クローズアップ現代

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2021年3月2日(火)
追体験 語り部バスの10年

追体験 語り部バスの10年

10年前のあの日、何が起こりどんな教訓が残されたのか、そしてそこで暮らす人々は震災とどう向き合ってきたのか。風化が進む中で被災地を走り続けてきた宮城県南三陸町の「語り部バス」のルートを、知られざる写真や映像、CG、そして証言をもとに可視化する。高台にあった中学校を襲った予期せぬ津波の挙動とは?避難先の高台で、大人たちを励ました小学生たちの行動とは?「命を守るために」語り部バスはあの日に誘う。

<語り部・伊藤俊さんによるガイドの様子を3分の動画にまとめました>


※放送から1週間は「見逃し配信」がご覧になれます。こちらから ⇒https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/WV5PLY8R43/

出演者

  • 伊藤俊さん (南三陸町の語り部・ホテル従業員)
  • 武田真一 (キャスター)

“あの日にいざなう” バスが出発

地元の観光ホテルが運行する語り部バスは、1回500円。震災直後からこれまで延べ40万人を乗せてきました。

語り部・ホテル従業員 伊藤俊さん
「あの災害から、まもなく10年といわれる時間ですけれども。もっと早く普通に戻るのかなと思っていたんですが、それもなかなか、かなわなかった現実がここにあります。」

ホテルの従業員で語り部の、伊藤俊さんです。妻と生まれたばかりの娘は無事でしたが、自宅は津波に襲われ、今は町内の災害公営住宅で暮らしています。

伊藤俊さん
「早いですね、時間がたつの。もう小学4年生。今では全然パパの言うことは聞かなくなりました。」

バスは朝9時前にホテルを出発し、1時間かけて町を縦断。20メートルを超える津波に襲われた戸倉地区と、甚大な被害が出た町の中心部・志津川地区を回ります。

“山から押し寄せた” 予期せぬ津波

語り部・ホテル従業員 伊藤俊さん
「きょう一番最初にご案内する場所は、戸倉中学校。今、坂道を上ってきました。明らかにここ高い場所ってわかります。」

20メートルの高台にある、旧戸倉中学校。ここは、住民が津波から逃れるための指定避難所になっていました。

伊藤俊さん
「ここに1枚写真があるんですが、そのときの現実がここにあります。ここにいた方、言ったんですよね。『山から津波が来たぞ』って。海の方を見ていたら、突然向こうからも津波がやってきた。思いもしないですね。」

山から来たという、想定外の津波。一体、何があったのか。

当時、教務主任をしていた菊田浩文さん。自分の体験が次の命を守ることにつながればと、当時のことを話してくれました。

グラウンドの海側で、避難を呼びかけていた菊田さん。そして、すぐ横には同僚の猪又聡さん(震災当時・43歳)がいました。2人はこのあと一緒に避難したものの津波に飲まれ、猪又さんは亡くなりました。

菊田さんが目撃した光景を、専門家のシミュレーションと証言から詳細に再現しました。

坂を駆け上がってくる津波から逃れようと、避難を始めた菊田さんと猪又さん。途中、様子を見ようと後ろの海の方向を振り返ると…。

戸倉中学校 教員(当時) 菊田浩文さん
「とめてあった車が津波に押し流されながら、迫ってきている。だけど恐怖を感じるくらいの高さとか、すごい勢いというのはまだ私は感じてなかった、そのときは。まだ全然大丈夫だ。きっとそんな津波ではないだろう。」

避難を続けた菊田さん。老夫婦を見つけます。猪又さんと共に駆け寄り、おんぶをしたり手を引いたりしながら一緒に避難しました。

目に入ったのは、体育館の入り口の脇にあった高さ1メートルほどの朝礼台。

菊田浩文さん
「ぬれる(くらい)だろうっていう、本当にこの辺まで来るかなっていう意識しかない。少しでも高いところに上げてあげれば、何とかなるんじゃないか。」

しかし、おばあさんを朝礼台に上げようとしたその時…。

一瞬で津波に飲まれました。

菊田浩文さん
「『えっ?』って。そこで初めて自分の背丈よりも高い津波が来たっていう、その意識しかない。ただすごい衝撃は受けた。背中の方に向かって、どーんと強く押されるような衝撃。(自分は)おばあさんと猪又先生もおじいさんと、もうすべて手も離れてしまって、どうなったか、そこから先は自分はわからない。」

予想もしない方向から、菊田さんたちを襲った津波。周囲を海と山に囲まれた地形が、複雑な津波の挙動を生み出していました。

当時の防潮堤の高さや地形データなどを入力し、津波の速さや深さを1秒単位で再現したものです。山に遮られて水位を増す、津波。行き場を失い、ついに校舎と体育館の間からあふれるように流れ込みます。

そして、海側の津波と同時に朝礼台に押し寄せていました。

2方向から同時に流れ込んだことで、複雑な流れを作りながら水位は一気に上昇。僅か2分で、体育館の入り口の屋根にまで達していました。

指定避難所だったこの場所では、中学校の生徒と教員を含む数十人が亡くなったとされています。津波に流された菊田さんは偶然、木をつかみ助かりました。しかし一緒にいたはずの猪又さんは、翌日この体育館で見つかりました。

菊田浩文さん
「自分としては無力感、脱力感もあったし、一時期はこの仕事に対してやる気を失いかけたときもあったのは事実です。いろんなところで復興が進んでいる。形はできているけど、形の見えない気持ちの中とか思いまでは追いつけていない人もたくさんいると思うし、でも自分もその1人だとしたら10年という大きな節目の中で、もう一回本当の自分ってどうあるべき?っていうのを見つめ直したいし。猪又先生に笑われたくもないし。」

伊藤俊さん
「山と海が近い地形だから、これがもし平らな場所であれば津波が広がっていって戻ってこないと思います。災害というのは形を変え、時間を変え、場所を変え、これは大丈夫だとか、これが正解だというのがなくて、でもだからこそ発信していきたいというのもこの場所。」

「より高いところへ」最後に命を守るのは“ひと”

次に向かうのは、400メートル離れた戸倉小学校の跡地。ここでは、教員たちのとっさの判断が子どもたちの命を救いました。

語り部・ホテル従業員 伊藤俊さん
「この右側には小学校がありました。当日、先生方の判断で、屋上ではなく高台に避難しています。」

伊藤俊さん
「高台ってどこかというと、中学校じゃなくてあそこなんです。今ここから見えている家がある高台、あそこに向かって逃げてます。」

津波に襲われた、小学校を捉えた写真です。

20メートルの高台に人影が見えます。小学校の児童91人と教員は、地震発生後すぐここに避難していました。

当時の校長・麻生川敦さんは、自分の体験がほかの学校の避難にも役立てばと、今回取材に応じてくれました。

震災の2年前に赴任していた、麻生川さん。もし津波が来たらどこに逃げるべきか。日頃から教員の間で、議論を重ねていたといいます。

戸倉小学校 校長(当時) 麻生川敦さん
「私、埼玉県の出身なので本当に津波なんて頭の中から、頭で考えたこともなかったものですから。ここ(高台)まで来るのに、約10分かかってしまうので、屋上が絶対安全だと思って100%考えていたんですけど。」

屋上に逃げれば大丈夫だと考えていた、麻生川さん。しかし、地元の教員は違いました。

麻生川敦さん
「地元の先生たちは小さい頃から高台の安全性というのを、おじいちゃんやおばあちゃんたちから話を聞かされてきていて。昔から津波の時は、高台に逃げるのが原則なんだと。」

あの日、揺れに襲われたあとも上がった声は高台。麻生川さんは、クラスごとにすぐに避難を始めるよう指示しました。

小学校の記録によると、避難が完了したのが午後2時55分。

専門家のシミュレーションでは、その32分後に津波が地区に流れ込んでいました。

小学校、そして家々を音を立てながら飲み込んでいく巨大津波。

麻生川敦さん
「『あ、津波だ』って。けれどもそれを見てもあまり津波の高さは高く見えなくて、ここには絶対来ないと。」

しかし…。手前の道まで迫ってきたその瞬間、津波が変化したように見えたといいます。

麻生川敦さん
「ずっと下の方に見えていた津波が、突然ぶわーって上がってくる感じになったんです。急に1階が飲まれていくような感じになって、それを見ていた教務主任が『校長先生ここ大丈夫だべか?』って。その声でまたスイッチが反転したというか。ここも、もしかしたらっていう。」

麻生川さんは、さらに高い場所にある神社への避難を決断。教員たちの誘導で、子どもたちは列を作り細い坂道を上っていきました。最後尾にいた麻生川さんが振り返ると…。

津波は、先ほどまでいた場所にも押し寄せていました。あと数十秒遅ければ巻き込まれていたかもしれない、ぎりぎりの決断でした。

麻生川敦さん
「想定外が起こったときに、その状況の中から自分で一番いいと思うものをなるべく早く判断して行動に移すという、その柔軟性が求められるのかなと思います。私は地域の人と先生たちからいろんなことを教えてもらったので、こういう避難ができた。」

伊藤俊さん
「校長先生の背中を押したのは、やっぱり部下の先生なんですよね。校長先生がもちろん決めるっていうのも大事だったんですけど、想定外だったからこそ想定にとらわれない。人の力、判断、決断、行動で命は守れる。コンクリートの壁(防潮堤)も命を守るためにつくっているかもしれません。でも最後に命を守るのは人なんだろうなって。それをお伝えできるのが、戸倉小学校という場所だと思います。」

あの日の“命”を忘れないでほしい

語り部ツアー後半は、戸倉から町の中心部・志津川地区へ。

語り部・ホテル従業員 伊藤俊さん
「この辺りは、たくさんの家がたち並んでいました。あの日の朝まで朝ごはん食べて『行ってきます』って、それこそ日常の風景があった。警察署も消防署もショッピングセンターも病院も、ドラッグストアもおいしかったラーメン屋さんも。言葉にしないと忘れてしまうような風景。」

伊藤俊さん
「防災対策庁舎、目の前に見えてます。周りは祈念公園で、自由に入れるようになりました。」

当時、町民の避難を指揮していた町の旧防災対策庁舎です。周囲は公園として整備されましたが、震災遺構として保存していくかどうか結論はまだ出ていません。

伊藤俊さん
「屋上、右上に防災庁舎が写っていますが、人がいっぱいいます。」

伊藤俊さん
「このあと、屋上のアンテナしか写っていない。もう人が写っていないんですよね。3時33分頃と言われていますけど。」

僅か4分で一変した景色。最後まで町民の命を守ろうとした役場職員など、43人が犠牲になりました。

その中で、伊藤さんが必ず名前を挙げる職員がいます。

伊藤俊さん
「この2階に放送室があって、その2階から避難を呼びかける放送が始まりました。始まっただけではなくて、本当にぎりぎりまでマイクを握りました。役場職員が2人、遠藤未希さん。当時24歳のまだ若い役場職員の女性でした。遠藤未希さんともう1人、三浦毅さん。未希さんの上司で、役場の課長補佐の方。この方も一緒にマイクを握って。」

危機管理課の課長補佐だった、三浦毅さん(震災当時・51歳)。伊藤さんにとって、古くから知る地元の先輩でした。当時の映像に記録されている、毅さんの声。

2011年3月11日(防災無線からの呼びかけ)
『津波は繰り返し押し寄せます。海岸付近には絶対近づかないでください。』

ぎりぎりまで避難を呼びかけていた毅さんは、10年がたった今も行方不明のままです。

震災後、防災庁舎にかけられていた野球用のシャツ。地元の中学校でコーチをしていた毅さんに、子どもたちが思いをつづっていました。

それから10年。家族は今もここに思いを寄せ、毅さんの帰りを待ち続けています。

妻・三浦ひろみさん
「そこにまだ、夫の魂だけは残っているんじゃないかと。最後まで避難を呼びかけていた思いが、まだそこにあるんじゃないかと。1回だけ、ひと目だけでも、ひと言だけでも話したい。10年って区切りの年のように皆さんおっしゃいますけれども、区切りというのはなくて、ずっとあの日のままなんです。職員の死をむだにしないためにも、ちっちゃな町ですけど一生懸命だった職員がいたんだっていうことを忘れないでほしい。」

伊藤俊さん
「決して最後まで諦めなかった。生きたかった。当たり前ですけど、でもそれができなかったのも、あの時でした。今生きている私たちは、その命の強さを、そして守り続ける大切さをこの場所から伝えていくのも大事。自分だって災害のことを話すなんて全然思っていなかったです。ましてや自分が災害にあうと思って生きてきたわけじゃないし、今でもそうです。今日見たこと、聞いたこと、感じたことも誰かに伝えれば、皆さまプラス誰かを守る気づき、きっかけになるんじゃないかと思っています。一番大切で、一番愛する人を守れる皆さまでありますように。」

乗客
「言葉にしないと伝わらないっていうところは本当に思うところがありまして、まさにその通りだなって思います。」

乗客
「『悲惨だったんだ』では終わらないんだと。僕自身もひとりの人間として、ここへ来た体験を誰かに語っていければ。」

震災を伝え続けるということ

人に伝えるということ。語り部の伊藤さんにはどんな思いがあるのか。

武田
「私も伊藤さんと同じように、テレビを通して震災のことやコロナのこと、様々なことをお伝えする仕事を日々しているわけなんですけれども、どこかで言葉で本当に多くの方の命を救えるんだろうかという迷いがあるんですね。」

語り部・ホテル従業員 伊藤俊さん
「“伝える意味”っていうのは、まだまだ自分の中でも分からないものがたくさんありますけれども。こうやって伝えていても『じゃあ犠牲者がゼロになるのか』というと、限りなく難しいことに向き合っているのかもしれませんし。でもやっぱり諦めてしまったら、あのとき亡くなった方々にもメッセージを送れない自分たちになってしまうので、私たちは『ちゃんとこれから守ってみせます』といつか胸を張って言えるような、そんな地域とか町をつくっていく事が自分がしたい事かなと思います。」

武田
「すぐ私たちは“震災の教訓”とか口にしてしまうんですけれども、その教訓自体、皆さんのつらい記憶から得られたものなんですね。」

伊藤俊さん
「自分はこうして助かったわけですけど、大切な人に何が出来たかというと、電話もつながらない、その場所に行って手を引っ張って逃げることもできない。助かっててくれ、逃げててくれと祈る事しか出来ない自分が確かにそこにいました。自分が犠牲になってしまったら、守りたい人すら守れない自分なんだなと。だからこそ自分を守って、失ってはいけない一番大切な人を守れる自分になろうと。それを1人でも多くの方に広めていくのが、私たちのやっていることかなと。」

あの日つながれた命が次へ…

語り部バスが必ず伝えてきた、もう一つの出来事があります。

教員のとっさの判断で高台から神社に避難し、命をつないだ戸倉小学校の子どもたち。3月11日の夜、凍てつく寒さの中、避難していた住民を励ましたものがありました。卒業式を間近に控えた6年生が歌った歌です。

実際の卒業式は5か月後の夏。子どもたちは、それぞれの避難先から集まりました。

当時の6年生の1人、佐藤浩成さん。現在、22歳。命を守る仕事がしたいと、2年前から地元の消防士として働いています。

佐藤浩成さん
「あのとき先生方が守ってくれなかったらこうやって生活することも出来ていませんし、知り合いも津波で流されたので、その人たちの分までっていうと荷が重いですけど、私は私の人生を頑張りたい。」

あの日の記憶を伝え続ける、語り部バス。

伊藤さんは、ふるさとがこんなによくなったといつか胸を張って言える日まで、語り部を続けたいと話してくれました。