療現場の実態をもっと理解して伝えてほしい、という切実な声でした。私たち番組スタッフが、投稿を寄せてくださった方々に、お電話や直接会うなどして改めてお話を伺う中で浮かび上がってきたのは、医療現場の過酷な状況です。

    ↓記事はこちら↓
    【医療の担い手は“孤立”している!?】
    https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/170/index.html

    【身体拘束は減らせない?に寄せられた声】 https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/167/index.html

    ↓↓過去の放送内容↓↓
    【2018年1月11日放送 認知症でしばられる!?~急増・病院での身体拘束~】
    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4083/
    【2019年9月11日放送 身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”】
    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4327/