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2022年3月2日(水)

東日本大震災から11年
今だから話せる“あの日”のこと 家族の対話

東日本大震災から11年 今だから話せる“あの日”のこと 家族の対話

東日本大震災で被災した子どもたちが、胸の内にしまい込んできた思い。
「家族を心配させたくなかった」「傷つけることが怖かった」
10代半ばや20代に成長した今、初めて家族に打ち明けました。
震災から11年を経て行われた家族の対話。再び歩み始める姿を見つめました。

出演者

  • 保里 小百合 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

東日本大震災から11年 今だから話せる"あの日"のこと

保里 小百合キャスター:
東日本大震災と福島第一原発の事故から、まもなく11年です。あの日、大切なものを失い、これまでずっとことばにできない思いを抱えてきた人たちがいます。

今回取材したのは、幼くしてあの震災を経験した若者たちです。

去年行われた民間の調査では、岩手・宮城・福島の3県で震災当時5歳~15歳だった若者のうち4割以上が「震災の記憶について覚えていることはあるが家族とはほとんど話さない」と話しています。

いったい、どんな思いを胸に抱え込んで生きてきたのか。震災から11年目に始まった家族との対話です。

なぜ母は涙を見せなかったのか

津波で甚大な被害を受けた、宮城県南三陸町。その中心部にあったのが、町の防災対策庁舎です。

15メートルを超える津波に襲われ、緊急対応に当たっていた役場職員を含む43名が犠牲になりました。

父親が役場職員だった、髙橋京佳さん。父親はあの日、この庁舎の屋上で津波にのまれ、今も見つかっていません。

防災対策庁舎を眺める髙橋さん
「一人では来られないけど、誰かとなら来られるようになりました。かなりの時間がかかりました。見たくもなかったので」

京佳さんの父、文禎(ふみよし)さんは大の野球好きで、毎晩子どもの練習につきあう、子ぼんのうな父親でした。

髙橋京佳さん
「バスケをやりたかったんですけど、『バスケをやったら応援に行かないよ』と言われたことがあって、それで野球をやりました。優しかったですね。いつも写真を撮るとき、手を添えてくれたりしていた」

あの日、京佳さんは小学校の校庭から、町が津波にのみ込まれる光景を目の当たりにしました。

髙橋京佳さん
「突然叫び声が聞こえて、『わー』みたいな。ぱっと振り返ってみたら、黒くなっているんです、町が」

父の文禎さんが津波にのまれたことを知ったのは、翌日でした。

髙橋京佳さん
「お母さんが、すごい泣いていたんです。話を聞いているうちに、お父さんが流されたっていうのを知って、その姿を私はぼーっと見つめることしかできなかった」

当時の映像に、夫を捜す母・吏佳(りか)さんの姿が残っていました。日の出とともに捜索に出かける母の姿を京佳さんは毎日、目にしていました。

1か月後の4月10日は、父・文禎さんの44回目の誕生日。娘の前で、母親の吏佳さんは明るくふるまっていました。

髙橋京佳さん
「お母さん、つらい表情とかも私たちの前でしないし、すごい明るく接してくれたので、お母さんの前では元気な姿でいないとなって、笑っていたと思います。当時は一人でグッとこらえて誰もいないところで涙を流したり、悲しい気持ちとか寂しい気持ちを発散させていました」

幼心に母を気遣ってきた京佳さん。けれど成長していくにつれ、あの当時の気持ちについて聞いてみたいという思いが募っていきました。

髙橋京佳さん
「何でそんなに明るく元気でいられるのかな。自分の悩みとか苦しみとかを、お母さんは誰に話していたんだろう」

今は大学に通うために仙台で1人暮らしをする京佳さんは、2月10日に実家に帰省しました。どうして、母はいつも明るくふるまっていたのか。今まで聞けなかったことを手紙で伝えることにしました。

手紙を読む髙橋さん
「ママへ。きょうは、今自分が思っていることを伝えたいと思います。パパがいなくなって、つらくて苦しい思いを一番していたのはママのはずなのに、ママは悲しんでいる姿を全く見せず、誰の前でも明るく笑っていました。私にとって、うれしい反面、無理していないのかなとママが心配になるときがあります。震災の話をするのは、正直怖くて勇気がいるけど、少しずつ震災と向き合うことができました」
母・吏佳さん
「しっかり受け止めました。11年前は、たぶん悲しかったし、苦しかったんだろうけど、笑ってごまかしていたなという部分が見えていて、そこに焦点が当たらないように過ごしてきたのかなって見ていた。たぶんそれはママも一緒で」
髙橋京佳さん
「同じ思いだった、ママと。当時を振り返ったときに、笑顔でいないといけないって。心のどこかにパパがいると、ずっと思っていた。同じ思いでした、ママと。震災直後の自分では考えられないことを、今しているので、人に気持ちを話すことがまずなかったので、こうやって伝えられて改めてよかったな」

地元に残った兄への後ろめたさ

震災を機に、別々の人生を歩んできたきょうだいがいます。南三陸町で生まれ育った西條育美さんと、兄の優也さん。この日、育美さんは実家に帰省していました。

妹の育美さんは震災の4年後、大学進学のため地元を離れました。今は、茨城県内の病院で働いています。仕事は、言語聴覚士。会話や食事などに支障のある患者のリハビリを担当しています。

育美さんがこの仕事を志したきっかけは、中学2年の被災経験でした。家族は全員津波を免れたものの、自宅を押し流されました。

西條育美さん
「いつ死ぬかわからないという経験をしたので、震災後の生活の中で人から支えられることをものすごく実感した。その中でもリハビリや人を支える仕事をしたいという思いがあって」

けれど、育美さんにはずっと気がかりだったことがあります。それは、南三陸に残った兄・優也さんのこと。優也さんは、母親と87歳になる祖母と一緒に暮らしています。

震災の2年後、高校を卒業し、町役場に就職した優也さん。病で他界した父に代わり、一家の大黒柱として家族を支えてきました。

地元を離れ、自分の選んだ道を歩んできた育美さん。兄への後ろめたさが募っていました。

西條育美さん
「お兄ちゃんにいろいろ我慢させていたんだろうなっていうか。お兄ちゃんは自己主張しないで、私は自分がやりたいことをやりたいっていう感じ。本当はどう思っているのかな。震災がきっかけでもあると思うんですけど、いつ何を失うのかわからないので、お兄ちゃんと、今話しておかないと、一生心残りになりそう」

2月23日、実家からの帰り道。

<育美さんと兄・優也さんの車内での会話>

育美さん
「このままいったら、あれか。ずっと公務員の仕事は続けるの?」
兄・優也さん
「辞めることはたぶんないかな」
育美さん
「そうだよね。一番気になっていたのは、話す機会もなかったから聞けなかったけど、自分がお兄ちゃんだったら実家が窮屈に感じてきて、でも実家にいなきゃという思いで、その中で妹が外に出て自由にいたら自分だったら妬むだろうなって。『いいな』じゃないけど、それに対して(何か)感じたりとかは?」
兄・優也さん
「ないかな。妬みはないかな。震災で家がなくなって、地元で働いたほうが家のためになるかなという思いはちょっとはあったけど、そこまで、何だろう。(育美が)自分のやりたいことがあって、(地元を)出たのならいいかな」
西條育美さん
「すごい応援されているような気持ちになりました。お兄ちゃんがいてこそ、今自分がこの仕事をしたり、好きな場所に住んだり、好きなことができているので、お兄ちゃんには感謝していきたい」

"自分だけが我慢すればいい…"

今なお復興事業が続く、福島県の沿岸部。高校1年生の菅家(かんけ)菜々子さんと母親の洋子さんは、去年、10年間暮らした避難先の秋田から、ふるさとの福島に戻ってきました。

母・洋子さんは、毎日片道1時間かけ、菜々子さんの学校の送り迎えをしています。

母・洋子さん
「菜々子を連れて(福島に)戻ってきても、1年間これでいいのかってずっと考えながら迷いながらきたので、菜々子に戻ってきて後悔していないのか聞いてみたい」

菜々子さんにも、母には言えない本音がありました。

去年12月、菜々子さんが演劇部の活動で制作した創作劇。

<演劇部の舞台で演じる菜々子さん>

菜々子さん
「私、本当はこの学校に来る予定じゃなかったんですよね」

ある日、福島に戻ることを母親から告げられる場面で、自分自身の体験を演じました。

<劇で福島に戻ることを母親から告げられるシーン>

母親役
「あれから10年も経つし、菜々子も高校受験でしょ。もう決めたことだから、わかった?菜々子」
菜々子さん
「わかったよ」
母親役
「ごめんね」
菜々子さん
「ねぇ、なんで。私は15年間生きてて、10年間秋田に住んでたの。秋田に住んでいるほうが長かったの。いまさら勝手に決められて戻るのは、あんまりでねぇか」
菜々子さん
「お母さんとのやりとりは事実じゃない。ああ言えればよかったという私の理想というか。言って困らせるんだったら、言わないでいたほうがよかったかなと思って言わなかった。言い合えたらよかったですね、本当に」

福島第一原発の事故のあと、福島県では16万人以上が避難を余儀なくされました。浪江町で生まれ育った菜々子さんも、家族と共に知り合いのいた秋田に移り住みました。しかし住み始めてまもなく、菜々子さんはあることばを耳にします。

菜々子さん
「スーパーに行ったときに、お母さんみたいな人と小さい男の子の会話で、『福島県産のものは食べちゃダメだよ』って。それがなんかショックだった。福島との関わりがあることを、知られたくはないと思った。私もそういう目で見られているのかなみたいな感じで」

それ以来、菜々子さんは身近な人に対しても地元・福島の話を避けるようになりました。母親の洋子さんもまた、福島について菜々子さんと話そうとはしませんでした。

母・洋子さん
「(避難してから)福島のことを思い出すのがつらかった。つらい福島、苦しい福島になっちゃって。私が福島の話ができなかったから話はしなかったし、子どもたちも(福島のことを)聞けなかったかな」

親子が福島に帰る決断をしたのは、おととし11月。仕事のため、一人福島で暮らしていた夫が病に倒れたからです。

母・洋子さん
「ああ、ダメだ。みんな助け合えるところに戻ってこないとダメになっちゃう。友達も、好きだった場所も、いろんなものも諦めて福島県に戻ってくるということだから、つらいことを菜々子に聞いたなとは思います」

福島に戻ってきて、まもなく1年。

2月5日、洋子さんは娘の菜々子さんに話を切り出しました。去年12月に菜々子さんの演劇を見て以来、福島に戻ったことをどう思っているのか知りたかったのです。

母・洋子さん
「どう思った?お母さんが『福島に戻りたい』と言ったとき」
菜々子さん
「何で今なんだろうって」
母・洋子さん
「なっちゃん、何で『いいよ』って言ってくれたの?」
菜々子さん
「何が?」
母・洋子さん
「(福島に)行ってもいいよって。とっても迷ったでしょ」
菜々子さん
「うん。いまさら私が言っても変わらないんじゃないかって」
母・洋子さん
「『行きたくない』って」
菜々子さん
「親孝行だなって思ったんだよ」
母・洋子さん
「それはお母さんに?」
菜々子さん
「そうだね。震災のとき、避難生活も秋田の暮らしも頑張っていたのを見ているし、大変だったのを知っているから、『行きたい』と言うならついていってあげるのが、今できる一番の親孝行かなと思った」
母・洋子さん
「ありがとう」
菜々子さん
「私も最初は後悔していたけど」
母・洋子さん
「最初ね、苦しかったもんね」
菜々子さん
「これでよかったんじゃないかと思って」
母・洋子さん
「それはどうして?」
菜々子さん
「私はずっと福島のことは知らない、関係ないって区別していたけど、こっち(福島)だとそうはいかないじゃん。こっちだと、もう当事者だから。そう考えると、ここに来られて今までずっと逃げてきたものと向き合うきっかけになったんだよ。福島のことも、言えなかった自分のことも。向き合うきっかけが福島だからできたと思っていて。だからそう考えると、福島に来てよかったなって今は思っている」

原発事故に翻弄され、この11年を手探りで歩んできた菜々子さんと母・洋子さん。今もう一度、生まれ故郷の福島と向き合い始めています。

対話の翌日、菜々子さんが昔よく遊んでいた漁港を訪れました。

菜々子さん
「船、もっとあったなぁ。大きいものも、小さいものも。もっと漁船が多くてぎゅうぎゅうしていた感じ、前は。そう、この音よ。この音。この漁船のすれる音。それが懐かしい、この音、よく聞いていたなぁ。戻ってきた感じがしますね。波の音とか、船の音とかが懐かしいもので。たまに来たいなぁって思いますね」

ふるさとで踏み出すことができた、小さな一歩。11年の時を経て、"あの日"のことを語り始めた家族の姿です。


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