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2020年7月29日(水)

戦後75年 吉永小百合 戦争を語り継ぐ

戦後75年 吉永小百合 戦争を語り継ぐ

戦後75年の今年、映画俳優の吉永小百合さんは、戦争体験者の手記を朗読劇やドラマ、音楽などで表現するNHKの番組企画に挑んでいる。主題となる手記は、長年、戦争の詩を朗読してきた吉永さんに、自分の体験も知って欲しいと、一般の人たちから寄せられたものだ。吉永さんの思いに共鳴した山田洋次さん、坂本龍一さんらトップクリエイターが結集し番組企画はスタート。沖縄戦を描くドラマは実際の戦地跡で撮影され、演じる若い俳優たちは、遠い昔の戦争を手探りで学びながら役作りを模索している。
一方、時間とともに風化していく戦争体験を、最新技術を用いて語り継ごうという試みも始まっている。広島県の高校では、原爆投下前の町並みをVR体験できるシステムを高校生自らが制作。戦争が奪い去った「広島の日常の暮らし」を実感しようという試みだ。どうすれば75年前の出来事を「わがこと」としてとらえられるようになるか、各地で始まった模索を通して考えていく。

出演者

  • 宮田裕章さん (慶應義塾大学医学部教授)
  • 芋生悠さん (俳優)
  • 武田真一 (キャスター) 、 栗原望 (アナウンサー)

戦後75年 吉永小百合 語り継ぐ難しさ

終戦の年に生まれた吉永さん。平和について発信する原点になったのが、20代から出演した戦争に関わる映画でした。その後、俳優人生を通じ、戦争を描いた作品に何度も出演する中で出会ったのが、原爆の詩でした。

映画俳優 吉永小百合さん
「被爆者の団体の方たちから詩をいただいて、『これを読んでください』というつながりだった。やっぱり、これは伝えていかなきゃいけないことなんじゃないかなって。俳優としてというよりは、1人の人間として。」

以来、詩を朗読する会を学校などで300回以上開催してきた吉永さん。しかし近年、若い世代に伝える難しさを感じています。

吉永小百合さん
「子どもたちの心に残していくかというのは年々難しくなるし、子どもと私の年がどんどん離れていきますから。私自身の体力とか気力が衰えていくことを心配します。気持ちをしっかり込めて子どもたちに伝えるという形を、いつまでとれるかというのは分からないですけどね。」

戦後75年のことし(2020年)、吉永さんが明かした多くの手紙。これを戦争を知らない世代に伝えていこうと、さまざまなクリエーターが集結。番組制作に乗り出しました。題して「戦争童画集」。朗読劇や沖縄戦のドラマなど、寄せられた手紙や手記を基にした作品を制作します。
参加する坂本龍一さんは、吉永さんの強い危機感に共鳴したといいます。

音楽家 坂本龍一さん
「『日本は平和ボケで何十年も戦争してなくて』という言葉がありますけど、本当はそうじゃなくて。東京の日常の中に爆弾は落っこってこないけども、ものすごく戦争と隣り合わせにやってきた75年なんですよね、実はね。とにかくその体験を、なるべく後世の人間たちが共有できるように残すべきだと思いますね。」

今、吉永さんが強い思いを寄せている手紙。それは沖縄戦にまつわるものです。75年前、沖縄では壮絶な地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲となりました。

吉永小百合さん
「やはり75年という年月がたって、みんな沖縄のことを考えていないということを最近特に思う。特に基地問題で。だから今年は絶対にそういうことを自分の口からも発言したいし、沖縄がより良くなることを願って行動したい。」

戦争をどう語り継ぐのか

吉永さんに手紙を寄せたのが、当時、兵士たちの看護にあたった、ひめゆり学徒隊の1人、島袋淑子さんです。その体験を基に短編ドラマを作ります。

演出は、気鋭の若手監督、松居大悟さん。島袋さんをモデルにした主役は、沖縄出身の黒島結菜さん。そして、島袋さんの先輩役に選ばれたのが芋生悠さん、22歳です。

芋生さんは、沖縄にも戦争にもほとんどゆかりがありません。75年前の少女は何を思い、戦場に立ったのか。それをどう感じ、演じればよいのか。

俳優 芋生悠さん
「想像だけでは補えない部分もあって、死と隣り合わせというのが、今、普通に生きていてそういうことを考えることがないので。やっぱり本当にあった話なんだというのを真摯(しんし)に向き合って、想像だけの話にしたくないという。」

本番の前日。少しでも手がかりを得たいと、芋生さんは沖縄でひめゆり学徒隊の資料館を訪ねました。学芸員に、当時の学生が置かれていた状況を細かく聞きます。

芋生悠さん
「なまりは消されていた?」

学芸員 古賀徳子さん
「日本人として標準語を話しなさいとか、かなり徹底的に日本人の言葉や文化というのが入ってきた。」

今回のせりふにも、沖縄のことばはありません。少女たちは、自分たちのことばも自由に話すことすら許されなかったのです。
さらに芋生さんは、吉永さんに手紙を送った島袋さんにも話を聞くことができました。島袋さんに、芋生さんは役のモデルの1人である、荻堂ウタ子さんの思い出を尋ねました。

芋生悠さん
「(荻堂さんと)会話した言葉だったり、記憶にあるものあったりしますか。」

島袋淑子さん
「荻堂さんというと1期先輩なんですけど、荻堂さんのお母様とうちの母とがお友達でもあったもんですから、壕(ごう)の中ではいつもふたりのお話はそれで、いつも言い合っておりましたけど。」

周囲に人が絶えず、みんなを笑わせる人気者だった荻堂さん。一番大切な服が銃撃で破れたときは、カンカンになって怒ったといいます。それでも、本当に言いたいことは最後まで我慢する。そんな10代の少女でした。

島袋淑子さん
「荻堂さんが最後に『天皇陛下万歳』と言って亡くなった。おなかやられてね、少しも苦しまないっていうか、痛いはずなのに一言も嘆かないで、最期はそういって亡くなったものですから、最期に『お母さん』とでも言ってくれたらよかったのに。」

芋生悠さん
「実際に生きていた方々というのがリアルに感じられて、すごく親近感というか、私ぐらいの子たちが最期に亡くなる直前に言った言葉とかも書いてあった。このひとりひとりを語り継ぎたいという気持ちがすごく伝わってきた。」


75年前、突如、戦争に巻き込まれた普通の人々。演出の松居さんは、あえてこんなセリフを脚本に加えました。過酷な環境の中でも、ご飯について仲よく話す日常の描写です。

“よっちゃん。全部終わったら、いっぱいご飯食べようね。”

演出 松居大悟さん
「僕よりもっと下の子たちが少しでも戦争を身近に感じるときって何だろうと。大切な友達も失ってしまったりする痛みは現代にもきっと通じる。そこをきっかけにそういうものすべてを奪ってしまう戦争って何だろうと考えるきっかけになったらいい。」

そして、島袋さんから直接話を聞いた最後のシーン。

“私はもう助からないから、他の人を先にして。”

“大城さん、水よ。”

“天皇陛下万歳。”

せりふの奥にある、少女たちの深い思いを感じながら演じました。


戦争を自分と重ね、想像してみる。そこが75年を越えて平和を紡ぐ鍵になるかもしれない。俳優として同じ経験を積んできた吉永さんは、そう感じています。

吉永小百合さん
「平和って、私も最初は願えば平和って来るものだと思っていた。やっぱり作らなきゃ、みんなで作らなきゃいけないことだし、こういうことがあったんですよという話をして、みんなで考えようというふうにしていきたい。」


武田:スタジオには、芋生悠さんに来ていただいています。島袋さんに実際に話を聞いて、そして本当にそこであったことを、みずからの演技で再現するという体験だったわけですけれども、どんなことを感じましたか?

ゲスト芋生悠さん(俳優)

芋生さん:実際に島袋さんにお話を聞いたときに、その当時の少女のまんまの目をされていて、私を見てしゃべってくださって、やっぱりずっと、私が演じた荻堂さんのことだったり、亡くなった友人のことだったりをずっと思い続けてくれているということを感じて、私は荻堂さんの役作りをしていたので、荻堂さんとしてすごく、「ずっと思っていてくれてありがとう」という気持ちになって。その感謝の気持ちを、このお芝居の中で表現できたらいいなと思いました。

栗原:吉永さんが語っていたように、今、若い人たちに伝えるのがすごく難しくなっているんですが、その背景に「第4世代の登場」があるというんです。これは京都教育大学の村上登司文さんによる分類なんですが、第1世代は、戦争を直接体験してそれを語ることができる方々で、ただ、人口の1割程度にまで今減ってしまっています。今、注目すべきは第4世代、祖父母も戦後生まれの方々なんですね。この世代は、もはや戦争について身近な人から話を聞く機会もほとんどないので、より抽象的な遠い昔の出来事になっているといいます。

武田:私は恐らく第2世代に属するんだと思うんですけれども、小学生のときの担任の先生が、長崎で被爆した元学徒だったんですね。戦争が本当にすぐそばにある、身近な存在だったなあと今でも思うんですが。もちろん今は、そういうことはないわけですよね。宮田さん、今の特に第4世代の子どもたちとの断絶を、どう捉えていらっしゃいますか?

ゲスト宮田裕章さん(慶應義塾大学 教授)

宮田さん:第3世代の私でも、祖父母だけではなくて、多くの人々からいろいろな体験を聞くことができました。一方で、吉永さんが伝えることが難しくなっているとお話しされたとおりに、これからの世代は、たとえ関心があっても、人であったり体験を手繰り寄せる手がかりがなくなってきているんですよね。
例えば、これから生まれてくる子どもたちにとって、この第二次世界大戦の距離というのは、団塊世代にとっての明治維新ぐらい遠いんですよ。そのときに、単に体験を共有するということだけではなくて、戦争を知ることが未来にどうつながるのか。あるいは平和の理解を深めることで、今を生きる私たちがどう豊かになるのか。新しい世代の視点に立って、体験や思いというものを紡いでいく必要があるかなというふうに思います。

武田:「なぜ知らなければいけないのか」ということも一緒に考えていかなければ、なかなか伝わらない世代ということですね。

宮田さん:今までは体験を共有するだけでかなりの部分が伝わってきたのが、やはりもう一歩踏み込んで一緒に考えていくことが必要だと思います。

栗原:まさに吉永小百合さんが若い世代に伝えようとし続けてきたわけですけれども、メディアの1人として私も非常に尊敬しますし、若い世代としても見習いたいと思うんですが、芋生さんは、改めて吉永さんの姿を見て、ご自身の演技や表現にどう変化していこうというふうに考えていますか?

芋生さん:吉永さんはもちろん役者としても本当に尊敬しているし、1人の人間としても、この戦争というものを伝えていきたいというふうにおっしゃっていて、やっぱり私も、役者としても1人の人間としても身近な人に伝えたいし、もっともっと多くの人に伝えたいと思うし。あと、事実だけではなくて、戦争の中で何が失われたかとか、そこで亡くなった方の思いだったり、亡くなった方を思う人の思いというものを伝えていけたらいいなと思って。そういう役割を担っていければいいなとは思っています。

武田:その若い世代が、どう戦争をリアリティーを持って感じられるのか。新たな取り組みが始まっています。

戦争のなかに“日常”があった

広島県福山市にある工業高校。部活動で、最新のVR技術を用いて、原爆が投下される前の広島の町並みを再現しています。

原爆ドームのかつての姿。残された図面などを基にCGで正確に描き起こしました。

雑貨店の前に並べられた商品。荷台のついた自転車。当時使われていたものを、高校生がみずから調べ、忠実に作り込んでいます。

CG作りには膨大な手間がかかります。被爆前の町の姿を知る手がかりが、ほとんど残されていないのです。生徒たちは、元住民の写真から電話帳まで、あらゆる資料をかき集め、かつての町並みをよみがえらせています。

元住民から聞き取った当時の思い出も、制作のヒントにしています。これは、病院の中庭にあった猿の小屋。子どもたちに人気の遊び場でした。

原爆といえば焼け跡ばかりが強調されがちですが、その前には今と変わらぬ人々の暮らしがあったということを表現しているのです。



VRの町並みを、かつて住んでいた人に確かめてもらうことになりました。
濱井徳三さん、86歳。理髪店を営んでいた濱井さんの家族は原爆で全員亡くなり、集団疎開をしていた当時11歳の濱井さんだけが生き延びました。

実家の理髪店のあった一帯は、現在は平和記念公園となっていて、町並みは全く残っていません。

この日、濱井さんは初めて実家の周辺をVRで見ます。

生徒
「今、橋のほうを見ています。」

濱井徳三さん
「懐かしい。」

濱井徳三さん
「大衆食堂。とんかつ定食、(父に)食べさせてもらいよった。」

当時の思い出話が、次々とあふれてきました。

生徒
「ボートに乗って遊んだりとかは?」

濱井徳三さん
「ボートはね、撞球屋(ビリヤード場)があったんです。その兄ちゃんが、ようボートに乗せてくれよったんです。私の父が『ボートに乗ってお前みたいに今から遊びよったら、ろくな人間にならんよ』言うて。いつも父親にしかられてました。今でもボート乗せたら一級品ですよ。」

75年前、確かにそこにあった人々の日常。それを根こそぎ奪い去る戦争の不条理を、生徒たちは改めて感じました。

生徒
「戦争って一概に言うと、やはり原爆というイメージがもともと強かったんですけど、原爆というと爆弾そのものじゃないですか。そうじゃなくて、日常を奪ったものだととらえることができると、『ここで暮らしていた方々がこれだけ亡くなった』『これだけの日常が奪われた』というのが、作っていく上で少しずつ変わっていきましたね。」

「僕たちがしっかり知って、今度僕たちがまた次の世代とか同じ世代に伝えることで、輪を増やしていく。託された思いというのを僕たちが伝える側にならないといけないんですよ。」

戦争をどう語り継ぐのか

武田:原爆や戦争が奪ったもの、人々の日常、その尊さに目を向けなければいけないという、すごくいい感じ方をしているなと。私たちも戦争や災害について日々伝えていますけど、とても学びになる視点だなと思いましたが、宮田さんはどうご覧になりましたか?

宮田さん:まず、高校生が作っているVRの完成度に驚きました。映像で見てあれなので、ゴーグルをかぶるともっとすごいと思いますね。
これまで人類は、戦争や災害から学んだ記憶というものをいかに風化させないかということで、例えば、古くは石碑に刻んだりとか、あるいは物語を語り継いだり、映像に残したりということをしてきました。今回のVRは、まさにかつての日常を再現することにより、日常を壊すという戦争の理不尽さを伝えるというものです。先ほど芋生さんもおっしゃっていたんですが、他者が大事にするものを一緒に大事にするというのは、社会を作る上でもすごく大事な視点なんですよね。こういった視点からも、VRは、現実のような臨場感を持って、過去や立場が違う人たちとつながって思いを共有していくという点で、今後の世界にも大きな可能性があるのかなと思いました。

栗原:広島の高校生たちを取材して印象に残ったのは、笑顔で生き生きと戦時中の暮らしについて調べている姿だったんですけれども、これからの平和学習についての大事なポイントだというんですね。東京女子大学の竹内久顕さんは、これからの平和学習は「まずは楽しくなくてはいけない」と指摘した上で、当時の人々にも、自分たちと同じような日常があったことを発見する。そして、その上で日常を奪う戦争の恐ろしさを考える、その両輪が大事だということなんです。

芋生さんも、ひめゆり学徒隊の皆さんの日常についてお話を伺ってらっしゃいましたけれども、改めてどうお感じになりましたか?

芋生さん:印象に残ったのが、「制服が着たかったけど着られなかった。動きやすいもんぺを着るしかなくて」というのをおっしゃっていて。おしゃれをしたかっただろうなとも思うし、あとは、私たち世代が友達と普通に会話するような、たわいもない会話をしていたということも聞いて、そういう日常というか、自分自身に置きかえても、そういうものが奪われてしまうというのは、すごく悲しいし悔しいことだなと思います。

武田:戦争や紛争というのはこの75年間、世界のどこかで常に起きていたわけですよね。決して過去を振り返ることではないし、今の私たちの世界のありようを考えることだと思うんですけれども、宮田さんはどういうふうにお考えになりますか。

宮田さん:吉永さんがおっしゃっていた、「平和は作るもの」ということばが印象に残りました。ただ願っていれば平和は訪れるわけではない、ということですよね。今や、経済や安全保障、環境などがつながる時代になり、われわれは、より一層世界とは無関係ではいられなくなりました。無関心な行動はときに環境を破壊したり、あるいは格差を広げてしまう。新型コロナウイルスがやってきたことによって、人々の健康、命も影響を及ぼしあっています。そうした中で、理不尽に人々の命を奪う、この戦争という行為を考える中で、私たちが平和を作り、未来をよりよいものにするために、一人一人がどう過ごし、どう生きるのか、こういったことを考えることがやはり改めて大切だと感じましたね。

武田:芋生さんは、同世代や次の世代に伝えるために、どう行動していこうとお考えになりますか?

芋生さん:本当に、争いの形というのがどんどん変わってきていて、今でも身近な恐怖になっていると思うので、いま一度戦争のことを改めて学んで、今のこととして気軽に友達とも会話することによって、またよりよい社会だったり平和な世界につながっていくのかなと思います。

武田:沖縄のこともお友達とお話しになった?

芋生さん:そうですね。沖縄に行って帰ってきて、東京の友達にいろいろ話したんですけど、すごく一緒に会話してくださいました。

武田:そんな会話が、若い人の間で広がるといいですね。

芋生さん:たくさん増えるといいなと思います。

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