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2021年12月8日(水)

あえて出所を望まず
BC級戦犯 知られざる思索

あえて出所を望まず BC級戦犯 知られざる思索

太平洋戦争開戦から80年となる中、外務省が次々と開示を進めている史料がある。収監されたBC級戦犯たちが出所する手続きのために作成した膨大な資料群だ。ほとんどは「一刻も早く出たい」という悲痛な申し立てだが、分析の結果、出所の手続きを望まない戦犯が複数いたこと、そして彼らが望まなかったにも関わらず国が出所させていたこともわかってきた。表に出ることのなかった戦争のもう一つの“物語”に迫る。

出演者

  • 吉田裕さん (一橋大学名誉教授)
  • 保里 小百合 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

"あえて出所を望まず" BC級戦犯たちに何が

BC級戦犯たちが、出所を申請するために書いた史料。その分析を続けている、研究者の金田敏昌さんです。

戦犯のほとんどが、刑務所を出たいと訴えていました。

"家族は、その日の食にも困るほど生活状態は極めて困難"

"病気の母は、私の出所を一日千秋の思いで待っている"

金田さんは、分析を進める中で意外なことに気がつきました。

大阪経済法科大学 アジア太平洋研究センター客員研究員 金田敏昌さん
「本人は赦免申請書を提出しない」

申請書を提出しない戦犯が、今回分析の対象とした370人の中に20人ほど確認されたのです。

金田敏昌さん
「申請書は出さないっていう人たちがいるっていうのは、ほぼほぼ知られてこなかった事実じゃないかなという気はいたします」

その中の一人、中田善秋(なかだよしあき)。フィリピンで日本軍が行った民間人の殺害事件に関わったとして、重労働30年の判決を受けましたが、一貫して無罪を訴えていました。

その彼がなぜ申請書を出そうとしなかったのか。

中田善秋は、25歳のとき軍人としてではなく軍属として徴用され、フィリピンに赴きました。牧師を目指していたことから、教会で住民たちと交流しながら日本軍への協力を呼びかける、「宣撫(せんぶ)活動」を任されました。そして、3年余りがたった1945年2月24日。中田が戦犯に問われることになる事件が起きます。日本軍が、700人以上の民間人を殺害したという「サンパブロ事件」です。

フィリピンで日本軍が起こした戦争犯罪の研究を続ける、東京大学の岡田泰平教授です。サンパブロ事件の裁判記録や、関連する史料を読み込んできました。

東京大学 大学院総合文化研究科 岡田泰平教授
「2月24日にサンパブロの虐殺が起きたときのリストがあります。殺された人たちの名前をちゃんと集めているんです。殺された場所も集めているし、日付も集めているんです。比較的信ぴょう性の高い資料ができているということが言えるんですね」

記録によると、事件は現地のゲリラと、それに協力する住民を粛正せよという命令を受けた部隊によるものでした。部隊は人々を教会に集め、その後、殺害。穴に埋めたとされています。

フィリピンで、当時の記憶があるという男性に話を聞くことができました。

当時9歳だった男性
「多くの人が、教会の方に向かって行きました。中には戻ってこなかった人もいました。彼らは殺されたと聞きました。いまある道路と同じくらいの幅で、ずっと向こうまで(遺体が)埋まっていました。一帯にひどい臭いが漂っていました」

終戦の1か月後、アメリカ軍に拘束された中田は裁判にかけられました。この場で殺害への関与を否定。証言した住民の中にも、助けてもらったと話す人がいました。

岡田泰平教授
「中田は相当強いアリバイがあって、(教会に)閉じ込められている、ゲリラだと思われているフィリピン人がいるんですけど、その人たちを何回かに分けて助けているんです」

一方、助けたはずの住民から厳しいことばを投げかけられてもいました。

弁護人
「あなたは、中田の処刑をのぞみますか?」

証人
「はい」

弁護人
「なぜですか?」

証人
「彼は日本人だからです」

岡田泰平教授
「とにかく中田はそこで人間関係も育んでいて、確かに貧乏な人たちに対する食糧支援なんかをやるときは中田がけっこう協力していたりもするんですね。だけど、なんで中田を受け入れたのですかと(聞かれた)とき、『中田は軍の一部だから、われわれも恐れて受け入れたんです』と。そういう関係性のもとでしか、日本人とフィリピン人は1944~1945年にかけては関係を結べなかったんだと思います」

結局、有罪判決を受けた中田。獄中で何を考えていたのか。

生前の中田と接触していた人がいました。BC級戦犯の研究を続けてきた、恵泉女学園大学、内海愛子名誉教授。獄中で記した日記など、6箱分の記録を本人から託されていました。

恵泉女学園大学 内海愛子名誉教授
「戦犯が何を考えて何を悩んでいたのか、これはあの裁判の門をくぐった者にしかわからないという、ある種の絶望とその中でなんとか生きようとした、その葛藤が記されています」

中田が記した膨大な獄中記。そこで当初、繰り返し記していたのは、戦犯裁判への怒りでした。

"犯さざる罪に問われて、獄門をくぐる。心の恨み果てなく"(1946年8月9日)

"戦争裁判は裁判ではない。単純な報復の心理を法の名で覆っているに過ぎない"(1949年5月20日)

ところが5年を過ぎたころから、その内容には変化が現れ始めます。

"私どもが心の内にいだく余りある怒り。それは東南アジアの人々が日本軍に抱いた感情と同じ感情である。私の涙は、彼らの涙である"(1951年8月14日)

"憎悪することのみでは終わらない。私は憎悪されることによって、憎悪することの不徳を学ぶ"(1952年1月19日)

内海愛子名誉教授
「自分では手を下さなくても、日本軍がやった行為を見ている者としては(戦犯)裁判にも疑問を持つけれども、だからといって自分たちが正しいとは言えないからことばがいつも歯切れが悪い、しゅん巡するんですよね。批判をするけど、その批判は自分に返ってくる。この思いがずっと行ったり来たりしてますね」

戦犯釈放運動の広がり 水面下では国が…

中田善秋が獄中でその目をアジアの被害者たちに向け始めていたころ、日本はサンフランシスコ平和条約で独立を回復。戦後復興の歩みを本格化します。

そして、BC級戦犯たちの刑を免除するよう各国に働きかけました。

"戦犯たちの行いは、戦争という特殊な状態の下、上司の命によって行われたもので、戦犯は戦争の犠牲者である。刑罰の効果は十分に果たされた"

時を同じくして、街でも釈放を求める声が高まっていきました。全国一斉に行われた署名活動。戦犯の家族や旧軍人らが中心となって実施され、3か月で1,500万筆もの署名を集めました。

実は、この運動、水面下で国が推進していたことが研究によって初めて明らかになりました。国立公文書館で見つかった「法調39号」という文書。引き揚げ軍人の援助などを行っていた当時の厚生省復員局法務調査課が大規模な署名運動を至急計画するよう地方自治体に要請していたのです。(日本近現代史研究者 中立悠紀さんの研究による)

"講和条約が発効し、独立日本として今日の喜びの半面に、多くの戦犯受刑者と、その留守家族のあることは私たちに暗い影を投げかけている"

一方、出所のための申請書を出さなかった戦犯たち。中には、犯した罪の重さを国の担当者に語っていた者もいました。

陸軍憲兵准尉 米軍捕虜と現地民間人を殺害したとして終身刑
"事件の非人道的なことに対する深い反省に基づき、赦免を申請する意思はない"

海軍兵曹長 米軍捕虜を殺害したとして終身刑
"いかに上官の命令によるものであったとはいえ、何の恨みもない人の生命を自らの手で奪ったことに対し、深く悔悟しており、自ら進んで申請することを躊躇(ちゅうちょ)"

無実を主張していた中田は、戦犯の釈放運動をどう見ていたのか。記録を託された内海教授は、仲間の研究者と共に分析しています。

その中で注目したのは、獄中でキリスト教徒の戦犯たちと発行した機関誌「信友」です。

"私どもは釈放という出来事の内に、多くの解決を期待出来ることは確かだ。しかし釈放によっても解決され難い問題が残ることも、又確実である"(1951年8月25日発行『信友』50号より)

"われわれはただ出ることのために、ここに入って来たのだろうか。自らのためにも、そして隣人のためにも、もう少しは賢明になる様にこの現実を体験したはずである"(1952年8月16日発行機関誌機関誌『信友』97号より)

東京農業大学 小塩海平教授
「いわれのない罪を負わされたけれども、それが意味していることがある」

関東学院大学 大学宗教主事 豊川慎専任講師
「果たして私たちに責任がないだろうか。あの時は何も知らなかったとはいえ、戦争に参加したではないか、こういう自問自答ですね」

そして1953年3月。中田は、ある決断を下しました。出所のために必要な申請書を提出しないことを決めたのです。

"今日午後、便所をしながらサンパブロ事件を思い出していた。そして私は、あの中華系の住民たちが殺されることに確かに肯定を心の中でしていたと、はっきり認めざるを得なかったのだ"(1953年4月28日)

このとき中田が思い返していたのは、当時部隊の憲兵から聞いた話でした。現地住民の粛正命令を受け、実行をためらっていた憲兵は関係が良好だったフィリピン人ではなく、中華系住民を多く殺害するという案を示しました。その案を、当時心の中で肯定していた自分に中田は気付いたのです。

"私はうなずいていたのだった。その意味において、確かに"有罪"と云われても仕方がない。私は嘆願書を出すべきではないのだとはっきりと判ってきたのだ"(1953年4月28日)

当初、裁判への怒りをぶつけていた中田善秋。8年を経て、戦争に対するみずからの責任を自覚するようになっていました。

新史料・戦犯たちの告白 専門家はどう読み解く?

新たに発掘された事実を、専門家はどう見るのか。日本の近現代史の研究を続ける、一橋大学名誉教授の吉田裕(ゆたか)さんに聞きました。

保里:吉田さん、みずから出所の申請を出さない人たちがいたという事実、率直にどのように受け止められましたか。

吉田裕さん (一橋大学 名誉教授)

吉田さん:初めて知りましたね。指導者ではない一般の兵士、一般の軍属の方が自分自身の責任についてこれほど苦悶して考え続けているということ自体がやっぱり驚きでした。中田さんの史料というのは、何をやったかっていうことよりもやったことに対する自分自身の内面的な向き合い方を記録した史料ということになりますので、やはり私たちがきちんと総括してこなかったような戦後の歴史ですよね。戦争の歴史に十分向き合ってこなかったような戦後の日本の歴史、それを改めてわれわれのもとに突きつけている。そういう気がしますね。

保里:戦後、戦犯の釈放を嘆願する動きが国を挙げて広がっていったわけなんですけれども、その動きというのはなぜ急速に起こっていったんだと考えられますか。

吉田さん:冷戦への移行によってアメリカが日本に保守的で親米的な安定した政権が存在するということを戦略的に重視するようになりましたので、日本政府や日本国民の戦争責任の追及とか、日本の民主化ということに熱意を失ってしまうわけです。大きな犠牲を出したアジア諸国の大部分はまだ独立建国の過程にあって、国際的な発言力も小さい。そういう中で日本の戦争責任ということをあいまいにして棚上げにする、あるいは先送りにすることが可能なような日本にとって有利な国際情勢があったわけです。

その上で吉田さんは、今回見つかった史料は戦後を生きる私たちに重要な問いかけをしているといいます。

吉田さん:社会の全体としてはサンフランシスコ講和条約が発効して以降は、戦争の時代のことにはこだわらないという方向で社会全体が動いていますから、ある種の未来志向ですよね。苦しい時代のことは忘れて、経済成長に没頭しようということである種の合意ができた時代。戦争の原因とか戦争に至る過程は、外交とか軍事とか、いろんな面で明らかになっていますけれど、戦争をなぜ国民が受け入れて協力していったのかということ、これは非常に難しいし重い問いで、そのことがまだ明らかになっていない。そこをやっぱり明らかにしていくことがいちばん大きな歴史の、大げさにいえば教訓ということになると思いますけれど、その問題を掘り下げていく必要があると思います。

釈放されたBC級戦犯 家族に伝えたかったのは…

出所を求める申請書を書かないと決めた、中田善秋。しかし、その決断は時代の流れに飲まれていきました。戦犯の釈放を進める政府が、中田が申請書を書かなかったにもかかわらずアメリカへの手続きを進めたのです。フィリピンで拘束されてから10年後、中田は巣鴨刑務所を後にしました。

その後、どんな人生を歩んだのか。息子たちに話を聞くことができました。広告会社で働いていた中田。21年前、83歳で亡くなるまで家族との時間を大切にする父親だったといいます。

「覚えているのは、家に親父が帰ってくると必ず僕が迎えに行って飛びつくんです。ここにヒゲでじょりじょりって」

中田は、最期までみずからの戦争体験について家族に語ることはなかったといいます。ところが今回の取材で、遺品の中にひっそりと紛れ込んでいた史料が見つかりました。出所の申請をしないと決めた直後に書かれたものでした。

中田和直さん
「こんなにものを書いていたんだね。表紙なんて書いてある?サンパブロか」

中田和直さん
「平和の大切さと書いてある」

過去を語らなかった父が残していたメモ。息子たちは複雑な思いを感じ取っていました。

中田和直さん
「これは残しておかなければいけないものだと思っていたというのは、相当の思い入れがあるんだろうなと。でも言ったように、それを家族のなかには持ち込まない。それをあえて世に問わない」

中田明さん
「ずっと向き合って生きるのか、背を背けて自分の幸せ、日常の幸せを、そういう意味では日常の幸せをめちゃくちゃ求めたと思うんですね。幸せを追求するというほうを選んだんじゃないかなと」

いつか家族に伝えたかったはずの記録。その中にあったことばです。

"自分の判断を持つこと。それを意見にし、開陳すること。そのことによって、自分をも、また多くの者も救うことができる。唯々諾々と従っていったとしても、結局一切の責任は各々(おのおの)にふりかかって来る。であるとするならば、われわれは最初からその心算で自己を持ちつつ行動すれば良いのだ"


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