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2021年11月11日(木)

被爆者・坪井直さん
未来に遺したメッセージ

被爆者・坪井直さん 未来に遺したメッセージ

長年、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さんが先月、96歳で亡くなった。爆心地から1.2キロで被爆。40日間生死をさまよい、目覚めたとき口にしたのは、アメリカへの憎しみだった。しかし、5年前、オバマ大統領が広島を訪れた際には、「我々は未来に行かにゃいけん」と前向きな言葉を語りかけた。憎しみをどう乗り越え、どんな未来を見ていたのか。NHKの独自映像と、家族や薫陶を受けた若者たちへの取材から、一人の被爆者が、未来に遺そうとしたメッセージを伝える。

出演者

  • NHKディレクター
  • 井上 裕貴 (アナウンサー) 、 保里 小百合 (アナウンサー)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

被爆者 坪井直さん 家族が語る最期の姿

報告:右田千代ディレクター

これまで30年近くにわたって私たちの取材に協力してくれた、坪井直さん。亡くなって10日後、ご自宅を訪ねました。迎えてくれたのは、息子の健太さんです。

被爆者団体の理事長として核兵器廃絶を訴え続けてきた、坪井さん。亡くなる直前まで、その姿勢は変わらなかったといいます。

坪井健太さん
「最期までやっぱり、なんかの折りに原爆はだめなんだと言い続けていました。それは誰に言うとでもなく急に話したりしていたので、どこか心の中にずっとその思いがあったんだと思うんです」

坪井さんが経験した被爆の真実をできる限り知りたいと、私は取材を続けてきました。70年以上がたっても、癒えることのない痛みを抱える姿を間近で見てきました。

坪井直さん
「どこですか!どこですか!言うと、『ここです、ここです』。声がしてもね、見えないんですよ。家がぺしゃーとして。なぜあのときに助けられなかったのかと思うとね、今でもつらい」

壮絶な被爆体験 アメリカへの憎しみを抱えて

被爆当時、坪井さんは二十歳の学生でした。

3時間後の坪井さんの姿が、写真に残っていました。頭と背中が焼けただれ、耳はちぎれかかっていました。地面に「坪井はここに死す」と記したといいます。

坪井直さん
「けがもなにも、やけどでズルズルじゃ。私はもう歩けない。立つこともできない。自分はいったん死を考えたんだから死ぬべきだと、そればっかりしかなかった」

その後、40日間生死をさまよった坪井さん。目覚めたとき、口にしたことばはアメリカへの憎しみでした。

坪井直さん
「俺を連れて行ってくれ、戦場へ。そうしたら(アメリカを)やっつけるから。言ったのが1か月くらいかかった。とうとう私はそのことでおかしくなってね、脳の方がおかしくなってね」

アメリカへの憎しみとともに始まった戦後。坪井さんは、中学校の教員として働き始めます。みずからの体験を生徒に語る一方、原爆で生き残った意味を考えさせられるものに出会います。

勤めていた学校の棚で見つけた、原爆で亡くなった児童の名簿です。被爆後の混乱の中で作られ、名前以外の情報はほとんど記されていませんでした。

当時、坪井さんと同僚だった松井久治さん。名簿を見つけたとき、坪井さんは衝撃を受けていたと言います。

坪井さんの元同僚 松井久治さん
「見たときに空白だったのは(坪井さんには)大きかったと思います。これを埋めていってあげないといけない、なんとかよみがえらせてあげよう(と思われた)」

生き残った者として、亡くなった子どもたちのことを伝え残さなければならない。坪井さんは、松井さんや生徒たちに呼びかけます。遺族などに聞き取りし、児童一人一人の人となりや、原爆で亡くなったときの様子を冊子にまとめました。

松井久治さん
「自分も、もしかしたらそちら側に回っていたかも分からない。人のためとかいうことでもない。自分の生きざまとして、自分が生かされてきた。じゃあ自分はどう助けるのかということになる」

核兵器廃絶のために アメリカで迎えた"転機"

教員を定年退職したあと、坪井さんは被爆者団体に入り、核兵器の廃絶を世界に訴え始めます。

坪井直さん
「心を込めて、ノーモアヒロシマ。ノーモアナガサキ。ノーモアヒバクシャ」

被爆の影響による重い貧血に加え、がんや心臓の病気など、満身創いで活動を続けました。

その坪井さんに、18年前、大きな転機が訪れます。長らく憎しみを抱いてきたアメリカと、改めて向き合うことになったのです。ワシントンの博物館に原爆を落とした爆撃機が展示されると聞き、抗議のために坪井さんは現地を訪れました。

坪井直さん
「こいつがやったか」

機体に記されていたのは、搭乗員の名前。原爆がもたらした死については、一切触れられていませんでした。

坪井直さん
「つらい。こんちくしょうだな、ほんま」

当時、通訳として間近で坪井さんの姿を見た、小倉桂子さんです。

通訳を務めた 小倉桂子さん
「原子雲の上にいたエノラ・ゲイ。そしてその下でのたうち回った自分という、それを明確にお感じになったと思う。顔色がぱっと変わりましたし。いつも自信にあふれた、皆さんに話をする感じと全然違って、ため息をつかれたり、悲しそうにされたり、いやと怒ったり、いろいろな表情をされてました」

憤る坪井さんに、一人のアメリカ人が声を掛けました。

「戦争で傷ついたのは、アメリカ人も同じだ」

このことばを聞いて、坪井さんはみずからの怒りと向き合います。

坪井直さん
「憎しみ、そういうものを出しても人に通用しなければ、分かってもらえなければ意味がないんだと。自分がなんぼ腹がたってもだめだ。そういう意味で乗り越えんと、いつまでたってもアメリカ憎しになる。腹の底にないかといったらある。あるが、それを乗り越えんとね、平和はない。幸せはない」

アメリカ大統領との対面 その裏での"葛藤"

憎しみを抑え、相手と向き合おうという坪井さんの決意。それを目の当たりにした出来事がありました。核兵器の廃絶を目指すと明言したアメリカのオバマ大統領が広島を訪れることになり、坪井さんは対面する被爆者の代表に選ばれたのです。歴史的な対面を前にメディアの関心が集まったのは、被爆者がアメリカの大統領に謝罪を求めるか否かでした。

「謝ることばを期待していますか?待ってますか?」

坪井直さん
「私は期待しておりません。謝ってとか、悪いことをしましたとか、そういうようなことは私は一切いりません」

「オバマ大統領に謝罪は求めない」。その決断に迷いはないように見えました。しかし長男の健太さんは、坪井さんが被爆者として葛藤していたことを今回初めて明かしました。

右田千代ディレクター
「謝罪を求めないというのは、勇気をもっておっしゃっていた?」

坪井健太さん
「だと思います。何で被爆者の代表なんだという言い方をしてくる人もいましたけど、父を間近で見てきた人間としては何も分かってないなと。父もさんざん苦しんできたんだけど、それじゃ結局世の中良くならないと思って、父も苦しかったんだと思いますよ、実際には。自分を納得させるのにすごくパワーを使ったと思うのですけど、その長い年月をかけてやっとその境地に立って」

坪井さんが抱えていた大きな苦悩。その一端に触れたことがありました。

坪井直さん
「よう見てよ」

20年以上続けてきた取材の中で、原爆で負った深い傷を初めて見せてくれたのです。

坪井直さん
「ここが造血機能が破壊された跡。血が造れんのんですよ。そういうようなんでも、70年頑張ってやってきた」

憎しみが心に刻まれた日から70年余り。

坪井直さん
「被爆者の坪井直と申します。被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことの一つ。それを乗り越えて、われわれは未来に行かにゃいけん。その(原爆投下の)事実はあったと。オバマさんがプラハで言った『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」

悩みながら、たどり着いた思いを伝えました。

被爆の体験をどう伝えるのか 最後のメッセージ

しかしその後、核兵器廃絶への道筋は見えなくなっていきます。次のトランプ大統領は核戦力の強化に意欲を示すなど、逆行する動きが加速。一方で、被爆者は高齢化し、あの日の惨状を語れる人も少なくなっていきました。

どうすれば被爆の体験を語り継いでいけるのか。

晩年、坪井さんが力を注いでいたのが、原爆資料館のリニューアルでした。展示の在り方を巡り、議論になったのが、ジオラマの被爆人形。

リニューアルの検討委員だった坪井さんは、これに異議を唱えます。

「被爆の実相はこんなものではない。被爆者から見れば、ジオラマはおもちゃである」

原爆資料館 リニューアルを担当 落葉裕信主任学芸員
「ジオラマだけだと凄惨な場面は伝わる部分もあると思いますが、もっと深い部分。被爆者の方の苦しみやつらさ、そういうものを展示から受け取ってほしいと」

坪井さんの意見を参考に、被爆者の遺品や写真を一人一人のエピソードと共に伝える展示に変えたといいます。

坪井直さん
「本物を知る必要がある。だから作り物じゃダメなんです。まずは知ってもらわなければならない。分かってもらわなければならない。原爆とはどんなものか」

坪井さんの遺影の傍らには、座右の銘が置かれています。「ネバーギブアップ」。

命を否定する核兵器の廃絶を、決して諦めないという思いが込められていました。

坪井健太さん
「人類は生きなければいけないというのを、諦めてはいけない。そこに常に挑戦し続けなければいけないというので、ネバーギブアップということばが、ぴったりはまったんだと思います」

坪井さんが亡くなった原因は、被爆後苦しめられてきた、貧血による不整脈でした。原爆と戦い抜いた人生だったと、息子の健太さんは感じています。

坪井健太さん
「私だけかもしれないですけど、原爆に負けて死んだんじゃないと自分に思いこませたくて、96歳なんだから老衰でいいじゃないかと。父は最後まで負けなかったと思いたいですね。これ以上できないというくらい、やりきったんじゃないかなと」

30年近い取材で見た 坪井直さんの実像

保里:30年近く坪井さんを取材してきた、右田ディレクターの取材記を以下のリンクからお伝えしています。

WEB特集 被爆者 坪井直さんに教えられたこと
坪井さんと右田ディレクター 27年間の取材日記はこちら

井上:右田さんたちは坪井先生と呼んでいたそうですけど、どんな方でしたか。

右田千代ディレクター:坪井さんは、お会いした当時からいつも明るく朗らかに接してくださいました。最後の1年余りはコロナ禍で直接お会いできませんでしたが、電話をかけるとこちらを励ますことばをかけてくださったり、自分が証言活動に出ていけないもどかしさを語るなど、最後まで前を向いておられました。

井上:坪井さんの姿、ことばには何が印象に残っていますか。

右田:常に前向きな坪井さんでしたが、一方で、取材を始めて20年以上たって初めて被爆者として背負ってきた重荷について打ち明けてくれました。被爆直後は坪井さんは「徹死(てっし)」、死に向き合い続ける人間という意味の名前を名乗っていたそうです。また、被爆していない女性と出会い、結婚を望んだときは周囲から猛反対され、悩み抜いた末、この女性と共に心中まで図ったといいます。2人とも生き延びて、この世でもあの世でも一緒になれないのかと泣いたというつらい体験を話してくれました。坪井さんがその後教員として働き続ける中で、周囲の人たちの考えも変わって、この女性と結婚してお子さんにも恵まれました。こうした体験は、決して自分が特別ではないと坪井さんは常々おっしゃっていました。多くの被爆者の思いを自分が語っていかなければという使命を感じていた方でした。

保里:深い傷を負って、腹の底にはアメリカへの憎しみが消えない、それでもなお、どうしてそれを乗り越えようとされたのでしょうか。

右田:坪井さんは常々被爆者の方のことを思い続けていましたが、中でもとりわけ、原爆で亡くなった人たちへの思いが常にありました。原爆投下直後、何も語ることができずに亡くなっていった人たちの姿を坪井さんは自分の目の前で見ていました。また、戦後は核兵器のない世界を見ることなく亡くなっていった被爆者の姿を坪井さんはずっと見てきました。自分の中に憎しみの感情は残り続けて消せないけれども、亡くなっていった人たちの核兵器をなくしてほしいという願いを実現するためには核保有国と向き合わなければならない。亡くなった方々のために自分にできること、最善のことは何かと考えた結果、坪井さんは自分の感情を理性で抑えようと苦渋の決断をしたのだと思います。

井上:坪井さんが亡くなって被爆の惨状を直接知る人が減ってきている中で、継承というのはどういうふうに考えていますか。

右田:私が初めて広島で被爆者の方々とお会いしたのは30年近く前になりますけれど、皆さんが熱意を持って語ってくれた経験や思いは、今なお忘れがたい記憶として心に刻まれています。その後、残念ながらお世話になった方の多くが亡くなり、被爆者の方に直接話を聞くことは年々難しくなっています。しかし、被爆者の方たちが懸命に残してくれた証言や遺品などは、膨大に残されています。思い返すのもつらい体験に向き合って残された貴重な資料から、私たちは学ぶことができます。原爆資料館の平和データベース、追悼平和祈念館や、NHKの戦争証言アーカイブスのホームページでぜひご覧いただければと思います。

広島平和記念資料館(※NHKサイトを離れます)
原爆資料館の平和データベース
NHK 戦争証言アーカイブス
原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ

保里:坪井さんは最後までネバーギブアップ、核兵器廃絶への思いを訴えてこられました。私たちは今、何を託されたと感じますか。

右田:今世界に存在する核弾頭は、およそ1万3,000発余りといわれています。ことし1月、「核兵器禁止条約」が発効しましたが、アメリカなど核保有国やアメリカの核の傘のもとにある日本は参加していません。

日本政府は、核保有国と非核保有国の橋渡しの役割を果たすとしていますが、被爆者団体は世界で唯一の戦争被爆国である日本こそ条約に参加してほしいと求めています。坪井さんや被爆した方々は、国家間の戦争の結果原爆が落とされ、誰も望んでいないのに被爆者としての人生を歩まざるをえませんでした。こうした不条理にもかかわらず、懸命に前を向いて生きてきた坪井さんの姿には人間の尊厳を感じ、忘れることはできません。残された貴重な資料を手がかりに核兵器の惨禍に向き合うこと、そして坪井さんたち被爆者の人生を忘れないこと。そのことが私たちを動かし、世論を動かし、日本政府や世界を動かすことにつながっていくと信じています。

井上:託された広島の心、動き出しています。

被爆者 坪井直さん 未来に遺したメッセージ

対立を乗り越える大切さを伝える坪井さん。

坪井直さん
「自分とは反対する人がおってもええんよ。話を誰かにする。それが一番大事なこと」

中学生のとき、講演を聞いた高橋悠太さん(21)。坪井さんの話を、仲間と冊子にまとめました。

高橋悠太さん
「何度も何度も聞き直しているから、思い入れがある。染みついている気がします」

自らも行動しようと、グループを立ち上げました。日本政府が参加していない、核兵器禁止条約。国会議員たちの意見をインターネットで公開しました。

坪井さんのように、意見の違いを乗り越えようと模索しています。

高橋悠太さん
「厳しい現実の中で、背中を押してくれることば、存在が坪井さん。そのことばの重みや、生きてきた証しみたいなものが、強く私たちの心に焼き付いたような気がします。多少のことがあっても諦めません、立ち止まりませんという決意を強くしたと思います」

坪井直さん
「今は核兵器がなくなるか、なくならんか、核兵器を廃絶するために動くだけですよ。そのためには諦める心があってはいけない。それをちょっとかっこよさげに言えば、ネバーギブアップ」


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