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#あちこちのすずさん
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…
戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、 映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の 主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという 「#あちこちのすずさん」キャンペーン。
おととし8月に「クローズアップ現代+」、昨年「NHKスペシャル」で放送し、 大きな反響を得ました。

今年も「#あちこちのすずさん」と題した投稿を呼び掛け、身近な人が戦時中どう暮らしていたのかというエピソードを募集、それらをアニメやイラストと共に放送やHPでお伝えします。

▼戦時中のエピソードを集めています。投稿はこちらから。
https://forms.nhk.or.jp/q/BTYDCJHK
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2020年11月20日
エピソード|庭に植えたパイナップル
初めて見る果物に困惑…。東京の農家の娘だった夏子さん(仮名、当時二十歳前後)のエピソードです。

「わたしは五反野(東京都足立区)の農家の家に生まれました。野菜を収穫すると、手押し車に乗せて千住の市場まで運ぶのですが、わたしは小さい頃からその手伝いをしていました。また、都心から近いため、いろいろな人が家に訪れては、持参した着物や果物をうちの野菜と交換していきました。

ある日、「これはすごく珍しい果物よ。甘くておいしいの」と言われて、我が家の野菜をパイナップルと交換しました。5、6個はあったと思います。どんなにおいしいんだろう、と期待がふくらみました。

ところが、初めて見る果物ですから、切り方も食べ方もわかりません。実のてっぺんから縦に割って、くし形に切りました。そしてその一切れに、スイカを食べるときのようにかぶりつきました。

「し、渋っっ…!!」

種がないため、芯の部分も食べられると勘違いして切り落とさず、そこにかぶりついてしまったのです。もう少しかじれば甘い部分を食べられたはずなのですが、そこまでたどり着かないまま、あまりのまずさに食べるのを諦めてしまいました。

葉の部分が青々してきれいだったので、残りのパイナップルは庭に植えて“観葉植物”として楽しみました」

こちらの投稿をお寄せくださったのは、夏子さんの娘の花*花さん(ペンネーム/50代女性・東京)です。

餅にカビが生えたら、カビの部分を削って食べる。傷のある果物は、傷んだ部分を切り取って食べる。お釜についたお米は水でふやかしてザルにあげ、最後まで食べきる……戦時中のひもじい暮らしを経験した夏子さんは、食べ物をとても大事にしたそうです。だから、渋くて食べられないパイナップルを捨てられず、庭に植えたのでしょうね。

夏子さんは大人になってからパイナップルの正しい食べ方を知り、以来パイナップルが大好物になったのだとか。夏子さんはすでに亡くなりましたが、花*花さんはパイナップルを食べるたび、お母様を思い出すそうです。

「#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。

▼投稿はこちらのフォームから
https://forms.nhk.or.jp/q/BTYDCJHK
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2020年11月13日
エピソード|冒険と涙の「桃」の味
「死ぬ前に、おいしい桃をお腹いっぱい食べたい!」。
空襲で死を目の当たりにした少女・フミ子さん(現在90歳)が終戦間際、妹とともに70km以上の道のりを旅したエピソードです。

1945(昭和20)年、15歳だった私は仙台市の軍需工場で働いていました。同僚の少女が機械で指を失うような事故が日常茶飯事の、劣悪な環境で過ごす日々。空襲で仙台の街は焼け野原に変わり、1,000人近い犠牲者が出ました。同年代の子どもたちが空襲で命を落とす瞬間を目の当たりにして、「明日は我が身」と痛感する毎日でした。

ある日、父親が居間に家族全員を集めて尋ねました。「おまえたち、最後に何をしたい?」 もう家族全員で無事に明日を迎えられないかもしれない、そんな思い詰めた表情でした。 妹や弟たちは黙りこくっていましたが、長女の私は思い切って言いました。 「桃を食べたい」このまま皆で玉砕するしかないなら、死ぬ前においしい桃をお腹いっぱい食べたい!と、そう思ったのです。 その場で家族全員が水さかずきを交わし、これでお別れだと泣きました。

翌朝、両親は、なけなしのお金を手渡して、送り出してくれました。 目指すは福島県の伊達。父が「伊達の桃は日本一おいしい」と勧めてくれたのです。一人で行くのが心細かった私は、仲が良かった妹の清子も連れて行くことにしました。 早朝に出発しましたが、途中で空襲警報が何度も鳴って、私たちが乗った蒸気機関車は停車を繰り返し、そのたびに不安にとらわれました。

お昼すぎに伊達に着くと、桃畑がある地域まで路面電車が走っていました。でも、私と妹は少しでも桃に使うお金を取っておきたくて、ひたすら歩きました。そしていよいよ桃農家が立ち並ぶ地域に。

「桃を分けてくださいませんか?」と、次々に訪問してお願いしましたが、「子どもに分ける桃なんてない」と断られ続けました。当時でも高価な桃のこと、無理もありません。

諦めかけたころ、「斉藤」という表札を掲げた大きなお屋敷を見つけました。 最初に現れた若い女性には断られましたが、奥から出てきたおばあさんが話を聞いてくださったのです。わたしたちがどんな覚悟でここまでやってきたかを知ったおばあさんは、「お金はいらないから、好きなだけ持っておいき」と、二人のリュックに桃をいっぱい詰めてくれました。

帰りの汽車を待つ駅のベンチで、たまらず桃をつまみ食い。あまりのおいしさに、「これでもう思い残すことはないね」と妹と涙を流しながら食べました。 その日は駅で一夜を明かし、翌日仙台に無事帰り着くと、たくさんの大人がラジオの周りに集まっていました。

それは、終戦を告げる玉音放送だったのです。

フミ子さんの娘のペンネーム・ササニシキさん(60歳)によりますと、フミ子さんは桃が大好きで、家族で食べるたびに「あの冒険の時の桃にはかなわない!」と皆を笑わせるそうです。そして「斉藤さんの連絡先は分からないけれど、何とか感謝の気持ちを伝えたい」と繰り返しおっしゃるとか。フミ子さんの思いが届くといいですね。

「#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。

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2020年11月6日
「ラジオ深夜便」MC4人のすずさんへの思い 放送後記④
「#あちこちのすずさん」は、2019年からラジオ番組の「ラジオ深夜便」ともコラボしています。「ラジオ深夜便」(毎日 夜11時5分~朝5時、NHKラジオ第一)は、シニア層を中心に圧倒的な人気を誇り、30年続いている長寿番組です。この番組で、「#あちこちのすずさん」に寄せられたたくさんのエピソードをご紹介しています。

さて今年は、8月8日(土)に藤井隆さんと森田美由紀アンカーが、さらに8月15日(土)に早見優さんと後藤繁榮アンカーが、「深夜便ビギナーズ」というコーナーの中で「#あちこちのすずさん」を特集しました。

2年続けて特集した4人のMCの方に、最も心に残ったエピソードや「#あちこちのすずさん」の感想を聞いてみました。

去年に引き続いて「#あちこちのすずさん」とのコラボを楽しみにしていた、とおっしゃるみなさん。とても丁寧に答えてくださいました。



―最も心に残ったエピソードは何ですか?
今年の投稿で印象に残っているのは、ペンネーム・ジョホールさん、50代の男性の方でお父様の話かな。

お父様が戦時中、花街(かがい)で時間をつぶすことになった時に、もてなしてくれた女性にぼたもちを分けたら「もう一口ちょうだい」っていわれてみんなで分けたっていう話は、 本当はつらくて厳しいお話なんですけど、この方の書いてくださっている描写の仕方のおかげでほほえましく聞くことができたので、すごく覚えています。

ペンネーム:ジョホール さん(50歳、男性)より

私の父も、終戦を呉で迎えました(映画の主人公・すずさんも、広島市内から呉に嫁いで終戦を迎えた)。大正13年生まれの父は海軍にいて、戦艦・日向に乗って東南アジアの方に行っていたそうです。やがて日本に戻ることになり、呉へ帰港し、数日の休暇をもらい奈良の実家に帰省したそうです。その際、東南アジアで収穫された当時貴重だった砂糖を土産に持たされ、その一部で「ぼた餅」を作り、部隊に帰るときに、上官に献上するのが暗黙の了解となっていたそうです。 父も実家でぼた餅を作ってもらい、呉へ戻ったのですが、集合の時間に早く着きすぎてしまい、花街で時間を潰すことにしたそうです。そこで父は、もてなしてくれた女性にぼた餅を一つ分けてあげたところ、戦時中で久しく甘いものを口にしていなかった女性は大喜びし、ぜひ友達にも一つ食べさせて上げて欲しいと、懇願したそうです。

父が快く応じると店の別の女性がやってきて、やはり大変喜んで、もう一人だけ食べさせて上げてほしいと頼むので了承すると、また別の女性がやってきて大喜びし、そのうちに店中の女性たちがやってきてしまい、ぼた餅は全部なくなってしまったそうです。

やがて集合の時間になり、点呼とともに皆次々と上官にぼた餅を差し出すのに、父は何も無く、バツの悪い思いをしたと話していました。しかし私は、女性たちが久しぶりに甘いお菓子を食べられて良かったと思います。父は既に他界していますが、父のぼた餅を食べた女性たちが今も何処(どこ)かで元気に過ごされ、お人好しだけど、気前の良い若い水兵のことを懐かしく思い出してくれればと思います。映画「この世界の片隅に」でも戦艦・日向が出てきたり、すずさんが遊郭街で迷うシーンを観て、父もこのあたりを歩いたのかなと、感慨深いものがありました。

(※エピソードを一部省略しました)


自分は甘いものを食べるんですけど、小豆の甘さとか、小豆があんこになって舌の上で溶けていく様っていうのは生クリームとかと違ってちょっとさらっとしているじゃないですか。 その小豆のあんこの食べ心地と同じで、すごくさらっとしているけどほのぼのとしているお話だなと思いました。

とてもつらいお話もあるから苦しくなるけど、このジョホールさんの送ってくださった呉のエピソードは、その中でもあんこと同じく、やさしくさらっと聞くことができました。

―「#あちこちのすずさん」を特集した感想
(去年と今年)2回参加させていただいて思うのは、番組に寄せていただいたお葉書とかお手紙とかメールとかは、文章でいただくんですけど、やっぱりすごくその時の景色が目に浮かぶっていうのは強く感じます。それだけ、きっと書いて送ってくださっている方たちの心と頭の中に残っている風景が、すごく強烈なんだなというのを感じます。

自分たちが学校で教わったりとか、テレビなどで見てきた戦争中のお話だったりっていうものと違いがあるとするならば、やはり文章なんですけど、そこには色合いがついてて決して白黒のものではないというか、淡い色もあればすごくビビッドな色合いのお話もありますし…お便りを寄せてくださった方の記憶がとても鮮明なんだなと文章を読みながらすごく感じます。



―最も心に残ったエピソードは何ですか?
40代女性のペンネーム・あやさんが、92歳の祖母に聞いたというお話です。
「広島から家族7人で中国に移住しているときに終戦、命からがら帰国する際にお世話をしてくれた兵隊さんが、のちの祖父に。帰国後の広島は焼け野原でお友達の多くが亡くなっていた。祖母は、家族皆が信頼していたあの兵隊さんと汽車に乗って仙台にお嫁に。 2人は金婚式を迎えてもラブラブ。祖母は、亡き祖父が中国でくれたラブレターを今でも諳(そら)んじる。 『幾たびか考えた挙句、単刀直入すべく筆をとりました。私はあなたに漠然とした愛情を感じ、その想いが増し、乱れがちです』 祖父母のような関係がわたしのあこがれ」というエピソードでした。

死と隣り合わせの引き揚げの際に生まれたラブストーリー。 戦後の様々な苦難もお互いを心から思いあい、乗り越えてきた夫婦の絆の歴史が、戦争の記憶とともに孫の世代に確実に伝わっていることの素晴らしさを感じます。

―「#あちこちのすずさん」を特集した感想
藤井隆さんもとても喜んでいましたが、放送中、メッセージを聞いた10代からたくさんのメールがきたことですね。自分の肉親からは聞いたことのない戦時下の人々の暮らしを知り、戦争を他人事ではなく、身近に感じたこと。祖父母や親に話を聞いてみたいと思ったこと。大きな不安や恐怖、物不足の不自由な戦時下の暮らしを、コロナと闘う今と重ね合わせ、そんな状況でも強く、時には笑いながら暮らす人々への共感もつづられていました。 戦争の記憶がこのように若い世代に伝わっていくことに感慨深いものがあったと同時に、放送をきっかけにこれまで辛い戦争の記憶を封印していたみなさんからもメッセージが届いたことがありがたく、このキャンペーンの意義を感じました。

私自身の話ですが、子供の頃に戦争を体験した両親からはいつでも当時のことを聞けると思い、しかし、結局、ごくたまに断片的にしか聞けぬまま、両親は亡くなってしまいました。 そんな中でも不思議と覚えているのが、4人姉妹だった母の一番上の姉にあたる伯母のこと。いとこの家に遊びに行くと、伯母が台所でひとりスプーン一杯の砂糖を食べているのを何度か目にしました。

おいしいお菓子がたくさんあるのに、どうして砂糖を食べるの?と聞くと、おばちゃんはこうやって好きなだけお砂糖を食べるのが夢だったのと言います。北海道の大きな農家だった母の家では、戦時中飢えることはなかったけれど、甘いものはめったに口に入らず、特に一番年上の伯母は少し甘いものがあっても、妹や弟たちのために我慢。いつかスプーン一杯のお砂糖を食べたいとずっと思っていたといいます。戦後20年近く経っていたその当時でも、甘いものを熱望した思いは戦時中と変わらなかったのでしょう。

あちこちのすずさんにも、そんな食べ物の思い出が多くありました。 料理好き、食べるの大好きの、藤井隆さんと私が、今、十分に食べることができ、食の話を楽しめるのも、戦争を乗り越えてきた先輩たちの苦労と頑張りがあったからこそ、と放送中も話していました。

―最も心に残ったエピソードは何ですか?
昨年同様、たくさんのメッセージをいただきましたけれども、(今年の放送で)最後から2番目に読んだのにグッときちゃいました。

ペンネーム:蓮華の花が好きさん より

子供の頃、祖母から「あなたのおじいちゃんは戦死したんだよ。大きな船に乗っていて、あなたの父親が7歳の時に船ごと沈んじゃったんだよ」と聞かされていましたが、父とは戦争の話をしたことはありませんでした。でも少し前にお仏壇の引き出しの中から、祖父が書いた戦地からのハガキを見つけました。そこには農作業を手伝えないことをわびる気持ちと、息子の元気な成長を祈る言葉がつづられていました。父はこのハガキの存在を知らなかったらしく、何回も読み直しては驚きで涙を流していました。戦死した父親の記憶はあまりなく、空襲のサイレンがなると防空壕や稲の中に駆け込んだのが町内会のかけっこみたいで楽しかったんだよとほほえんでくれました。これからも父を支えて、今をもっと大事に生きなければいけないと思いました。

私、なんか、これを読んだとき、ちょっとうるうるってきてしまったんですけど。

だって戦地にいて、自分自身がこれから生きるか死ぬかっていうその時に、農作業を手伝えないことをわびるって…家族に対してのすごく愛がいっぱいあふれる、精一杯のお手紙だったのかななんて思います。今の私たちの置かれている(新型コロナの中での)状況もそうですけど、今まで当たり前だったこととか、幸せだったっていうことの意味を改めて考えさせられる時代であって、もちろん体験していることが全然違うんですけれども…でも、先行きがどうなるか判らないっていう不安な気持ちとか、中にはご家族と離ればなれになってしまっていてなかなか会いに行けなかったりとかしたときに感じる気持ちって言うのは共通している部分があるのかなと思って、なんか、グッときちゃいました。

あとは、やっぱり恋バナ。私は昨年に続いて、恋バナが好きです。

あの「世界の片隅に」のすずさんと周作さんの物語もそうですけど、結婚してもお互い「何々さん」って呼び合うとかですね。もちろん戦争って大変な時代で、私は戦争のことは教科書でしか読んだことがなかったり、映画で見たりするしかなかったんですけど…。

―「#あちこちのすずさん」を特集した感想は?
すずさんのように、ああいう時代でも本当に懸命に生きていて、少ない食料を増やしてみんなとおいしくいただくとか、私たちが何気なくしていることなんだけど、それをひとつひとつ大切に、一日一日を大切に生活していくすずさんの姿をとっても素敵だなと思います。 恋愛も、恋愛なんてって思うんですけど、人間関係ってどの時代でも大切だから、恋愛もしていましたよね。気持ちが抑えることができないから、好きになったら好きとちゃんと表現して。(今年の放送でも)防空壕で告白した、プロポーズしたなんていう話も出ました。本当に強く生き抜いて、また生きようっていうみなさんの気持ちがメッセージから学べて、すごくいいなぁと思いました。

本当に、この特集、好きです、私は(笑)

今は…どうしても今の(新型コロナの中の)状況と比較してしまうんですけど、でも何か、人と会えないとか触れられないという状況だから、落ち込んじゃったり、さみしいとか、孤独さを感じるんですよね。でも、戦時中の方たちが強く生き抜いたように、私たちも先を見て、強く生きなきゃいけないのかなと思います。



―最も心に残ったエピソードは何ですか?
新潟県、ペンネーム・65のジジイさんが、亡き父親から聞いた話です。戦車を組み立てる軍需工場で砲台をつけるまでの仕事をしていた、完成すると上官に内緒で爆走してよく叱られた、というエピソードです。よく叱られた、ということは結構な頻度で楽しんでいたということか…もし自分なら?と考えました。戦地の兵隊さんに対して不謹慎とは思っても、やはり同じことをしていただろうと思います。戦時下でも、いや戦時下だからこそ若者にはストレスを発散させることが必要だったのかもしれません。

ちなみに私の兄は、学徒動員で戦闘機をつくる工場へ行っていたんです。若い男子にとっては戦闘機に関われることはうれしくてたまらなかった。でも戦争末期で物資が不足し、飛行機の羽を胴体に取り付けるのにもボルトやナットがなく、何と針金で括り付けていたそうです。試験飛行ではうまく上空へ飛べて拍手が起こったけれど、その直後、機体が空中分解して元気に手を振っていた飛行兵は墜落、死亡してしまったといいます。このことで戦争が終わりに近づいていることを感じたと話していました。
―「#あちこちのすずさん」を特集した感想は?
多くのお便りを読みながら、戦時下の暮らしをリアルに実感することが出来ました。戦争による悲惨な状況も十分に伝わってきたのですが、そのなかで生きていくための笑顔も垣間見えました。この特集をきっかけに、家庭で改めて戦争について話し合いが持たれた様子をお便りから感じ取りました。暮らしの視点から戦争を見つめ直すことを、実際に体験した人たちに聞く機会を増やしていきたいと思います。

#あちこちのすずさんでは、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めています。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。

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2020年10月30日
さだまさしさんからのメッセージ
さだまさしさんがMCを務める番組「今夜も生でさだまさし」(通称「生さだ」。総合テレビで月一度の放送)は、2019年から「#あちこちのすずさん」とコラボしています。

去年「#あちこちのすずさん」に届いたたくさんのお便りの一部を「生さだ」で紹介していただいたところ「生さだ」ファンからも戦争中の暮らしにかかわるハガキが届くようになり「生さだ」との連携を続けることになりました。

今年10月25日、「生さだ」は被爆75年を迎えた長崎から生放送を行って、平和のかけがえのなさを伝えました。

長崎生まれで、一貫して平和と生命の大切さを訴えてきたさださんは「#あちこちのすずさん」の取り組みにも賛同。戦争体験世代との対話の大切さを語った動画を寄せてくれました。



ちなみに、さださんが今年の放送で選んだのはこんなエピソードです。

空襲のさ中に (浜松 60代男性)
私の母は第2次世界大戦中、浜松の楽器工場で勤労動員として飛行機の部品を作っていました。ある日空襲にあい、家族が疎開していた磐田市まで自転車で逃げたそうです。 その時、一番印象に残っている光景は破壊された家々ではなく、道端に咲いていた花々だったそうです。「戦争は人や物を破壊するけれど、花は咲いているだけで勇気を与えてくれた。素晴らしいなあ」とよく言っていました。今、世界中が厳しいときですが、何気ない風景に幸せを感じながら生活していきたいと思います。


「生さだ」担当プロデューサーは、さださんが「#あちこちのすずさん」への投稿に込められた何気ない日常の大切さを感じ取り、今後もすずさんを届けていきたいと話していると言います。

石上滋基チーフ・プロデューサー(「今夜も生でさだまさし」担当)

生さだは毎月500通ほどのおハガキをいただきます。 小さな紙面にびっしり、または実に簡潔に、はたまたイラストを交えながら、 皆さん、最近起きた身近な出来事を面白おかしく伝えてくれます。 そこにあるのは日本全国の「日常」ですが、それこそが実に面白いのだといつも感じています。もしずっと昔から「生さだ」があったなら、きっと「すずさん」で紹介された若かりし頃のおじいちゃん、おばあちゃんのささやかな「日常」がたくさん寄せられただろうと思いました。 まだまだ元気な80代、90代の大先輩の皆さん。 生さだで、若い頃のいたずらや恋愛、今だから言える失敗などをお話ししてくれませんか? 悲惨な戦争の最中にも確かに存在した「ちょっとした日常」をぜひ教えてください。 もちろん、お孫さんやご家族からの投稿でも結構です。

おハガキお待ちしています!
こちらまでお寄せください。
〒1508001  NHK 「今夜も生でさだまさし」

またはこちらのエピソード募集ページから。
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2020年10月23日
エピソード|おしゃれもんぺ
戦時中でもおしゃれ心を忘れなかったマツさんのエピソードです。

わたしは当時23歳、軍需工場で働いていました。その頃、政府により国民服の女性版「婦人標準服」が制定され、わたしも、工場に勤めていた同僚たちと共に「もんぺ着用」のお達しを受けました。

「格好悪い。絶対にはきたくないな…」

もんぺを初めて見た時の正直な感想です。家事や農作業などの労働には適しているかもしれませんが、お世辞にもおしゃれとは言い難い。とは言え、はかないわけにはいきません。そこで同僚をあたって、雑誌の付録にあったすっきりとしたシルエットのもんぺの型紙を入手。裁縫が得意なのを幸いに、スマートなもんぺを自作して意気揚々と出勤しました。わたしのスマートもんぺは、同僚たちの注目の的。その型紙はみんなに貸し回されて、気づけば工場中の女性はみんな、スマートもんぺをはいているようになったのです。

こちらの投稿をお寄せくださったのは、昨年亡くなったマツさんと二人で10数年暮らした、孫のおおねさん(ペンネーム/39歳・横浜市)。ご実家には、おじいさまが出征したときにご近所からもらった寄せ書きや当時の手紙など、マツさんの思い出の品がたくさん残っているそうです。その中のひとつが、もんぺ。マツさんは生前、「このもんぺ、おしゃれでしょ?」と誇らしげに語っていたそうです。戦時中でもおしゃれ心を忘れたくない…年頃の女性としての自負が感じられるエピソードですね。

「#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。

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2020年10月9日
「今とは違う」、でも「わかる!」 放送後記③
8月13日(木)に放送した特集番組「#あちこちのすずさん」で、取材とロケを担当したディレクターに取材の中で感じたこと、放送の中では語りきれなかったことを聞きました。「ボクが見た空襲」のエピソードを取材した小林大我ディレクターです。

「#あちこちのすずさん」には、若い世代だけでなく、戦争を体験したご本人からも多くのエピソードが投稿されています。

東京都の曽根清吉さん(88歳)の体験談「ボクが見た空襲」 はその一つで、「映画館へ行くにも鉄かぶとを被っていた」「へんてこな英語教育の思い出」「ザリガニ食べて栄養失調を解消」などなど、戦争中の日常の様々な話題をユニークな視点で綴ったつづった長い投稿からご紹介しました。



-曽根清吉さんを取材しようと考えた理由は何ですか?

多くの投稿の中でも異彩を放つ、ファックス34枚という圧倒的な分量。読む前からすでにただならぬ熱意を感じ、原稿に意を決して向き合ったのを覚えています。エピソードの“掘り出し物”を探す気分でわくわくしながら読ませていただきました。実際に清吉さんにお会いしたときの印象もやはり、戦争中の“本当の日常”を伝えたいという意欲にあふれた前のめりな姿勢がとても魅力的な方でした。

-取材をする中で、苦労したのはどんな点ですか?

これは「#あちこちのすずさん」の取材全般に言えるんですが、お話を聞けば聞くほどジェネレーションギャップを感じてしまうんです。取材相手にとっての「当たり前」が、なかなか理解できない。曽根さんで言うと、連日続いていた空襲を「当たり前の日常」と感じておられて、私は「確かにそんな心境になりますよね」とうなずきたいところですが、自分がそんな状況にはなり得ない…とも感じていました。

たとえば清吉さんは、お腹が減ったときはその辺で虫を捕まえてよく食べていた、それが普通だった…とよく言うんです。でもそれって「どの程度空腹だったのか?」「私自身の『腹減った』という感覚とどこまで似ていると思って良いのか?」、正直分かりませんでした。



-「飛行機を双眼鏡でキチンと見てないとあぶない」という清吉さんの言葉は、まるで冗談みたいにも聞こえましたが?

それが、本人にとっては全然冗談ではなかったそうです。爆弾をよけるために真剣に見ていたと。実際に、焼夷弾が空中で分かれて落ちるところも見ているようでしたし、近所のお姉さんの頭に焼夷弾が直撃し、亡くなるという経験もあった。そんなこともあって、ご本人はいつでも真剣に「飛行機の動きを見極めなければ!」と思っていたそうです。

-清吉さんの「戦争」をどの程度共有できましたか?

それはもう、本当には分かりようがないと思いました。 聞いてもよくわからない。次から次へとすさまじい思い出を語ってくださるから、つい「はいはい」と聞き入ってしまって、結果、「それはすごいなあ」と思ってしまう。一方で、そういう話をリアルに受け止められないから「物語みたいな武勇伝」を聞いている気分におちいる瞬間があるんです。ご本人は「武勇伝」というつもりではないんでしょうけど…

放送では、曽根さんが寄せてくださった数々のエピソードの中から「空襲の後で不発弾を拾ってきて解体し、お風呂の燃料に使った」という話を紹介しました。不発弾は爆発する可能性もあるため、とても危ないことでしたが、わんぱく少年だった曽根さんは、「これで風呂炊きが楽になる」と、見つけた不発弾をなんと自宅に持ち帰りました。不発弾を解体し、中のナパーム油脂(燃焼剤)を火にくべると、それはよく燃え、風呂に入ったお父さんに喜ばれたそうです。




-不発弾を使ったお風呂の話になぜ興味を持ったんですか?

じつは最初にお会いする前に、投稿されたファックスに書かれた沢山のエピソードを読み込んで、良く出てくるワードを探しました。すると、「空襲」「お風呂」「焼夷弾」というワードが多かった。そこで、そういう話を突っ込んで聞いていったら、「不発弾を解体して、中の燃焼剤でお風呂を沸かす」という話が出てきて、それが清吉さんのやんちゃなイメージにぴったりだと思ったのでそこを掘り下げていきました。

-取材を通して何を感じましたか?

私とは50才近くのジェネレーションギャップがある清吉さんでしたが、腰を据えて向き合い、その日常を本気で調べてみると、時代背景は全然違っていても、中学生ならではの冒険心やわんぱくな部分には「今も昔も変わらない」ものがあるのだと感じ、その青春の思い出に思わず共感させられてしまいました。衣食住のあらゆることが「今と全然違う」にもかかわらず、なぜだかところどころで生まれる「それ、わかりますわ~!」という思いが、50年近くのジェネレーションギャップを少し埋めてくれた気がして、貴重な体験になったと感じています。こういう体験は、私よりも若い世代の人たちにとってはさらに新鮮なものに感じられると思うので、ぜひ、興味を持っていただきたいと思います。

#あちこちのすずさん
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2020年10月2日
家計簿が語る、戦争中の暮らし 放送後記②
8月26日(水)の『あさイチ』では「#あちこちのすずさん&戦争中の家計簿SP」として、太平洋戦争中の暮らしを様々な形で見つめました。今回はその中から、戦争中の家計簿についての放送後記です。

(担当:安永 美穗ディレクター)




『あさイチ』で紹介した、太平洋戦争中の昭和17年に綴られた家計簿。持ち主は、高橋喜久代(たかはし・きくよ)さんという女性です。そこには、戦争に翻弄されながらも、希望いっぱいの新婚生活を送った、喜久代さんの暮らしが綴られていました。番組ではお伝えできなかった家計簿についてのお話や、戦争未亡人として生きた喜久代さんのその後をご紹介します。

突然の召集、そして、家計簿は白紙に
昭和17年、22歳で、夫・朝太郎さんと結婚した喜久代さん。少ない食材を駆使して彩り豊かな手料理を作ったり、お風呂に入るのを我慢して貯金に回したり。戦時下でもなんとか工夫して、夫婦2人で暮らしていこうとする姿がありました。しかし、その年の12月30日、夫に召集令状が届きます。翌日に千人針用の布を購入して以降、続く白紙のページ…。2人の家計簿に新たな文字が綴られることはありませんでした。

放送でご紹介できなかった夫への手紙
夫の出征後、喜久代さんは長男を出産。夫や自分の実家を転々としながら、夫の帰りを待っていたそうです。夫に宛てた、こんな手紙が残っています。

街を歩いても、電車に乗っても、進駐軍をあちこちで見かけるにつけ、ああ、日本が敗(ま)けた!と思いを新たにします。夫は外地で体も心もきずだらけだろう。帰ってきても浮世はやはり憂世なりで、思いやると今から私の心は痛む。だけど力を落とさず、二人でまたやりなおしましょう、人生のスタートを。

しかし、この手紙は宛先不明で差し戻しに。夫のもとに届くことはありませんでした。



生涯独身で家族を守った
終戦から3年後。願いもむなしく、夫の戦死が判明。しかし、幼い息子を抱えた喜久代さんに、悲しむ時間はありませんでした。息子と2人、生活していくだけのお金を集めなければならなかったのです。頼りにしたのは、夫が戦前に勤めていた会社でした。何度も手紙のやりとりを重ねて、見舞金や保険金、退職金など受け取れる限りのお金をかき集めて暮らしたそうです。その後、戦争未亡人として、商社の子会社に就職した喜久代さん。63歳まで勤め上げ、生涯独身だったそうです。



家計簿取材で見つけた、“私と同じ気持ち”
喜久代さんの家計簿を読み始めたのは、今年の6月。実は、私自身も新婚で、結婚生活を始めたばかりのころでした。生活必需品を買い揃えていく記述や、慣れない料理に失敗する記述を見て、「私も同じことしてる…!」となんだかこそばゆくなったり。戦時下で食材が少ない中でも、夫のためにと毎日毎食違う献立を見て、「私はこんなに頑張れてないなぁ」とちょっぴり反省したり。自分自身と喜久代さんを重ねながら、夢中になって家計簿を読み込みました。“配給”という記述以外、本当に私たちの暮らしと変わらない。変わらない、は言い過ぎかもしれませんが、日々の暮らしを豊かに生きたいと願う気持ちは同じなのだと感じたのです。

一方で、2人の暮らしが消えてしまった“白紙のページ”を見た時の衝撃は、今でも忘れられません。何ページも何ページも続く白紙…叶うのならば多くの人に、実際に触って、めくって、感じてほしい。たった1冊の家計簿ですが、戦争のむごさを、五感で感じさせてくれるものだと思います。

「史実としての太平洋戦争は知っている、でもどうしても、体感が伴わない」そのギャップを埋めることが難しかったのですが、この家計簿は、あっけらかんと時代を飛び越えて、私に戦争を教えてくれました。


※この家計簿は、あさイチで始めた「戦争家計簿プロジェクト」に送って頂いたものです。「戦争家計簿プロジェクト」とは、古い家計簿の情報を教えていただき、一橋大学経済研究所などと協力して、戦争中の暮らしを調べようという取り組みです。

ぜひ「古い家計簿」の情報を、下記の投稿フォームまでお寄せください。
https://forms.nhk.or.jp/q/PNDQWCA5
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2020年9月25日
伊野尾慧さんの言葉から見えたもの 放送後記①
8月13日(木)に放送された特集番組「#あちこちのすずさん」で取材とロケを担当したディレクターが取材の中で感じたこと、放送の中では語りきれなかったことを振り返ります。1回目は「手紙」のエピソードを取材した伊豫部紀子ディレクターです。

「#あちこちのすずさん」の番組取材に参加して2年目、「生きる」ことのすばらしさはいつの時代も変わらないことを取材したどの方からも教えてもらいました。さらに「つなぐ」ことのすばらしさを教わったのが今年でした。特に2年越しのエピソードとなった「手紙」―女学生と兵士の文通の話、が不思議な巡り合わせで放送までこぎつけられたことに、あおり気味に言えば奇跡的!と感じるのですが、今日は、リポーターとして出演してくれたHey! Say! JUMPの伊野尾慧さんが発した「言葉」によってそれを振り返ってみたいと思います。去年の取材と、今年の取材、それぞれの「伊野尾ワード」です。

「何よりね、会いたかったんじゃなかったかな……」
これは伊野尾さんが初めてリポートしたロケで最後に放った言葉。
ある意味、今年part2をやることにつながる象徴的なシーンになりました。

去年7月、伊野尾さんは大阪と京都の境目まで日帰りでやってきて、戦争中は女学生だった溝渕栄美さん(93歳)の家に行き、23通もの当時の「手紙」を一緒に読んだのでした。

学校に言われて書いた戦場への慰問手紙をたまたま受け取った兵士から返事が来たことで始まった文通。栄美さんは女学校での、たあいのない笑える出来事を書きつづり、南の島にいるらしい衛生兵の康夫さんは、それを楽しみにしながら3年近く続いたやりとりです。

伊野尾さん命名の「康夫さんフォント」(手書きでちょっと昔の言葉遣い)に、最初は「何これ。『左様奈良』って『さようなら』なんだ、女子高生がタピオカミルクティー飲むのを『タピる』って言うみたいなものか」などと戸惑ったり面白がったりしながら、インタビューは4時間に渡りました。

やがてロケも後半になると、手紙の文面にも戦局が苦しくなっていることが見受けられ、伊野尾さんは「文字が全然違っている」と驚いていました。

1年ほど手紙が途絶えた後に届いたはがきには、女学校を卒業した栄美さんへのお祝いと健康を祈る言葉、3年に渡る戦地暮らしを振り返る歌、そして端っこに小さな文字で「p.s.今度小生モンキーと大の仲良しになりました」とありました。



毎日死と直面する戦場にいるのに、いつも栄美さんを応援し、思いやりやユーモアを忘れなかったその文面からは、康夫さんの優しい人柄が伺えます。さらに切ないのは、そのはがきが、康夫さんの部隊の宛先を書いた返信用はがきが付いた「往復はがき」だったこと。もう一度栄美さんの明るい言葉が聞きたい、それを胸に死にたいと思ったのでしょうか。栄美さんはもちろんその返信用はがきを出しましたが、届いたのかどうかは不明なままです。それを最後に康夫さんの消息は途絶えました。

伊野尾さんが思わずからかいたくなるほど、栄美さんは天然でかわいいおばあさんでした。女学生の時も、康夫さんが一生懸命書きつづった便せん1枚に及ぶ詩を、「わからへんのよ私、詩ぃ読んでも」と言い放ち、康夫さんが「刺繍のハンカチありがとう」と書いてくれているのに、その頃友達からもらって趣味じゃなかった刺繍のハンカチの「たらい回しや」と暴露したりして、それを伊野尾さんが「男の思い伝わらないな」と笑いました。栄美さんは天然で不器用なところもあって、康夫さんが何度か送ってくれた折り紙も、「これは百合になるはずらしいんですよ」と言いながらぺしゃんこのまま引っ張ってみたりするのですが、どうしても百合になりません。伊野尾さんはモンペ姿の女性の形の折り紙を目ざとく見つけ、「この顔のところに目とか口が描いてないのは、栄美さんの写真がまだ届いていなくて顔がわからなかったからだよ。きっと栄美さんの写真を待ちわびてたんだよ」などと康夫さんの気持ちを代弁していたのでした。



伊野尾さんから「何よりね、会いたかったんじゃなかったかな」という言葉が出たのは、ある手紙を読んだ後でした。生きて帰ることを諦めていただろう頃に、康夫さんが珍しくつづった自身の気持ち。「思い出に一番残るのは いくら考えてもただ一人しかありません 永い永い間本当に楽しい そして忘れることが出来ないくらいにまで 印象を残してくださいました人 私も 本当にその人が大好きです」 一度も会うことなく終わった2人。
伊野尾さんが半泣きのような声で絞り出したのが、こんな言葉でした。

「『大好き』ってある通り本当に栄美さんのことを大切に、好きだと思ったと思うし、何よりね、会いたかったんじゃないかな」

それは、このエピソードで私が伝えたい全てを表していました。太平洋戦争での膨大な戦死者数の、たった「1」でしかない兵隊にも、今の私たちと全く変わらない喜びや悲しみに震える“心”があったこと。当たり前のことなのに、少なくとも私には衝撃でした。そして、戦争は嫌だと、おそらく初めて頭でなく腹の底から思ったのです。

帰り際、伊野尾さんに「何分くらいのVTRになるのか」を聞かれ、6分くらいだとは言えず、思わず「12分?」などと言ってしまいましたが、それでも「そんな短いのか…」みたいな表情だったことから、いかに中身の濃いロケだったかがわかります・・・、などと冷や汗かきつつ振り返りますが、ともあれその言葉がpart2につながったのだと思います。



「やっぱりちょっと寂しいと感じてしまうのは、どうしてなんだろう」
フェイスシールド越しの横顔で放ったこの言葉と、戸惑ったようなかみしめるようなその表情、もちろんカメラマンもばっちりアップで決めています。

これは康夫さんの消息を追うことになった今年のロケで、康夫さんの戦死が判明した時の言葉です。編集では短くしたものの、伊野尾さんが一生懸命言葉にしたことは、この3倍くらいありました。実際はこうです。

「いやあ…でもなんか。正直、僕去年、栄美さんとの手紙でのやりとりの中で康夫さんがどういう人か想像していて。もしかしたら、どこかで、生きているのかもしれないっていう部分もちょっと気持ちのなかであったり。なんかこう、本当に亡くなられているっていうことが正直、あまり実感なくて。それこそ僕にとってはちょっと、おとぎ話を読んでいるような、そんな世界のお話だったことが、ここに来て、1年経ってここに来て、富崎さんの名前があって、その時セブ島で亡くなられてしまっていたんだっていう事実を見ると。ちょっとやっぱり、すごい昔のことで、僕なんて関係ない赤の他人だけど、やっぱりちょっと、切なく寂しいなって思ってしまうのは、どうしてなんだろう」 書き起こしを写してみたら3倍どころじゃありませんでした。 ここで彼が一生懸命言葉で表そうとしたことは、別世界に思える戦時中の人々にも、自分たちと同じように懸命に生きた“人生”があったのだということ、それを今でも実感できたという驚きだと思います。私は2年間この「#あちこちのすずさん」に関わり当時の人々の人生を伝えてきた気でいましたが、それをその場で耳にした時「ああそういうことなんだ」と、このエピソードを伝えるべき意味を初めて教えられた気がしたくらい、素晴らしい言葉だと思いました。

そこまですばらしいなら、なぜ短くカットしたんだよという声が聞こえた気がしますが、それはVTR全体で伝えるため、それぞれの長さにせねばならない事情とかもあり、まあ力のある言葉ならその映像と共に短くしても伝わるものは伝わるものです・・・などと言い訳を並べつつも、もう75年も前の「太平洋戦争」という日本の未曾有の犠牲を払った時代を、実感として、体感としてつながることができる、今がギリギリ最後の機会なんだとしみじみ感じるのです。



思えば、ただ「神戸空襲を経験した女性がいて兵士との手紙も残している」というだけの投稿から始まったこの取材。反響が大きかったため康夫さんの消息を必死で調べるも新型コロナ感染拡大のため現地行きも制限され八方塞がり。康夫さんからの最後の往復はがきの軍事郵便の符号「テ四七」がセブ島を表すとわかったこと、かわいがられていた山本五十六の書を康夫さんが寄贈したという小学校に康夫さん在籍の証拠はあったこと、シラミ潰しに近所を探して見つけた富崎家の墓に康夫さんの名前はなかったこと、墓の世話をしているのは違う名字の女性らしいこと、手紙に同封された百合の折り紙の解説が妙に花に詳しいこと…バラバラの状況証拠すべてが奇跡的につながって、75年前の真実をお伝えすることができたのでした。昔のことは今と関係ないということは絶対ない、つながっている。そうしてよりよく生きていこうと綿々と人生を紡いでいくのが人間なのではないでしょうか。

#あちこちのすずさん
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2020年9月17日
エピソード|”さらし”を巻いて「いただきます」
昭和2年生まれのキミ子さんが語ってくれた、戦時中の家族イベントのエピソードです。

わたしは七人兄弟の長女で、ほか六人は全員男兄弟でした。戦時中、食べ盛りの子どもたちはいつもお腹を空かせていました。

そんな中で、わたしたちが毎年何よりの楽しみにしていたのが「ぼたもち会」です。わたしの家は農家で、五穀豊穣と魔除けの意味を込め、お彼岸にみんなでぼたもちを食べる風習がありました。ですが、ぼたもちに使う砂糖は配給制になり、スプーン1杯分をもらっては紙に包んで大切に保管するような貴重品になっていました。それでも母は「お彼岸だけは」と少しずつ節約して、毎年ぼたもちを山ほど作って食べさせてくれたのです。

「ぼたもち会」の当日。弟たちは朝からソワソワ落ち着かず、今か今かとぼたもちを待っています。そろそろ...という頃になると、これも毎年の儀式のようになっていたのですが、おもむろに父が弟たちを呼びつけ、服を脱がせ始めます。そして、「きっちり巻いておかねぇと腹がはじけてしまうからな」と言いながら、お腹にさらしを巻きつけるのです。

実は、このさらしは食べ過ぎ防止のため。弟たちは日々ひもじい思いをしているので、ここぞとばかりにぼたもちを食べ過ぎて、後で苦しむことになるからでした。特に末っ子で当時小学生だったタケシは、好物を前にすると際限なく食べ続け、おなかが青筋を立ててパンパンになるまで止まらないという大食漢だったのです。ですから父もタケシのさらしはきつーく巻いたものでした。

さらしを巻き終わったところで、「ぼたもち会」がようやく始まります。さらし効果で、大食漢のタケシでも2つほど食べたところでもう満腹。おかげで誰かがぼたもちを独り占めすることもなく、みんなで仲良く分け合うことができました。

こちらの投稿を寄せてくださったのは、キミ子さんの娘で、静岡県にお住まいの太田紀子さん。叔父たち、特にタケシ叔父さんのほほえましい話を聞くたびに、当時の様子を想像して思わず笑ってしまうそう。でも同時に、あらゆることを我慢しなければならない厳しい時代を生き抜いてきたんだという、尊敬の念も改めて抱かずにはいられないと語ってくださいました。

#あちこちのすずさんでは、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。
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2020年9月11日
徳島新聞×#あちこちのすずさん|駅がつなぐ“偶然”
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、戦争中を懸命に生きたひとびとの、暮らしやささやかな日常の記憶に関するエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。



今回ご紹介するのは徳島新聞が集めた2つのエピソード。どちらも“駅”が舞台になっています。明治5年(1872年)に新橋・横浜間29kmで国内初の鉄道が開通してから70年あまりの昭和11年(1936年)には、国内の鉄道総延長は17,422kmに達し、国内の津々浦々を結ぶ鉄道は、人々の暮らしには欠かせない存在になっていました。 戦時中も出征や戦略物資の輸送に使われ、あちこちのすずさんで集めた戦時中の暮らしのエピソードの中でも復員、疎開、買い出しなど様々な場面で鉄道は登場します。
その鉄道と人々が暮らす町をつなぐ場所が駅。多くの人が行き交うなかで、記憶に残る様々なエピソードの舞台となったのかもしれません。
ばあちゃんがつかまった!
県立撫養(むや)高等女学校3年生だったある日のこと。いつも通り友人たちと楽しく帰宅している途中、警察署前を通りかかると、なんとまあ、私の祖母が署員に連行されているではないか。私はびっくり仰天して肩掛けカバンを横抱きにして一目散に家に飛んで帰った。

「よう分からんが、ばあちゃんが警察に連れて行かれよった」。母に言うと、母も仰天。「とにかく警察に行く」と普段着のまま、走って行った。私はもう何が何やらさっぱり分からず途方に暮れていた。すると、しばらくして、祖母が母と帰ってきた。

話を聞くと―。祖母の次男、つまり私の叔父は当時、重い結核を患っていた。彼に「少しでも白米を食べさせてやりたい」との一心で、やっと1升分を手に入れた祖母。撫養駅まで帰ったところ、そこで張っていた署員につかまったのだそうだ。当時、米は配給制。こっそり闇米を買うことは禁じられていた。違反すると重罪となった。

運よくその場に、祖母をよく知る薬局の店主が署長と話していた。地獄で仏とは、このこと。店主が「量も少ないし、親心もくんであげて」ととりなしてくれ、祖母は「今後は闇米は買いません」と謝り、無事帰宅することを許されたのであった。

当時、撫養駅は今の鳴門郵便局の位置にあった。その向かいが鳴門警察署だった。薬局の店主には今も深く感謝している次第。

徳島県鳴門市・田渕和子(92)

兄を探しに大阪駅へ
1929年生まれの亡き母の少女時代の思い出である。

母の兄は三重県鈴鹿の陸軍に通信兵として入隊した。夏の日、電報が届いた。部隊が中国・上海に出征することになったので、大阪まで会いに来てほしい、と。「自分の乗った列車が大阪駅で一時停車する。そのわずかな時間に両親に会いたい」と言うのだ。養蚕が忙しい時期だった親たちに代わり、15歳だった母が行くことになった。

木綿の一張羅のブラウスにもんぺ、素足にげた履き。背中にはにぎり飯とはったい粉を詰めたリュックを背負う。山瀬駅から汽車に乗り、小松島港からは船に乗り、大阪の天保山に着いた。空襲で焼け野原の街が広がる中、人に聞きながらやっとの思いで大阪駅へ。

駅に行けば兄に会えると思っていたが、なんと大阪駅の大きいこと。改札口がいくつもあり、大勢の人でごった返している。兵隊さんとすれ違うたび、「鈴鹿部隊ですか」と尋ねて「違う」と返された。とうとう足が棒のようになり、座り込んでしまった。

どれくらいたったか、「もう帰ろう」と腰を上げたとき、軍需工場で働く女学生の一団を見た。するとその集団に、「文ちゃんでえ。こんなところでどうしたん」と叫ぶ少女がいる。学徒動員で数カ月前に出て行った姉の光子だった。抱き合ってオイオイ泣いた。

取りあえず二人で駅構内の案内所に行き、長蛇の列の最後尾についた。すると、向こうから若い兵隊が走ってくる。兄だった。にぎり飯を頬張り、「父さん、母さんは元気か? 妹や弟たちは元気か?」と矢継ぎ早に質問する兄。すぐに出発のベルが鳴り始め、兄を乗せた汽車は出発した。

―このような戦争の体験談を聞かせてくれた母は7年前、85歳で他界した。もっと聞いておけばと思っても、もう声はしない。

徳島県吉野川市・鹿児島康江(67)


かたや全国有数のターミナル大阪駅、かたやローカル線の駅ですが、どちらも駅に偶然いあわせた家族や近所の人が、エピソードの主人公が困った状況から脱するきっかけをもたらしてくれているのが印象的でした。当時もいまも、駅は人と人が出会う場所なんですね。

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2020年9月10日
長崎新聞×#あちこちのすずさん|おさげのアイちゃん
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、戦争中を懸命に生きたひとびとの、暮らしやささやかな日常の記憶に関するエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。



今回は、長崎市在住の75歳の方から長崎新聞に寄せられたエピソードを紹介します。
母アイ子は戦時中、長崎市にあった県防空学校で、両親と共に職員として働いていました。若き青年ばかりの中に、紅一点のアイドルでした。

戦争が激しくなってくると、学校で学ぶ若者にも突然、出征命令が下りました。若者たちは、見送るアイちゃんのおさげ髪を両手でしっかり握ってから出発しました。「僕らが守ってやるよ」と。女性の黒髪を触るのは最初で最後だったでしょう。あまりに悲しい青春です。

学校では永井隆先生の授業もありました。
(※永井隆…医学博士。長崎で自身も原爆に遭いながら負傷者の救護活動に奔走。戦後、白血病と闘いながら『長崎の鐘』や『この子を残して』などの著作を通じ平和を訴えた。)
17歳になったアイちゃんは、親が決めた結婚をすることになりました。心配した永井先生は「先生が親御さんに話して断ってもらおうか」。アイちゃんは「この前教会でチラッとその人を見ました。横顔の寂しそうな人でした。でも私を5年間も見守っていてくれたそうです。一緒に苦労をしたいと思います」と伝えました。

2年後、あの忌まわしい原爆。三ツ山で永井先生と再会したアイちゃんは、生後半年の私を連れていました。「この子がアイちゃんの子か。かわいかね。大事に育てなさい」-。先生は痛々しく傷ついていましたが、優しいまなざしは昔のままだったそうです。

「えぷろん平和特集2020 #あちこちのすずさん」長崎新聞 https://this.kiji.is/-/series/665106462915052641 ※NHKのサイトを離れます

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2020年9月2日
北海道新聞×#あちこちのすずさん|あの時代の”小さな物語”を知る
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。



今回は、北海道新聞から。北海道新聞では8月上旬から新聞紙面のほか電子版、ツイッター、LINEで戦時中の暮らしのエピソードを募り北海道内から約40件の投稿が寄せられました。
担当者によると、「雪降る中で父を見送る母、8月15日を過ぎてから旧ソ連が侵攻した樺太での経験…。あの時代の日々を伝える北海道らしいエピソードを多くの方が寄せてくれました。これまでの戦争記事は、やはり大きな出来事(空襲、樺太の集団自決、ソ連の樺太侵攻など)に目が向きがちでした。これらはもちろん重要なことですが、市井の人々が当時、何を思い何を考え暮らしていたのか、戦争が日常にどんな変化をもたらしたのか知り、想像する機会になりました。」(北海道新聞報道センター  門馬羊次)とのことです。 寄せられた投稿の中から、3つのエピソードを紹介します。
家族同様の愛馬との別れ
戦時中、遠軽(オホーツク管内)で父と共に働いていた馬を軍に供出することになりました。別れの日。母は家族の食料として取っておいたニンジンを全て愛馬に与え、父は最後に手綱を引いて記念撮影をしました。農家にとって馬は喜びも悲しみも分かち合う家族同様の存在ですが、軍にとっては兵器でしかありませんでした。
遠軽町 前島英資さん(83)
   
みそと機関砲
札幌村丘珠(現札幌市東区)の国民学校に通っていた当時、他校とリレーで競い合いました。優勝したときはみんなで大騒ぎ。青年団でも運動会があり、兄が応援団長を務めました。その兄が徴兵され戦地に向かったのですが、行き先も分からず、数カ月後に兄からはがきが届いて中国北部で元気だと分かり、家族一同安心しました。空襲も体験しました。1945年(昭和20年)7月、手作りみそを納屋から出していると、頭上で米軍機3、4機が機関砲を放ちました。近くの飛行場を攻撃したのです。地域の人が亡くなりました。戦争は私の一番恐ろしい思い出になりました。
札幌市 斎藤(旧姓・山田)ヒデ子さん(92)
  
防空壕で炭火をたいた結果
生まれ育ったのは樺太。隣近所と一緒に防空壕を持っていました。空襲警報が鳴って、1日に何回も防空壕に避難したこともありました。2歳下の弟と一緒に防空壕に入ったとき、なぜだか中で炭火をたいて、外に出ようとした時に意識がもうろうとなったことが一番記憶に残っています。九死に一生を得ました。
小樽市 平野井篤さん(83)

「#あちこちのすずさん」北海道新聞 https://www.hokkaido-np.co.jp/series/s_suzusan?pu ※NHKのサイトを離れます

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2020年8月28日
エピソード|新巻鮭を抱いて
戦後、5人の子どもを女手ひとつで育てたキミ子さん(大正生まれ)が、汽車を乗り継いで 闇市に行ったときのエピソードです。

空襲で夫が亡くなり、5人の子どもを抱えて未亡人となったわたしは、東京を離れ、京都に ある夫の実家へ身を寄せることとなりました。夫を亡くしたわたしにとって、夫の実家は 決して居心地のいい場所ではありませんでした。

どうにかして自分の居場所を作ろうと考えたわたしは、目前に控えたお正月のために、縁起物の新巻鮭を入手しようと思いつきました。新巻鮭のような贅沢品を持ち帰れば、きっとみんなのわたしを見る目が変わるに違いない、と思ったのです。

とはいえ、物資が不足していた時代ですから、新巻鮭など簡単に手に入るはずもありません。入手するためには、汽車に乗って遠くの町の闇市まで行くしかありませんでした。ただ、闇市の品を持っていることが周りにバレたら、通報されたり強盗に遭ったりするかもしれません。そこでわたしは闇市に行く際、赤ちゃんを包む“おくるみ”を持参することにしました。それまでの子育てで使い古したおくるみです。

闇市では、お目当ての新巻鮭を無事手に入れることができました。あとは汽車に乗り、誰にもバレずに持ち帰るだけ。

「おとなしい赤ちゃんですね。ほんとにお利口にしてはること」
「どうぞ、席をお譲りします」

満員電車の中、わたしはおくるみに新巻鮭を包んで、赤ちゃんのように抱きかかえていた のでした。周囲からやさしい声をかけられるたび、内心ヒヤヒヤ......。なんとか受け答えして、おくるみに包まれた新巻鮭をあやしながら家路をたどりました。

お正月のご馳走に新巻鮭をもたらしたことで、亡き夫の実家に暮らす家族たちもわたしのことを見直してくれました。

こちらの投稿をお寄せくださったのは、キミ子さんの孫のひつじちゃん(50 代)です。 幼 少の頃に、キミ子さんからこの話を聞いたのだとか。今も塩鮭を食べるたびに「本当にあ りがとう。しっかり、生きていきます」と、亡くなられたキミ子さんを思い出すのだそう です。

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2020年8月26日
神戸新聞×#あちこちのすずさん|ドラム缶と父の記憶
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。



今回は、神戸新聞に寄せられた、家族の記憶のエピソードを紹介します。

兵庫県朝来市の小学校教頭余田勝子さん(48)の実家は戦時中、柏原町(現丹波市)にあった配給所だった。7年前に72歳で亡くなった父は、戦争で兄が戦死。ことあるごとにぽつりぽつりと当時の話をしてくれた。

厳格な祖父が実は優しかったこと。遺族に周囲が温かかったこと。余田さんは亡父の話を紙芝居にして、子どもらに伝えている。

余田さんの祖父西山徳三郎さんは、柏原町で金物などを扱う商店を営んでいた。戦時中は塩や砂糖、油などを扱う配給所となり、まだ4歳だった父の春男さんが仕事を手伝った。

配給用のドラム缶の油は固体で、かまどを組み、温めて溶かす必要があった。「ハル、火ぃ見とれな」。祖父はそう言って、いつも父に小さなサツマイモをくれた。焼き芋にして食べられるように。「あのイモがうれしくて、ずっとドラム缶の前で火の番をしていた」。春男さんが笑顔で語る姿を思い出すたび、余田さんは「サツマイモは父にとって、祖父のぬくもりそのものの記憶だった」と思う。

春男さんは生前、終戦の年の秋に撮った集合写真を宝物にしていた。

幼稚園の収穫祭の場面。70~80人の子どもらの後ろに、高さ2メートルほどのジャングルジムがあり、春男さんを含めた約20人の子が乗っている。

乗っていなかった男の子が「わしも乗りたい」と言うと、女性教諭が涙を流して諭した。「あの子らは、お父ちゃんや兄ちゃんがお空の上におってんや。お空に一番高いところで見てもらおうな」

10人きょうだいの末っ子だった春男さん。戦死や病気で、成人できたのは4人だけだった。余田さんは紙芝居をめくりながら言う。「たくさんの命を奪った戦争だけど、人として一番大事な心は奪えなかった。相手を思いやる気持ちがあれば戦争は止められる」(神戸新聞・前川茂之)

「#あちこちのすずさん」神戸新聞 https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/suzusan/ ※NHKのサイトを離れます

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2020年8月23日
新潟日報×#あちこちのすずさん|食券大作戦“プスン”でバレた!
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。


今回は、新潟日報に寄せられた、食べ盛りの若者たちの軍需工場での青春のエピソードを紹介します。
毎日くたくたになるまで働いた。いつも空腹だった。18歳の若者は1944年末から終戦まで、学徒勤労動員によって、群馬県の中島飛行機小泉製作所で海軍の戦闘機を造っていた。

長岡市の齋藤譲一さん(93)は旧制長岡中学を卒業後、長岡工業専門学校に進学した。勤労先でも授業が受けられると思っていたが、待っていたのは「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)の燃料タンクを取り付ける日々だった。

後に知ったことだが、同じ頃に一時的ではあるが小泉製作所には三島由紀夫が動員されていた。

齋藤さんは当時、食べ盛り。一食当たり小ぶりなおわんに混ぜ物のご飯やおじやが一杯だけ。おかわりはなく、菜っ葉や煮豆などをおかずに食べたが「全然足りなかった」。その上、仲間内で「利根川の砂利」とやゆするほどまずい。そんな食事でも「とにかく腹いっぱい食べたかった」。

ある日、仲間ら数人と「決死隊」を募り、寮の調理場に忍び込んだ。手には洗面器。回転する巨大な釜に洗面器を突っ込み、ご飯を部屋に持ち帰った。「戦果あり」と言って、仲間たちとむさぼるように食べた。

「犯人捜しはなかった。探そうと思えばすぐに見つけられたのにね」。大人たちの優しさを垣間見た。だけど、すぐに警備が厳しくなり、決行は「一度きりだった」。

仲間で次なる作戦に出た。寮と工場での食事は食券制で、はがき大の厚紙にひと月分の日付や朝昼晩などと記されていた。「入り口に係のおじさんがいて、千枚通しで穴を開ける」仕組みだった。

齋藤さんたちは食券の穴を別の厚紙で裏打ちしてふさいだ。混雑に紛れ、食事後に再び列に並ぶ。食券を渡し、千枚通しが通る…。

結果は「プスン」。

「こりゃ駄目だよ学生さん、2回目だもん」。手応えがなく、すぐにばれた。

齋藤さんが怒られることはなかった。「係のおじさんは外国出身の徴用工だった」という。「学生がひもじいのを知っているし、徴用工として苦労している身だから気の毒に思ったのかもしれない」と振り返る。

戦争が終わり、工場を離れる時、別の徴用工の人たちから石を投げ付けられた。戦争に負けたことを実感した瞬間だった。

 戦中は勉強の機会を奪われ、工場では空襲や飛行機の機銃掃射から逃げ惑った。悲しい思い出も少なくない。一方で、齋藤さんは「どんなものであっても、青春時代はかけがえのないものなんだ」と目を細めた。
(新潟日報/報道部・高橋央樹)

「暮らしの記憶 × #あちこちのすずさん」新潟日報 https://www.niigata-nippo.co.jp/feature/sengo75th/suzusan/ ※NHKのサイトを離れます

#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。
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2020年8月21日
岩手日報×#あちこちのすずさん|“カデ飯“で飢えしのぐ
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。
今回は、岩手日報に寄せられた、“カデ飯”と呼ばれた食のエピソードを紹介します。
盛岡市 金野 清人さん(84)からのエピソードです。

戦時中、食糧不足で非農家のわが家の暮らしは大変苦しかった。主食は麦飯か、米にほかの物を混ぜて炊いたカデ飯だった。

カデ飯の中でもしょっちゅう食べさせられたのが、大根を「カデ切り器」で刻み、煮上げて水にさらし、米と一緒に炊いた大根飯だった。サクサクして歯触りはいいのだが、食べ盛りの私はすぐにお腹がすいた。

カボチャはご飯からお汁からおかずまで、顔が黄色くなるくらい食べさせられた。それでも大根飯やカボチャご飯のおかげで辛うじて飢えをしのげた。

太平洋戦争開戦翌年に食糧管理法が制定されて米穀配給通帳が各戸に配られ、米や麦類を自由に買えなくなった。制定後、米や麦の配給も欠配の日が多く、わが家の食事は、麦飯が減って雑炊やツメリ(すいとん)の日が多くなった。サツマイモやジャガイモやカボチャだけの食事の日もあった。

腹の足しにするため、母は私を春は近くの野原に山菜(ワラビやフキ)採り、秋は近くの山にキノコ採りに連れて行ってくれた。ハツタケやアミタケなど、食べられるキノコはなんでも採った。近くの田んぼでイナゴ捕りもした。イナゴのつくだ煮はおいしかった。

アンズや栗や柿はもちろんのこと、熟したクァンゴ(桑の実)は唇を紫にして食べた。

当時、村中どこの家でも鶏やウサギを飼っていた。ときどき兄貴がさばいて肉料理を食べさせてくれた。年中飢えていた私にとって、鳥の唐揚げは最高のごちそうだった。

少年時代、痩せっぽちの私はわんぱくたちから「ヤセハッタギ」とあだ名を付けられた。 傘寿をとうに過ぎた今、ほろ苦く思い出される。

岩手日報   https://www.iwate-np.co.jp/article/category/suzusan?page=1 ※NHKのサイトを離れます

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2020年8月15日
エピソード|終戦のオナラ
10歳で終戦を迎えたたかこさんの、思わず笑いがもれた終戦の日のエピソードです。

「わたしが住んでいた静岡県富士市には日産の工場があったこともあり、よく爆撃がありました。食糧も不足していて、みんなすっかり疲弊していました。

ある日、街の食堂の前を母と二人で通りかかると、大豆の皮を揚げたものを麦飯に乗せただけの精一杯の「天丼」を振る舞っていました。思い切って食べてみたら、その美味しいこと!「お母ちゃん、お代わりしたい」と何度もねだるわたしに母が、「周りの人たちも食べたくてもみんな我慢しているのよ。あなただけ食べるわけにはいかないでしょう」と諭したのを覚えています。今なら誰も見向きもしないような粗末なもの。でもあの頃は、みんな飢えていたんです。

昭和20年8月15日。今日はラジオで大切なお知らせがあるらしいと、近所の人たちが、わたしの家に集まってきました。我が家には新しもの好きの父が買ったラジオがあって、それが近所で唯一の物でした。全員がラジオの前に集まり、正座をし、頭を垂れて、かしこまって天皇陛下のお言葉を待ちました。

そのとき、......プー。静まり返った部屋にオナラの音が響きました。近所のおじさんが緊張しすぎて、オナラをしてしまったのです。それからは、みんな笑いをこらえるのに必死。結局、天皇陛下のお言葉の意味はわからずじまいでした。「まあ、とりあえず、これからも頑張れということじゃないか?」ということで近所の意見はまとまり、その時は、敗戦だとわからなかったんです」。

こちらのエピソードは、たかこさんの娘さんの、あはは工房さんがお寄せくださいました。小学生の時、学校で「戦争中の話を親に聞きましょう」という宿題が出た時に、お母様が話してくれた思い出です。こういう戦争の話は他になくて、学校で発表した時も、みんな笑っていたそうです。ドラマなどでもよく見る終戦の日の玉音放送、聞いていた人もみんな生身の人間ですから、いろいろな事情がありますよね。

#あちこちのすずさんでは、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

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2020年8月13日
#あちこちのすずさん|のんさんインタビュー
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという#あちこちのすずさんキャンペーン。
8月13日(木)放送〔総合〕の特集番組でアニメのナレーションを担当したのんさんにインタビューしました。
※サムネイルをクリックすると、のんさんのインタビュー動画が再生されます。

(聞き手:占部稜ディレクター)

Q:エピソードの朗読を担当されての感想はいかがですか?

当時の経験、しかも日常的なこと─食べることとか、お祭りで踊ったりとか、そういうのって、いま生きる自分たちの中でもちょっと想像しやすい部分のお話でーその時代の中で生きていた方たちの鼓動といったものをすごく感じました。

Q:映画『この世界の片隅に』ですずさんを演じられて、また特集番組での朗読もされて、戦争に対する認識はどのように変化されましたか?

今まで映画ですずさんの声をやらせて頂くまでは、実感が湧いてなかった。本当に自分の住んでるこの日本で起きていたことなんだっていう気持ちが薄かったというか。授業で習ったりとか、映画とかドラマとかで触れたりしてきたけれど、本当にあったことなんだって頭ではわかっているんだけど、違う世界のお話のように思えてて。だからすごく漠然としてるから、恐怖だけがあって、目を向けないようにしてきたというか、目を背けていたいた部分があったんですけど、『この世界の片隅に』でもすずさんに触れて、毎日のご飯のこととか、おしゃれをしたりとか、ロマンチックな思い出があったりとか、そういう日々のことに触れていくと、共感できるエピソードがあって、そうするとどんどんリアルに感じられていきました。
すずさんは、こうの史代さんの原作の中で生きている人物だけれど、本当に#あちこちのすずさんのように日本中にすずさんがいて、その方たちが違う世界のお話に思えてたのが、途端に血の通った人の存在を感じられました。自分たちと同じ人が生きていて、この日本という場所であった現実のことなんだって思えると、すごくそれは目を背けてはいられないことだなっていうふうに考えられるようになりました。

Q:“#あちこちのすずさん“を始めて3年になります。お孫さんがごく近い形でおばあちゃんの話を聞いたりといった、若い人たちの動きをどういうふうに見ていますか?

すごく大事なことなって思いますね。うれしくなる思い出とか、切ないこともたくさんあると思うんですけど、やっぱり経験していないことなので、自分の五感が、皮膚感が動く話を聞けると、途端に想像力が刺激されるので、そういう温かい思い出を聞けるというのは貴重なことだなと思います。それを私たちと同世代の方たちがシェアをして、みんなでそのお話を共有しているという気持ちにはとても共感します。ずっと忘れないように繋いでいくというのは大切なことだと思うので、私もその中の一員として一緒にシェアしていきたいと思ってます。

漠然とした恐怖だけがあって、なんとなく考えないようにしてるという私みたいな人って、結構いると思うんですよね。でも、戦争のことを考えるきっかけになる。そこに生きていた人たちに、明日のご飯を楽しみにしたりとか、おめかししてデートしたりとか、そういう自分たちと同じ温かい感情が流れてて、その時代を駆け抜けたんだっていうのを想像すると、自分のことのように思えてくる。ひとごとじゃないこととして、自分の中に入ってくる。心の浅いところで、“あ、怖いな“と目をつぶっちゃうみたいなところから、ちゃんと心の奥に重く落ちてくる。私はそういう感覚があったので、考えるきっかけになったらいいのかなと思いますし、これからの時代をつくっていくみんなの中にも存在し続けたらいいなっていうふうに思います。

Q:今年は戦後75年。のんさんにとって戦後75年というのはどういう風にとらえていますか?

自分の身の回りで戦争体験を聞ける機会ってあんまりない方たちがほとんどだと思うんですけど、そうやって記憶が薄れていくなかで、それを伝えていく、繋いでいくことがすごく大事だなって、改めて思います。

Q:特集番組の中で、戦争で父親を亡くし一家の大黒柱として働く女性が盆踊りに没頭するエピソードを朗読されています。読んでみてのご感想はいかがですか?

自分の感情を持っちゃいけないっていう状況に追い込まれてる当時のお話だったんですけど、その気持ちを思うととっても苦しい時間があったんだなというのを感じて。好きなことができなくて、恋をしたりとかもできない、日々をつないでいかなければならない。一日を過ごすために、自分が働いて遊ばずに頑張んなきゃいけないって切羽詰まっているときに、おばあちゃんに手招きされながら盆踊りの輪の中に入っていって、みんなで自由に踊ることに没頭して楽しむっていう時間がほんとに救いになったんだろうなっていうのがジーンときました。
今、新型コロナの感染拡大で、たくさんの人が精一杯に生きていて、“明日どうなるんだろう““この先どうなるんだろう“というのが見えない中で日々過ごしていると思うんですけど、朗読したエピソードは、そんな苦しいなかでも前を向いていける。自分もしっかり明るい気持ちを持って、希望を持って生きていかなきゃいけないなっていう気持ちになりました。

Q:番組の中でも、10~20代の方たちが戦争中の話について, 今の新型コロナウイルス下の状況に近く感じるとおっしゃっていましたがどう思われますか?

自分のいま置かれてる状況と共鳴した部分はすごくありました。時代感も風景とかも全然違ったのかもしれないけど、気持ちの部分で同じように感じましたね。そういう切羽詰まった気持ちと共鳴しているなかで、朗読したエピソードの主人公が希望を信じたいっていうところに行き着いたので、自分も一緒にその希望に乗っかっていけるような明るいポジティブな気持ちになりました。

Q:最後に、#あちこちのすずさんに参加してくださっている方、参加しようと思っている方にメッセージをいただければと思います



#あちこちのすずさんに参加してくださっている皆さま、ありがとうございます。
本当に素敵なエピソードをたくさんシェアしてくださって、私もすごく気持ちを動かされました。これからも#あちこちのすずさんの記憶をつないでいきたいなと思っています。
これから#あちこちのすずさんに参加したいと思って下さっている方も、ぜひ一歩を踏み出して、素敵なエピソードを寄せていただけたらうれしいです。
そして、あちこちのすずさん。全国にいる、あちこちのすずさん。大切なエピソードを教えてくださって、ありがとうございます。大切に、大切に、私も読ませて、朗読させていただきました。自分の中で、心の中に大切に入れておきますので、これからもよろしくお願いいたします。

≪エピソード投稿はこちらから!≫
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みなさまからいただいたエピソードは、今後このHPで記事とイラストでお伝えしていきます。 
#あちこちのすずさん
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2020年8月12日
8/13(木)夜10時 特番放送!“#あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~”
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという#あちこちのすずさんキャンペーン。
特集番組「#あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~」では、若い世代に戦争のことを少しでも知ってもらおうと、みなさんから寄せられた戦時中の暮らしのエピソードを、去年に続き、今年もアニメでお届けします。

八乙女光さん・伊野尾慧さんが10代20代の声を届けます
今回、ラジオ番組「らじらー!」でMCを務めるHey! Say! JUMPの八乙女光さん・伊野尾慧さんが、当時、女学生や20代の男性がどんな生活を送っていたのか取材。またスタジオでは、2人が10代~20代の参加者30名とオンラインでつながり、彼ら彼女らがエピソードを通してどんなことを感じ、考えたかも紹介します。そして、2人がエピソードをどう受け止めたかを副音声でお届けします。

“すずさんの家”をバーチャルセットで再現
さらに、映画『この世界の片隅に』の主人公・すずさんの家を、片渕須直監督たちが映画制作時に作った美術デザインを元にバーチャルセットで再現。バーチャル「すずさん家」の軒先や居間で、片渕監督と千原ジュニアさん、近江友里恵アナウンサー、そしてHey! Say! JUMPの二人が、「お弁当の思い出」「空襲の下での青春」など、戦後75年目の今と同じように“懸命に生きていた当時の人々”について語り合います。

この夏、あなたの身近な人の、“すずさん”のような思い出を一緒に見つけませんか?
(出演者のみなさんからメッセージをいただいています)

(スタジオにバーチャル画像を組み合わせてすずさんの家を再現)

【特番】8月13日(木)夜10時~[総合] 「#あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~」
【再放送】8月15日(土)0時30分〜[総合]※金曜深夜


片渕須直さん(映画監督)からのメッセージ
番組チームの取材の力で、昨年の「#あちこちのすずさん」で紹介されたエピソードの『さらにその先』が語られたりして、いっそう心にしみる収録現場でした。また今年も得がたいものに触れさせていただきました。
今年は戦争中に生きていた人たちの「身体」の話が目立ちました。思わず体が動きだして止まらなくなった話や、身体から何かが失われてもそれを乗り越えた話。観念や知識だけのものじゃなくて、そこに確かに身体を持った人がいたんだな、と感じることができるのじゃないかと思います。
まず「戦争」の中にいた人たちを、こうした共感できるレベルで一度捉えていただ くことが大事なのではないかと思います。「あちこちのすずさん」を通じて、ああ、自分たちと同じような人がいて、そうした人生の上に大きな「戦争」というものがのしかかってきたのだな、と感じていただくこと。それは、「戦争が何を奪ったのか、失わせたのか」を理解する出発点になるだろうと思うからです。その先に、「では、なぜそんな戦争が起こってしまったのだろう? 遂行されてしまったのだろう?」と考える糸口にも、きっとなっていくはずです。


千原ジュニアさん(芸人)からのメッセージ
今年で「#あちこちのすずさん」にかかわるのは3年目になりますけど、自分 が知らなかった戦争中の話、興味深すぎる話をたくさん知れるのがありがたいです。それぞれのエピソードが持つ圧倒的なディテール。それがリアルな迫力を持って迫ってきました。
戦争って遠い世界かと思いがちだけれど、恋があって青春があって、自分となんら変わらない人間がいて…「自分たちの世界と地続きのところに戦争がある」と実感できます。自分もふだん、同世代とはなかなかこういう話をしませんが「知ったからには語り継いでいかないと」と思えます!


八乙女光さん(Hey! Say! JUMP)からのメッセージ
去年に続き、今年の番組でもまったく知らなかった戦争中の話を聞くことができました。 戦争=暗くなる、というだけではなく、オンラインチャットで若い人たちの声を交えながら、ということもあって、「もっと知りたい」と思える番組になったのではないかと思います。
僕や伊野尾くんによる現地に赴いての調査ロケは、戦後75年という今だからこそギリギリ実現できたのではないかと思うので、是非注目して見ていただければと思います。様々なエピソードを聞く中で、オンラインチャットで参加してくれた若い人たちが、戦争の知識について前向きに「知りたい」と言い始めてくれた所も注目です。


伊野尾慧さん(Hey! Say! JUMP)からのメッセージ
戦争について、話を聞いたり、それで学びがあればと思っている人も多いと思うけど、これからは聞くだけでなくて、僕たちが語り継がねばならないのではないかと、責任を感じ始めました。僕らは幸いこの仕事をしていて伝えるという土俵があるけど、みなさんもぜひ、おじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんに聞いて、聞くだけで終わらず伝えていってほしいと感じました。
自分のロケで言えば何といっても去年の番組での取材から2年越しの「康夫さん(戦地から1人の女学生と手紙のやりとりをしていた兵士)」の人生が、手掛かりがほとんどない中で見つけることができたこと。去年はまだ“おとぎ話”を聞いているような感じだったのが、現実感を伴って、康夫さんの人生が営まれていたんだという事を実感できた貴重な体験だった。ぜひ見てほしいと思います。


近江友里恵(NHKアナウンサー)からのメッセージ
今年も皆さんから寄せていただいたエピソードに触れ、戦争中の暮らしについて初めて知ることがたくさんありました。「#あちこちのすずさん」の取り組みも3年目になりますが、これまでの放送を見て、戦争中の記憶を思い出し、手紙を寄せてくださった方も数多くいらっしゃいました。この夏もこの番組が、戦争について考え、語り継ぐためにヒントやきっかけになればと願っています。


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2020年8月10日
エピソード|お腹が真っ赤!?
戦時中、食べ物を求めて、神奈川県から千葉県まで汽車に乗って出かけた、まささんのエピソードを紹介します。

「我が家は当時、お寺をしていました。住職は招集を免れたものの、お寺の鐘を金属資源の回収命令により供出して、いよいよ食べ物もなくなってきました。

わたしは交換できるものを持って、食べ物を探しに出かけました。汽車に乗って千葉まで行き、農家の人に頼み込んだところ、運よくトマトが手に入りました。はるばる遠くまで来た甲斐があったと、本当にうれしくて、家路を急ぎました。

ところがその途中、空から大きな音が聞こえてきたのです。見上げると、たくさんの爆撃機が空を埋め尽くしています。次々と爆弾が落ちてきて、近くを歩いていた人が「伏せろ!」と叫びました。トマトをお腹に抱えたまま、その場に突っ伏したわたしは、「ああ、もう、ここで撃たれて死ぬんだな......」と思いました。

爆撃機がその場を去ると、わたしは何とか顔を上げました。起き上がると、お腹が真っ赤!銃撃にやられた!?......と一瞬思ったのですが、そうではなく、お腹に抱えていたトマトが全部潰れてしまっていたのでした。

命が助かったうれしさよりも、大事なトマトを失った無念さの方が大きく、お腹を空かせて待っている家族の顔が浮かんできて、泣きながら帰りました。

こちらの投稿は、まささんの娘の洋子さん(60代)がお寄せくださいました。最近、新型コロナウイルスの感染拡大に怯えながら過ごす中で、亡くなったお母様が話してくれたこのエピソードをよく思い出すそうです。

「なぜそんな危険を冒してまで食べ物を求めに行ったのか、と聞いたとき、母は『だって、そういうところまで行かなきゃ食べ物はなかったのよ。それが当たり前だったの』と答えました。わたしは新型コロナウイルスで近所の薬局やスーパーに行くことさえもビクビクしているというのに、戦時中の母は、死と隣り合わせのつらい“当たり前”を背負わされていたのです。戦時下の人々が乗り越えてきた暮らしの重さが、急に生々しく迫ってきま した」と洋子さんは言います

このエピソードを洋子さんは、新型コロナウイルスの影響で仕事が休業中の娘さん(25歳)にも伝えたいと思っているのだそう。「つらい状況に負けることなく、未来を見つめて突き進んでほしいから」と洋子さん。まささんの過ごした日々が、今を生きるお孫さんの背中を押してくれるといいですね。

※登場人物の名前は仮名です。

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2020年8月7日
神奈川新聞×#あちこちのすずさん|空襲と蒸し焼きじゃがいも
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。
今回は、神奈川新聞に寄せられた、82歳の女性のエピソードを紹介します。
祖父、祖母、妹と八王子に疎開していて、空襲に遭いました。

赤く光る東京方面を見ていたのもつかの間、「ザー」という音とともに落ちてきた焼夷弾に見舞われ、庭先の防空壕に妹と入りました。熱さと煙が押し寄せ、どうなるのかと思っていた時、祖父が金だらいをたたき、「出るんだ!」と叫びました。

朝、明るくなると、家は跡形もありません。炊くはずだったお米が、お釜で黒こげになっていました。他に食べるものはありません。

近所の農家の土蔵に保管されたジャガイモが、蒸し焼き状態になっているのが見つかって、分けてもらえました。焦げ臭かったけれど、食べました。

焼け跡でご飯を炊いている人がいて、見ているとおにぎりを一つくれました。すぐ食べていいのか、祖母の所へ持って行くべきか。迷いましたが祖母に手渡しました。祖母はそのおにぎりを鍋に入れ、水を加えて煮て、胃が悪かった祖父に食べさせてしまいました。

今も、おにぎりを見ると思い出します。ジャガイモは大好きです。

「#あちこちのすずさん あの日々の記憶」神奈川新聞 https://www.kanaloco.jp/article/entry-393802.html ※NHKのサイトを離れます

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2020年8月6日
#あちこちのすずさん|新キャスト発表
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという#あちこちのすずさんキャンペーン。8月13日(木)放送〔総合〕の特集番組で、みなさんから寄せられた「お弁当の思い出」「空襲の下の青春」など、ごく普通の人たちのエピソードをアニメにして紹介します。



アニメのナレーションを、同映画の主人公・すずさんの声を演じた、のんさんが担当することが決定しました。



他にも、夫・周作役の細谷佳正さん、義理の姉・径子役の尾身美詞さんも担当します。

特番に先立って、映画「この世界の片隅に」を8月9日(日)に総合テレビで放送します。 キャンペーンでは、全国各地の“あちこちのすずさん”を探しています。この夏、あなたの身近な人の“すずさん”のような思い出を一緒に見つけませんか?

【映画】8月9日(日)午後3時50分~〔総合〕 映画「この世界の片隅に」

【特番】8月13日(木)夜10時~〔総合〕 「 # あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~」

のんさんからのメッセージ
私は、すずさんを演じさせていただくまで戦時下にあった日本の状況を、違う世界のお話のように感じていました。映画やドラマなどでは触れたことはある。頭では本当にあったことだとわかっていながら、実感が沸かなかった。 けれど、このあちこちのすずさんでは、当時を生きていた方達の嬉しい日常やお茶目な風景を覗かせてくれる。お洒落をしたり恋をしたりロマンチックな思い出を見せてくれる。そういう、日常を楽しくさせる気持ちは今を生きる私達と同じ。その気持ちに共感して、私の中であちこちのすずさんがリアルに動き出しました。 直接会ったことはないけれど、私達とあちこちのすずさんは繋がっている。途端に愛情が湧いて思い入れができると、戦争があったことが心の奥深くにズシンと重く落ちてきました。自分の今いる日本で起きたことなのだと心で感じられたことで、やっと目を背けずに考えられるようになりました。あちこちのすずさん達の思い出を、大切に読ませていただきたいと思います。


尾身美詞さんからのメッセージ
私が担当したのは、75年前にも私と同じように宝塚歌劇団という夢に向かい、人生への希望を持っていた女の子がいたけれど、空襲の1日ですべて変わってしまったお話です。何かを失って、何かを得る。苦しい出来事でも、言葉では表現できないような巡り合わせにつながっていく姿に人生の不思議さを感じました。 戦争で犠牲になった人たちの後ろには、1つ1つの人生があったことを感じながら、8月を過ごしていただければうれしいです。自分たちと何ら変わらない1人の人間が歩んでこられた75年の日々を想像してみてください。


〔制作スタッフより〕
ただいま、特集番組(8月13日放送)制作の真っ最中です。 みなさんからのエピソードを元に作ったアニメに、3人が声を吹き込んで…75年も前の人々が、まるで家族や親せき、友人みたいに生き生きと動き始めます。
私たちも、どうしたら少しでも多くの人に知ってもらえるのだろうか、自分たちにできることはなんだろうかと自問しながら、作っています。 今年の「#あちこちのすずさん」も、ごく普通の人々の戦争中の暮らしが詰まっています。 お届けするまで、いましばらくお待ちください。

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2020年7月29日
エピソード|ボクだけ特別“目玉の着物”
終戦間際、6歳だった久義さんのエピソードです。

「わたしは、9人きょうだいの6番目に、長男として生まれました。終戦間際、私たち大家族は着る服も不足するほど困窮していました。すると、母が納屋からとても大きなこいのぼりを出してきて、惜しみながら輪切り状に9つに裁断。着物を作りました。

わたしは待望の長男だったということもあり、文字通りこいのぼりの「目玉」の部分、お頭が割り当てられました。6歳児の小さな体が、鯉のぼりの大きな大きな目で覆われました。わたしだけ目玉模様だったので、特別感があり、なんだかとてもうれしかったです」。

こちらのエピソードは、久義さんの娘さん、くーみんさんがお寄せくださいました。9人きょうだいの一番上のお姉さんは、当時20歳ぐらい。そこから5番目の姉さんまで2歳差ぐらいだったそう。くーみんさんは、「こいのぼりは頭から尻尾までだいたい同じ幅だと思うので、当時、大きなお姉さんたちはチュニックの様な短い丈になって、お父さん(久義さん)や下のきょうだいたちになるほど丈が長く、ずるずると引きずっていたのではないか」と、想像されるそうです。

81歳となった久義さん。いまでもこのエピソードをうれしそうに、ご家族に話されるとのことでした。

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2020年7月15日
沖縄タイムス×#あちこちのすずさん|回し読みした恋愛小説
#あちこちのすずさんでは、今年、全国各地の新聞やネットメディアと連携して、“戦争の中の日常”のエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みを始めています。
今回は、沖縄タイムスが取材した武村豊さん(91)のエピソードを紹介します。
 いつも通り登校すると、朝の会は抜き打ちの荷物検査から始まった。机の中には、友達から借りたばかりの小説が入っていた。はやりの回し読みで、順番が来たばかりの恋愛ものだ。教材以外、私物の持ち込みは禁止されていた。
 呼び出された職員室で、大好きな担任の顔を見るのが怖くて、涙があふれた。

 「もう二度と持ってくるなよ」。担任はそう言って小説を返してくれた。ふだん以上に優しかった気がしたのはなぜだったのか。
講堂からオルガンの音

<二高女跡地に建つ「白梅の乙女たち」像前で学園生活を語る武村豊さん。校章には白梅があしらわれていた=那覇市・松山公園(写真提供:沖縄タイムス)>

 1944年秋ごろ、武村豊(とよ)さん(91)が15歳、県立第二高等女学校(二高女)4年のときのことだ。
 武村さんは7人兄姉の末っ子に生まれた。小学5年で父が急逝し、母のカメさんが総菜作りの内職や、家事手伝いで生計を支えていた。
 「女性も学ぶことは大切。豊の行きたいところに行ったらいい」。進学を希望する豊さんに、母はそう言葉をかけた。
 二高女は那覇市の波上宮近くの高台、松尾山にあった。周辺には本土から来た役人も多く住み、その子どもたちも生徒として通っていた。
 そばを通ると、建て替えられたばかりの真っ白い校舎の壁が目を引いた。講堂からはオルガンの音色と、クラシックの合唱が響いてきた。胸の高鳴りを抑えられなかった。
 中庭にはパンジーやヒヤシンスなど季節ごとの花が咲いていた。奥には、神社の境内にありそうな建物が建っていた。
 入学すると、奉安殿と呼ばれるその建物に向かって深くお辞儀するのが、朝の日課になった。天皇皇后両陛下の写真が収められていた。
男性の下着に目を背け…
 授業の数が減り始めたのは3年のころ。4年になると、校舎の一部が日本軍の兵舎になり、男性の下着が干されているのに思わず目を背けた。週に3回ほどは「作業の日」として軍の手伝いに駆り出されるようになり、軍歌を口ずさんだ。
 あの日も、作業に向かっていた。波上宮の鳥居前を通り辻町を抜け、一緒に登校する友人が出てくるのを家の前で待つ。
 ブーッ。ときどき耳にするようになっていた低い音が遠くから聞こえてきた。「演習かな?」。海の方角に目をやると、低空で近づいてくる飛行機が見えた。
 44年10月10日。米軍が二高女の校舎も、武村さんの自宅も焼き尽くすことになる大空襲の始まりだった。

「私だけおばあちゃんになって…」折り重なる白骨化した遺体、悪夢の夏 母と姉にわびる日々
<唯一手元に残る家族写真。県立第二高等女学校に入学する1941年ごろの(前列右から)武村豊さん、母カメさん、三女の文さん(写真提供:武村豊さん)>

 毎日、同じ夢ばかりを見ていた。
 日本が敗戦を認めた1945年の夏。16歳の武村豊(とよ)さんは、荒廃した街で親類や知人宅を転々としていた。
 夢に出てくるのは母カメさんと、姉の文さん。「やっと見つけた。夢じゃないよね」。そう言い合って抱き合う。その繰り返し。
 「あなたのお母さんの最期を知っている」。母の知人だという女性からそう声を掛けられたのも、そのころのことだった。
 女性の記憶を頼りに、母と姉がいたという糸満へ向かった。
「とよが来たよ」
 糸洲にある屋敷跡。塀の陰に身を潜めるように、たくさんの遺体が折り重なっていた。白骨化し、強い日差しに照らされている。
 「豊が来たよ」「そこにいるなら教えて。ズボンの裾を引っ張って」
そう声を掛けても、辺りは静まり返ったままだった。小さな石を二つ持ち帰ることしかできなかった。
 「10・10空襲」と呼ばれることになる44年10月の大空襲は、自宅も、通っていた県立第二高等女学校(二高女)も焼き尽くした。翌年3月、米軍が慶良間諸島に上陸する直前、武村さんは看護を担う女子学徒隊として戦場に送り出された。
 配置された八重瀬岳中腹の洞窟のような野戦病院では日々、切り取られた体の一部を処分する作業を担わされた。青白い手足を、艦砲射撃で開いた穴に投げ入れて、逃げ出すようにして戻った。
娘が南部にいるから…
 同じころ母と姉も南部にいたと、戦後になって聞かされた。糸満の屋敷跡を案内してくれた女性は、周囲が北部への避難を勧めたにもかかわらず「娘が南部にいる。私たちは南部へ向かいます」と話していたと教えてくれた。母は50歳すぎ、文さんは二十歳を過ぎたばかりだった。
 以来、武村さんが仏壇に向かって口にするのは、母と姉へのおわびになった。
「お国のために、私たちがやらないで誰がやる」。地上戦が始まる前、疎開を勧める母と姉に対して、高ぶる気持ちで伝えた。
 「私が軍国少女でなければ、死ぬことはなかった。そっちに行ったら、たくさんおわびするからね。でも、私だけ、こんなおばあちゃんになってしまって。母さんたち、私のこと分かるかねぇ」
 戦後75年。91歳になった武村さんはきょうも、仏壇に話し掛けている。
(沖縄タイムス/社会部・國吉美香))

「戦世(いくさゆ)生きて」沖縄タイムス https://www.okinawatimes.co.jp/category/ikusayo_ikite ※NHKのサイトを離れます

#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

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2020年7月6日
#あちこちのすずさん|“新しい戦争の伝え方”VRワークショップ(後編)
5/30(土)に開催されたワークショップのテキスト版、後編です。(約9,000字)

前編は こちら

登壇者: 片渕須直さん(映画監督)、池上彰さん(ジャーナリスト)、荻上チキさん(評論家)

戦争体験を話すきっかけを
【池上】なるほど、いろんなところに証言集といいますか、それが点在しているということはもちろん気がついていたんですが、それぞれの主催する、集める主体とかですね、それによって、語りやすさだったり、語りにくさだったりというのが出てくるなというのは、なるほどなと思って聞いていました。そして、それをただ、こんなのがあったんだよねじゃなくて、横串を刺していくという形での新たな視点というのは、とても大事なことなんだなと思いました。とりわけ、今、どんどん体験者というのが高齢になっていくという中で、ある種、時間との競争みたいなことになってくるわけですね。

 私も毎年8月6日は広島から、8月9日は長崎から中継をしたり、リポートをしたり、あるいは8月15日前後はテレビ東京での戦争特番というのをやっております。先ほど荻上さんから8月ジャーナリズムという話がありましたけど、今、テレビ局で8月に戦争について考える番組をやるのは大体NHKとテレビ東京ぐらいのものかなと。日本テレビが時々、NNNのドキュメントで深夜にやるぐらいで、非常にそれが少なくなってしまっている中で、さあ、どうしようかと言うと、数年前ですけど、私が昔、警視庁時代、捜査一課と捜査三課を担当して、捜査三課を取材した人が突然、実は自分は特攻隊の生き残りだったという証言をされて、実に久しぶりにご本人に会いに行ったら、要するに、特攻隊に選ばれて、さあいよいよというときに8月15日を迎えたんで、特攻に行かなかったという。しかし、その話をひたすら黙ってた。誰にも言っていなかった。ところが、当時の戦友たちが次々に亡くなっていく。一方で、なんか特攻隊を美化するような話が広がってくる中で危機感を抱いた。今、自分が発言をしないと、当時のことがわからないのではないかと言って、突然口を開いてくれたんですね。その方にインタビューしました。まさか、そんな体験があるなんて全く知らなかったということですね。

 ほんとにどんどん、どんどん人が亡くなっていく一方で、その体験者の中にも、それを誰かに伝えなければいけないんじゃないかという思いを持ってらっしゃる方がいるんだということ、そこにどれだけ私たちが気づきがあるのか、どれだけそういう人を探すことができるのかということ、これが大変貴重な、今だからこそできることなのかな。それを戦争体験がない人にどう伝えていくかという話はまた改めてということになりますけれど、とにかく、いろいろなところで探してみると、実はあるんじゃないか。今、私、いろんな大学で教えていますけれども、例えば、名古屋の名城大学、あるいは松本の信州大学、キャンパスの中にいわゆる戦争遺跡って、実はあるんですね。そこに通ってる学生たちは全然気がついていないんだけど、実はこれ、戦争中にこんなことに使われていたんだよとか、戦争中の空襲でこんなふうになっていたんだよという、それだけでも若い人への気づきになっていくのかなと。今、こういうときだからこそ、発見をし、伝えていくということが本当に大事なことになるなと思っています。

 その意味では、例えば『この世界の片隅に』を見ると、本当に淡々と当時の暮らしが描かれている。いわゆる戦争の被害とか悲惨さを声高に訴えるという番組や映画がある中で、そうか、こんな手法があったのか、これだからこそ、実は私もという形で、年配の方々が口を開くきっかけになったんではないかなと思ってます。そして、あちこちにすずさんがいるんだということと同時に、この世界の片隅にというのは呉だけじゃなかっただろう。広島の呉だけじゃなく、あちこちにこの世界の片隅があったんだということの気づきといいますか、ぜひ次のアニメをまた作っていただきたいと思うんですが、そうやってあらゆる手でそういうことを収集していく、あるいは口を開いてもらうというきっかけを作るということが大事なことかなと思ってます。取りあえず、ここまでです。

【市川】ありがとうございます。  今、会場から、荻上さんの問題提起に対しての質問として、いわゆる散在している資料とか証言を、荻上さんがおっしゃったような、収集したりとか、新しい目線で読み解いてまとめようとする動きはあるのでしょうかというような質問が来たんですが、片渕監督は非常にこの分野においてお詳しくいらっしゃると。まず片渕さんにそういう動きがあるかを伺って、その上で荻上さんに改めてコメントいただいてもよろしいでしょうか。

戦争体験を集め まとめるには?
【片渕】なんていいますかね、証言という、今、言葉がたくさん出てきたんですけど、証言て、例えば、裁判の上で証人が証言するのとはちょっと違って、もう少しなんかルーズなわけですよね。そうでなければいけないというようなことをそれぞれの方が語っておられる。ある種の幅を持ってるような気がするんですね。それはなぜかというと、そこで体験された方の主観であるからであるわけなんです。たくさんの主観的な出来事が重なってきたときに、実はその上に共通して見えてくるもの、あるいは全然共通してないものとか、いろんなものが存在していて、それをどういうふうにより分けていくかという視点が要るわけなんですね。

 例えば、自分なんかのやっていた範囲で言うならば、その背後にあった、言ってみると証言であったら、その背後に事件があるわけなんですけど、事件はどういう形であったのかということを読み解く、別の客観的な資料みたいなものを持ち出して、一つ一つの証言、語られたこと、記憶、体験談の意味みたいなものを、そこの上で我々が一回捉え直す必要はあるだろうなと思っているんです。それを何を根拠にしてやるのかというのは非常に難しい問題だと思いますね。具体的にそういうことがどういうふうにやれているかというのは非常に難しい問題だと思います。先にそういうような客観的な視点といいますか、それを確立していくべきだろうなとは思ってはいます。あんまり具体的なことを紹介できないんですけども、そういうような、自分自身は視点が必要であろうなというのはやはり思っております。

【市川】ありがとうございます。  荻上さんからも追加のコメント、ぜひ、あれば。

【荻上】アーカイブという点で言うと、いろんなレベルで動き出しているものはあります。大きいところだと、広島アーカイブスであるとか、広島の平和のための資料館ですと、様々な資料が膨大に集まっている。長崎のほうはどうしても自治体規模がそれよりは小さいので、広島と比較されてしまうと、ちょっとアーカイブ的に苦しいんだと、そうしたような話も学芸員の方に聞いたことはあるんですが、それでもやっぱり自分の自治体について、恒常的に、継続的に、資料館などで資料を収集していこうというような動きというものは、場所によってあったりするんですね。それは自治体によって格差があるので、地域テーマということで証言などを、資料などを収集するという点で言うと、相当の開きがあるなと思っています。

 ただ、一方で、例えば、戦争の、特に戦闘であるとか、戦局であるとか、そうしたものに関してテーマを収集している団体というのもありますし、あるいは、性暴力であるとか、あるいは侵略であるとか、植民地化、こういったような観点から資料を収集しているというところもあるわけです。なので、そういったアーカイブというものを特定テーマで集めるというところは多々ある。例えば、これ、戦争について何か物を書こうと思った方がどこかで一度ぶつかるものだと思うんですけど、そのアーカイブが各所に存在するとして、どこにどの資料があるのかということを把握するかということもやっぱり難しいんですね。それはある程度の土地勘が見についてから、この辺りにこういったテーマであるだろうということを探していくということになる。複数の、例えば、資料館などを横断的に検索をするという検索システムの構築って、あったらいいなとは思っているんですけれども、そういったものはなかったりするわけですよね。なので、そうしたような、各所に点在しているものというものを、実は横断的に、ネットワーク的に確認していくというような、そうしたプラットフォームがまず存在しないということ。それでも、いろんなテーマにのっとって、戦争に関する、まとめる仕事というのはある。

 NHKが特に力入れてると思いますけど、例えば、今回の特集では、障害者のアジア太平洋戦争という観点で注目をしてみよう。そうすると、障害者差別があったからこそ、むしろ愛国者と思われるために積極的に様々な監視業務であるとか、あるいは在宅業務などに取り組んできましたという人もいたりする。一方で障害児童などが疎開の対象から外されていて、そうした生徒たちが自主疎開ということで、自分たちで疎開をするということをせざるを得なくなったというような、そうした話も出てきたりする。そういった一つのテーマにのっとって特集をしてみるということが、様々に散っていたアーカイブの中から、いろいろな資料を収集して一つにまとめる。そのことによって、見る者、あるいは読む者の門を開くということというのは、これまでやられてきたことでもあるので、大規模でないにせよ、そういった取組というのは、これからも非常に重要になっていくというふうには思います。

【市川】ありがとうございます。  今、主に、いわゆる1番のインプットの課題というところについて話してきたと思っているんですが、もう一つ、アウトプットの課題ということで、特に40代以下及び学生のような若い世代にどうやって届けていけるのか、収集した内容をどうやって届けていけるのかというところが一つ、メディアにいる者としては課題を感じているんですけれども、伝えるということでは日本有数のプロと目されている池上さんにぜひ、若い世代に伝えていくときの工夫ってどういうものがあり得るか、お話しいただいてもいいでしょうか。

若い世代にどう伝える?
【池上】それで言うと、今の若い人たちがどれだけ戦争のことを知らないかという認識を伝えようとする側が意外に持っていないんではないかという気がいたします。我々、なんとか戦争体験を伝えよう、例えば、50代、60代、70代、私もその間にいるわけですけど、親から、あるいは祖父母から、なんとなく何かを聴いていたという、それなりの認識というのを持っている。さあ、それをどうやって伝えようかというときに、そもそも今の若い人たち、戦争というのを全く知らない。本当にフェーズが違うんですね。何にも知らないっていうことを、そもそも私たちが気づいていないんじゃないかという。  実は、この前、大学の授業で、なぜ広島、あるいは長崎に原爆が投下されたのかという話をしたら、学生から、なんで東京に原爆を落とさなかったんですかという質問が出たんですけど、それは原爆が既に完成した段階で東京は焼け野原になっていて、3月の東京大空襲で全て焼き尽くされて破壊するものがなかったから、原爆の威力を試すことができなかったんだ、広島、長崎は残ってたから、あるいは小倉もいろんなものが残ってたからこそ対象になったんだという話をしたんですよね。あっ、そうか、東京大空襲のこともみんなわかっていなかったんだとかですね、みんなが何を知らないのかっていう、そこから見ていくということも、一つのものとしてあるんじゃないか。

 8月6日って何がありましたかと東京で聞けば、ほとんどの若い人はなんのことか全くわからない。これが広島ですと、8月6日は何というと、広島の子どもたちはみんな知ってるんだけど、広島で問題になっているのは、落とされたのが8時15分だとまでちゃんと言える子が少ないっていう、そういうレベルでの問題意識があっちゃったりして、地域によっても実は全く違うということがあるんですが、特にいろんなことを伝承していく、伝えていくというときに、私たちは、1つは、戦争体験者から様々なものを収集していく、そしてもう一つは、伝えるときに、今の若い人たちがなんにも知らないんだよ、どこのところにぶつけると突き刺さるのかなという、そういう認識を持っていくということが実は大事なことなんだなと思ってます。日々、戦争のことを人に伝えようとすると、あまりにそういうことを知らないということで愕然とするというわけですね。  例えば、毎年8月6日、広島から中継してますけど、あの平和記念公園を見ると、ああ、ここ、公園だったからよかったですねって言う人がいるわけですね。ここに中ノ島のいろんな営みがあって、住宅の密集地だった、そこが破壊されて、跡に今、公園になってるんだよという、そういう認識もない。あっ、ここ、公園の上に落とされたんですね、そうじゃなかったらもっと被害で出てましたね、よかったですねっていう話を聞いて愕然としました。そういう、みんなが何を知らないかなということに気づいていくということも伝えていく上では大事なことかなと思ってます。取りあえず以上です。

【市川】ありがとうございます。  片渕監督は、映画監督というと、それこそ非常に幅広い対象を想定して作品を作っていかなきゃいけないと思うんです。今の、世代ごとに、どのぐらいの知識がないのかという視点というのはやっぱり意識してることってありますでしょうか。

【片渕】世代ごとっていうことで言うと、たくさんの戦争体験談を聞くんですけど、それは極めてハイコンテクストな話をされてるわけですよね。その下にある、底に敷かれているコンテクストの部分というのは、我々がそこの部分を意識してないで通り過ぎてしまうと、何を語られていたのかわからない。すごく大きいんじゃないのかなと思うわけです。ハイコンクスト、つまり、戦争を体験した人たちにとってはあまりにも常識的であるから、あえて語らなくてもよい部分というものがあるわけですね。それに対して、戦後の我々の世代は、まずその部分をつかまえていかなければいけないんじゃないのかなと思います。
 『この世界の片隅に』というこうの史代さんの原作の漫画を読んだときに思ったのは、その部分に近寄っていかれている作業をされているなと思ったんですね。戦争体験談というのをインプット、たくさん収集する段階じゃなくて、それをアウトプットするときには、かなり選択的になってしまっていて、それがだから、我々、あるいは我々以下の世代が知らないことをたくさん作ってしまっていたのではないのかなと思うんですね。いみじくもこの世界の片隅にと言っているわけですから、片隅があって、その外側に世界があって、その世界というものは、森羅万象、あらゆる事象を含んでいるわけなんですから、語り切れないわけなんですね。なので、その部分、あまりにもたくさんあり過ぎて、しかし、それがあまりにも普通の日常であって、戦争体験者にとっては日常であったから語られなかった部分ていうのを、もう一度捉え直す必要があるんじゃないのかなというのが、この世界の片隅にというのの意味だったような気がするんですね。そこから、「あちこちのすずさん」という形で取り出してもらってるのも、この部分だと思うんです。今まで語られなかったようなところにまで戦争中の話題に対する我々の興味を広げることで、今まで語られていた部分に関しても、実はそういう視点で見てよかったんだろうかということがまた生まれてくるんじゃないのかなと思うわけです。

 とにかく、そういう意味で言うならば、先ほども言いましたけども、戦争中の体験という中では、日常の部分というのはかなり抜け落ちていたと思うんですね。それは誰に関して抜け落ちていたかというと、まず話者である、話し手である方にとって、それは語られなくて既に、あまりにも常識であるから語らなかった。語られなかったから、日常、どういうふうに生活していたかわからなくなってしまっていたのが、その世代以降の、少なくとも僕は1960年生まれですから、戦後15年たって生まれていて、ほぼ戦後の混乱期というのを通り過ぎた後に生まれているので、全然その部分がわからないんですね。なので、もう一回、収集の仕方を広げて、同時にアウトプットの仕方も広げる必要があるんじゃないのかなというのが、我々にとっての穴になっているもの、それを埋める作業ではないかな。そういう意味で、今の「あちこちのすずさん」というのに非常に意義を感じているところです。

【市川】ありがとうございます。(会場から大きな拍手)拍手もありがとうございます。  最後、荻上さんに、世代ごとかもしれません、対象ごとにかもしれません、相手がどれぐらい知らないということをどうやったらつかまえていけるのかということと、知らない人に対して、どうやって興味を持って伝わるように伝えていくのかという点について、何かお考えがあれば伺えないでしょうか。

【荻上】戦争について、僕が真面目に資料収集したり、読もうと思った大きなきっかけの一つは、まさに知られていないことというよりは、むしろ間違って理解されていることをきっかけとして調べ始めたということなんですよね。例えば、それこそ歴史的な論争に巻き込まれてしまったテーマというのが幾つかあります。例えば、戦争とはちょっと違いますけれども、関東大震災下での朝鮮人虐殺であるとか、あるいは慰安婦問題であるとか、南京事件であるとか、こうしたテーマについて激論を交わしているような人たちというのが目に止まって、じゃあ、実際どうなんだということで、もとの資料当たらなくてはいけないだろうということで、いろいろある資料を読み、その資料について語っている人が何を語り、何を語らなかったのかということを調べるようになった。そうしたような、ある種、誤解、論争、そうしたものをきっかけとしていろいろリサーチをしていったというところがあるんですね。

 僕はストップいじめ!ナビというNPOの代表をしてるんですけれども、いじめというテーマでもともといろんな資料を読んでいたんですが、そうした興味、関心があったときに、ある国会議員の方が、戦後教育の失敗によって日本はいじめが多いんだというような、そういった趣旨のことを言っていて、だから、戦前の例えば、修身とか、そうしたようなものに学ばなくてはいけないみたいなことを述べていて、何言ってんだろうなっていうふうに思ったんですけど、それについて、でも、真面目なアウトプットがないことにも気づいたんです。それで、戦時下でのいじめということについて集中的に調べるということをやっていて、いつか形にしたいとは思っているんです。そうすると、例えば、戦時下にもいじめがあったんだよ。でも、いじめといっても、今のようないじめと同じところもあれば違うところもあるよ。じゃ、いじめって必ず、ホットスポットとか、定型的なパターンがあるんだけど、どんなものが多いんだろうか。  例えば、当時のいじめだと、軍隊に入隊したときに新人いじめというのが必ずあった。それは陸軍と海軍でもいじめの仕方が違っていて、海軍のほうであれば、罰直を行うため、罰直というのは体罰ですね、行うための、軍人精神注入棒という、いわゆるバッターと呼ばれるものが戦艦の中にも、あるいは軍隊のあちこちにもちゃんと置かれていて、それを使って思いっ切り引っぱたくというようなことが一つの慣習化していた。でも、戦陣訓とか、様々な軍人に関する規則というものの中では、そうした私的制裁というのは禁止されていたはずなんだけれども、これは私的制裁ではなくて教育だという名のもとにいじめが行われていた。

 じゃあ、それは軍隊の中だけなのかというと、そうでもない。例えば、隣組同士の配給の場面で、特定の家庭が配給の対象から外されたり、あるいは配給のお知らせを届けなかったリ、あるいは配給の切符というものを配らなかったりという証言もある。  じゃあ、子どもはどうなのかというと、学校でもいじめがあるが、先ほども少し触れた疎開先でいじめに遭う、あるいは疎開といっても、集団疎開と、それから、親族を頼っていく縁故疎開というのがあるんですが、その縁故疎開の場面で親族にいじめに遭う、あるいはその中で激しい虐待、あるいは性暴力、そうしたものがあることがわかっていくんですね。  そうすると、同じいじめというテーマでくくっても、当時も今もいじめがあった。でも、当時のいじめって、今以上に物資が少なくて、なおかついじめということが問題化されていなかったのでSOSも出せなくて、でも、多くの人たちが実はいじめというものをテーマとして認識していなかったにもかかわらず、それにもかかわらず、これだけの証言が存在するんだよということを伝えていくことで、うわ、結構シビアな時代だねということを実感を持って子どもたちにも伝えることができるというような、そうしたようなところがあるんですね。  つまり、その人、現代の持っている人たちの体験や感覚に近しいところに焦点を当てて、そこから一歩一歩様々な証言をたぐり寄せて、共感性と事実というものを伝えていく。そうしたことはできるし、実はやられていない身近なテーマって多々あるんだなというふうには思ってるんです。なので、何が知られていなくて、何が伝わっていないのかという観点を探すということも重要だし、一方で人々が何かに関心があるから、じゃあ、そこをちょっと深掘りして伝えてみようということも重要だろうと。そういったテーマと、それから、資料を収集するというような、そうした感覚、センスというものも今後は問われてくるのかなと思います。

【市川】ありがとうございます。  つまり、戦時下ということを考えても、片渕監督がご指摘いただいたように、そこにハイコンテクストで抜け落ちている部分もある、そこを埋めることを意識しつつも、例えば、いじめのような現在につながる問題点で見ていくと、それこそ若い世代に共感を持って見てもらえるコンテンツというのができるんではないかということと受け取りました。 ちょっと時間が押してしまいましたが、第1部のトークセッションは以上にしたいと思います。ぜひ皆さん、大きな拍手をお願いします。(拍手)

#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

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2020年7月6日
#あちこちのすずさん|“新しい戦争の伝え方” VRワークショップ(前編)
NHKの#あちこちのすずさんキャンペーンでは、5/30(土)に“新しい戦争の伝え方”の可能性をさぐるべく、全国各地の新聞社や博物館、クリエイターなどがオンラインのVR(仮想現実)空間で集って議論するワークショップを開催しました。

登壇者は 片渕須直さん(映画監督)、池上彰さん(ジャーナリスト)、荻上チキさん(評論家)

第1部と第3部は登壇者とNHKのディレクターによるパネルディスカッション、第2部は参加者がグループに分かれてのディスカッション。新型コロナの感染拡大防止のため、リアルで会場に集まるのでなく、VR内やオンライン会議システムを使って開催する初めてのチャレンジでしたが、“あちこちのすずさん”に共感下さったり“新たな戦争の伝え方”を真剣に考えておられる方が全国から集まり、大盛況でした。

今回は、おなじみの登壇者が「アバター」の姿で現れる第1部のパネルディスカッションの内容をテキスト版でお届けします。
(※『前編』 約8,000字 『後編』 約9,000字 あります)  

【左から池上彰さん、片渕須直監督、荻上チキさんのアバター】

【市川】本日、「#あちこちのすずさん」、オンラインワークショップイベントということでご参加いただきました。今、観客席でロボット(アバター)の姿をしている皆様は議論の参加者が中心ということで、この他に、見えないんですが、100人以上の方がこの配信をVR空間、もしくはユーチューブでご覧いただいているという状況でございます。
では、それぞれ、まずはご登壇の皆様に自己紹介をお願いできればと思います。

【荻上】評論家、ラジオパーソナリティの荻上と申します。よろしくお願いします。

【池上】池上です。よろしくお願いいたします。私は1976年から3年間、NHK呉通信部で呉にいて、まさにすずさんの映画を見たときに、あー、懐かしい、懐かしい、ひたすら懐かしいという体験もいたしました。広島で被ばく二世の取材などしてましたので、きょうはどうぞよろしくお願いいたします。

【片渕】どうも、池上さん、ありがとうございます。実は昨年の8月6日に池上さんが広島の平和祈念公園で放送をされているのをすぐ間近で見ていまして、実はすごく近くですれ違って、お声がけできればよかったなと思っていたんですけど、きょう、やっとお目にかかることができました。荻上さんともラジオでお話しさせていただいたりもしました。そういう、いろいろご縁ある皆さんとご一緒できるんですけど、『この世界の片隅に』というアニメーション映画を作りました片渕須直といいます。アニメーションの映画の監督です。きょうはよろしくお願いいたします。

【市川】ありがとうございます。では最後、占部さんお願いいたします。
#あちこちのすずさん誕生秘話
【占部】おはようございます。NHKのディレクターをしております占部と申します。私は足かけ3年、この『あちこちのすずさん』という番組の立ち上げから取材をさせていただいたディレクターです。片渕さんたちと一緒にこの『あちこちのすずさん』で、こんなに多くの方にご参加いただけるということはすごくうれしく思っております。皆さん、本日はどうぞよろしくお願いします。 私はもともと2011年、震災があった年にNHK仙台に赴任しまして、5年間ずっと被災地、東日本大震災の取材をしてました。そこで、どうやったら本当に人に伝わって、人を動かすことができるのかなということをものすごく考えるようになりまして、堅いの、柔らかいの併せながら人を動かす方法を考えながらディレクターをしてきました。今、皆さんの目の前に映っているのは「#あちこちのすずさん」をつけて寄せられた投稿の数々です。お父さんが防空壕を掘ろうとしたけど1メートルで断念、家族ではその話題がタブーになったとか、お釜に水を入れたまま、空襲のあと戻ったら、お米が炊けてた…などという感じで、本当に今まで自分自身も感じたことのないような、見たこともないような戦争体験が広がってる、すごく豊かで優しい世界の「#あちこちのすずさん」が広がっていたなと思っておりました。



 なぜ、こういった企画をやろうと思ったのか、そもそもは2017年でした。暮しの手帖さんが『戦中・戦後の暮しの記録』という本を出版されるということになりまして、手記を募集したところ、2000を超える手記が集まりました。私たちはそこを取材させていただいたのですが、忘れられない食べ物であるとか、おしゃれや恋や動物の記憶、それこそ今まで見たことも聞いたこともないような体験談の数々に、全国に『この世界の片隅に』の主人公すずさんのような人がいたんだということが実感できた。それを受けて、まず、『クローズアップ現代+』で放送させていただきました。扱ったテーマとしては、自分の飼ってた犬を軍用犬として出征させたおばあちゃんの話であるとか、土地を買おうと思ったお金でなぜかスイカを買ってしまったというような方のお話など、何かちょっと、誰かに「ねえねえ、戦争時代、こんな話があったんだよ」っていうような、そんな話したくなるような新しい番組にしてみたいなと思って、それを2018年に番組にしまして、いろんな方から温かい反響をいただきました。

 でも、これを受けて、ちょっと感じることがありまして、これってテレビ以外でも何かできるんじゃないのかなと思いました。これだけ魅力的なコンテンツをテレビだけで終わらせるのってもったいないなって思ったんです。じゃあ、どうすればいいんだろうとき、ちょうどこのときですが、ツイッターで、「#Me too」なんかを含めて、ハッシュタグをつけて何かを投稿するということがすごく、文化が出来てきたなと思いました。なんとなく、これ、ツイッターやハッシュタグと相性いいんじゃないのかなと思ったのが、この企画のちょっとブレークスルーになるかなと思いました。



 なんでハッシュタグやツイッターが向いてるかもと思ったのかといいますと、これ、実際に投稿された文章なんですが、ツイッターって、140字の文字制限があるんです。だから、めちゃくちゃ長いこと書きたいけども、やっぱり大事なことをきゅっとまとめなきゃいけないっていうところがあります。ツイッター使ってる方って、基本、いわゆる戦争体験者というよりは、その下の世代になってくるので、その人たちが編集するっていうことが生まれます。なので、人の話を聞いて、自分が面白かった部分を紡いでということで、その人たちが共感とか、驚けるみたいな話が抽出されるのかなと思いました。これが向いてるなと思った理由の一つです。

 もう一個、ハッシュタグにした理由はその次でして、ハッシュタグって誰のものでもないといいますか、もちろん『この世界の片隅に』を作られた皆さん、こうのさんや片渕さん含めて、すずさんというキャラクターを作っていただいた部分があるんですけれども、「#あちこちのすずさん」というのになったら、物すごくそれは公共のものになるんじゃないのかなと個人的に思いまして、それが公共のものになったら、今ここにいる、当時ご協力いただいた皆さんなんですけれども、いろんな人たちがこのハッシュタグをつけて、なんかこの話ってすずさんぽいよねとか、戦争中の日常の話にハッシュタグつけてみようかなというふうな、ただハッシュタグをつけるだけで、なんか一体感が生まれるといいますか、それって大きな社会的ムーブメントになり得るんじゃないのかなと思って、片渕さんに「#あちこちのすずさん」というのをつけて投稿を促すようにしてみてもいいですかというふうに、テレビオンエアの1週間前に急遽、片渕さんや『この世界の片隅に』の制作委員会などにも伝えさせていただいたんです。「あちこちのすずさん」の名付けの親でもある片渕さんは、最初、これやるよって言ったときに、どういうふうに思われましたか。

【片渕】僕も『この世界の片隅に』という映画を作って、お客さんのお話もできるだけ伺いたいなと思って、いろんな映画館に出向いていっては、舞台挨拶というと自分だけしゃべるだけになっちゃうので、サイン会という形にすると、お客さんお一人お一人とお話ができるんで、そこでたくさんのお話を聞くことができて、そうすると、いろいろ、今まで聞いたことがなかったんだけども、おじいさん、おばあさん、ご両親とかに戦争中のことを聞くことができたという人が多かったんですね。聞くことができたっていうのは、今まで戦争中のことを頑なにしゃべらなかった方もいらっしゃったりもしましたけど、そのほかには、戦争の、例えば、一番空襲で厳しかったときのこととかは聞いたことがあったんですけど、それ以外の日常の、毎日で何やってたかなんていうのは、『この世界の片隅に』を見て、親御さん、あるいはおじいさん、おばあさんの世代の方が映画見てくださって、それで、あっ、自分もああいうことやってたな、毎日御飯炊くのこんなだったなとかいうのを思い出して、それで初めて聞く話が多かった。

 実はうちの母親なんかもすずさんと同じようにかまどで御飯炊いた、御飯の番をしてたんだとかいうのを、今まで50年以上聞かされたことがなかったんですけど、急にし出したりしたわけなんですね。そういうことができるんならば、今、これから、戦争体験とか、戦争中の記憶というのをどう継承していくのかというのが、ここでよいきっかけになれるんじゃないのかなと思っていたんですね。そのときに占部さんがこういうような、ツイッターでハッシュタグをつけてっておっしゃって、それがまさに自分がやりたかったこと、あるいはやれるといいなと思っていたことだったもんですから、ほんとに一も二もなく賛同したというような感じですね。

【占部】すごい。ありがとうございます。

【片渕】感動の輪っていう感じでいいですね。

【占部】それこそ片渕さんに最初持っていったときは、私のネーミングセンスが全くなくて、「リアルすずさん」てどうですかって持っていったら、いや、それは「あちこちのすずさん」でしょって名づけていただいて、すごくその言葉がよかったんだろうなと思っております。  で、「あちこちのすずさん」いって、結果どうなったか。去年の『NHKスペシャル』でも特集で出していただいたんですが、そのときはトレンドの4位にハッシュタグが入ったり、これはハッシュタグをつけてツイッターに投稿していただいた方の数ですね。最初のときもほんとに1万人の方が参加していただいたんですが、去年のキャンペーンをやったら4万人近くが入りました。ツイートを投稿していただいた方も、最初3万だったのが12万まで増えていきまして、着実にちょっとずつ成長していっているプロジェクト、成長、定着していくといいなと思っているプロジェクトです。

 一方で課題だなと思っていることがありまして、固定のクラスターには届いたけど、ほかのクラスターに刺さるにはというのがありまして、この2年間のキャンペーンやってみてわかったのは、物すごく『この世界の片隅に』の世界が好きな方であるとか、キャンペーンで一緒になった『あさイチ』でありますとか、Hey!Say!JUMPさんがMCを務めている『らじらー!』というラジオ番組とか、そこのファンの方を巻き込むことはできたけれども、やっぱりもう少し多くの方々を巻き込んでいきたいなと思ったときに、じゃあ、こういう新しい戦争を伝承する方法を関心のない人たちに届けるにはどうすればいいんだろうということが次の課題でございました。



 私自身、こういう目標を持って、きょう来ております。まず、やっぱりチャレンジしなきゃと思ってます。新しい戦争体験の伝え方ということ、この「あちこちのすずさん」という取組に限定せず、伝えなきゃいけない人たちは本当にいっぱいいると思ってます。その人たちに、上からというか、勉強しろっていうんじゃなくて、どうやったら勉強したくなるかなっていう、そういったアプローチ含めて、そういったコミュニケーションをどうデザインすればいいんだ。学びたいということですとか、あと、仲間を増やしたいなと思っております。多分、私一人ではここまで皆さんを巻き込むようなことはできなかったと思いますので、時に協力し、時に手分けするような… 私、絵本のスイミーが大好きでして、ああいう小っちゃい、小魚という感じですけど、小っちゃい人たちが集まって、でも、大きい魚になって何かにチャレンジするみたいな、なんかそういうふうになればいいなと思っているので、これをきっかけにいろんな人たちと手を取り合えればいいなと思っておりますので、本日、どうぞよろしくお願いします。ご清聴ありがとうございました。

戦争体験を伝えるための課題は?

【ワークショップの様子を描いたグラフィックレコーディング】

【市川】ありがとうございました。では、荻上さん、池上さん、壇上のほうにお願いいたしまーす。 コミュニケーションをどうデザインするかというときに、一応、私どものほうで課題を2つ考えました。一つが、今、戦争体験の伝え方というのを言う場合に、インプットのほうの課題、つまり、体験者がいなくなる中で、戦争体験の伝わる素材をどう収集すればいいのかという話と、あと、今、まさに占部からもありましたアウトプットの課題ですね。本当に私たちも含めてということになるんですが、戦争というものに実感がない、若いというのはもう40代ぐらいからのイメージでございます、の世代に届けるために、どのような取組が可能なのかということを話していきたいなと思うんですが、荻上さん、今の占部の発表も含めてですけれども、いわゆるインプットの課題、アウトプットの課題について、何か今、感じてらっしゃることありますか。

【荻上】戦争に関する特集というのはメディア上でも繰り返し行われていまして、よく8月ジャーナリズムとか、戦争報道が集中するタイミングなんかを、時には批判的に言及するような向きというのもあると思うんです。ただ、ある時期に一斉に戦争関係の証言を収集するとか、そうしたような、一気にマスメディアが一つのメディアイベントを形成するというような歴史的事象というのは、そんなに多くはないわけですよね。3.11とか、あるいは95年の阪神・淡路大震災とか、そうした災害の証言などを集めようということも毎年行われたりはするんですけれども、いわゆる戦争関連の特集というのは、ほかのテーマと比べて相当に力を入れて取り組まれているというところがあります。

 なので、インプット、アウトプットの面の課題というのは当然出てくるんですけれども、そもそもほかのテーマと比べてはかなりリッチなアーカイブというものが日本に点在しているということがあると思うんですね。インプットという点というのは、恐らく取材でいろいろな言説や証言を収集するということになると思うんですが、その収集においても、まだまとめ切れていないような証言、アーカイブ化されてないという証言がたくさんあると感じています。僕も、例えば、ラジオで様々な方にインタビューをしたりすることもあるんですが、いろいろ関心があって、戦争に関する証言集というものを個人的に集めるということをしてるんですね。証言集を集めた上で、幾つかのテーマに串を刺して、そのテーマに言及している証言をまたさらに重ねて読むと。一旦通して読んだ上で、今度はテーマに串を刺して横断的に読むっていうことをしてたりするんですけど、そうすると、実は、証言集の向き、不向きというのも見えてくるわけです。

 これがハッシュタグの向き、不向きということにも実は重なる点でもあると思うんですけど、どういうことかというと、例えば、戦争証言集って、いろいろなバージョンがあるんですね。例えば、戦後60年とか50年とか、そうしたタイミングで、5大紙とか、あるいはブロック紙とか、地方紙とか、そうした新聞紙などが聞き書きをまとめていったものを一冊の本にしたり、あるいは新聞の特集をしたりというような、何かの記念のタイミングで、とにかく幅広くインタビューを行うというようなもの。こういったものというのは、世代が異なる人が一からいろいろな戦争の話をとにかく幅広く聞くというような観点、しかし、インタビューの対象というのは、地方紙やブロック紙などであれば、その地域にお住まいの方などに集中してインタビューするというようなことがあるので、一般性に比べて地方という一つのテーマというのが浮き彫りになってくるわけです。

 他方で、戦争証言を集めるものっていうのはほかにもバリエーションがあって、1つは、例えば、各地域で募集をしたような証言集というのがあるんですね。どこどこ市何十周年記念証言集収集事業みたいな。そうした場合ですと、よりピンポイントで発言が収集されるということもあります。また、戦友会とか、あるいは特定の戦艦とか、船に乗っていた人であるとか、特定の部隊にいた人、そうした人たちが、戦友誌というか、会報誌のようなものを定期的に作っていて、そうしたところに寄稿するというものもあります。また、変わったところでは、特定の学校の卒業生などがその学校について書くことが結果として戦争に関する記述になるという点もあります。加えて、例えば、個人的に面白く読んでいるのは宗教団体が集めている証言集なんですけれども、特定の宗教団体に入信している方々が戦争体験というものを書き連ねていく、あるいはインタビューで答えていく。そうしたようないろんなタイプがあるんですね。

 こういったタイプのものをいろいろと読み比べていくと、その証言集の作られ方によって、実は証言のしやすさとしにくさというものがいろいろなところで出てくるなと思っています。例えば、個人が投稿して証言集を作るというような格好ですと、非常にいろいろな事実が淡々とまとめられていたりする。あるいは本人にとって非常に印象深い出来事をまとめられたりする。ただ、本人の手記なので、インタビュアーが重ね聞きしてわからなかったことを問う、ということがなかなかできてない場合もあるわけですよね。あるいは、そういった個人の証言集なんかを追っていくと、例えば、性暴力被害について目撃をしたという人は出てきても、自分自身が被害に遭いましたというような、そうした語りをする方は多くない。例えば、いじめの問題などについては、いろいろと、こんな被害に遭いましたということが語られたりするんですけど、自分が疎開先でいじめをしていました、都会からやってきた都会っ子をいじめていましたみたいな、そうした証言というのもなかなか出てこなかったりするんです。ところが、例えば、先ほど挙げた宗教団体のインタビューによって行われたものだと、自分が性暴力被害を受けましたというようなことを述べている貴重なインタビューなんかも出てきたりするわけですね。あるいはそれこそ懺悔のような格好で、自分もあのとき、こういった加害をしてしまったというような、そうしたような証言も出てくることがあるんです。

 つまり、どんな媒体であるとか、どういったところに発表するのかなどによって、語り手の語り口というものがいろいろ変わる。その語り口によって、実は、これまで出てこなかった証言、注目されなかった角度の証言というのも出てくることになるんですね。そうした証言というのは実はそれなりにこの社会には溢れていて、まだまだ多くの人が注目しない証言集というのもあると。ただ、インプットされたものが実は横につながっていなくて、一つのアーカイブとしてまとまっていないがゆえに、閲覧性が低く、また、それらを横断して一つのテーマで記事を書いたり、番組を作ったりということもされてないものがとても多くあるなと感じたんです。なので、インプットの面を、単に証言される方がこれからお亡くなりになってしまうから、少なくなってしまうよねという観点で考えるだけではなくて、アーカイブされてないところをいかにアーカイブしながら、これまで注目されていなかった角度から、いかにテーマを収集して、それ関連の証言集というものに寄せていく、一つのテーマで語り合っていく、そうしたような作業というのは、むしろこれからまだまだ必要なんじゃないかなと思います。

 先ほどのハッシュタグの話で言うと、ハッシュタグにもやはり向き、不向きの不向きというものがあって、当人ではなくて他人がコメントをするということになるわけですよね。聞いた家族とか、そうした方が投稿するということになると、二重、三重のバイアスというのが当然入る。家族に語ることのできるバイアス、それを聞いた家族が投稿できると思ったもの、あるいは投稿したいと思ったもの。そしてそこには一定の、140字にまとめるという作業があるので、実は誤解とか間違いとか、そうしたものも含まれたりすることもあったりするわけですね。ただし、非常に多くの人たちがカジュアルに、ライトに参加をするということがメリットとしてもあったりするわけです。なので、その戦争証言を成り立たせているメディア性というものについて、様々に引いた目線で分析をしながら、それでも可能なインプット、アウトプットの形はなんなのかというようなものをこれから模索していくことになるのかなと思っています。

つづきは 後編へ

#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。
▼投稿はこちらのフォームから
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2020年7月1日
#あちこちのすずさん|女学生の楽しみは「内線番号1番」
広島県呉市の軍需工場で働いていた、ふみさん(昭和3年生まれ)のエピソードです。

「16歳の頃のことです。高等女学生だったわたしは、学徒動員で呉市にある海軍の工場で働いていました。
※ちなみに高等女学校とは、当時の女子が尋常小学校を卒業してから3~5年の期間を過ごす中等教育機関です。

休憩時間の何よりの楽しみは、内線番号1番に電話をすることでした。1番は、呉鎮守府長官室の内線番号で、かけると秘書の軍人が電話に出たのですが、その秘書の声がハキハキとして、とてもかっこよかったのです。

同級生みんなで電話を囲んでは、1番の番号に電話をかけ、「はい!鎮守府長官室です」という声を聞いた途端、ガチャッと電話を切り、「聞いた?いい声~!」とキャッキャと盛り上がっていました」。

こちらの投稿を寄せてくださったのは、ふみさんの孫のすけさんです。小学3年生の頃、「おじいちゃんおばあちゃんに戦争の話を聞こう」という宿題があり、そのときに聞かせてもらったのがこの話でした。

他にも、名簿で面白い名前を見つけては顔を見に行っていた、という話もしてくれたのだとか。戦争にまつわる話はどれも悲惨なものばかりだと思っていたすけさんは、当時の女子学生が学徒動員の日々の中でも、自分たちで楽しみを探していたのだな、10代の女子らしいエピソードだなと微笑ましく感じたそうです。

※ふみさんは仮名です。

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2020年6月25日
#あちこちのすずさん|弟は仏壇係
今年も、NHKの投稿募集やSNS上に投稿していただいた「すずさん」のエピソードを紹介していきます。
今回は、日々空襲が激しくなる中、家族が必死に生き延びようとする中で起きたある出来事にまつわる物語です。

「当時わたしは20歳前後。6人きょうだいの長女で、幼い弟妹の母親代わりでもありました。(日々空襲は激しくなっていました。ある空襲の際に一人で木の陰に隠れていたら、低空飛行したB29がわたしのすぐ真上まできて、操縦士と目が合ったことがありました。なぜその時殺されなかったのかはわかりませんが、あの目は忘れることはできません。)

「空襲が来たら防空壕には入らず一人で逃げろ」。これは父から言われていた言葉です。その頃は、空襲が来たら防空壕に入るものでした。ただ父は陸軍で働いていた経験から、防空壕は危ないと考えたようです。家族バラバラに逃げて、空襲が収まれば家で集合する。生きて帰って、それぞれが一人で見た景色の話をしよう。そんな風でした。

逃げる時には、それぞれが担当の荷物や家財を持っていくと決まっていました。弟の一人は仏壇担当。位牌ではなく、仏壇です。ひもで背中にくくりつけて、走って逃げたのです。戦後にきょうだいで集まった時には、「よくあんなことが出来た。あれこそ火事場のバカ力だ」と笑い話になりました。今思い返してみれば、あんな大きなものを背負っていたら余計狙われてしまいますよね。でも、それくらい真剣に生きていたのです」。

こちらのエピソードは、孫の片岡加奈子さんが、去年97歳で亡くなったおばあさまから、仏壇の前で話を聞いた話だそうです。おばあさまは自立したしっかりとした女性で、自分の身は自分で責任を持つ精神が筋金入り。最後まで元気でダンス教室に通っていたそうですよ。


#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

あなたのおじいさんやおばあさん、身近な人が、戦争中、日常をどんなふうに暮らしていたか教えてください。
▼投稿はこちらのフォームから
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2020年6月17日
8月13日(木)特番!出演者&連携メディア決定
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという#あちこちのすずさんキャンペーン。8/13(木)に放送する番組の出演者と、今年のキャンペーンでの連携メディアが決定しました!
特番“#あちこちのすずさん 若者が語る戦争(仮)”
祖父母や家族など身近な人が戦争中どんな暮らしをしていたのか、考えたことはありますか?

#あちこちのすずさん」では、“食べ物”“オシャレ”“恋の話”など日常のエピソードを聞いて、それをSNSに投稿することで、戦争の記憶を若い世代につなげていくきっかけを作ることを目指しています。
今年も番組の主役はキャンペーンに賛同してみなさまから投稿していただいた3000を越えるエピソード。番組ではそのうちいくつかを追加取材して、アニメにしてお届けします。
出演者は昨年に引き続き、
片渕須直さん(映画監督)
千原ジュニアさん(芸人)
八乙女光さん(Hey! Say! JUMP)
伊野尾慧さん(Hey! Say! JUMP)

司会は近江友里恵アナウンサーです。

【放送予定】8月13日(木)22:00~<総合>

片渕須直監督からのメッセージ
今年は戦後75年。
あと25年で100年。
「戦争のこと教えて」といわれて答える「おじいさん・おばあさん」は
自分たちの番なんだなあ。
そのとき、どんなことを語り残せるのでしょうか、ぼくたちは。



千原ジュニアさんからのメッセージ
我々日本人が知っておかないといけない話があり、”#あちこちのすずさん”で紹介するお話はその最たるものです。本当にそんな暮らしや日常があったということを目の当たりにして、一生懸命生きていかなければと、自分自身も考えさせられる内容ですので、皆さまにも是非見て頂ければと思います。


“戦争の中の日常を伝える”で地方新聞・ネットメディアと連携
今年の「#あちこちのすずさん」では、番組としてお届けするだけでなく、「戦争の中の日常を伝えたい」と考えている、またはすでに特集や活動を始めている各地の新聞やネットメディアとも連携して日常のエピソードをより広い世代から集め、共に伝えます。
#あちこちのすずさんでつながり、“戦争の記憶”が次世代につながっていくきっかけになるよう輪を広げます。連携するメディアが作ったコンテンツはすべて「#あちこちのすずさん」で検索できます。
【連携するメディア】
沖縄タイムス、神戸新聞、徳島新聞、長崎新聞、SmartNews、Twitter Japan、 Yahoo! ニュース ほか
(あいうえお順・ABC順)


沖縄タイムス 榮門琴音さん
住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄にも、日々を懸命につないだ人たちがいます。
戦後75年のことし、沖縄のすずさんと各地のすずさんをつなげることで、
地域や世代を越えて記録や継承の取り組みを広げていきたいです。


≪エピソード投稿はこちらから!≫
あさイチ!  https://forms.nhk.or.jp/q/BTYDCJHK
らじらー!  https://www.nhk.or.jp/radirer/saturday/sat_20_suzusan.html
▼または #あちこちのすずさん をつけてTwitterやInstagramで投稿してください。
≪番組公式サイト≫
https://www.nhk.or.jp/special/suzusan/

みなさまからいただいたエピソードは、今後このHPで記事とイラストでお伝えしていきます。 
#あちこちのすずさん
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2020年5月22日
ことしもやります!#あちこちのすずさん キャンペーン
恋にオシャレ、忘れられない食べ物…戦時中でも毎日を懸命に暮らしていた、 映画『この世界の片隅に』(2016年製作/監督 片渕須直/原作 こうの史代)の 主人公・すずさんのような人たちを探して、#(ハッシュタグ)でつなげていこうという 「#あちこちのすずさん」キャンペーン。おととし8月に「クローズアップ現代+」、昨年「NHKスペシャル」で放送し、大きな反響を得ました。

今年も、8/13(木)放送の特番を始めとして、「らじらー!」(ラジオ第1)、 子育て世代に人気の「あさイチ」(総合テレビ)など、様々な番組が連動。 パワーアップしてお届けします。
「#あちこちのすずさん」と題した投稿を呼び掛け、身近な人が戦時中どう暮らしていたのかというエピソードを募集、それらをアニメやイラストと共に放送やHPでお伝えします。
オンラインワークショップで”つながる”
キャンペーンの第1弾は、VR(仮想現実)空間でのオンラインワークショップの開催。 全国各地の“すずさん”を発掘しそれぞれの地域で伝えるため、各地の新聞社や博物館、 教育関係者など様々な方たちと「新しい戦争伝承」の可能性についてディスカッションします。後日、放送やHPでその様子をお届けするのでお楽しみに!

≪エピソード投稿はこちらから!≫
あさイチ!  https://forms.nhk.or.jp/q/2KVIUC45
らじらー!  https://www.nhk.or.jp/radirer/saturday/sat_20_suzusan.html
または #あちこちのすずさん をつけてTwitterやInstagramで投稿してください。
#あちこちのすずさん
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2019年9月6日
エピソード|大切なあなたへ、いまも受け継がれるアンザックビスケット
オーストラリア出身の27歳の女性が寄せてくださったエピソードです。

「オーストラリアにもこんな話があります。戦争中、オーストラリアから多くの兵士がヨーロッパに派遣されました。自国に残る女性たちは夫や息子、恋人など、大切な男性に特別な“アンザックビスケット”を焼いて戦地まで送ったそうです。戦地が遠く、輸送に時間がかかるので、オートミールや糖蜜などの保存しやすい材料を使って作っていました」。

アンザックビスケットは、第1次世界大戦のとき、妻や母親、恋人などが、戦地の兵士に少しでも栄養のあるものをと、ビスケットを焼いて送ったのがはじまりです。当時の輸送は船で、長い時間がかかってしまうため、卵などを使わずにたっぷりのオートミールやココナッツ、糖蜜など、保存しやすい材料で作られました。作り方は簡単で、ボウルに材料を混ぜてフォークで少しずつ天板に並べて焼くだけだそう。

「アンザック」という名前は、第一次世界大戦時に編成されたオーストラリアとニュージーランドの連合軍、ANZAC(Australia and New Zealand Army Corps)に由来します。ANZAC軍は、フランス、イギリス兵と共にトルコ軍と戦いましたが、3万3千人以上の犠牲者を出しました。

オーストラリアとニュージーランドなどには、ANZACデーという祝日があり、今も毎年4月25日に、戦争や紛争で、国家に身を捧げた兵士たちの勇敢さを称えるための追悼を行っています。4月25日は、第1次世界大戦中の1915年、ANZAC軍がトルコ(当時はオスマン帝国)のガリポリ半島に上陸した日。この戦争で亡くなったANZACの兵士たちを追悼する日としてANZACデーが制定されましたが、第2次世界大戦を経て、国家に奉仕した全ての兵士に思いを馳せる記念日となりました。今でも、ANZACデーが近づくとアンザックビスケットがあちこちで売られています。日本でも購入できるお店があるそうです。


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2019年8月19日
エピソード|人形に託した母の思い
両親と離れて疎開した、土屋啓子さんのエピソードです。

「いまも天然の良港として知られる室蘭港。戦時中、わたしたち家族は、その室蘭港の近くで酒屋を営んでいました。父、母、姉、弟、そしてわたしの5人家族。人形好きな母の影響もあり、戦前から姉と人形でよく遊んでいました。毎年ひな祭りには、ひな人形以外の人形も一個一個箱から出して、一緒に飾るのがわが家の風習でした。

当時の室蘭港は、製鋼・製鉄所などの軍需工場を抱えた軍港だったため、攻撃の標的になっていました。昼夜問わず、空襲警報に脅かされ、艦砲射撃も受けました。そのつど、防空ごうに避難する日々。そして、昭和20年7月、室蘭は大規模な艦砲射撃を受け、街は大変な被害を受けました。

「今後も空襲や艦砲射撃が続くかもしれない」と考えた両親は、姉と弟、わたしの3人を知り合いのいる洞爺湖に疎開させることにしました。姉は小学5年、わたしは小学1年、弟は4歳でした。

そのとき、姉とわたしが母から託されたのがサクラビスク人形です。市松人形と西洋のビスク・ドールのハーフのような瀬戸物でできた人形で、横に寝かせると眠り目になります。

母は、「人形は何かあったときの身代わりになる、連れて行きなさい」と、姉とわたしにそれぞれ一体ずつ手渡してくれました。父と母は室蘭の家を再建させるため、そのまま残りました。

わたしは疎開している間、その人形を「ママー人形」と呼び、ずっと肌身離さず持ち歩きました。ママ-人形は、母がいない寂しさを紛らわせてくれました。

終戦を迎え、室蘭に戻りましたが、街は散々やられていました。普通に生活を送れるようになったのは、終戦からずいぶん経ってからです。戦火をくぐり抜けて生まれてきた妹の睦子を交え、昔のようにおひな様と、ママー人形を一緒に飾ったとき、私たち家族の戦争もやっと終わったと思いました」。

こちらのエピソードは、大学院生の土屋りゅうさんが、「#あちこちのすずさん」キャンペーンを知り、おばあさまに戦時中のお話を聞き取りお寄せくださいました。おばあさまは疎開先では、釣りをしたり、かぼちゃを植えたりして、「意外と楽しかった」とも話されていたそう。また、ひな祭りにひな人形以外の人形も一緒に飾る土屋家の風習は、おばあさまとおばあさまのお姉さまに、ちゃんと引き継がれているそうです。


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2019年8月15日
のんさんから「#あちこちのすずさん」へ
「わたしのような、全国にいる新参者のすずさんに受け継いでいってほしいなとおもいます」
のんさんから「#あちこちのすずさん 」に向けていただいたメッセージ動画です。(1分30秒)

のんさんは、12月の新作映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の主人公・すずの声を演じます。
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2019年8月9日
エピソード|海辺で社交ダンス
大正生まれの「モダン・ボーイ」と「モダン・ガール」の、小粋でおしゃれなロマンティックストーリー。坪井清さん、春子さん夫妻のエピソードを紹介します。

「昭和17年、夫、坪井清とわたしは結婚しました。私たちは同じ出版会社に勤めていて、当時ではめずらしい社内結婚。夫は、広報担当。わたしは、和文タイピストでした。

私たちが結婚に至ったのは、夫からのアプローチがきっかけ。夫が仕事を頼むフリをして、口説いてきたのです。「これをタイプしてくれ」と言われ、白いメモ用紙を渡されました。そこには、「○○で会おう」と待ち合わせの場所が。結婚前の男女の交際が今ほど自由にできない時代でしたが、私たちは恋におち、結ばれました。

結婚した翌年、戦況が悪化してきたため、わたしは実家の千葉県に疎開。夫は勤務があったため、東京に残り、わたしの疎開先と行き来していました。

そんなある日、夫より召集令状が手元に届いたことを告げられました。
私たちは永遠の別れを覚悟しました。

「きっとこれが最期になるだろう」。
夫は開襟シャツとスラックス姿に。洋服を着ることは制限されていましたが、私はハットをかぶり、ドレスを身にまといました。

そして、私たちは海辺に行き、はだしで社交ダンスを踊りました。
戦前は洋服を着こなし、カフェでダンスを踊るのが私たちの共通する趣味だったのです。

なのに・・・。
憲兵らしき人に見つかり、「男女がくっついて何しとる!」とどなられ、こっぴどく叱られました。「私たちは結婚している夫婦です」と説明して、なんとか許されましたが、雰囲気は台なしになってしまいました」。

こちらの投稿は、坪井清さんと春子さんの娘さん、目瀬恵さんがお寄せくださいました。いまは亡き、ご両親から何度も聞かされたお話だそうです。

清さんが派遣されたのは、南方のインドネシアでしたが、昭和22年に復員。清さんと再会した春子さんの最初の一言は、「幽霊じゃないんかね」だったそう。

おしゃれでモダンな2人。再会後、ダンスの続きを踊ったのではないかなと想像してしまいますね。


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2019年8月8日
“馬ぐそパン”の思い出
幼かったゆえに・・・。田中順子さんの、忘れられない食べものエピソードです。

「5歳ごろでしょうか。千葉県四街道市に暮らしていました。近くに軍事施設があって、将校さんがよく馬で行き来するところで、道ばたには馬ふんの“落とし物”が転がっていました。

父が早くに死去したため、母は教師となり学校に勤めていました。竹やり訓練などもあり、とても忙しかったため、わたしは祖父母に育てられました。

祖父母は当時、70歳ぐらい。祖母は、わたしになんとか食べさせてあげたいと、食料不足の中、一生懸命に工夫して料理をしてくれました。

そんな日々のなか、カボチャ畑にある防空ごうをカモフラージュする作業を終えた祖父と一緒に縁側に座ると、祖母が漬け物を添えたおまんじゅうを出してくれました。

配給で手に入ったサツマイモ粉を練り、ふかしておまんじゅうにしてくれたのです。そのおまんじゅうが焦げ茶色で、一つ一つが握り拳の3分の1ほどの大きさ。3人分で6~7個、固まってお皿の上に置かれていました。

その様が、将校さんの馬の“落し物”に見えてしまったわたし。
つい、「馬ぐそパンだ!」と言って笑ってしまいました。

すると、日ごろ優しかった祖父が一変。
「何言うんだ!ばあさん、お灸を持ってこい!」 と怒りました。

祖母は、まあまあと止めてくれましたが、親指と人差し指の間におきゅうを据えられ、わたしは泣きました。
泣きながら食べた、馬ぐそパン。甘くて、おいしかったです」。

今年7月で80歳を迎えた田中さん、当時の祖父母の気持ち、歳を重ねてより分かってきた部分もあるかもしれませんね。


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2019年8月6日
エピソード|雪に書いた「ABC」
戦時中に禁止されていた、英語の勉強が大好きだった初子さんのエピソードです。

「わたしは昭和2年、山陰地方の雪深い地に生まれました。勉強が好きで、特に、英語に興味津々でしたが、戦時中は英語の勉強は禁止。学んでいると叱られました。

でも、どうしてもアルファベットを覚えたい。
そこで学校からの帰り道、降り積もる雪の上に「ABCD~」とアルファベットを書いて覚えながら帰りました。とめどもなく降る雪で、アルファベットはすぐにかき消されてしまうため、叱られることはありません。

寒くて、お腹もペコペコでしたが、こうして学ぶ英語はとても楽しかったです」。

投稿を寄せてくださったのは、初子さんの娘さん、ぺこりんさんです。 ぺこりんさんが、お母さまから最初に買ってもらった絵本は「ABCの本」。初めて教えてもらった歌も「ABCの歌」。そして、初めて持たせてくれたハンカチは、イラストと一緒に「KONNNICHIHA」や「GENKI?」など、ローマ字表記がプリントされたものだったそう。

戦後、大阪に移住されたお母さま。“英語ペラペラ”とはならなかったそうですが、街で外国人をみかけると、大阪弁で声をかけて仲良くなり、バス代を支払ってあげることもあったそうです。

お母さまの死後、身の回りの品を整理していると、チラシの裏に歌謡曲『オールド・ブラック・ジョー』の歌詞が。
I hear their gentle voices calling…

「母は自分の死が近いと感じ、英語の歌詞を書いて、自分なりに死を受け入れようとしたのかな」とぺこりんさんはいいます。

*オールド・ブラック・ジョー:アメリカの作曲家フォスターの代表的歌曲。若さと喜びの日々は過ぎ去り、友をすべて失ってしまった老人の哀しみを歌っている。


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2019年8月6日
「記憶の解凍」-色彩がつなぐ、戦時中の暮らし-
戦時中の暮らしの記憶を語り継ぐ「#あちこちのすずさん」の取り組み、NHK以外でも広がっています。
いま、戦前・戦時中の白黒写真を、最新のAI技術と当事者の記憶を元に、カラー化する試みが行われています。カラー写真として復元されたとき、目の前によみがえる過去の記憶。凍りついていた戦前・戦時中の記憶を“解凍”する取り組みを紹介します。

https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/157/index.html
#あちこちのすずさん
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2019年8月5日
インタビュー|八乙女光・伊野尾慧(Hey! Say! JUMP)
ラジオ番組「らじらー!」でMCを務めるHey! Say! JUMPの八乙女光さん、伊野尾慧さん。 リスナーのみなさんと一緒に5月から、戦争中の暮らしのエピソードを取材する「#あちこちのすずさん」企画に取り組んできました。
おふたりに、「らじらー!」やロケを通して感じたこと。また、生出演する8月10日(土)放送のNHKスペシャルに向けた意気込みを伺いました。

▼インタビュー記事(全文)はこちら▼
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=19561

●放送
8月10日(土) 
夜8時5分~9時55分[ラジオ第1] 「らじらー!」
夜9時 ~9時49分[総合]   「NHKスペシャル」
※夜9時~9時49分はテレビの音声をラジオでも放送します。
#あちこちのすずさん
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2019年8月2日
エピソード|アサリを守った妊婦
“どうしてもアサリを食べたい”。空襲のなかアサリの砂抜きをした町田千代子さんのエピソードです。

「戦時中、幼い娘を連れて長野県に疎開していました。夫は、航空メーカーのエンジニア。零戦づくりのため、千葉県に単身赴任していて、1年ほど離れて暮らしていました。

昭和20年6月、戦況は悪化していましたが、夫の家の世話をしに千葉県の蘇我に行くことに。2歳の娘を連れ、汽車を乗り継ぎ1日がかりの大移動。その上このとき、新たな命を授かっていて妊娠5か月の身重な体でした。

夫の住まいは、海岸沿いにある社宅です。海産物が大好きなわたし。疎開先の長野では、海産物が食べられずにストレスがたまっていました。これを好機にと、さっそく潮干狩りに。喉から手が出るほど食べたかったアサリをたくさん収穫しました。夜勤明けで帰ってくる夫にも食べさせてあげたい、そう思いながらアサリの砂抜きをしていると、空襲警報が。機銃掃射の音も聞こえてきます。急いで避難しなくては。でも、せっかく手に入れたアサリ。「空襲なんかで手放してたまるか!」と思い直し、社宅にとどまりました。

しかし、社宅も機銃掃射を受け、銃弾が壁を貫通。茶だんすに大きな穴が!
わたしは命からがら、間一髪で逃げ出しました。

結局、アサリを食べたかどうか…。覚えていません」

このエピソードを寄せてくださったのは、孫の小林清香さんです。海産物が大好きだった千代子さんは、戦後も毎日のように魚屋さんに通っていたのだとか。99歳までご健在だった千代子さん。亡くなる10日前にも「すしが食べたい」といい、ぺろりと平らげたそう。清香さんも食べるのが大好きで食の道へ。「あさりの味噌汁は祖母を思い出しますね」といいます。


#あちこちのすずさん」では、当時、この世界のあちこちで起きていた暮らしの中のエピソードを集めて、イラストやアニメにしていきます。

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2019年7月30日
エピソード:香りの記憶
戦時中、大分県の女学校に通っていた中村はるえさんのエピソードです。

「学校に秘密で、香水が入ったガラス瓶を持ち込んだ友人がいて、教室で割ってしまいました。教室中に香りが広がり、その匂いをかいだ瞬間に、「ああ、今が私たちの青春だ」と強く感じました」。

投稿を寄せてくださったのは、山下秀人さん。高校生のとき、ご自身のおばあさまのご友人、はるえさんから教えてもらったそうです。はるえさんは、とても懐かしそうに話してくれたと山下さんはいいます。
「はるえさんが戦時中のことを振り返ったときに、真っ先に話してくれたのが、香水のお話でした。よっぽど印象に残っているんだろうなぁと思いました」

当時、女学校に通っていたのは現在の中学生や高校生にあたる年齢の女子生徒たち。もしかしたら、内緒で友人と香りを楽しもうとしていたのかもしれません。貴重な香水の瓶を割ってしまったこと、家族にどんなふうに説明したんでしょうか。香りって、すごく記憶に残りますよね。戦争中にも当たり前にあったはずの「かけがえのない青春」。香った瞬間、それぞれの頭の中にどんな思いがよぎったのか…それを想像するだけで、なぜかドキドキしてしまうエピソードです。


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2019年7月28日
エピソード|忘れられない“ホクホクかぼちゃ”
戦時中、富山県で過ごした節さんのエピソードを紹介します。家の近くに軍需工場があり、度々空襲を受けていたさなかでの出来事です。

「父が病弱だったため、母とわたしは栄養のあるにんにくや卵を手に入れようと、連日着物を片手に農家をまわっていました。

ある日、にんにくと卵を手に入れ帰路につこうとしたときに、突然、空襲警報が。
慌てて逃げていると、近くに防空ごうを発見。「ここに入りなさい!」と中の人が言ってくれたおかげで、間一髪で避難することができました。防空ごうに、すさまじい爆撃音が鳴り響きました。

ようやく空襲警報が解除され外に出ると、目の前にあったのは、ホクホクに湯気を上げるたくさんのかぼちゃ!
避難しているときは気づきませんでしたが、防空ごうの前にはかぼちゃ畑が広がっていたのです。空襲によって、かぼちゃ畑が一面、焼かれたのでしょう。

ひもじい思いをしていた母とわたし。ひかれるように畑に入り、ホクホクのかぼちゃを夢中で食べました。とても甘く、あの味はいまでも忘れられません」。

この投稿は、節さんの娘さん、堀 幸子さんがお寄せくださいました。子どもの頃から、食卓にかぼちゃが並ぶたびに、節さんは「あのときのかぼちゃはほんと美味しかったわぁ」と、ニコニコ顔で話されていたそうです。


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2019年7月26日
アーティストDAOKOさんが描いた「#あちこちのすずさん」
15歳でインターネット上に登場し、独特の歌詞とリズムで幅広い世代を魅了してきたアーティスト・DAOKOさん。「特定の言葉では表せないようなことを表せるのが絵」だと言います。 実は、DAOKOさんは、幼い頃から絵を描くのが大好きで、学生時代には美術を専門的に学んでいました。アーティストとして表現の幅を広げていく中で、絵のもつ可能性に改めて挑戦したいと考えていました。映画『この世界の片隅に』のファンでもあるDAOKOさん。アーティストとして、大きな刺激を受けたといいます。

今回「#あちこちのすずさん」に寄せられたエピソードを読み込み、2枚の絵を描き上げたDAOKOさん。どんな思いを込めたのかを伺いました。

https://www.nhk.or.jp/gendai/kiji/150/index.html
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2019年7月23日
エピソード|汚れたプールが“かなづちを救う”
北九州市で子ども時代をすごした、けんいちさんのエピソードを紹介します。

「戦時中の学校のプールは、とても汚く、いつも濁っていました。藻やコケで、ほぼ真っ黒。水がとても貴重であり、さらに防災用に水をためていたので、プールの水を入れ替えることはありませんでした。

そんな中、プールの授業が。実は、かなづちだったわたし。戦争に備え、教師の指導はとても厳しく、「泳げない」なんて言ったら、ひどく怒られることは間違いない。いったいどうすればいいのか?
なんとか切り抜けるためにわたしが考えたのは、片足をプールの底につけたまま平泳ぎをしてみせることでした。底が見えないほど汚れたプールだったのが幸いして、顔を水につける必要もなく、足がついていることもばれませんでした。

ところが、そのフォームが先生の目にとまり、「みんな、けんいち君のきれいな泳ぎを見てください」と言うのです。お手本にと、生徒全員の前でもう一往復泳がされることに。ばれないか本当にひやひやしました」。

このエピソードは、けんいちさんのお子さんの、ちぽりんさんがお寄せくださいました。ちぽりんさんが子どものころ、お父さんが楽しそうに話されていたのだとか。

今年、85歳で他界されたけんいちさん。ちぽりんさんはこのエピソードと共に、得意げに話すお父さんの顔を思い出されるそうです。ちなみに、ちぽりんさんはお父さんと一緒に泳いだ記憶はないと言います。


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2019年7月19日
エピソード|わたしは“スカーレット・オハラ”
物資不足の中でも、おしゃれをあきらめなかった中島フミさんのエピソードを紹介します。

「わたしは大正15年、山形県に生まれました。女学校を卒業後、郵便局でタイピストとして働いたあと上京し、浅草の保育園で事務員として勤めました。19歳のとき、東京大空襲を経験。ふるさとの山形が心配でしたが、大変な状況を放り出すわけにはいかないと思い、東京に残り保育園に勤め続けました。

戦後、復員した元兵隊たちから何度かデートに誘われることがありましたが、物資不足で着ていく洋服がありませんでした。そこでカーテンを黒色に染めて、裁断。ワンピースに仕立てて、デートに着ていきました」。

エピソードを寄せてくださったのは、孫のヤギ タエコさんです。フミさんは、タエコさんにこのエピソードを話された際、「わたしは日本のスカーレット・オハラよ」とちょっと恥ずかしそうに言われたそうです。

「スカーレット・オハラ」は、アメリカ南北戦争の時代を舞台にした小説『風と共に去りぬ』の登場人物です。小説を原作にした映画は世界中で大ヒット、日本でも戦後の1952年に初公開されました。

スカーレットは、戦争によって多くのものを失なっても、美しい容姿と商才を生かし、自分の力で人生を切り開こうとする魅力的な女性。小説の中には、スカーレットが屋敷に残った深緑色のカーテンを裁断してドレスにする場面もありました。フミさんもご主人以外にも求婚されるほど魅力的だった一方で、孤児のお世話をするなど、優しく芯が強い女性だったそうです。自身が経験された東京大空襲とその苦労を、スカーレットと重ねたのかもしれませんと、タエコさんは話されていました。


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2019年7月17日
エピソード|機械油でホットケーキ
埼玉県の軍需工場で働いていた、はるさん(昭和2年生まれ)のエピソードです。

「女学校には行かず、軍需工場で衣類の製作に携わっていました。一人一台、作業用のミシンが与えられ、一日中ミシンと向き合う毎日。定期的にミシンに機械油をさすのもわたしの仕事でした。

そんなある日、周りの目を盗んで、ミシンにさす機械油を布の端切れに浸し、布ごと家に持ち帰りました。その油を使ってホットケーキを焼き、家族と食べたのです」。

こちらのエピソードは、はるさんのお孫さん、栗山ゆうこさんがお寄せくださいました。

おばあさまは、料理にこだわる人だったそうです。「きっと、油があったほうがおいしく焼けると考えつき、持ち帰ってきたのだと思います」と、ゆうこさん。お嫁に行くとき、はるさんが唯一尋ねたのが「近くに美容院はありますか」ということだったとか。料理好きで、おしゃれも好き。年をとられてからも、新聞やテレビでたくさんの情報を仕入れていたというおばあさま。ゆうこさんは、おばあさまが今の時代に生まれていたら、どんな仕事についていたのだろうと、あれこれと想像されるそうです。

※はるさん、栗山ゆうこさんは仮名です。




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2019年7月12日
エピソード|大好きなお兄ちゃんと蛍の明かり
戦時中、岐阜県美濃市で子ども時代を過ごした、としこさんのエピソードです。としこさんは9人きょうだい、すぐ上のお兄ちゃんを慕っていたそうです。

「当時、12歳ぐらいだったお兄ちゃん。夏になると山に行き、ひごで作った鳥かごのようなものに、しこたま蛍を捕まえてきました。夜、蛍の光を家の明かりにするのです。部屋を明るくしていると焼夷弾で狙われてしまうため、電球やろうそくは使うことができませんでした。

警報が『ウゥゥー!』と鳴れば、蛍を掘りごたつの中に入れ、きょうだい皆で堀ごたつに頭を突っ込みました。『明るいね』と蛍の光を皆で見ていると、いっときだけ、空襲の怖さを忘れることができました。

蛍の命はとても短く、薄暗くなるとお兄ちゃんは怖かったろうにまた山に出かけ、一生懸命に蛍を集めてきました」。

このエピソードは、としこさんの娘さん、かんちゃんさんがお寄せくださったエピソードです。
毎年夏になると、お母さまは、お兄ちゃんと蛍の思い出をニコニコ顔で家族に話してくれたのだとか。和紙で有名な美濃市は水がきれいで、いまでも蛍を見ることができ、蛍の光を見るたびに、今は亡きお母さまの笑顔を思い出されるそうです。


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2019年7月4日
近江アナの“すずさん”|“特攻予備軍”だった理科の先生
私、近江友里恵が、中学2年生の時に理科の先生だった佐原正さんに、お話を伺いました。現在94歳でいらっしゃいます。

【志願して陸軍へ】
先生は19歳のとき、陸軍のパイロット見習い(※)に志願します。いつ特攻に出てもおかしくない、いわば“特攻予備軍”で、入隊後すぐ遺影用の写真を撮影したといいます。「お前たちの命はあと2年と思え!」そんなことを上官に言われる中での訓練生活でした。

志願して陸軍に入隊したというと、勇ましいイメージですが、実は先生が入隊した大きな理由は「飢えをしのぐためだった」といいます。

【15歳が経験した孤独と飢え】
先生は幼い頃に父親を亡くし、母やきょうだいは結核で一緒には暮らせず、祖母に育てられました。しかし、その祖母とも12歳で死別。いったん親戚に預けられたものの、15歳から東京で1人で暮らしていくことになります。長く置いてくれる下宿はなく、教科書と毛布だけを持って転々とする日々が3年以上続きました。ちょうど、米や衣服といった生活必需品が配給制に変わり、自由に手に入らなくなっていった頃です。

独り身で調理をする台所もなかった先生は、自治体に「外食券」と呼ばれる食券をもらいにいき、「外食券食堂」で食事をしていました。しかし、食堂のご飯の量は元々少なめで、さらに戦局が悪化するにつれて、ごはんがおかゆになったり、代用品の雑穀や芋になったりするなど、内容はどんどん乏しくなっていきます。学校の授業が全くなくなり、軍需工場で毎日働かされる中、もともと60キロあった体重が48キロにまで減ってしまいました。雑草を食べて飢えをしのいだこともあったそうです。(タンポポはとてもまずかったとか…)。

【”報国”よりも食べるため】
身寄りがなく日々飢えが続く中、先生は「明日飢え死にするよりも、少しでも食べられるなら」と入隊を決めたのでした。「尽忠報国なんて立派な精神で入ったわけではなかった」。インタビュー時の先生の言葉です。

そこで初めて同年代の友人ができ、友人の差し入れのおにぎりをもらいました。そのおにぎりは、一生忘れられない味になったそうです。飢えと孤独で弱り果てていた青年にとって、久しぶりに口にしたおにぎりがどんなに美味しかったことか…。

食についての記憶は、70年以上たった今でも強烈に残り続けるのだと感じました。

戦争について「暮らし」という視点で丁寧に見つめ直すことで、当時の人々の気持ちや情景が、より鮮明に浮かび上がってくるように思いました。

※「特別操縦見習士官」のこと。日本軍が戦線を拡大するなかで、短期間でパイロットを養成しようと高等教育機関から志願者を募った制度のことです。


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2019年7月2日
エピソード|洗面器で子猫を救ったおばちゃん
ある女性が出会った、戦時中の心優しい“すずさん”を紹介します。

昭和50年ごろ、東京のアパートで1人暮らしをしていた20代の女性。近所の銭湯で、あるおばちゃんたちに出会いました。

湯上がりの半裸のまま、ソファーでくつろぐおばちゃんたち。語り合っていたのは、東京大空襲の思い出話でした。

聞くともなく、つい耳を傾けると…

「その頃、ウチの猫が子どもを産んでいて、とっさに洗面器に子猫たちを入れて、それだけ持って逃げた」
と、笑って話すおばちゃん。

空襲で生きるか死ぬかの大変なときに、おばちゃんが子猫を助けたことに感動した女性は思わずおばちゃんを見つめ、ニカッと笑いかけていました。

女性はその後、おばちゃんと会うことはありませんでしたが、おばちゃんたちが過ごした戦時中の若き日々に思いを巡らすきっかけとなったそうです。

〔すわ はつえ さんからのエピソード〕




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2019年6月26日
片渕監督のメッセージ ―すずさんが教えてくれること―
映画『この世界の片隅に』には、戦時中の普通の人々がどう暮らしたかがありのままに描かれました。片渕須直監督が共鳴した、暮しの手帖社の『戦中・戦後の暮しの記録』について、どのように感じたのか聞きました。
(去年8月に放送した「クローズアップ現代+」でのインタビュー内容を再構成しました)

―「戦中・戦後の暮しの記録」を読まれてどのように感じましたか。

片渕監督:やっぱり正史、正しい歴史の中では触れられないことですよね。人々がどうやって暮らしていたのかということを、歴史として覚えとかなきゃという気がしました。

―歴史として覚えておく?

片渕監督:戦争中って命を脅かされるわけですよね。いつ爆弾や焼夷弾が降ってくるのかとか。でもそういうことよりも、普通の暮らしが延々と続いてるんです。そっちの方が、自分たちが今やっていることですから。日々の暮らしがあったうえで、空襲があったということですものね。

―当時の10代、20代の戦争感をどう感じましたか。

片渕監督:学校に行かなきゃいけない年でしょ。僕らが毎日学校に行くのめんどくさいなとか、かったるいなって思うときに、全く違う生活をされていたっていうことですものね。例えば殴られたとか、嫌な思い出もたくさんあったんだろうなと思うんですけれども、同時に“青春”がそこにはあったんだなって感じました。

―青春があった?

片渕監督:戦争中の若い人たちって、ちょっとでも派手な格好すると叱られたと思うんです。でもそういう人たちにも、やっぱりその年頃なりのおしゃれをしたい気持ちがあった。肩からかける雑嚢(ざつのう)って呼ばれていた鞄には猫ちゃんやお花の縫いとりがしてあったとかね。若い女性の人たちはパーマネントがだめでも何とか髪の毛クルリンってしようとしてたりか。そういうのが見つけられた時に、あぁ一緒だなって思うんです。

戦争をするためにあった世の中じゃないわけです。もともと普通の世の中があって、普通に暮らしていた人たちがいた。その人たちが、物がなく、いろんなことが統制される世の中に置かれてしまった。

戦争中に生きてきた人たちが僕らよりもすごく我慢強くて、特別な人のような気にどうしても陥ってしまうんですけど、僕らと変わらないんだなと思ったとたんにね、その70数年っていう時間を飛び越えられてしまうような感じがするんです。それが地続きっていうかね。気持ちがそこに僕らも行くことができるような気がします。そうやって何かを理解したところから戦争というものがもっと見えてくると思うんです。

―普通の人々の暮らしを知ることで、戦争がもっと見えてくる。“すずさん”を見つけていくことついてどのように感じますか。

片渕監督:映画作りを始める前なんですけれども、僕らがこういう原作を題材にして映画を作ろうとしているんだよって言ったときにね、SNSで、「すずさんはあの時代を生きてきた人たちの一人、たまたまの代表なんだね」って言っている人がいました。いろんな人たちがいて、たくさんの気持ちがあって、それがすずさんの上に一つに集められていくって理解している人がいたんですよね。あぁ、そういう風に自分たちも思うべきなんだなって思いました。すずさんは誰か一人の人でもあるんだけれども、たくさんの人たちがすずさんの後ろにいるんだなって思います。
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2019年6月21日
エピソード|悔しかった「もんぺ姿」の結婚式
私たちが、戦時中、あちこちにすずさんはいた、と思ったきっかけの一つは、暮しの手帖社刊「戦中・戦後の暮しの記録」に寄せられた数々のエピソードに出会ったことでした。 そのうちの一つが、軍服姿の男性と、もんぺ姿の女性の写真。 1939年(昭和14年)に撮られた結婚式の記念写真です。 新郎はコチコチの愛国主義者。当時、日本では「贅沢(ぜいたく)は敵だ」のスローガンが叫ばれていて、その推進モデルとして「軍服・もんぺ姿」で挙式したのでした。 晴れがましく、新聞に載りましたが…新婦は「腹が立つやら悔しいやら」。 そう思っても口には出せず、ずっと胸に秘めていました。 6年後の大阪大空襲では家を焼き尽くされ、3人の子を連れて焼夷弾の嵐の中を逃げまどったこの女性、無事に戦争を生き抜き、この写真も奇跡的に焼け残りました。 この方、のちのち息子さんに「いっぺん花嫁衣装を着たかったな」と、当時は言えなかった思いを時折もらしていたそうです。

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2019年6月19日
放送決定!8月、「すずさん」をNHKでお届けします。
この夏、いただいたエピソードをもとに作ったアニメ動画やイラストなどを通して、あちこちにいた「すずさん」たちの暮らしをお届けします。

●8月10日(土)
「#あちこちのすずさん」(仮)
夜8時5分 【ラジオ第1】らじらー!
夜9時~  【総合テレビ】NHKスペシャル(らじらー! 同時放送)
出演:片渕須直(映画監督)、八乙女光・伊野尾慧(Hey! Say! JUMP)、千原ジュニア(芸人)ほか

映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように、戦時中、懸命に生きた人たちの暮らしを取り上げ、放送だけでなくSNSでも「#(ハッシュタグ)あちこちのすずさん」でつなげます。
「らじらー!」(ラジオ第1)や「あさイチ」(総合)などが連動してエピソードを集め、アニメ動画やイラストで再現するなど、「すずさんたちの青春」を鮮やかによみがえらせます。

さらに映画も地上波で初めて放送します。

●8月3日(土)夜9時~【総合テレビ】
映画「この世界の片隅に」
(監督・脚本:片渕須直 原作:こうの史代)
広島・呉に嫁いできた主人公すずと、戦時下に暮らす人々のなにげない日常を、丹念にそして温かいタッチで描いた長編アニメーション作品。

あなたの周りに“すずさん”はいませんか?
こちらの投稿フォームから教えてください。
https://www.nhk.or.jp/gendai/request/suzusan.html
#あちこちのすずさん
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2019年6月14日
エピソード|家族を想って買ったスイカ
今も、ある家族に語り継がれている「スイカ」の話をご紹介します。 空襲が激しくなる中、避難先の土地を買おうと貯めた大金で、あろうことかスイカを買ってしまった女性(このエピソードは、暮しの手帖社刊「戦中・戦後の暮しの記録」に寄せられたものです)。 NHKがこの女性のご家族を取材したところ、その思いは今なお、ひ孫たちに受け継がれていることが分かりました。

「#あちこちのすずさん」に、これまで2000を超える体験談を寄せていただいています。
あなたの周りにいる“すずさん”のことを教えてください。
投稿はこちらから
https://www.nhk.or.jp/gendai/request/suzusan.html
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2019年6月10日
【エピソード募集中】イラストやアニメにします!
恋、青春、食べ物…戦時中を懸命に生き抜いた、ごく普通の人たちの“暮らしのエピソード”を教えてください。
その中からいくつかをイラストや短いアニメにすることで、戦時中の記憶をみんなでシェアするお手伝いができればと考えています。

祖父母や知人など、周りの人たちから聞いたお話を、こちらから投稿してください。
https://www.nhk.or.jp/gendai/request/suzusan.html
#あちこちのすずさん
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2019年5月24日
#あちこちのすずさん の始まりは、この放送でした。
去年8月に放送した、「#あちこちのすずさん ~庶民がつづった戦争の記録~」。
空襲の下の青春、忘れられない食べ物、愛しいペットとの思い出…「この世界の片隅に」の片渕須直監督にも出演していただき、厳しい状況の中で懸命に生き抜いた人たちの姿を伝えました。

詳しい内容をこちらのサイトで紹介しています。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4168/
#あちこちのすずさん
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