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2021年11月17日(水)

いまを切に生きる 瀬戸内寂聴さん
愛と苦悩の99年

いまを切に生きる 瀬戸内寂聴さん 愛と苦悩の99年

先週、99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さん。自立する新たな女性の生き方を作品で生き生きと描きながら、各地で行う法話では弱者に寄り添い、愛することの大切さを説いてきた。老いと病を乗り越え、活動を続けたエネルギーの源とは何だったのか。そこには若き日に体験した戦争と、幼い娘を捨てて家を出たことへの深い悔いがあった。瀬戸内さんの生きざまに影響を受けた人たちのことばから、作家の残したものを見つめる。

出演者

  • 井上荒野さん (小説家)
  • 井上 裕貴 (アナウンサー) 、 保里 小百合 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

私を支えた"あの言葉" 瀬戸内寂聴のメッセージ

俳優の南果歩さん。離婚や乳がんの手術などを経験する中、瀬戸内さんのもとを何度も訪ね、悩みを打ち明けていたといいます。

俳優 南果歩さん
「1人で抱えきれないことだとか、そういうことをお話しさせていただくと、本当に明るい笑顔で背中をぽんと押すように励ましていただいたし、笑い飛ばしてくださったので。『何を言っているの。生きているんだから、あなた大丈夫なのよ』って。『人生はいろんなことが起きて当たり前なんだから』、『その先にもっといいことが待っているんだから、大丈夫よ』って」

南さんは瀬戸内さんのことばの裏に、乗り越えてきた人生の苦しみを感じとったといいます。

南果歩さん
「本当の修羅場を経験した人の優しさというか、温かさというか。それが伝わるからこそ、本当に素直にそのことばが心に入ってきた」

34歳で文壇デビューした瀬戸内さん。その人生は波乱に満ちたものでした。

不倫の果てに、夫と幼い娘を捨てたことに批判を浴びながらも、400を超える本を執筆。その後、得度し、各地で法話を行って心に傷を抱える人たちに寄り添ってきました。

<2011年 岩手 二戸>

瀬戸内寂聴さん
「結局はでもね、人間はひとりなんですよ。ひとりで生まれて、やがてひとりで死んでいく。ひとりはさみしいけれども、でも一緒に死ぬことはできないね」

夫を亡くした女性
「(夫が)遺体にしていた時計」

瀬戸内寂聴さん
「きょう、あなたがここにいらしたのは、ご主人がここに連れてきてくださった。ひとりでさみしいれけども、やがてあなたも逝くんだからね。大丈夫よ。向こうで会えますからね、一緒に逝きましょう」

鬼ではなく"大鬼"に 瀬戸内寂聴の原点とは

自由に生き、人を励ますことに力を尽くした瀬戸内さん。その原点はどこにあったのか。

30年以上親交がある、作家の林真理子さんが指摘するのは敗戦の体験です。

作家 林真理子さん
「戦後の混とんとした時代の、何もかも失ってしまった喪失感と、異様な高まりの時代のその虚脱感の中で新しいものを得なければ生きていけないと思った先生の気持ちは、私はちょっと想像することができるんですよね」

瀬戸内さんは23歳のとき、中国・北京で敗戦を迎えます。

夫と娘の3人でふるさとの徳島に引き揚げたとき、目の当たりにしたのは一面の焼け野原でした。母と祖父は防空ごうで亡くなっていました。

当時の思いを語ったインタビューです。

<NHKスペシャル「敗戦 その時日本人は 私にとっての8月15日」(1998年8月15日放送)>

瀬戸内寂聴さん
「天皇陛下の御ために、死んでもいいという考えをたたき込まれた。しかし天皇陛下の御ために死んだけれど、あと何もないわけですから。それまで信じていたものは何だったんだろうということを考えました。ただ教えられたとおりに素直に信じて生きてきましたけど、もうこれからは教えられたとおりのままじゃなくて、自分で考えて、自分の心と肌で感じたものだけしか信じちゃいけないんだってね、そのときに私の人生で一大転換があったわけですね」

自分の意思だけを頼りに生きていく。瀬戸内さんが決意したのは、当時女性としては珍しかった小説家になることでした。

林真理子さん
「今みたいに、ちょっと気楽に新人賞に応募する時代じゃないんですよ。女性作家がさげすまれていた時代に"書く"ことをするためには、まったく人生を捨てなければいけなかった。とにかく新しい場所に行かなければ自分は書くことができないし、新しい人生も始められない。ものすごい覚悟はあったと思いますけれども」

自分の道を突き進む中で瀬戸内さんは、年下の男性と恋に落ち、幼い娘を残して家を出ます。

<「AERA」2014年3月31日号>

"小説を書きたい、才能を生かしたい、無知な女のままでいたくない。そういう一心で、不倫相手のもとに向かった。子どもを捨てることはやってはいけない。本当は連れて行きたかったけれど、女が一人で食べさせることはあの時代にできなかった。いまでも後悔は尽きない"

林真理子さん
「お父さまが病床から『もうお前は鬼だ』、『だが鬼になるなら大鬼になれ』とおっしゃたと。これは何か先生を貫くものだったんじゃないですかね。もうここまでのことをしたんだったら、とことんやってやると思ったんじゃないか。内側から湧き出ることによって、そういうことをせざるを得なかった何人かの人は当時いたわけで、寂聴先生はその1人だったと思います。そして"大鬼"になることを決心されたわけでね」

瀬戸内さんが描いたのは、時代にあらがい、愛を求めて自由に生きる女性たちの姿。大正、昭和を生きた歌人で作家の岡本かの子や、弾圧に屈せず女性解放のために闘った伊藤野枝などをモデルに、数々の作品を世に送り出してきました。

林真理子さん
「汗臭くて、やぼったくてね。だけど本当に強い人。向上心を持っていて、男の人を引きつける。こういうヒロイン像って私が初めて目にするもので、すごく衝撃を受けましたね。自分の考えをもって、まっすぐに生きていけば、女性も頭をもたげて一生懸命生きていけば、必ず道は開けることを教えてもらった気がするんですよ」

私を支えた"あの言葉" 瀬戸内寂聴のメッセージ

瀬戸内さんの作品と生き方は、多くの人の人生に影響を与えてきました。瀬戸内さんの業績を紹介している資料館の学芸員、竹内紀子さんです。40年にわたり、瀬戸内さんと交流を続けてきました。

学芸員 竹内紀子さん
「これは私がまとめかけているものの、一例なんですよね。誰と会ったか、どんな講演をしたか」

全国をまわった講演のスケジュールや対談した相手など、竹内さんは段ボール40箱分の資料を瀬戸内さん本人から託されました。激動の足跡を資料でたどる中で、瀬戸内さんの姿勢に心を打たれていったといいます。

竹内紀子さん
「やっぱり(瀬戸内さんの)自立した生き方が好きだった。初めの結婚から別れて、作家になって、ペン1本で生きていこうという。途中で半同棲(せい)の恋人ができるんですけれども、その人にも全く依存せずにね、自分のペン1本でずっと生き抜いたようなところですね」

中学校の教師となったものの、自分が本当にやりたいことは何か、悩みを抱えていた竹内さん。そんなとき参加した勉強会で、瀬戸内さんが語ったことばが強く記憶に残っています。

竹内紀子さん
「先生がその生き方っていうんですか、自分が信じたことを突き進めて生きなさい。大輪の花を咲かせなさいとよく言ってましたね。誰にも才能があるから、好きなことをして、才能を伸ばして花を開かせなさいというのはよく言いましたね」

竹内さんは43歳のとき、思い切って教職から離れ、現在の学芸員の仕事に就きました。限られた人生を何にささげるのか。その覚悟を瀬戸内さんから学んだといいます。

竹内紀子さん
「悔いのない生き方をしようと進んだと思います、私自身」

取材班
「できましたか?」

竹内紀子さん
「まあ頑張ってるというんじゃないかしら」

"人は愛するために生まれてきた" 瀬戸内寂聴のメッセージ

多くの人たちが耳を傾けた、瀬戸内さんのことば。最後まで語りかけていたのは、"人を愛すること"でした。

瀬戸内寂聴さん(Instagramより)
「99歳、もうすぐ100歳になるんですけど、それまで生きてきて最後に思うことは、何のために生きてきたんだろうと。人を愛するために生まれてきたのね。愛に始まり、愛に終わる」

「愛することとは何か」。その真の意味を、瀬戸内さんから教えられたという女性がいます。出版社の編集者、宮田美緒さん(37)です。

20代の頃、恋愛で深く傷つく経験をした宮田さん。瀬戸内さんの「女人源氏物語」を読み、愛のとらえ方を根底から覆されました。

出版社の編集者 宮田美緒さん
「女の業(ごう)みたいなものを描ききった作品だと思うんですよ。もちろん愛することの喜びも含めて、そこに伴うつらさ、絶望感、いろんなものをひっくるめてすべて描かれている。自分が今まで愛だって信じていたものが、実は自己愛だったんじゃないかなっていうことを思いました。相手を愛そうとしている自分の姿を愛していただけなのではないか」

本当の愛とは、見返りを求めない愛。ことし、憧れていた瀬戸内さんの書籍を出版しました。

瀬戸内さんが書き下ろしてくれた、直筆の前書きです。

"人は愛するために生まれてきたのです。99歳まで生きてきて、つくづく想うことはこの一事(いちじ)です"

宮田美緒さん
「もう本当に寂聴さんらしい。彼女の人生をある意味凝縮したような原稿だなと。原動力になっていたものが、愛のひと言に尽きるのだと。その根っこには愛があったということですよね」

なぜ、瀬戸内さんはここまで愛にこだわるのか。

5年前に出産した宮田さんは、子どもを持って初めて感じたことがあるといいます。それは、瀬戸内さんがかつて幼い子を捨てたときの痛みでした。

宮田美緒さん
「自分が子どもを持ったからこそ、どんなにつらかったかと、かわいい盛りの子どもを家に置いてきたことが。自分自身の体の一部を失うような、大きな悲しみがあったと思うんですよ」

恋人のもとへと走り、作家への道を選んだ瀬戸内さん。幼い娘を捨てた悔いを、生涯抱え続けてきました。

瀬戸内寂聴さん
「まだ子どもが『お母さん行っては嫌』ってことばが言えないときですからね。むごいことしましたよ、本当に。それだけが、後悔している。申し訳ないと思っている」

大きな痛みを抱えていたからこそ、人の痛みに寄り添い、愛し続けていたのではないかと宮田さんは感じています。

宮田美緒さん
「愛にこだわる理由、『究極の愛とは、あげっぱなしの愛だ』。そのことばの内側にはですね、自分が背負ってきたとてつもない悲しみ、痛みがあったからこそ、他人の痛みに対しても思いをはせることがそこで初めてできたんじゃないかなと」

瀬戸内さん 最後の願い 次世代を生きる人たちへのメッセージ

東京都内にある、小さな一軒家。ここを訪れるのは、さまざまな事情で家や学校に居場所がなくなった若い女性たちです。

取材班
「どんなときに、ここ来るの?」

利用者
「しんどくなったときですね。家にいたくないとき」

利用者
「居心地のいい場所って感じですかね」

「まだやりのこしたことがある」。晩年、瀬戸内さんは、虐待やDVなどの被害者を支えるプロジェクトを立ち上げます。専門のスタッフが相談に乗り、生きる手助けをしています。

「若草プロジェクト」代表理事 大谷恭子弁護士
「『そろそろ終活、終活ということで自分も女性のために何かを残したい』、『いま成長過程の少女たちもひとりぼっちになっているよ』ということで、その子たちの居場所を一生懸命つくろう」

「若草プロジェクト」と名付けました。コロナ禍で直接会うことが難しい中でも、瀬戸内さんはビデオメッセージを送っていました。

瀬戸内寂聴さん
「若草に入って元気ですか?よかったと思う?私はあなたたちのように、女に生まれて、女であるがためにしなくていい苦労した人がこの世にまだいっぱいいると思ったらね、99にもなって死ぬに死ねないのよ」

プロジェクトに救われた女性です。小学生のころから両親による虐待に苦しみ、17歳のときに保護されました。

女性
「父親から性的なことされたりとかして、それを母親に行ったときに『胸が大きい、だから被害を受けて当たり前だ』と言われたときに精神的に耐えがたくて。リストカットしちゃったり、タバコで自分の腕焼いたり、自殺しちゃうんじゃないかと」

虐待を受けたのは自分のせいだと、みずからを責め続けていた女性。今も死にたくなる気持ちが込み上げるとき、瀬戸内さんのある言葉が支えとなっています。

"愛することはゆるすこと"

女性
「自分のことがゆるせなくて、虐待を受けたのも全部自分のせいだってまだ思っているところがあって、(瀬戸内さんのことばが)すごい響いて、自分のことをゆるさないと、自分のことを大事に出来ないのかなと思って。せっかくここまで生きたから、つらいことがあっても耐えて生きないともったないなと思って」

二十歳になった今、プロジェクトの支援を受けて大学に通っています。自分のように苦しむ子どもたちを守りたいと、将来は弁護士になることを目指しています。向かうのは、瀬戸内さんが長年執筆に使っていた机。今年の春、プロジェクトの女性たちに贈られました。

瀬戸内寂聴さん
「希望を失わないでほしいのね。今つらいこととか、いろいろあるけど、絶対変わると思ってね、変えようと思って生きてください。私の、もうまもなく死ぬ私の最後のお願いです、遺言です。頑張ってください」

人は何のために生きるのか。最後の連載となった随筆に記されていた言葉です。

<随筆「その日まで」より 講談社>

"戦争も、引揚げも、おおよその昔、一通りの苦労は人並にしてきたが、そんな苦労は、九十九年生きた果には、たいしたこととも思えない。人間の苦労は究極のところ、心の中に無限に死ぬまで湧きつづける苦痛が、最高ではないだろうか。生きた喜びというものもまた、身に残された資産や、受けた栄誉ではなく、心の奥深くにひとりで感得してきた、ほのかな愛の記憶だけかもしれない。結局、人は、人を愛するために、愛されるために、この世に送り出されたのだと最期に信じる"

瀬戸内寂聴のメッセージ 直木賞作家がみた素顔と魅力

保里:瀬戸内寂聴さんの生涯に迫る、さらに詳しい記事は以下のリンクからもお伝えしています。

サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB
瀬戸内寂聴さんの人生 詳しい記事はこちら

井上:小説家の井上荒野(あれの)さんに伺っていきます。30年にわたって交流を続けてきた井上さんから見て、激しく生きた情熱の源には何があったと思いますか。

井上荒野さん (小説家)

井上さん:寂聴さんにとっては生きるというか、生きていくということが「善」だったと思うんです。善悪の「善」です。つまり彼女にとっての唯一、絶対的な善というのが「生きていく」ということではなかったのかと。それはやはり先ほどのVTRにあったような戦争体験、中国から引き揚げてきたらご家族が防空ごうの中で亡くなっていたこととか、そして、そのときにもう私は何があっても生きていく。そういうふうに決めたんじゃないかなと思うんです。生きていくというのも、ただ漫然と生きていくのではなくて、何かを諦めて生きていくのではなくて、誰かの言いなりになって生きていくのではなくて、自分の意志で、自分の心に従って生きていく。それが彼女にとっての善で、その善を全うするために情熱を持っていたのではないかなと思います。

井上:井上さんは瀬戸内さんをモデルにした小説、「あちらにいる鬼」で、ご自身の父親と瀬戸内さんが不倫関係にあったことを描かれていますけど、それにもかかわらず家族ぐるみの交流を続けられてきたのはなぜでしょうか。

井上さん:複合的な理由があって、私の母のありようとか、私の家のありようなんかもあるのですが、いちばん大きい理由というのは寂聴さんがとても魅力的な方だったからだと思うんです。もう本当にチャーミングとしか言えないような方で、今本当にそういうふうに思っているんですけど、やはり若いときはあまりにも寂聴さんに会うたびに圧倒されて、自分が小さく思えて、そしてもう自分は何かふらふらして、何にも足場がないなということはいつも思い知らされていて。だから若いときは会うのに緊張していて嫌だったりしたんですけど、だんだん自分も小説家になって、それなりに自信も出てきて、そういうときにお会いすると「ああ、やっぱりこの方はものすごくチャーミングな魅力的な方だな」というのが分かるようになってきました。その魅力というのは何だろうってずっと考えてたんですけど、やっぱり「自由」ということだと思うんです。本当に自由さ、自由とは何かということを体現していたのが寂聴さんだと思っています。自由というと皆さん、好き勝手やるとか、やりたいようにやるとか、何かすごく楽なこと、楽に流れることのように思っている方もいるみたいですが、本当の自由というのは自由と同じ分量の、自由に対する責任というのが必要だと思うんです。自由にする分、いろいろ言われることも引き受けなければいけないし、やったことについて考えなければいけないし。自由でいるためには、やっぱり強くないといけないと思うんですよ。寂聴さんはその強さを持っていらした。あるいは強くいるために、強くあるために奮闘していらした。そういう方だったと思います。

保里:瀬戸内さんは高齢になっても最後まで徹夜をして執筆活動を続けて、最後の最後まで「書く」ということにこだわっていました。99年の人生で追い求めていたことは何だったと感じていますか。

井上さん:私も小説家だから分かるんですけど、小説を書くということは、書くことによって分かることというのがあるんですよね。自分は何を考えていたのかとか、この世界と自分との関係とか、何で自分はあのときにあんなことをしてしまったのかとか。それを書くという作業によって、正解が得られるわけではないけれど、正解に向かって近づいていくということができるんです。寂聴さんは本当に間際まで小説を書いていらして、結局彼女はこの世界とか、自分自身にずうっとずうっと興味を持ち続けていたと思う。知りたかったんだと思うんですよね。それを知るためにずっと書き続けていた、そんなふうに思ってます。

保里:もっとお話を聞きたかったと思ってしまいますが、残してくださったことば、作品はこれからも残り続けて私たちの心を照らしてくれると思います。ありがとうございました。


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