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2021年3月4日(木)

娘のもとへ 潜り続けて
~行方不明者家族の10年~

娘のもとへ  潜り続けて ~行方不明者家族の10年~

東日本大震災で行方不明になった娘を捜すため、58歳で潜水士の資格を取得した父。被災地の海に潜った回数は500回に迫る。町の復興工事が進む一方で、いまなお海底には在りし日の暮らしの痕跡が残っている。母は「思い出が遠くならないように」と、毎日娘との思い出を書き残してきた。10年という月日を家族はどのように過ごしてきたのか。あの日から突然姿が見えなくなった娘を捜し続けた、ある家族の10年の歩み。

出演者

  • 武田真一 (キャスター)

行方不明者家族の10年

武田
「10年前の3月11日。東日本大震災が発生したとき、あなたが真っ先に思いを巡らせた人は誰でしたか。大切な人の安否が分からず、不安な思いをした人も多かったのではないでしょうか。2,527人。あの震災によって、今も行方が分からない人の数です。その一人一人に、あの日から帰りを待ち続ける家族がいます。残された家族はこの10年何を思い、どう過ごしてきたのでしょうか。私たちが出会った、ある家族の歩みです。」

「親だけは最後まで…」仲間とともに海へ

私たちが成田さんの取材を始めたのは、震災から4年半余りが過ぎたころ。

父親の正明さんは毎朝、娘の絵美さんのお墓を訪れていました。正明さんが必ず最初に行うのは、絵美さんの名前を拭うことです。

父・成田正明さん
「自分の顔を毎日洗うのと一緒で、『絵美』って名前をきれいにしなきゃいけない、朝は。絵美の顔を洗うのと一緒だからね。掃除はするんだけど、手は合わせない。絵美は入っていないから。まだ何も入っていないから。」

母・博美さん
「もう1回だけ、会いたい。」

正明さんはこの1年ほど前から、みずから捜索のため海に潜り始めていました。

成田正明さん
「小学1年生がランドセル背負うのと一緒。」

これまで全くダイビングの経験がない、正明さん。58歳で、潜水士の国家資格を取得しました。

「もっとひざを伸ばして、しなるように。」

最初はバタ足の練習から。背中を押したのは、同じ思いを持った高校の同級生でした。髙松康雄さんです。

妻の祐子さん(震災当時47歳)も絵美さんと同じ職場に勤めていて、行方不明になっています。ダイビングを先に習い始めた髙松さんが、絵美ちゃんも一緒に捜すからねと声を掛けてくれました。髙松さんのそのことばで、正明さんも一緒に海に潜ることを決めました。

成田正明さん
「俺はとにかく海を見るのが嫌だったから、震災後は。まさかまた海に入ろうとは思わなかったけど。髙松さんのひと言で。」

髙松康雄さん
「俺のせいか。」

2人は仕事の合間を縫って練習を重ね、地元のダイバーが主宰する捜索チームの一員に加わりました。

震災から4年半が過ぎた、海の底。津波で流された暮らしの痕跡が、残っていました。何か手がかりになるものはないか。個人が特定できそうなものを中心に、捜していきます。

この日、見つけたのは車のナンバープレート。ダッシュボードからは車検証が見つかり、まだ読める状態で残っていました。

「見える、見える。」

「木村さん。」

成田正明さん
「やっている本人が一番わかるんだよ、無理だって。なかなか見つからないだろうなって。それでもやっぱり、やっていくのが親なのかな。…親はやっぱり最後まで子どもを捜さないとね。親だけは。」

「前に進まないようにしている」親の思い

母親の博美さんは、震災から2年が過ぎたころから絵美さんとの思い出をノートにつづるようになりました。

“『あのねあのね』と、おとうさんにしゃべる。”

絵美さんの口癖やしぐさ、そのときの表情など、頭に思い浮かんだことを一つずつノートに書き残してきました。

母・博美さん
「『赤ちゃんにもどりたい。ミルクのんでオムツにすればいいんだもん』って。名言だね、これ絵美の。」

博美さん
「“冷蔵庫を何回も開ける”。しょっちゅう開けてね。何かないかな、何かないかなって。食べること好きだったから、食いしん坊さんで。」

毎晩欠かさず書き続けてきたノートは、3冊目になりました。

博美さん
「やっぱり、一番ホッとする時間。絵美のこと思い出して、絵美といるような感じでね。あまり前に進まないようにしてるの。前に進むと、思い出が遠くなっちゃうから。」

「前に進まないように?」

博美さん
「前に進んでって周りに言われてるけどね、なかなか進めない家族もいるんですよ。未来を一緒に生きる人がいなくなったんだもの。」

31回目の誕生日 同僚家族とともに

2015年12月10日。震災当時26歳だった絵美さんの、31回目の誕生日です。

父・成田正明さん
「12月10日と3月11日は本当に、どう過ごしていいかわからない。私も女房もそうですけどね。特に12月10日のほうが、かえって厳しいかもしれないね、気持ち的にはね。」

この年、成田さん家族は誕生日会を開きました。招待したのは、絵美さんと同じ職場で犠牲になった人たちの家族です。一緒に海に潜っている、髙松さんの姿もありました。

田村弘美さん。絵美さんの同僚だった、息子の健太さん(震災当時25歳)を失いました。

絵美さんの1つ年下で、社会人3年目だった健太さん。あの日から行方不明となり、半年後に遺体が見つかりました。

田村弘美さん
「絵美ちゃんの好きなの、なんだっけ。」

博美さん
「豚汁。これ、絵美のアパートにあったやつなんです。こんな大きなおたまで食べてたんだっちゃ。豚汁大好きだから。」

田村弘美さん
「息子、おすし大好きなの。食べさせたいなって思うんだけど。そうもいかないしね。」

博美さん
「食べさせたいね。」

時がたつ中で 信頼できる仲間が支えに

震災から5年。6年。津波で壊滅した女川町では復興工事が進み、新たな町が少しずつ出来てきました。駅前には新しい商店街も出来ました。

これまで正明さんたちは、海岸沿いの比較的浅い場所をおよそ20キロにわたって捜してきました。そしてこのころ、水深35メートルほどの深い場所まで捜索範囲を広げていきました。このエリアから、絵美さんの職場の近くにあったすし店の湯飲み茶わんが大量に見つかっていました。

深い場所での捜索は視界が悪く、身体への負担が大きいため危険が伴います。大切になってくるのが、信頼できる仲間の存在です。

正明さんに一からダイビングを教えてくれた、髙橋正祥さん。これまで、すべての捜索の中心的な役割を担っています。

髙橋正祥さん
「この先の所もけっこう、がれきがある。ここを重点的にやったほうがいいかな。」

正明さんと同級生の髙松さん。還暦を迎え、互いに体力の衰えを実感しながらも、毎月10回近く海に潜ってきました。

妻の祐子さんを捜す髙松さんには、決して諦められない理由がありました。震災の1か月後、職場近くのがれきの中から見つかった祐子さんの携帯電話。

髙松康雄さん
「これが21分のやつ。俺に届いた、最後のメールでした。」

銀行の屋上から送ってきた最後のことばは、髙松さんと暮らしてきた家に帰りたいというものでした。

髙松康雄さん
「捜したいなと思って。最後のメールが『帰りたい』だったので。早く見つけてやりたい一心で。」

家族への思いを胸に、支え合いながら捜索を続けてきた2人。お互いの状況を確認し合いながら、ゆっくりと潜っていきます。

水深36メートル。そこには津波で流されてきたと見られる、自動車がありました。所有者を特定し、どこから流れてきたのかが分かれば、新たな手がかりになります。

成田正明さん
「けっこう大きい車だよね。」

髙松康雄さん
「たぶん普通車のワンボックス。かなり変形してたよね。」

「やっぱりありますね?」

成田正明さん
「あるでしょ?こういうふうに何か見つかると、また新たな張り合いが出てくる。1人ではできないですよね。こういうふうに一緒にやってくれる人たちがいるから、あきらめずにやっていけるのかな。」

成田さん家族の恒例行事となった、絵美さんの誕生日会。絵美さんの同僚家族の存在も、大切な支えとなっていました。

母・博美さん
「26回しか誕生日迎えられなかったですけどね。私は絵美に会えてありがたく思ってるし、絵美のお母さんになれて感謝してるんです。でも絵美は『こんな悲しい思いするんだったら生まれてこなければよかった』って思ってるかもしれない。」

田村弘美さん
「絵美ちゃんね、楽しいこともいっぱいあったんだよ。」

博美さん
「ね、あったけど。あんな思いするんだったらね。」

田村弘美さん
「でもね、ほら。いっぱい楽しいこともあって、お父さん、お母さん、おばあちゃんの愛情いっぱい受けて、こんなに…幸せだったんだよ。」

成田正明さん
「親として情けないなっていうのは、ずっと思い続けてますけどね。たぶんこれ、このままずっと死ぬまで思ってるんでしょうね。」

田村弘美さん
「そう思わないようにしてるの、私。子どもの命を『いかす』っていうのは、親にしかできない。だから私にできることは何でもやってやる。」

成田正明さん
「俺が今それを一番感じるのは、やっぱり潜るとき。それしか今、俺ができることはないのかな。そういうきっかけを与えてくれたのも、娘なのかな。」

コロナ禍で迎えた36回目の誕生日

娘を捜して海に潜り続けてきた、震災後の暮らし。しかしこの1年は、思いもよらぬことが待ち受けていました。

新型コロナウイルスの感染拡大で、2か月にわたって捜索を中断。さらに、64歳になった正明さんに病気が見つかり、以前のようなペースで海に潜ることができなくなったのです。

2020年12月10日。絵美さん、36回目の誕生日です。

母・博美さん
「『震災、本当にあったのかな』って思うくらい、町も人も元気になったしね。元気でないのは、私たちだけだね。歩幅が違いすぎてね。ついていけないんですよね。」

いつも絵美さんの同僚家族と開いてきた、誕生日会。新型コロナの影響で、ケーキを囲んだのは家族3人だけでした。

震災後に絵美さんとの思い出を毎日つづってきたノートは、9冊目になりました。

博美さん
「前のノート見ると、もう忘れてる思い出もあるからね。自分でハッとびっくりするんです。こんなことあったんだ。この頃はなんか、パッとこないときもあるのね。記憶も薄れてきたんだね。こんなに思ってるんだけど。悲しくなるね。ひとつも思い浮かばないときあるから。」

誕生日の翌日。正明さんは海に潜りました。この海で待つ、娘を捜して。身を削りながら潜ってきたその数は、500回に迫ろうとしています。

父・成田正明さん
「10年たつと楽になるのかなって思うけど、逆だよね。ますます娘に対する思いは強くなってくる。」

それぞれの家族が それぞれの歩幅で…

武田
「あの日から少しずつ姿を変えてきた町の片隅で、10年間大切な人のもとにとどまり続けている…。その場にとどまることも、愛を示す尊いこと、懸命に生きることだと教えられました。母親の博美さんのことばが、強く印象に残ります。」

“あまり前に進まないようにしている。前に進むと思い出が遠くなっちゃうから。”

武田
「今も2,527人が行方不明のままです。それぞれの家族が、それぞれの歩幅で歩んでいるということを心に刻みたいと思います。」

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