クローズアップ現代トップ > みんなでプラス > #あちこちのすずさん > 伊野尾慧さんの言葉から見えたもの 放送後記①
クロ現+
2020年9月25日

伊野尾慧さんの言葉から見えたもの 放送後記①

8月13日(木)に放送された特集番組「#あちこちのすずさん」で取材とロケを担当したディレクターが取材の中で感じたこと、放送の中では語りきれなかったことを振り返ります。1回目は「手紙」のエピソードを取材した伊豫部紀子ディレクターです。

「#あちこちのすずさん」の番組取材に参加して2年目、「生きる」ことのすばらしさはいつの時代も変わらないことを取材したどの方からも教えてもらいました。さらに「つなぐ」ことのすばらしさを教わったのが今年でした。特に2年越しのエピソードとなった「手紙」―女学生と兵士の文通の話、が不思議な巡り合わせで放送までこぎつけられたことに、あおり気味に言えば奇跡的!と感じるのですが、今日は、リポーターとして出演してくれたHey! Say! JUMPの伊野尾慧さんが発した「言葉」によってそれを振り返ってみたいと思います。去年の取材と、今年の取材、それぞれの「伊野尾ワード」です。

「何よりね、会いたかったんじゃなかったかな……」
これは伊野尾さんが初めてリポートしたロケで最後に放った言葉。
ある意味、今年part2をやることにつながる象徴的なシーンになりました。

去年7月、伊野尾さんは大阪と京都の境目まで日帰りでやってきて、戦争中は女学生だった溝渕栄美さん(93歳)の家に行き、23通もの当時の「手紙」を一緒に読んだのでした。

学校に言われて書いた戦場への慰問手紙をたまたま受け取った兵士から返事が来たことで始まった文通。栄美さんは女学校での、たあいのない笑える出来事を書きつづり、南の島にいるらしい衛生兵の康夫さんは、それを楽しみにしながら3年近く続いたやりとりです。

伊野尾さん命名の「康夫さんフォント」(手書きでちょっと昔の言葉遣い)に、最初は「何これ。『左様奈良』って『さようなら』なんだ、女子高生がタピオカミルクティー飲むのを『タピる』って言うみたいなものか」などと戸惑ったり面白がったりしながら、インタビューは4時間に渡りました。

やがてロケも後半になると、手紙の文面にも戦局が苦しくなっていることが見受けられ、伊野尾さんは「文字が全然違っている」と驚いていました。

1年ほど手紙が途絶えた後に届いたはがきには、女学校を卒業した栄美さんへのお祝いと健康を祈る言葉、3年に渡る戦地暮らしを振り返る歌、そして端っこに小さな文字で「p.s.今度小生モンキーと大の仲良しになりました」とありました。



毎日死と直面する戦場にいるのに、いつも栄美さんを応援し、思いやりやユーモアを忘れなかったその文面からは、康夫さんの優しい人柄が伺えます。さらに切ないのは、そのはがきが、康夫さんの部隊の宛先を書いた返信用はがきが付いた「往復はがき」だったこと。もう一度栄美さんの明るい言葉が聞きたい、それを胸に死にたいと思ったのでしょうか。栄美さんはもちろんその返信用はがきを出しましたが、届いたのかどうかは不明なままです。それを最後に康夫さんの消息は途絶えました。

伊野尾さんが思わずからかいたくなるほど、栄美さんは天然でかわいいおばあさんでした。女学生の時も、康夫さんが一生懸命書きつづった便せん1枚に及ぶ詩を、「わからへんのよ私、詩ぃ読んでも」と言い放ち、康夫さんが「刺繍のハンカチありがとう」と書いてくれているのに、その頃友達からもらって趣味じゃなかった刺繍のハンカチの「たらい回しや」と暴露したりして、それを伊野尾さんが「男の思い伝わらないな」と笑いました。栄美さんは天然で不器用なところもあって、康夫さんが何度か送ってくれた折り紙も、「これは百合になるはずらしいんですよ」と言いながらぺしゃんこのまま引っ張ってみたりするのですが、どうしても百合になりません。伊野尾さんはモンペ姿の女性の形の折り紙を目ざとく見つけ、「この顔のところに目とか口が描いてないのは、栄美さんの写真がまだ届いていなくて顔がわからなかったからだよ。きっと栄美さんの写真を待ちわびてたんだよ」などと康夫さんの気持ちを代弁していたのでした。



伊野尾さんから「何よりね、会いたかったんじゃなかったかな」という言葉が出たのは、ある手紙を読んだ後でした。生きて帰ることを諦めていただろう頃に、康夫さんが珍しくつづった自身の気持ち。「思い出に一番残るのは いくら考えてもただ一人しかありません 永い永い間本当に楽しい そして忘れることが出来ないくらいにまで 印象を残してくださいました人 私も 本当にその人が大好きです」 一度も会うことなく終わった2人。
伊野尾さんが半泣きのような声で絞り出したのが、こんな言葉でした。

「『大好き』ってある通り本当に栄美さんのことを大切に、好きだと思ったと思うし、何よりね、会いたかったんじゃないかな」

それは、このエピソードで私が伝えたい全てを表していました。太平洋戦争での膨大な戦死者数の、たった「1」でしかない兵隊にも、今の私たちと全く変わらない喜びや悲しみに震える“心”があったこと。当たり前のことなのに、少なくとも私には衝撃でした。そして、戦争は嫌だと、おそらく初めて頭でなく腹の底から思ったのです。

帰り際、伊野尾さんに「何分くらいのVTRになるのか」を聞かれ、6分くらいだとは言えず、思わず「12分?」などと言ってしまいましたが、それでも「そんな短いのか…」みたいな表情だったことから、いかに中身の濃いロケだったかがわかります・・・、などと冷や汗かきつつ振り返りますが、ともあれその言葉がpart2につながったのだと思います。



「やっぱりちょっと寂しいと感じてしまうのは、どうしてなんだろう」
フェイスシールド越しの横顔で放ったこの言葉と、戸惑ったようなかみしめるようなその表情、もちろんカメラマンもばっちりアップで決めています。

これは康夫さんの消息を追うことになった今年のロケで、康夫さんの戦死が判明した時の言葉です。編集では短くしたものの、伊野尾さんが一生懸命言葉にしたことは、この3倍くらいありました。実際はこうです。

「いやあ…でもなんか。正直、僕去年、栄美さんとの手紙でのやりとりの中で康夫さんがどういう人か想像していて。もしかしたら、どこかで、生きているのかもしれないっていう部分もちょっと気持ちのなかであったり。なんかこう、本当に亡くなられているっていうことが正直、あまり実感なくて。それこそ僕にとってはちょっと、おとぎ話を読んでいるような、そんな世界のお話だったことが、ここに来て、1年経ってここに来て、富崎さんの名前があって、その時セブ島で亡くなられてしまっていたんだっていう事実を見ると。ちょっとやっぱり、すごい昔のことで、僕なんて関係ない赤の他人だけど、やっぱりちょっと、切なく寂しいなって思ってしまうのは、どうしてなんだろう」 書き起こしを写してみたら3倍どころじゃありませんでした。 ここで彼が一生懸命言葉で表そうとしたことは、別世界に思える戦時中の人々にも、自分たちと同じように懸命に生きた“人生”があったのだということ、それを今でも実感できたという驚きだと思います。私は2年間この「#あちこちのすずさん」に関わり当時の人々の人生を伝えてきた気でいましたが、それをその場で耳にした時「ああそういうことなんだ」と、このエピソードを伝えるべき意味を初めて教えられた気がしたくらい、素晴らしい言葉だと思いました。

そこまですばらしいなら、なぜ短くカットしたんだよという声が聞こえた気がしますが、それはVTR全体で伝えるため、それぞれの長さにせねばならない事情とかもあり、まあ力のある言葉ならその映像と共に短くしても伝わるものは伝わるものです・・・などと言い訳を並べつつも、もう75年も前の「太平洋戦争」という日本の未曾有の犠牲を払った時代を、実感として、体感としてつながることができる、今がギリギリ最後の機会なんだとしみじみ感じるのです。



思えば、ただ「神戸空襲を経験した女性がいて兵士との手紙も残している」というだけの投稿から始まったこの取材。反響が大きかったため康夫さんの消息を必死で調べるも新型コロナ感染拡大のため現地行きも制限され八方塞がり。康夫さんからの最後の往復はがきの軍事郵便の符号「テ四七」がセブ島を表すとわかったこと、かわいがられていた山本五十六の書を康夫さんが寄贈したという小学校に康夫さん在籍の証拠はあったこと、シラミ潰しに近所を探して見つけた富崎家の墓に康夫さんの名前はなかったこと、墓の世話をしているのは違う名字の女性らしいこと、手紙に同封された百合の折り紙の解説が妙に花に詳しいこと…バラバラの状況証拠すべてが奇跡的につながって、75年前の真実をお伝えすることができたのでした。昔のことは今と関係ないということは絶対ない、つながっている。そうしてよりよく生きていこうと綿々と人生を紡いでいくのが人間なのではないでしょうか。

※コメントは編集部で内容を確認の上、掲載させていただきます。