クローズアップ現代

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2019年7月18日(木)
新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー

新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー

世界文化遺産への登録が決まった百舌鳥・古市古墳群。宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳では、埋葬場所が複数あるという明治時代の記録などが残されている。一体誰が埋葬されているのか?歴史上の埋もれた人物がいたのではないか?そして、大山古墳と周辺に暮らす人々の知られざるかかわりや“あの人物”とのかかわりをつづった資料も残されていた。知られざる古墳のミステリーに迫る。

出演者

  • 苅谷俊介さん (俳優・日本考古学協会会員)
  • 福永伸哉さん (大阪大学文学研究科長・教授)
  • はに丸
  • 武田真一 (キャスター)

埋葬されたのは2人?一体誰が?

大阪・堺市にある日本最大の前方後円墳「大山古墳」。実は、埋葬されている人物が2人いたのでは、という資料が残されていました。歴史に埋もれた人物がいた可能性があるというのです。

2つ目の埋葬場所は意外な所にありました。これまでの研究では、埋葬場所は「後円部」、丸い部分だと考えられています。当時、人々は後円部の埋葬場所に向かって、祭祀を執り行っていたといいます。ところが、もう1つの埋葬場所は…。

八王子市郷土資料館 学芸員 加藤典子さん
「こちらに『仁徳天皇御陵石棺』とあるように、明治5年、発見されました石棺を描いたものです。」

明治5年に実施された調査で発見された石棺の記録です。亀の甲羅のような形をした石棺。古墳時代中期、5世紀ごろによく使われた形状でした。

埋まっていた場所は「南登り口」。従来考えられてきた後円部ではなく、「前方部」の南側の斜面になります。

後円部から離れた南の端に、もう1つの墓が存在していたというのです。

八王子市郷土資料館 学芸員 加藤典子さん
「現在、古墳の中を見ることができないという意味で、非常に貴重な資料だと思います。」

埋葬されていたとされる、もう1人の人物を知る手がかりも残されていました。地元・堺市の古墳調査を担う、一瀬和夫さんは、明治5年に描かれた、別の絵図に注目しています。

京都橘大学 教授 一瀬和夫さん
「当時としてはほとんど出ないガラス容器が出ています。」

記録されていたのは、死者と共に埋葬された副葬品。

ガラス容器の他にも、甲冑や太刀などが見つかったとされています。当時の日本では珍しい、豪華な品々が納められていたというのです。

一瀬さん
「トップクラスの豪族以上でないと着装しないような品物だったということが分かります。」

埋葬されたのは、当時の有力者の中でも極めて位の高い人物だった可能性も浮かび上がっています。

昨年(2018年)古墳を管理する宮内庁と堺市による発掘調査が行われました。

調査されたのは、お濠を囲む「堤」の3か所。直径35cmほどの埴輪が隙間なく並べられていることが分かりました。

表面には小さな石が敷き詰められていたことも明らかになりました。堤の平らな部分に石が敷き詰められることは、他の古墳には見られないものです。最新の調査結果から再現した、築造当時の大山古墳です。

古墳の表面は石で覆われ、およそ3万本の埴輪が並べられていました。築造には、1日2,000人が作業しても15年かかるという、類を見ない巨大な古墳。相当な権力者が埋葬されたと研究者はみています。
果たして、大山古墳の2つ目の石棺に葬られたのは誰なのでしょうか。一瀬さんが向かったのは、豪族が眠るとされる「室宮山古墳」。ここでも複数の埋葬場所が発見されています。

一瀬さん
「仁徳天皇陵古墳(絵図)の石棺と同じように、縄掛突起がついているので、同じ長持形石棺だと分かります。」

大山古墳の絵図と同じ形状の石棺で、埋葬された時期が近いことを示しています。2つ目の石棺は、すぐ隣にありました。

この時代、同じ古墳内で埋葬されるケースは、非常に近い血縁関係にある人たちだったことが最近の研究で明らかになっています。

一瀬さん
「兄弟親子のパターン。血縁が重視されて、同じ血縁が、同じところに葬られるのがこの時代だと。」

このころの天皇は、各々が別々の古墳に埋葬されたとされています。有力者にもかかわらず、歴史から埋もれた人物がいたのではないかと、一瀬さんは推測しました。

一瀬さん
「(埋葬されたのは)中心的に古墳をつくれた人物、支配者のグループだったと思います。(天皇)前任者を継ぐ前に若くして亡くなっているとかが考えられる。」

取材班
「病気だったりとか?」

一瀬さん
「病気かもしれないですし、大きな古墳を造るまでにいたらず亡くなってしまったかもしれない。」

取材班
「権力争い?」

一瀬さん
「それもあるかもしれない。」

多くの謎に満ちた大山古墳。複数あったとされる埋葬場所の謎に、さらに詳しく迫ります。

ゲスト 苅谷俊介さん(俳優・日本考古学協会会員)
ゲスト 福永伸哉さん(大阪大学文学研究科長・教授)
ゲスト はに丸

武田:俳優としてご活躍するかたわら、古墳の調査・研究にもあたっている苅谷さん。実は2つ目の埋葬場所があったというのは、一体どういうことなんですか?

苅谷さん:古いタイプの古墳、要するに3世紀代とか、前期古墳でももっと前の、古墳時代初頭とか、その辺の古墳には後円部に1体だけ埋葬させるというのが多いんですけれど、この時期になると…。

武田:5世紀すぎですね。

苅谷さん:ええ、5世紀になると増えていくんですね。埋葬する場所が1か所に限らない。古墳そのものが巨大化してくるというのも1つあるでしょうし、それも巨大化した古墳を造っている間に、次の後継者が亡くなる、あるいはそういうこともあるんだと思うんですね。

武田:古墳時代の考古学が専門の福永伸哉さん。2つ目の埋葬場所には、一体どんな人が眠っていると考えられているんでしょうか?

福永さん:これは想像の域を出ないんですけれども、1つ手がかりがあるとすると、副葬品が少し見つかっておりまして、その中には鎧兜、しかも青銅、金メッキでしたような鎧兜。

武田:青銅でできていて…?

福永さん:はい。それを金メッキしているんです。通常では考えられないような豪華な鎧兜なんですね。鎧兜というのは男性に伴うことが多いんです。男性の相当高いクラスの人、しかも、先ほど一瀬先生もおっしゃっていたように、古墳に複数埋葬がある場合には、血縁関係のある人が葬られていることが多い。

武田:それは、何か実証的に分かったりするんでしょうか?

福永さん:これは大きな古墳ではまだ確かめられてないんですけれども、いくつか、非常に幸運にも人骨が残っていた古墳がございまして、そういう古墳の人骨が複数埋葬されているものを調べていくと、歯の形が非常によく似ているという研究がありました。従来は、例えば男性と女性が葬られていたら、それは夫婦じゃないかとか、ご主人と奥さんじゃないかという考え方が強かったんですけれども、最近では、それは血縁関係のある兄弟であると、そういう考え方が非常に強くなってきております。そういう点から判断すると、今、大山古墳の後円部の主と、前方部の主も、血縁関係があった男性同士ということが推定されるんですね。

武田:VTRの室宮山古墳では、石棺が2つ並んだ形でありました。ところが大山古墳では、前方部と、それから後円部で離れています。これは、なぜそういう配置になっているんでしょうか?

福永さん:これは当時の人に聞きたいぐらいですけれども。

武田:苅谷さんはどういう意味があると思われますか?

苅谷さん:分かりませんね。

大胆推理!埋葬されたのは3人以上?

♪:お~い はに丸~ はに丸王子~

武田:歌が聞こえてまいりましたけれども…。
今日のスペシャルゲスト、古墳といえば、この方!はに丸くんです。

はに丸:はにゃ!ねえねえねえねえ、たけたん。

武田:はい、なあに?

はに丸:大山古墳のこと、ちょっと分かった?

武田:詳しいお2人からいろいろ教えてもらったから何でも詳しくなったと思うよ。

はに丸:うーん、甘い!甘いよっ!大山古墳には、まだまだ謎があるんだから~。うん、じゃあね、たけたん、あれを出して〜。

武田:これですね。

はに丸:ジャーン、はに丸ノート!
京都橘大学の一瀬和夫さんは、「大山古墳には、もしかすると埋葬場所が2つだけじゃないんじゃないか」と言ってるんだよ!

武田:ええーっ?

はに丸:なんでかというと、大阪の「和泉黄金塚古墳」では、3つの埋葬施設が確認されているんだ。

さらには、こちらの「大塚山古墳」には、埋葬施設が8つも見つかってるんだよ。大山古墳にも、もっとたくさんあるんじゃないかっていうんだよ。

武田:こんなにいっぱいある古墳もあるんですね。

福永さん:ちょっとこれを使って説明いたしましょう。
これが大山古墳の平面形ですけれども、まず江戸時代に、後円部に石棺があるんじゃないかという記録がございます。それと、明治5年に、前方部の端の斜面のほうから石棺が見つかっています。この前方部の端っこに埋葬があるということは非常に珍しいんです。通常、前方部に埋葬がある場合には、この前方部の頂上に埋葬がある場合が多いわけですから、恐らく、ここにもあるだろうというふうに推定されます。

そうすると、少なくとも3つの埋葬が大山古墳の中にあるんじゃないかというふうに考えるべきだと思うんです。これらの相互の関係ですけれども、やはり後円部の中心に葬られたのがこの古墳の主、一番ランクの高い人物ですね。大王、おおきみ。その次のランクは、前方部の頂上に葬られた人物。そして、明治5年に見つかった斜面の前方部の端に葬られたのは、このお2方と比べると、少し立場の弱い人。3人とも大王、そして、王権を支える近親者という、王権中枢の本当に重要な人物が複数、大山古墳には葬られているんじゃないかという推定が成り立つと思います。

武田:苅谷さんはどういうふうに推測されますか?

苅谷さん:僕は4つぐらいあるんじゃないかと。これは推測ですが。

武田:その4つはどういうふうにあると思いますか?

苅谷さん:この上です。ここにもう1つある。これは恐らく、男性、男性、男性、女性と。

これよりちょっと古い「島の山古墳」を見てみると、やっぱり女性が葬られているので、その可能性もあるだろうなと。そうすると、都合4つあるだろうなと。

福永さん:4人というのは、なかなかいい推定ではないかと思いますね。

武田:謎が深まる大山古墳ですが、最近の研究で分かってきたことが、もう1つあります。それは地域の人々との深いつながりです。苅谷さんが探ってきてくださいました。

古墳が里山!?住民との意外な関係

苅谷さん:30年ぐらい前に、一度来て。

現在は宮内庁の管理のもと、大山古墳立ち入りが禁止されている、大山古墳。

堺市博物館 学芸員 白神典之さん
「苅谷さん、こんにちは。堺市博物館で学芸員しています、白神です。」

苅谷さん:おひげの白神さん。

40年近く大山古墳を研究している、白神典之さんに、住民とのつながりを物語る場所を案内してもらいました。まず訪れたのは、大山古墳に隣接する住宅街。

白神さん
「こちらに水路があるんですけど。」

苅谷さん:ありますね。

白神さん
「こちらに抜けていますけども。」

一見、どこにでもありそうな用水路。

苅谷さん:それがずーっと今来た、あの水路。

つながっていたのは、古墳のお濠でした。

この水路、江戸時代には既に作られていたと言います。

白神さん
「これは享保年間、江戸時代の中期に描かれたものなんですが、ここ樋門(ひもん)の絵が描かれています。」

苅谷さん:ああ、なるほど。

白神さん
「これを栓を抜くと(お濠の水が)流れるようになっていて、(お濠の水の)出口がここであると。」

白神さん
「何に必要かといいますと、田んぼの用水で、灌漑池(かんがいいけ)(ため池)ですね。」

現在、古墳の周辺は住宅地ですが、昭和の初期までは豊かな田園地帯が広がっていました。お濠は長い間、ため池として周辺の田畑を潤してきたのです。

苅谷さん:一般の農家の人たちのために、これ(古墳の水)が生きていた。

白神さん
「まさに地域の人にとっては“命の水”だった。」

さらに驚くべき発見も…。
かつては、地元の人たちが大山古墳の中に立ち入っていたといいます。大山古墳周辺の土地を治めてきた、旧家・筒井家。

江戸時代から明治にかけての古墳の様子を記した資料。最近、白神さんが詳しく分析したことで、新たな事実が明らかになりました。

白神さん
「堺の商人の鉛屋某(なにがし)という人が、(古墳の)一部を開墾して、桐の苗木を植えたと書かれている。」

『桐の苗を植栽し、伐採』。

江戸時代、地元の商人が植林を行い、住民も薪(まき)を採っていたというのです。

苅谷さん:当然、桐の木を植えるっていうことは、大きくなったら、切ってタンスやなんかに利用すると。

さらに別の文書には…。

白神さん
「(大山古墳の)『西堤のその外の芝間は舳松村(へのまつむら)牛飼い場なり』と書いています。」

苅谷さん:放牧地、牧場。

堤の上では、農耕用の牛まで放牧されていたことも分かりました。そして、あの有名な歴史上の人物も足を運んだという記録がありました。

白神さん
「『前方の頂は国見山と称す。ここぞ秀吉公、花見のところなりとぞ』。」

なんと、豊臣秀吉が仮の住まいを構え、花見や鷹狩りなどを行ったと言われているのです。

苅谷さん:御陵というのが、ものすごい威厳のある『誰も来ちゃいかん』というんじゃなくて、何となく(庶民と)つながっていますね。助け合いといいますかね。

白神さん
「本当に持ちつ持たれつ。共生といいますかね。」

苅谷さん:こんなに古墳を利用していた記録があるとは思わなかったですね。

形崩れた古墳 どう保全する

大山古墳は、明治中期江戸時代の終わりから段階的に立ち入りが制限されていきました。現在も宮内庁は、静安と尊厳を保つ必要があるとして、立ち入りを禁止しています。それでも地域の人々は、定期的にお濠周辺の清掃活動を行うなど、つながりを大切にしてきました。

一方で、古墳そのものは、ほとんど手つかずの状態になっていきました。去年10月、宮内庁によって、大山古墳の保全調査が行われました。古墳の傷みが進んでいるというのです。上空からレーザー測量などの技術を使って作成された立体図です。お濠の水による侵食や地震などで形が崩れたとみられています。宮内庁では今後、整備方法を慎重に検討し、保全対策を講じていくとしています。

古墳が里山!?住民との意外な関係

武田:これほど人々の暮らしと密接に関わっていたというのは、これまた驚きでしたけれども。

苅谷さん:僕も驚くだけでしたね。もっと一般の人と隔絶されたものが古墳であろうというイメージがありましたから、あれだけ里山のように古墳の中に入って、一般の人のために古墳が尽くしたというか、それはすごいことだなと思いますね。明治初年度の大山古墳の横からの墳丘を見ると、きれいに前方後円墳の形。

あれは恐らく、江戸時代の時に伐採したり、枝を切って薪にしたり、人が里山として手入れをしているから、あの形で残っているんだと思います。

福永さん:世界文化遺産の登録にあたって非常に重要視されたのは、古墳ができて1,600年たっているにもかかわらず、非常に残りが良いと。しかも、人々が居住しているエリアの中で、あれだけのものが残ってきているということが評価されています。それは今、VTR等で見たように、地元の方々の古墳への関わりというものが、そういうものを残してきたと言えるわけで、それは、できればこれからも、世界遺産の資産を保存していく上で考えていただきたい工夫ではないかと思います。

家の目前に古墳! 実は大変なことに…

はに丸:はにゃ!たけたん!

武田:はいはい、何?

はに丸:今回、世界文化遺産に登録されたのはね、大山古墳だけじゃないんだよ。

武田:他にもあるの?

はに丸:百舌鳥・古市古墳群っていうでしょ。全部で49もあるんだ~。

武田:こんなにたくさんあるんだね。

はに丸:たくさんあるでしょ?こうした古墳は住宅街の中にあるんだよ。

武田:えっ、これがすぐ家の近くに?

はに丸:そうなんだ。例えば、この古市古墳群にある「西馬塚古墳」は、住宅に囲まれていて、近所の人の家のベランダのすぐ目の前なんだよ!

でもね、世界文化遺産に登録されたからといって、たけたん、喜んでばかりじゃいられないんだよ。大変なことになっているんだよ~。

崩壊進む古墳も どう守る?

今、大きな問題となっているのが、古墳をどう保存していくかです。藤井寺市にある「津堂城山古墳」。敷地の大半を市が管理しています。

藤井寺市 政策企画部 部長 山田幸弘さん
「この辺、裸地になっているところ。非常にひどいです。」

雨によって土砂が流され、表面が大きく削られています。

藤井寺市 政策企画部 部長 山田幸弘さん
「本来は土がこの辺まであった。それがこれだけ崩れて、流失して、根が(地面まで)上がってしまっている。」

このままでは、土に埋まっている石棺がむき出しになる恐れがあるため、市では今年度、1,000万円の費用をかけ、修復することにしました。

藤井寺市 政策企画部 部長 山田幸弘さん
「非常に重要な古墳なので、機械(重機)が入ってこれない。人力による作業がほとんど。大変です。」

市内には、保全の見通しすら立っていない世界遺産の古墳もあります。

藤井寺市 政策企画部 部長 山田幸弘さん
「手前に倒れこんでる松の下が、がぽって土がえぐれてる。」

このまま放置した場合、前方後円墳の形状が保てなくなりますが、財源の問題から対策を打てずにいます。

藤井寺市 政策企画部 部長 山田幸弘さん
「やっていかなければいけないことが多すぎて、市が(すべての保全を)やっていこうとするならば、市の財政が破綻する。逆に(保全を)やれないということになると、世界遺産の保全として、いったいどういうことなんだと言われて、世界遺産から外されることも考えられますよね。」

日本が世界に誇る古墳。どう守ってけば良いか、スタジオで掘り下げます。

崩壊進む古墳も 未来へどう守る

武田:福永さんも、やはりこうした危機感はお持ちですか?

福永さん:そうですね。日本の文化財保護制度は、基本的には市町村がきちんと地元の文化財を保存管理して、それに都道府県や国がサポートを与えるという制度なんですね。ところが、今出たような小さな町に、非常に重要で大きな遺跡があった場合に、これは町の財政だけでは耐えきれなくなります。このあたりは、今回の世界遺産登録をきっかけに、文化財保護の制度を工夫して、小さな町に大きな遺跡がある時には、もう少し都道府県、国のサポートが手厚くなるような、そういうことも必要じゃないかと思うんですね。

武田:苅谷さんは、古墳をこれから後世に残していくためには、どんなことが必要だとお考えですか?

苅谷さん:古墳群というのが世界文化遺産に認定されたのは、承認されたのは、これが初なんですよ。それもやっぱり、1つ日本の大きな文化なんですよね。そういうものを、国民全員、全部が共有してほしい。それで、百舌鳥・古市古墳群を見てほしいと。だから、あれだけの巨木が立ってしまうと、例えば平成10年に台風7号が奈良県を直撃しているんです。それで、大市墓といわれる「箸墓古墳」の中に立っていた木が、ほとんど倒れたんです。これも陵墓だから中に入れない。それは結局、きれいに木を切って手入れしてやれば、そういうことは起きていないんですよね。墳丘が壊れたら、もうなくなるんですよね。せっかくの世界文化遺産がなくなるんです。これをいかに保存して後世に継承していくか、残していくかということが、みんなが知恵を出して考えていくことが大事だと思いますけれどね。

福永さん:今回の世界遺産、百舌鳥・古市古墳群でいい形が作れれば、日本の各地の古墳もいい形で後世に伝えていくということができますので、ぜひ積極的な取り組みを期待したいと思います。