東日本大震災から11年
“あの人と話したい” 福島・請戸小学校の子どもたち

2011年3月、福島県浪江町の請戸小学校に通っていた93人の子どもたち。
東京電力・福島第一原発の事故によって、全国各地に避難せざるを得なくなり、離ればなれになりました。
NHKでは、去年10月、校舎が震災遺構として公開されるのを機に、当時の児童に作文を募集しました。
あれから11年。空白と向き合い、前に進もうとする若者たちの姿を見つめました。
出演者
- 金菱 清さん (関西学院大学・教授)
- 保里 小百合 (アナウンサー)
※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。
"失われた"ふるさとへ 寄せられた言葉
保里 小百合キャスター:
福島県で初めての震災遺構となった請戸小学校は、東京電力福島第一原発からおよそ5キロ離れた浪江町の海沿いにあります。

この地区は原発事故のあと避難指示が続き、2017年に解除されましたが津波の危険性が高い区域に指定され、住宅の再建はできない場所となりました。
津波で大切な人を亡くし、仲間とも別れ、戻る故郷を失うという極めて過酷な経験をした請戸小学校の子どもたち。多感な時期をどう過ごして、今、何を考えているのか。私たちは知りたいと思い、町と共に作文を募りました。

寄せられた言葉の一つです。
「高台で聞いた『請戸全滅』。翌日の朝、見慣れない防護服を着た人たちの姿。目に入るものが今まで経験したことのないものでした」
寄せられた声を頼りに、かつての在校生を訪ねていくと、心に閉じ込めてきた当時の思いや、その後の人生を少しずつ自分の言葉で語り始めようとしていました。
"あの日の子どもたち"は今 震災で止まった時間
神奈川県で暮らす鍋島悠希さん、23歳。幼稚園で栄養士として働いています。

去年届いた、作文の依頼。これまで震災の体験を語ることはありませんでしたが、今回初めて筆を執りました。
「自分から話すのは本当にしたくなくて、被災者扱いをしてほしくなかった」
「2011年3月11日。あの日のことが今でも忘れられない。立っていられないほどの揺れ。聞いたことのない波の音。恐怖。そして両親への胸騒ぎ。思い出すだけで涙が出る」
鍋島悠希さんの作文から
鍋島さんは当時、小学6年生。両親と弟の4人で暮らしていました。小学校で地震に遭った鍋島さんは、ほかの子どもたちと避難を開始します。先生に引率され、田んぼの間や斜面を走り、1.5キロほど離れた高台に向かいました。
避難してから20分後、津波が学校を飲み込みます。鍋島さんたちはかろうじて難を逃れましたが、気になることがありました。
「嫌な予感が頭の中から離れなくて。夜になっても来ないし、うちの親どこか行っちゃったのかな、もしかしてって」
さらに翌日、原発事故で避難指示が出されると、鍋島さんは両親と会えないまま町を離れざるをえませんでした。
そのときの鍋島さんの様子を、今も覚えている人がいます。教頭だった森山道弘さんです。鍋島さんを連れて、4日間避難先を転々としました。

「身内の行方が分からなかったのが鍋島さんのところだけだったので、どうしようかと。(悠希さんの)表情がなかったです。泣いてもいない。『大丈夫』とか、そういう言葉はかけましたけど。それ以上かける言葉が見つからなかった」
鍋島さんは、弟と共に神奈川県に住む祖父母に引き取られました。両親の安否は分からないままでした。

「とりあえず早く私のところに来てくれってことしか頭になくて。よくしてもらいました、お父さんに肩車。熱血でした。お母さんは優しかった。仲が良かった」
4月中旬、原発事故の影響で行われていなかった行方不明者の捜索がようやく始まります。2週間後、海岸近くで母・弥生さんの遺体が見つかったという連絡が入りました。
「現実として受け入れられない。受け入れたくなかったのが本音。これが夢であってほしいと何度思ったことか」
父・彰教さんは、今も見つかっていません。
避難先で中学校に進学した、鍋島さん。そのころの気持ちを作文につづっていました。
「新しい場所での生活が始まった頃は、不安と寂しさが混ざり合っていた。何度も辛(つら)い、悲しい、寂しい気持ちに押しつぶされそうになった。しかし、楽しい時間を作ってくれる人達が私を支えてくれた」
鍋島悠希さんの作文から
中学時代に知り合って以来、寄り添い続けてくれた人がいます。小山夏菜恵さんです。毎年3月になると、メッセージをくれたり一緒に過ごしたりしてくれています。

「なんかめちゃめちゃ電話で号泣された記憶はあるんだけど」
「本当?」
「あるのよ。当日(3月11日)に。『ああ、さみしいだろうな』っていうのは、あったよ。分かってあげられないけど、ちょっとでもさみしさが埋まればいいかなという思いがあって」
「ありがとうございます。自分がどうこうしたわけでもないから、みんなの支えと言葉で生きているだけで」
震災遺構となった小学校へ 両親への思い
先月、鍋島さんは請戸小学校に向かいました。震災遺構になったことをきっかけに、再び訪ねてみようと思ったのです。
鍋島さんにとって学校は、両親とのつながりを感じる場所になっていました。

「ここにあったんです。お母さんの車が。ここに止まっていたんです」
震災から3年後、一時的な立ち入りが初めて許されたとき、母の車を見つけたのです。鍋島さんは津波が来る前、両親が一緒にいたという目撃情報を聞いていました。
「(両親が)捜しに来てくれて、安全を確認しに来てくれたのかなと思う。けど間に合わなかったのかなって。お父さんが学校の中にいるんじゃないか、今でも捜したくなる」
鍋島さんはこの日、ある人とここで会う約束をしていました。

「こんにちは」
「はい、こんにちは」
震災直後、避難所で付き添ってくれた当時の教頭、森山道弘さんです。新型コロナの影響で来られなくなり、オンラインで話すことになりました。
「今はどこだ?何をやっているんだ?」
「今は東京で栄養士やっています」
「おお、すごい」
話すのは11年ぶりです。
「しかし、逃げたとき不安だったでしょ?」
「すごい不安でした。教頭先生が一緒にいなかったら、今こうやって元気に過ごせているかも分からなかったので、私は命の恩人だと思っていて。ありがとうございます、本当に」
そして、初めて知らされたことがありました。
「避難したときのこと、学校から山を越えたときのことおぼえている?」
「鮮明におぼえています」
「あの道を教えてくれたの誰だと思う?」
「分からないです」
「あれね、お父さんなんだよ」
「そうなんですか」
「教務の先生と避難訓練のことを話していたら、ちょうどお父さん学校に来て、お父さんが『まっすぐ畑の所をいくといいから』って教えてくれたんだよ。それで結局あそこをみんな逃げたんだよ。お父さんのおかげ」
「いま初めて知りました」
「あれでみんなで逃げられて、そのあとも避難できたし、よかったね」
「ありがとうございます」
「悠希ちゃんたちを守ってくれたんだよ、お父さん」
お父さんを、少し近くに感じることができました。
「もう一度、友達に会いたい」
請戸小学校のかつての在校生から寄せられた作文。その中で多く書かれていたのは、「仲間に会いたい」という言葉でした。
中でも多かったのが1年生でした。
その一人、吉﨑今日子さん。高校3年生になりました。震災以来、宮城県で避難生活を続けています。

「そろそろ二十歳になります。成人式で会えたらな、なんてことも考えてしまいます。全員がそろって、当時のことも、現在のことも共有できたらいいな」
吉﨑今日子さんの作文から
請戸小学校の1年生は、11人。全員が幼稚園からの幼なじみでした。しかし、原発事故で全国各地に避難して以来、離れ離れになっています。

「何も分からず逃げていたので、だからみんなも心配でした」
吉﨑さんは親戚のつてを頼りに避難生活を続け、転校を繰り返しました。
「最初の何年かは慣れるのに必死で、友だちがうまく作れなかった。本当に学校に行きたくなくて、本当につらくて。ずっといつも泣いていて、信じられないくらい泣いてました」
時々、ふと仲間たちを思い出しましたが、つながることはできませんでした。
「どう連絡していいか分からなかったし、どうやって伝えるんだろうみたいな。手段が思い浮かばなかったので、ずっと気になって終わりでした」
そうした中、請戸小学校が震災遺構となったことで再び会いたいと思うようになりました。
私たちが浪江町の協力を得て1年生へ呼びかけたところ、3人が集まることになりました。
橋本京佳(みやか)さん。今は福島市に避難しています。

「京佳ちゃん?久しぶりだね、なんも変わってない」
「変わってない?」
「ちょっと静かになった?」
「うん、静かになった。変わらないね」
「変わらん」
「久しぶり」
「マジ?悠輔君?」
「そうだよ」

鍋島悠輔さん。鍋島悠希さんの弟です。高校進学と同時に姉とは離れ、仙台で寮生活を送っています。
11年前に別れてから、それぞれがどう生きてきたのか初めて語り合いました。

「(転校先の)小学校とか大丈夫だった?当時の小学校」
「全然大丈夫だった。すぐ慣れた」
「マジで?大丈夫だった?私、ちょっといじめられたんだよね。つらかった。こっち見てコソコソ話するし、もうやめてみたいな。毎日泣いていた。慣れてなかったから(知らない)人に話しかけるの。みんな知ってる人だった、小学校って」
「うん、幼稚園から」
「だからつらくて、毎日泣いていた」
「人と話さなくなったかもしれない。友だち1人2人としかしゃべらなくなって」
「作りづらかったよね、親友」
「(震災について)しゃべる機会がまずない」
「重い雰囲気にさせたくないから」
「同じだよね、それはみんな一緒だよね。津波のこととか、しゃべれないよね」
吉﨑さんは、鍋島さんのことを心配していました。
「お父さんとお母さんのこと聞いた時、絶望して本当に悲しかった。自分のことみたいに。つらいと思うなって共感しつつも、それを伝えられないし、何も伝えられなかったから、本当に苦しかった。泣きはしなかった?」
「しなかった俺は、本当に。お姉ちゃんが逆にメチャクチャ泣いてたから、それでかもしれない」
「お姉ちゃん泣くよな、それは」
「逆に俺、それで強くなったかも。つらいを通り越して今が楽しいから。だから俺、別に考えることがない」
「すごいことだよね、進もうとするのが。絶対止まるもんな、私なら」
「もちろん、たまに考えたりするよ」
やっと思いを伝え合うことができました。
「ちゃんとつながっていたいよね、こういう手段ができたんだからさ」
「家がないじゃない。請戸に来るとしたら、ここしかない。心のよりどころとして」
福島・請戸小学校の子どもたち
保里 小百合キャスター:
きょうのゲストは、関西学院大学教授の金菱清さんです。
金菱さんは、学生たちと共に東日本大震災の津波遺族や行方不明者の家族を訪ね、その声を記録し続けておられます。今、語り始めた子どもたちの姿、金菱さんはどのようにご覧になりましたか。

金菱 清さん (関西学院大学 教授)
東日本大震災の遺族や、行方不明者の家族の「声」を記録し続ける
金菱さん:
周りの人も聞くに聞けない事実、あるいは一つ一つがあまりにも言葉が重たすぎて、言葉が不足しているんじゃないかと思わせるぐらいの事実がありますよね。
鍋島さんの場合も、顔と実名を勇気を出して出演してくださっていましたけれど、突然原発事故によって県外に避難せざるをえなくなった子どもたちは、いわれのない差別、偏見、いじめといったものに耐えながら無色透明な、ある種、仮面をかぶって感情を押し殺して生きざるをえなかったという現実があるわけです。
私のゼミ生にも請戸の学生がいて、本当は被害があるのに周りから被害がどうだったかと聞かれて「いや、何もない」というふうな形で平然として答える子どもたちに多く出会ってきました。
伏せられた被災体験というものが、ようやく大人になって言葉として一つずつ出せる時期になってきているのではないかと思います。
保里:
大切なものを失った人たちがたくさんいて、その一人一人の気持ちは一つとして同じものはないと思うのですが、そうした声に金菱さんは向き合い続けておられます。私たちが知るべきこと、どんなことだと考えますか。
金菱さん:
たくさんの声を拾ってきて、あるいはこのVTRを見ても私たちは災害について少し認識を改める時期に入っているかと思います。
昨年は特に、いわゆる東日本大震災から10年。あるいは、ことしでいうと11年というフレーズをメディアとか研究などでも使われましたし、使っています。しかし、VTRの鍋島さんの手紙もそうですが、フレーズでは全然使っていなくて「あの日から」とか、弟さんの悠輔さんは「あの津波から10年」という言葉を紡いでいるわけです。この違いについて深く考える必要があるかと思います。
東日本大震災から10年、11年というフレーズには、2つの大きな意味があると思います。一つは、東日本大震災をこれだけ私たちは大きく扱って大切にしているという思いですね。ただし、これには大きな落とし穴がありまして、昨年大きな怒りを持っている遺族の方がいらっしゃいました。それは、2011年のときにもうすでに震災が終わって、そこから生きていて、その震災というものは過去のものとして忘れる対象になっているのではないかという怒りだったわけです。
その意味ではアフター震災ではなくて、今回のVTRのようにいまだ行方不明の家族の帰りを持っている人々がいる。涙を流して言葉にもならない人々がいる。そのことからも明らかなように、整理のつかない、出口のないということについて言うと、ウィズ震災。大震災の真っただ中にいて、われわれ現在進行形で震災が進んでいるということをどのように私たちは共有できて、そこを大切に扱うかということが今後問われていると思っています。
保里:
想像力を持ち続けることを心にとどめたいと思います。今回作文を寄せてくれた当時の子どもたちですけれども、これからをどのように生きていくのか。一人一人が模索を始めています。
あの日の子どもたち 再び動き始めた時間
津波で両親を失った、鍋島悠希さん。これまで行くことができなかった場所に初めて足を運びました。

「ほかの場所の海は行けるけど、請戸は来られなかった。克服じゃないけど 、来てみたかった。お父さんを1日でも早く見つけて、お母さんと一緒の墓に入れてあげたい。『もうとっとと帰ってこい』って。それが私の夢です」