クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2021年8月19日(木)

シリーズ 終わらない戦争②
封印された心の傷 “戦争神経症”兵士の追跡調査

シリーズ 終わらない戦争② 封印された心の傷 “戦争神経症”兵士の追跡調査

先の大戦中、存在すら隠された精神疾患発症の日本兵たち。彼らはその後どう生きたのか。戦後、密かに行われていた追跡調査が初めて開示された。調査をしたのは目黒克己医師(当時30)。元兵士たちの症状や暮らしの追跡から見えてきたのは、病に苦しみ続け孤独に生きる者、困窮に喘ぐ者など壮絶な「戦後」だった。番組では、元兵士の遺族らを独自に取材。戦場の狂気は兵士の心をどう蝕み、人生をどう変えたのか。知らなかった家族の受け止めは。いまも終わらない「兵士たちの戦後史」に迫る。 ※放送から1週間は「見逃し配信」がご覧になれます。こちらから

出演者

  • 井上 裕貴 (アナウンサー)

「50年口外してはならない」 極秘調査・兵士たちの"心の傷"

井上:50年間、一切口外してはならない。上司から命令されていた1人の医師、精神科医の目黒克己さんが、今回初めてみずから封印してきた調査を私たちに開示しました。それは、「戦争神経症」の調査です。戦地のストレスなどによる精神疾患の総称で、激しいけいれんや歩行困難などの症状が現れる人もいました。

戦時中、軍は「戦争への恐怖で発症する兵士はいない」と、その存在を否定する一方、陸軍の病院に収容し、研究を進めていました。

そして戦後は、戦争や関連する公務が原因と認定されれば、国は療養費などを負担しました。今回開示されたのは、昭和37年から40年にかけて、元兵士104人に対して行われた調査で、発症の原因となった体験や戦後の健康、家族との暮らしに至るまで克明に記されています。

調査の概要は論文で発表されていましたが、資料そのものは明かされてきませんでした。埋もれてきた兵士たちの心の傷とは、どんなものだったのでしょうか。

封印された心の傷 "戦争神経症" 兵士の追跡調査

多くの元兵士の住所がたどれなくなっている中、千葉県柏市に遺族が暮らしていることが分かりました。

勝田文十郎さんの孫、秀一さんです。祖父が戦争神経症を発症していたことは、これまで知りませんでした。

私たちは希望を確認した上で、目黒医師が実施した追跡調査の結果について伝えました。

勝田秀一さん
「入院を繰り返していたんですね。初めてこういうのを目にして、ちょっとショックはショックですね」

昭和19年、36歳で召集された時、町の漬物屋の主人で一家の大黒柱だった文十郎さん。

戦地で何を経験し、戦争神経症を発症したのか。追跡調査の調書には、注目すべき文言がありました。出征した中国で、「討伐に参加した」と記されています。

昭和12年7月から始まった日中戦争は、文十郎さんが出征したころには泥沼化。中国のゲリラ攻撃に対し日本軍が展開したのが、「討伐」と呼ばれる敵を一掃する作戦でした。ゲリラ兵が非戦闘員に紛れている可能性もあったため、中国の一般市民を巻き添えにすることも少なくありませんでした。調査では文十郎さんをはじめ、討伐に参加した多くの兵士がそのときの様子を語っています。

「はじめは夢中で働いていたが、人間はすべて撃ち殺していた」

「あるときに討伐の際に部落へ攻め込み、地下室に人がいる気配があるので手りゅう弾をたたき込んだ。のぞいたところ、非戦闘員の女、子どもが大勢死んでいた。自分はとうてい天国へはいけない」

「討伐攻より帰ってから、突然自分では訳が分からなくなり、意識不明になってしまった」

女性や子どもを無差別に殺りくした、おぞましい現実。混乱した戦場が、兵士たちの心をむしばんでいきました。

さらに、文十郎さんが戦争神経症を発症する背景にあったのが、軍隊内部で横行した「私的制裁」でした。目黒医師が聞き取った、元兵士の証言です。

「軍隊はひどいところで、全く人間扱いをされなかった。消灯後は古参兵による私的制裁があり、入隊後7日目にひどく殴られたまでは覚えているが、その後は全く記憶がない」

戦争神経症を発症し、精神疾患兵士のための専門施設「国府台(こうのだい)陸軍病院」に送られた文十郎さん。その後、退院し家族の元に帰りましたが、症状は治まっていませんでした。戦後、アルコールに溺れるようになった祖父・文十郎さんの姿が、秀一さんの脳裏に焼き付いているといいます。

勝田秀一さん
「夏休みに遊びに行きます。台所の食卓に一升瓶と湯飲み茶碗が置いてあって、朝から文十郎がだーっと飲むんですね、日本酒を。夕方までに一升飲んじゃう。変な人だなと子どものときは思っていました」

激しく暴れる文十郎さんを、家族がやむをえず縄で縛ったこともあったといいます。以前とは違ってしまった姿に、秀一さんの父親は耐えきれなくなり、家を出ていきました。

勝田秀一さん
「この話を伺う前は、単なる偏屈なじいさんだったのかなと思ったんですけども、それなりに偏屈になってしまう原因、過去があって、太平洋戦争に翻弄されたんだなと」

戦後20年がたっても、アルコール依存やノイローゼなど、さまざまな症状に苦しんでいた多くの元兵士たち。「当時の病が治っていない」と答えたのは、104人のうち、25%に及んだのです。

追跡調査を行った、目黒医師です。昭和37年、30歳で赴任した国立国府台病院で、戦時中の戦争神経症患者のカルテを目にしたことが調査のきっかけでした。

精神科医 目黒克己さん
「これはびっくりしました。戦争神経症という、ことの重大さに気がついたんです。戦争を始めたということによって生じたことですから。そうすると社会的な状況が神経症に及ぼすことがあったんだということが、当時の若い精神科医としてはひとつの驚きでした」

しかし、調査は難航します。協力したくないという元兵士が相次いだのです。

目黒克己さん
「自分がそういう病気になったことは隠したいということ。非常に偏見がまだ強かったですから。ですから精神だめねと、あの人だめよという感じの社会ですから」

「病のことは絶対に知られたくない」。ある調査表には、かろうじて面会調査に応じた元兵士について、目黒医師がその様子を記した記述がありました。

「面接に際しては極度に警戒的で、妻に前からのことを知られないかを心配していた」

この元兵士の、長男が見つかりました。

櫻井武美さん
「相当、ストレスだったでしょうね。母に対しても、そういうあれですね。一切言っていないでしょうから。ここにも書いてあるように、母に知られたくないという」

元兵士は6年前、97歳で他界した櫻井武さん。派遣された中国で、戦争神経症を発症しました。

病は完治したものの、精神を患った過去を生涯、家族にさえ明かすことはありませんでした。

櫻井武美さん
「弟たちにも見せてあげたいと思います。こういうことをたぶん知らないですよね。知らないで父を見てましたから」

元兵士たちが、かたくなに口をつぐんだ背景には時代の空気もありました。目黒医師が調査を始めた昭和37年は、高度経済成長の真っただ中。東京で初めてのオリンピックが開催されるなど、平和と国際協調がうたわれる一方、戦争の記憶につながることから目を背け、忌み嫌う風潮が支配的になっていたのです。

目黒克己さん
「当時は戦争と名のつくものはすべて、そんなことをやる人は保守反動ということばがよく使われましたけれども、戦争中のことばでいえば、非国民というんですかね。そういうふうな感じの世間でしたね。触れないと、語らない、議論をしない」

封印された心の傷 知られざる元兵士たちの"戦後"

戦後、日本社会がその存在に目を向けようとせず、埋もれてきた戦争神経症の兵士たち。苦悩を1人で抱え込み、ますます追い込まれていった元兵士がいたことも分かりました。

元兵士のおい、古宮郁夫さんです。

古い家族の写真が数多く残されていましたが、叔父が写ったものはなぜか見つかりません。

古宮郁夫さん
「無いね、全然。(叔父の)文海さんの写真が無い。撮るに値しないみたいな扱いを受けていたのかもしれないな」

戦争から帰ってきた叔父・文海(ぶんかい)さんと一緒に暮らしていましたが、あまり関わりを持たなかったといいます。

取材班
「どんな性格だったのか」

古宮郁夫さん
「性格、性格なんて全然気にもしなかった。本当なんとも言えないな、性格。ちょっとおかしな人だなって印象しかないよね。普通に何かやっていて笑うんです。笑い声になっちゃうんだよね」

戦時中は、陸軍の精鋭からなる落下傘部隊などに所属し、下士官で最上位の曹長まで務めた文海さん。昭和18年1月、自分の顔が変色しているような違和感を訴えるようになり、戦争神経症と診断されました。郁夫さんは、そのことを今回初めて知りました。

古宮郁夫さん
「もともとおかしかったのかなというイメージが、ずっと頭の中にはあった。それがこういう出来事があって、それでヘラヘラ笑っているようなことになっちゃったんだなというのが、なんとなく分かって安心できたような感じがしないでもないですね」

家族から性格すら気に留められなかった、文海さんの戦後の暮らし。郁夫さんと近所を回ってみると、あちこちで生前の文海さんの様子が目撃されていました。

「うちが酒屋で、毎日来ていましたね。冷蔵庫に手を入れられないんですよ。感電しちゃう、だから取ってくれって。お金を出すのも盗まれちゃうというのがあるのか、パンツのなかに針金で巻いてね、お金を出すのに20分くらいかかって、それで出してね。でもうちの亡くなったおばあちゃんが、戦争に行って見たくないものを、残酷なものをいっぱい見て、本当は頭がいいんですよね。頭がいい人なんだけども、そういうのをいっぱい見て、ちょっとおかしくなっちゃった、だから優しくしてあげなと言われて。でもね、子どもだったからね。優しくできていたかどうか」

この男性は、1人でリヤカーを引く文海さんの姿を覚えていました。

「畑に行っていましたんでね、ここのお宅の向こう側にリヤカーをひいて行っていましたよね。それで、くわと鎌を裏の掘り抜きでよく洗っていました。1人でよくやられたね」

任された畑で農作業に没頭することで、叔父はかろうじて自分を保っていたのではないか。郁夫さんは今、そう感じています。

古宮郁夫さん
「本当に1人でなんでもやっていたと思うんだよ。嫌だとか、なんとかじゃなかったと思う。やらなくちゃ仕方ないんだな。1人でいるということには、全然問題なく過ごしていたと思います」

取材のさなか、郁夫さんが見つけ出した昔の家の写真。軒先に1人座る、文海さんの姿が写っていました。

文海さんは2004年、88歳で亡くなりました。

古宮郁夫さん
「自分がばかにされているなということは感じているんだと思う、心のなかで。もうどうにもならないくらい、周りからは無視される。だめだお前は、みたいな感じになっちゃってる。それを打ち破ってこうしようとか、そんなことは全然考えなかったんだと思うよ。犠牲者、犠牲者なんだろうな」

目黒医師の追跡調査から、半世紀あまり。ことし、国の費用で療養する最後の精神疾患兵士が亡くなりました。

しかし、残された家族の苦しみは終わることはありません。小島滌(ひろむ)さん78歳です。

戦争から帰ってきた直後に精神分裂病(※現在の統合失調症)と診断された、父・亀二さんは療養所から出ることなく、65歳で亡くなりました。

小島滌(ひろむ)さん
「出なかった。一度も、一回もない。病院に入りっぱなしだ。話しかけるんだけど、分からないの、やっぱり。返事するだけだから。面影はないよ昔の、まるきり。ロボットみたいなもんだよ」

父が出征したあとに生まれた、滌さん。元気だったころの姿に触れたいと、亀二さんに関するものは何でも大切に保管してきました。

小島滌さん
「おやじのものは、捨てないようにしてきた」

亀二さんが、飛行学校に通っていたときに使っていたノートです。電気や通信の仕組みについて丁寧に書き取るなど、勤勉な性格がうかがえます。

しかし、戦争から帰ってきた亀二さんは全くの別人になっていました。終戦から20年あまり。療養所で過ごす亀二さんを映した映像が残されています。

<昭和41(1966)年放送「現代の映像 空白の戦後」>

「病棟の片隅で毎日、紙細工の飛行機をながめている1人の患者がいる」

父の亀二さんです。滌さんが、母と共に面会する様子も記録されていました。

「この方、ご存じですか」

亀二さん
「分からない」

「分かりませんか、全然覚えがない?」

亀二さん
「ええ」

「奥さんじゃないですか、こっちの方は?」

亀二さん
「分からない」

「息子さん、分からない?」

亀二さん
「分からない」

滌さんの母
「滌って名をつけたんだろうよ、お父さん、滌よ」

療養所で暮らす父が亡くなったのは、36年前。滌さんは、電気整備の仕事などで生計を立ててきましたがその後、脳梗塞を患い、今は生活保護を受けて暮らしています。かつて進学を断念し、望んだ就職もかなわなかった滌さん。父を、そして家族の運命を変えたあの戦争を恨み、終わらない戦後を生きています。

小島滌さん
「俺も具合悪くなったときなんか、誰もみてくれる人いないんだから。このままひとり、ぽっくり死ねばいいんだ。戦争がなければ、こういうことはなかったのにね。まともに帰ってくればよかったんだよね。まともに帰ってこられなかったから、かわいそうなんだよ」

封印された心の傷 "戦争神経症"兵士の追跡調査

井上:精神疾患に苦しみ続けた、元兵士たち。多いときには、1,100人を超えていた療養者の数は年々減少し、ことし1月、島根県で療養を続けていた最後の患者が亡くなりました。

今回、追跡調査を開示した目黒医師は、「このままでは戦争による心の傷が兵士たちの人生を大きく変えた事実が埋もれてしまう」と、開示の理由を語りました。

資料は、戦争神経症の実態を明らかにする貴重なものである一方、その数は104人分にとどまり、全貌は分からないままです。
自分の父や祖父も、実は戦争神経症だったのではないか。そんな疑問を抱えてきた人たちによる新たな動きも出ています。
都内に暮らす70代のこの男性は、戦争から帰ってきた父親が別人のように無気力となり軽蔑するようになりましたが、実は戦争による心の傷だったのではないかと同じような経験を持つ人と情報交換し、ネットワーク作りを進めています。

戦時中は恥とされ、戦後は復興の陰で忘れ去られた兵士たち。不都合な現実にふたをしてしまう、こうした構図が今もないとは言い切れません。
それでも正しい事実を知って、直視し直すことが私たち戦後世代にできることではないでしょうか。


関連キーワード