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2020年7月2日(木)

夫婦2人 会えなくなった先に

夫婦2人 会えなくなった先に

新型コロナウイルスの感染拡大のなか、病院や介護施設で制限されてきた“面会”。私たちは、緊急事態宣言が出されていた5月から、長い間、会うことが出来なくなった夫婦の声に耳を傾けてきた。見えてきたのは、それぞれの夫婦がこれまで気づかなかった新たな絆のカタチを見いだそうとする姿だった。去年、最愛の夫を亡くしながらも、夫が残した手紙を支えに歩み始めた栗原はるみさんに武田キャスターが話を聞く。

出演者

  • 栗原はるみさん (料理家)
  • 武田真一 (キャスター)

面会できず120日 妻のもとへ

会えないとわかっていても、毎日、妻のもとへ足を運ぶ男性がいます。向かうのは、認知症の妻が暮らす介護施設。でも、建物の中に入ることはできません。

吉田晋悟さん
「向こう側には、今もいると思います。ちょっとでも妻を身近に感じたい。」

吉田晋悟さんは、この4か月、妻と一度も会えていません。施設は、症状が重い認知症の入所者を多く抱えています。感染のリスクを避けるため、家族であっても面会は禁じられてきました。

吉田晋悟さん
「最後までこの世にある限り夫婦として一緒にやっていきたいのに、切り離されたまま終わってしまうのではないか。究極的には天国でしか会えないのではないか。」

28歳のとき、1つ年上の女性、多美子さんと結婚した晋悟さん。その後、3人の子どもを2人で懸命に育ててきました。60歳を過ぎ、夫婦2人での老後が始まろうとしていた14年前、多美子さんが認知症と診断されます。そのころの様子を写した映像が残っていました。

多美子さん
「何をしたかということが、全然(頭に)残らない。」

すでに症状は表れていましたが、晋悟さんは支えながら一緒に暮らしていました。
しかし5年前、症状が進行し施設に預けざるをえなくなります。やがて、晋悟さんが夫であることを認識できない日も表れ始めました。

吉田晋悟さん
「ちょっとずつ私のことを忘れていって、そばに行っても『あなた誰?』というような顔をして。」

面会に通い続けていたことし(2020年)2月、コロナウイルスの感染が拡大。妻の姿は施設から送られてくる写真で確認するしかなくなりました。

吉田晋悟さん
「気のせいかもしれないけれど、笑顔にしても、なんとなく寂しそうに見えるんですよ。あぁ、やっぱり(症状が)進んでいるなと。」

それからの4か月。晋悟さんは、思いをSNSにつづってきました。

2月20日
“二度と妻の笑顔を見ることが出来ないかもしれない。
手をつないで歩けるのも…妻の口に食べ物を運ぶ喜びも…”

3月13日
“まだ、『お父さん』とよべるでしょうか。
私の差し出す手を素直に握ってくれるでしょうか。”

妻を身近に感じたいと、毎日施設に通い続けてきた晋悟さん。会えない日が長引く中で、ある思いが頭をよぎるようになっていました。

吉田晋悟さん
「(妻に)忘れられたら、もう夫婦として、夫として、存在意義もなくなってしまう。完全に忘れられたときには、夫婦生活がそこで終わってしまう。」

再会することに、戸惑いすら感じ始めていました。

ひとりになって…伝え始めた素直な思い

会えなくなったことをきっかけに、これまでの夫婦の関係を見つめ直した人がいます。
都内で暮らす永島啓子さんです。介護施設にいる夫・公明さんは、63歳のとき、くも膜下出血で倒れ、その後遺症によって記憶障害が出るようになりました。
面会ができなくなって2か月。啓子さんは、夫に毎週のように絵手紙を書いています。

「このお花は?」

永島啓子さん
「ミニアヤメですね。けさから一斉に咲いて。」

この日、描いていたのは、夫が大切に手入れしていた庭の花です。

“夏きざし いっせいに咲いたよ”

住所欄の空白にも、びっしりと自分の近況をつづっています。

永島啓子さん
「一方通行にはほとんどなるんですけど、少しでもこういうのを送れば、つないでいられるかなって。」

当初は、夫が花の手入れをしながら感じていた季節の変化や、2人の日常を少しでも感じてほしいと思い書いていました。しかし、書くうちにその目的は変わっていきました。あることに気づいたからです。子育てを終え、夫婦2人で過ごすようになって以来、いつしか素直な気持ちを伝えなくなっていたということです。

永島啓子さん
「それこそ空気みたいなもので、いて当たり前みたいな。恥ずかしさも照れもあって、なかなか言えなかった。もっと言っておけばよかった。」

啓子さんは、自分の素直な気持ちを絵手紙に込めるようになっていました。

3月
“元気にしていますか。庭のボケの花も綺麗に咲いていますよ。コロナ騒ぎが収束したら、また面会に行きますね!待っていて下さい。”

4月
“庭のサツキの花も咲き、楽しませてくれています。4/13(月)は46回目の結婚記念日でした。一人淋しくおまんじゅうでお祝いしましたよ。早く面会出来ます様に!”

啓子さんのもとに、施設から届いた夫の写真です。部屋には、送った絵手紙が飾られていました。

素直な気持ちを伝えることの尊さ。会えない時間が大切なことを気づかせてくれました。

永島啓子さん
「もう思ったことは素直に、これからも書いていきたいなって。年には関係ないと思うので。今は伝えるときはさらけ出して伝えた方が、悔いが残らないと思う。」

栗原はるみさん 夫が残した言葉

会えなくなったことで、大切な人との関係を見つめ直す夫婦。武田キャスターが話を聞きたいと思った人がいます。
料理家の栗原はるみさんです。去年(2019年)8月、46年間連れ添った夫を亡くしました。最愛の人と二度と会えなくなったことと、どう向き合い、どう前を向こうとしているのか、知りたいと思ったのです。

14歳年上だった夫の玲児さん。専業主婦で料理を作ることが大好きだった栗原さんに、プロの料理家になることを勧めました。以後、2人の子どもを育てながら料理家として活躍する妻を支え続けました。

料理家 栗原はるみさん
「鮭の南蛮漬け。本当によく作っていました。大好物でした。」

栗原さんの原動力となっていたのが、夫の褒め言葉でした。

栗原はるみさん
「すごくおいしいと、『ベリーグッド』『まこといい』。そうじゃないときは『これは料理家としてダメだ』と言っていました。それを聞くためにやっていたようなもの。」

おととし(2018年)肺がんが見つかった玲児さんは、その1年後に亡くなります。それ以来、栗原さんは、仕事以外で料理をほとんどしなくなりました。

栗原はるみさん
「ステーキ焼いてもりもり食べるとか、やってみたい気持ちはあるけど、一緒に食べたシーンが蘇ってくる。つらいのか寂しいのか、そういう気持ちになる。」

武田
「玲児さんが亡くなって、まもなく1年になりますけれども、この1年というのは栗原さんにとってどのような日々だったんでしょうか?」

栗原はるみさん
「孤独感だけですかね。喪失感、孤独。なにしろ卑屈になってしまう。そんな性格じゃないのに。おおげさに言うと気持ちが爆発しそう、寂しすぎて。それをコントロールするのが大変、今も。」

武田
「気持ちというのは揺れ動く?」

栗原はるみさん
「抑えられないものですよね。元気な道、悲しい道を早く元気な方に渡って飛び越えたい気持ちは毎日ある。必ず元気になるだろうと、絶対なってみせると思うけど、行ったり来たりが激しすぎて。みなさん、そういう気持ちの人が多いんじゃないですかね。家族でもできない、友達もいっぱい心配してくれるけど、これだけは自分でやらないといけない。自分で頑張って立ち上がらないと。」

「自分で向き合うしかない」と語った栗原さん。「前を向かなければ」と思わせてくれたものがあったといいます。玲児さんが、余命を宣告された直後に、栗原さんに宛てて書き残した手紙です。その一部を、初めて見せてくれました。

玲児さんの手紙
“はるみ様
心底からの感謝と尊敬、そして愛を申します。”

“君は常に努力の人です。いつも前を向き、決して手を抜かない。”

“今、君と初めて下田の海で出会った時を想(おも)い出しました。君は本当に可愛かった。そして今も可愛いよ。”

栗原はるみさん
「生きる力になる。私が今まで彼と過ごしてきたことが、本当に良かったのだと心から思えます。それが彼の本当に素晴らしいところ。本当に良かったと思う、これは残してくれて。私の残った人生の大きな力になった。」

玲児さんが亡くなったあと、栗原さんが日課として始めたことがあります。日々の暮らしの中で感じた気持ちを、写真とともにSNSに投稿することです。

“今、雨が上がった庭に出ています。24年間、玲児さんと一緒に育てたジャスミンが満開になりました。その間、何度も枯れかけたり弱ったりして心配しましたが、今はとても元気になりました。”

投稿の最後には、必ず夫への感謝の言葉がつづられています。

栗原はるみさん
「毎日、玲児さんにお礼の言葉をひとつずつ添えている。それをきっと彼に伝えられているんじゃないか、伝わっているんじゃないかと、勝手に私が思ってやっているだけ。強く生きると決めて、元気に生きていくことを彼は非常に望んでいると思う。もうちょっと経ったらきっと元気になって、その報告ができればいい。」

たとえ忘れられたとしても

認知症の妻との再会に、戸惑いすら感じていた吉田晋悟さん。その気持ちに変化が表れていました。
自宅で過ごすことが多くなった中で、妻が書きとめていたものを見返す時間が増えていました。そして、あることに気付いたのです。認知症の進行にあらがうように、自分の名前が繰り返しつづられていました。

吉田晋悟さん
「家内の側からしたら、必死だったのではないか。『お父さんを忘れたらアカン』という。最初は寂しさから、彼女のことをしのびたいつもりで開いていたのが、途中から、もっと彼女を知ろう、知りたいと。」

特に印象に残った言葉がありました。

“お父さん、私から逃げだす。お気の毒。”

何度も同じことを聞かれることにいらだち、つい家を飛び出すこともあった晋悟さん。それでも、妻は自分のことを思いやってくれていました。

吉田晋悟さん
「病んでいるのは家内の方なのに、いろいろ迷惑かけて、つらい思いをさせているのがかわいそうやなと、思いやっている。家内の気持ちを考えると心が痛い。」

そのあと、晋悟さんはSNSにこんな言葉をつづりました。

“妻の多くの言葉に触れることができました。今度会うときに、体の動きや語る言葉、私を識別する能力などが衰えていたとしても、私は前よりも深く理解した妻を、尊敬の思いを抱いてみることができると想(おも)います。”

そして、忘れられることへの不安は、別の思いに変わっていました。

“『わたしを覚えていて欲しい』という願いを押し付けるのではなく、『私を忘れて大丈夫、あなたをいつも愛しているし忘れないから』と、私を忘れた妻をそのまま受け入れることが、夫として求められていることだとの気づきでした。”

晋悟さんは、まもなく妻と面会ができる見込みです。そのとき、ありのままの姿を受け入れたいと考えています。

吉田晋悟さん
「また1からやり直すくらいの、同じような過程を1からやり直すくらいの覚悟でいないと仕方がないと思う。私が近寄ると(妻が)強く拒絶するようなことがあっても、大事な私の妻として、私は彼女に毎日でも会いに行く。」

5月下旬。
施設にいる夫に絵手紙を送り続けてきた永島啓子さんに、うれしい知らせが届きました。短時間の面会が許されたのです。

永島啓子さん
「お父さん。」

3か月ぶり、ガラス越しの再会。

永島啓子さん
「どなた?」

夫 公明さん
「啓子。」

永島啓子さん
「あはは。元気だった?」

ボードを使って語りかけます。

永島啓子さん
「桃はやわらかいの?かたいの好き?」

夫 公明さん
「やわらかいの(が好き)。」

素直な気持ちを伝えました。

永島啓子さん
「そろそろ時間ですよね。またね。」

僅か15分の面会でした。

永島啓子さん
「貴重な時間ですよね。アルバムの1ページに残しておきたい。またひとつ大切な思い出というか、宝物になったかもしれない。」

“やっと会えた!窓越し面会”

啓子さんは今も絵手紙を書き続けています。

武田:長年言うことのできなかった思いを、絵手紙で伝えるようになった永島さん。妻の日記を見返し、いかに自分を思いやってくれていたかを知った吉田さん。そして、夫に向けて毎日SNSで感謝の気持ちをつづっている栗原さん。3人が共通して感じていたのは、会えなくても対話をし、思いを伝えあうことの大切さです。
コロナ禍の中で、大切な人とどう向き合って生きていくのか。私も考えてみたいと思います。